蝦夷征伐

蝦夷征討
 4世紀にはヤマト政権が日本列島を統一したとされているが、それは正確ではない。九州の一部や東北地方は、まだヤマト政権の支配下になかったからである。とくに東北地方の蝦夷(えみし)と呼ばれた住人は、ヤマト政権に従うことに激しく抵抗した。5世紀の中国の歴史書「宋書」の倭国伝には、蝦夷の存在とその統治が進んでいる様子が書かれている。

 蝦夷は宮城県中部から山形県以北の東北地方に広く住んでいた。ヤマト政権による蝦夷攻略は日本統一が目的で、それ以降の飛鳥時代、奈良時代も同じである。中央集権国家としての国力を東北地方にも広げることで、日本国の内地拡大の正統性を示すために蝦夷征討(未開の異民族の征伐)という言い方がなされている。

 蝦夷はアイヌ人を意味した言葉ではない。蝦夷とアイヌは別であり、北海道のアイヌが日本に服従するのは明治時代に入ってからである。アイヌ人は土器文化を持たないが、蝦夷が住んでいた東北地方から多数の土器が発掘されている。つまり蝦夷は東北の単なる住民のことで、蝦夷という文字は野蛮で凶暴なイメージを持つが、東の異民族を討つという意味で、中国の中華思想をヤマト政権にあてはめた言い方だった。

 蝦夷は政治や文化面で平和的にヤマト政権から独立していた。蝦夷の人たちにすれば、ヤマト政権こそが侵略者であり、ヤマト政権を嫌うのも当然だった。ヤマト政権の軍事力による東北の攻略は、その後も続くことになる。ヤマト政権は中央集権的国家を東北地方に広げようとしたのである。

 660年、日本海側では蝦夷を討つために阿倍比羅夫の遠征があり、708年には越後国に出羽郡が設置され、712年には出羽国に昇格した陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られた。この間、小競り合いはあったが、蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘はなかった。道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もいて両者は平和であったと推定されている。

 蝦夷に対する最前線基地として、ヤマト政権は日本海側に渟足柵(ぬたりのさく、新潟市中央区沼垂)と磐舟柵(村上市)を設けた。柵は砦の小さいものでのである。

 さらに出羽国(712)を設置し、秋田城(733)を築いた。724年は太平洋側に多賀城(多賀城市)をつくり、多賀城は陸奥国府と鎮守府を兼ね東北地方の政治・軍事の拠点となった。

 770年には蝦夷の首長が蝦夷地に逃げ帰り、翌年、渤海使が秋田県能代市に来着すると、奥羽北部の蝦夷が蜂起した。光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まり、また仏教や天皇の権威を強化するため、鷹の飼育や鷹狩などを規制した。ヤマト政権は奥羽の蝦夷に対しこのような政策を及ぼそうとし、また政策実行を名目に国府への介入が行われた。

 しかしこのことが蝦夷の反乱を誘発し、774年には按察使大伴駿河麻呂蝦狄征討を命じられ蝦夷征討の時代となる。飛鳥朝廷は次第に北へ勢力を浸透させ、朝廷は奥羽地方を統治する地方行政の監督官として按察使(あぜち)を制定し、780年に紀広純(きのひろずみ)を按察使に任命した

 

伊治呰麻呂の乱
 当時、ヤマト政権と蝦夷の間には交戦が続いて、伊治郡はその最前線にあった。蝦夷の族長・伊治呰麻呂(いじのあざまろ)は国府に仕え、ヤマト王権より外従五位下に叙せられた。この伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城を襲撃して焼き払ったのである。伊治呰麻呂は食糧・財物を略奪して陸奥按察使紀広純を伊治城で殺害した。

 平城京の朝廷は陸奥の多賀城に軍勢を派遣したが、朝廷軍は蝦夷軍(俘囚軍)に圧倒された。光仁天皇は征東大使を藤原小黒麻呂(おぐろまろ)に代えて再度戦いを挑み、乱は一旦終結に向かったが反乱を鎮圧できなかった。

