室町文化

室町文化

 室町文化は3つの時期に分けることができる。① 室町幕府草創から南北朝の動乱期を背景にした南北朝文化、次いで②3代将軍足利義満を中心にした北山文化、さらに③8代将軍足利義政の時代を中心にした東山文化である。室町文化は武家文化と公家文化、中央文化と地方文化、大陸文化と伝統文化がそれぞれの融合した文化で、さらに庶民文化が加わることになる。

 室町幕府が京都に置かれたので、それまで東国を中心にしていた武家文化と京都の公家文化との融合が進むことになる。また幕府を支えた守護大名は在京だったため、京都の文化に馴れ親しんだ守護大名や家来たちが、中央文化を地方にもちこんだ。武士が政治や経済で力を持つにつれ、公家文化の優位性がしだいに武士文化に移った。

 また足利義満が日明貿易を推進したことから、唐物・唐絵とよばれる多くの品々が遣明船によってわが国にもたらされ、明ばかりでなく朝鮮などの東アジアの文化が日本の伝統文化と融合した。

 また戦乱を避けた文化人たちが地方に流れ、都の文化を地方に伝えた。経済の向上により街道を往来する商人や庶民たちが増え、各地方の交流が見られるようになった。このような流れから、能・狂言・茶の湯・生け花など、日本独自の庶民による文化が形成され広まった。

 

日本文化の確立

 日本の歴史の中で室町時代は派手な印象がない。日本固有の文化が形成された、興味深い時代であるが印象が希薄である。それは大衆作家が室町時代を取り上げることが少なかったせいである。終戦後、日本の歴史は教科書や学術書よりも、小説やテレビドラマによって国民に浸透した。大衆作家の草分けであった司馬遼太郎 は、南北朝・室町時代が嫌いで「この時代はクズみたいな人間しかいない」と発言し、この暴言が歴史の通説になっている。

  司馬遼太郎は優れた大衆作家であるが、その史観は「英雄史観」であり、彼の小説は大衆を善導で誘導する強大なカリスマ性やリーダーシッ プを持つ主人公が必須であった。その意味で司馬遼太郎が勝手に想像する「リーダー不在」の南北朝・室町時代が嫌いだったのである。しかしそれは大衆作家の個人的な好みであって、個人的な好みを歴史の通説とするのは不健全である。

 司馬遼太郎が言うように、南北朝・室町期は「カリスマ不在」と思える。しかしそれは既存の権威が崩壊し、社会全体が混沌として複雑になったからである。小説やテレビドラマの主人公は誰もが想像がつく単純なストーリーで、苦悩や迷いがないことが人気となる。小説やテレビドラマのあらすじは、物語性があって分かりやすいことが条件である。現在の私たちの日常は苦悩や迷いの連続であるが、このような苦悩は大衆小説のテーマにはなりにくい。大衆小説のテーマは単純明快な「日常の憂さ晴らし」なのである。

 南北朝・室町期の混乱が、日本の歴史を新たなに創造したる。もし日本人の歴史や文化、性格や気質を知りたいのなら、この南北朝・室町期を学び再考することである。

 

南北朝文化

 南北朝の動乱期には両朝で緊張感が高まり、結果として南朝に悲劇がもたらされたが、激しい戦いが続いたことから、複雑な歴史が様々な特色をもつ歴史書や軍記物語を生み出した。
 後醍醐天皇の信任が厚かった南朝の公卿・北畠親房は伊勢神道を理論化して、我が国の皇位が継承されてきたこと神皇正統記(じんのうしょうとうき)で著した。また源平以後の争乱の歴史を公家の立場からまとめた増鏡や、南北朝の動乱を足利氏の立場から記した梅松論がある。軍記物語としては後醍醐天皇の治世からの半世紀を力強く描いた太平記がつくられた。また「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨」で始まる二条河原落書は建武の新政当時の混乱する政治や社会を風刺した落書として有名である。


                   北山文化                              東山文化
年 代        1400年ごろ                      15世紀世紀後半
将 軍          足利義満                             足利義政 

        公家の文化と武家の文化が       禅宗の影響を受け簡素で
       まじりあったはなやかな文化         深みのある文化
    ① 能が大成された。                 ① 狂言が大成された。
    ② 水墨画が発達した。              ② 水墨画が大成された。
    ③ 金閣寺が建てられた         ③ 銀閣寺が建てられた


金閣寺
 室町幕府の第3代将軍・足利義満は、1397年に京都の北山に壮麗な山荘・鹿苑寺舎利殿を建て、義満の死後に寺院となった。建物全体に金ぱくがはられ、この金閣寺の建設には勘合貿易での莫大な儲けが資金となったが、貿易による儲けた以外にも守護大名に大きな負担をかけ、また多くの農民がかり出され、完成までに今のお金で約600億円がかかったとされる。

 金閣寺の第1層には阿弥陀三尊像がおかれ、平安時代の貴族の寝殿造となっている。第2層は観音像がおかれ、武士の武家造になっている。第3層は、仏舎利 (ぶっしゃり 釈迦の骨)をおさめた仏堂になっている。

 金閣寺には「あの世の極楽浄土をこの世に移した別世界」を表現していて、金閣の周りに広がる庭園は池泉廻遊式で、庭の中心に池を置いて、その周りを歩いて楽しめるようになっている。金閣の鏡湖池の周りには、多くの小島を配置されている。

金閣寺放火 

 昭和25年、21歳の修行僧が金閣寺に火を放ち、自らも第三層の究竟層で死のうとした。しかし第三層は鍵がかかっていて入れず、怖くなって逃げ出し、大文寺山中で切腹したが死ねずに逮捕された。

 この放火された金閣寺は、古柱や古戸のお堂で金箔もはげ落ちていた。今の金閣寺が金ピカなのは、昭和30年に建て替えられ金箔が張られたからである。
 三島由紀夫がこの事件を小説「金閣寺」で書いている。金閣寺の美に憑りつかれた学僧が、寺を放火するまでの経緯を一人称の告白体の形で綴っている。三島由紀夫の代表作だけでなく日本文学の傑作とされている。同じテーマで水上勉が小説「五番町夕霧楼」を書いている。五番町遊廓を舞台に、家族を養うために丹後からきた少女とその幼馴染である学生僧との悲恋を描いている。個人的には「五番町夕霧楼」のほうが好きである。

銀閣寺
 銀閣寺は足利義政が、1482年に京都の東山に建て、7年後に完成させた山荘で、彼の死後に寺院となった。足利義満が北山の金閣寺で政治をとり続けたのに比べ、銀閣寺は、足利義政が政治と縁を切るための住居であった。東山山荘観音殿は、書院造・禅宗様で室町時代の代表的な建築である、
 10年におよぶ応仁の乱で将軍の権威はなくなり、この銀閣寺の建設に費用を出す守護大名はほとんどいなかった。また、屋根にはる銀ぱくは費用がかかるた め手入できなった。銀閣寺と呼ばれながら銀色ではないのは、室町幕府の力がなくなり経済的なゆとりがなかったためである。 しかしもともと、銀ぱくをはる計画がなかったともされている。

 将軍義政は政治面では全く評価されてないが、文化面ではその後の日本文化の基礎を築いた極めて重要な文化人である。

 銀閣寺は観音殿とよばれ1階は武士の書院風で、2階は仏堂風に作られ静かな雰囲気をただよわせている。
 武士の屋敷のつくりを書院造という。下左の写真は銀閣寺の東求堂の様子である。たたみ、ふすま、障子、付書院、