 781年に光仁天皇から譲位を受けた桓武天皇は、長岡京遷都を間近に控えた784年から本格的に反乱の制圧に取り掛かる。桓武天皇は大伴家持を将軍とする新たな征東計画を立てたが、長岡京の造営などにより征東計画は中止された。

 794年、再度の征討軍として征夷大使・大伴弟麻呂征夷副使・坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。坂上田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎなかったが、中心的な役割を果たし活躍した。

 桓武天皇は都を平安京(京都)に移すと、789年紀古佐美を大将に胆沢地域(北上川中流)へ大軍を派遣し たが、蝦夷の首長アテルイに逆襲され大敗する。

 紀古佐美は衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は前方の蝦夷軍約300と交戦し、初めは朝廷軍が優勢で蝦夷軍を追って巣伏村(奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できず、その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、さらに東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。

 朝廷軍は壊走し戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、この敗戦で紀古佐美の遠征は失敗に終わった(巣伏の戦い)。

 桓武天皇の二大業績は長岡京・平安京の造都による中枢の強化と陸奥地方の征討であったが、この二つは長岡京遷都にあたる784年以降ほぼ同時に進められた。

 

坂上田村麻呂

 797年11月5日、桓武天皇は38歳の坂上田村麻呂征夷大将軍に任命すると蝦夷の平定にあたらせた。征夷大将軍というと源頼朝を思い起こすが、坂上田村麻呂が日本初の征夷大将軍である。征夷大将軍は幕府を印象づけるが、征夷大将軍はもともと中国の官職名で、天命を拝受した皇帝が夷狄(いてき)を征伐するという意味である。23歳で初任官し、38歳で征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、ありえないほどのスピード出世ぶりで、それほど優秀で勇敢だったのであろう。

 坂上田村麻呂は貴族階級の出身で、名前から公家のような華奢な姿を想像するが、身長は180センチを超え、体重120キロ、胸板が36センチで、禽類のような瞳と黄金の顎髭を持っていた。見ているだけでも圧倒され、怒ると猛獣をたちまち倒し、笑うと赤ん坊もよくなつくとされていた。
 801年、坂上田村麻呂は征夷大将軍として10万の朝廷軍を率いて東北へ向かった。このときの蝦夷の戦いで、坂上田村麻呂はすさまじいほどの活躍をして、457の首をとり、村落75ヶ所を焼き払った。さらに坂上田村麻呂は、胆沢地方に進出して胆沢城を築き、さらに北上して志波城を築き、ついに阿弓流為(アテルイ)は五百余人を率いて服従した。

 日本海側も米代川流域まで制圧し、蝦夷の住民を朝廷の政治に慣れさせるために関東や北陸の民衆5000人を伊治城(宮城県)に移住させた。いわゆる移民政策である。
 田村麻呂が蝦夷を征服することができたのは、敵を武力で圧倒しただけでなく、服属した者を厚遇し、同時に彼らに農業技術の指導をして、生活の糧を与えたからである。

 坂上田村麻呂は蝦夷を征討した将軍として有名であるが、武力だけの人物ではなかった。実際、桓武天皇に「武力で一時的に治めても、それではまた反乱が起こる。蝦夷の民衆が我々と同じような文化や生活習慣に成るようにするのが大切」と進言している。実際、坂上田村麻呂は蝦夷の民衆に優しく接した。
 田村麻呂が和議を結ばせようと蝦夷の首長の阿弓流為(アテルイ)を都に連行してきた。田村麻呂は「降参したのだから、命だけは助けるべき」と主張するが、貴族たちは「アテルイのために何人死んだと思っている、処刑しろ」と聞く耳を持たなかった。田村麻呂は最後まで処刑に反対したが、朝廷はアテルイたちを河内国で処刑してしまった。田村麻呂は残された蝦夷たちを支配するためアテルイを生かして利用しようとしたが、貴族たちはこれを認めずに処刑したのである。朝廷はこれまで何ども朝廷軍を敗北させた蝦夷軍のアテルイを恐れていたのである。

 このアテルイの処刑が蝦夷に伝わると、案の定、暇夷は再び反抗をはじめる。桓武天皇は度重なる蝦夷征討で財政難となり、財政難では民が重税や兵役に苦しむことから蝦夷征伐を中止した。しかし桓武天皇の時代から奥州藤原氏の時代までに、東北全体が朝廷の下に入った。

 桓武天皇は財政難から蝦夷遠征を中止したが、田村麻呂は武力だけでなく頭脳明晰で、その後、参議、中納言、大納言と出世してゆく。田村麻呂は「私が死んだときは、体に鎧と甲をつけ、手には太刀をにぎらせ、立ったまま埋葬してほしい。いつでも御所を守っていたいから、御所の見えるところに埋めてほしい」と遺言して、811年、田村麻呂は粟田の別宅で病死する。享年54であった。嵯峨天皇は悲しみのあまり政務を取ることができず、田村麻呂を称える漢詩を作りその死を惜しんだ。田村麻呂の遺体は遺言通りに埋葬された。

 後に国家に大事が起きたときには、この墓が雷鳴のようにゆれ動いたとされている。また朝廷から将軍の号をうけた者が出征するときには、田村麻呂の墓に行き戦勝を祈願した。

 なお田村麻呂は京都の清水寺富士山本宮浅間大社を創建している。780年、鹿を捕まえるために京の山に入った坂上田村麻呂は、鹿を探しているうちに綺麗な水を見つけ、その水源の家で延鎮上人と出会った。延鎮上人から殺生はいけないと教えられ、それに感銘を受けた坂上田村麻呂がお堂を滝の近くに建てたのが、清水寺の始まりである。田村麻呂というと猪武者を思い起こすが文武両道の優秀な人物だった。

 

熊襲・隼人征伐

 熊襲(くまそ)は大和朝廷に従わずに征服された部族で、日本の神話に登場する。熊襲は地域名を表すのだろうが、「熊が襲う」という表記のため、熊のような荒々しい印象がある。古事記では景行天皇の皇子・ヤマトタケルの熊襲建(クマソタケル)征伐が書かれている。ヤマトタケルはそれまで小碓命と名乗っていたが、女装してクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、兄弟を討ち、その際に弟タケルからタケルの名を献上された。つまりヤマトタケルのタケルは熊襲タケルからもらったものである。

 また南九州には熊襲との関係は分からないが、隼人とよばれる人たちがいた。隼人は隼(はやぶさ)のイメージから、とても速く、猛勇な人々とされている。720年にこの隼人が大隅守の陽侯史麻呂を殺害し、これをきかっけに隼人の反乱が起きた。

 当時、55歳の大伴旅人(665~731)が征隼人持節大将軍に任命され、反乱の鎮圧にあたることになる。1年半にわたる戦いの末、朝廷軍は隼人軍を屈服させ、隼人の斬首者・捕虜者はあわせて1400名にのぼった。その後、大伴旅人は九州での功績を買われ太宰府の長官に任じらている。この大伴旅人は歴史上「万葉集」の編者としてよく知られている。

 しかし大伴旅人にとって、太宰府の長官は左遷人事であった。当時権力を握っていた左大臣・長屋王の排斥に向けた藤原四兄弟による人事であった。また赴任後間もなく妻を亡くし、毎日が酒の日々だったとされている。

 大伴氏はヤマト政権の初期には全盛期を迎えていたが、蘇我氏の時期に落ちぶれ、大化の改新で蘇我氏が滅ぶと、大伴長徳(ながとこ)が右大臣に任じられ、672年の壬申の乱では長徳の弟吹負(ふけい)や子の安麻呂が功績を立てた。その大伴安麻呂の子が大伴旅人である。


 なお鹿児島には薩摩国、大隅国がおかれ、朝廷は種子島・屋久島をはじめとする島々を配下とするが、沖縄との交渉はまだである。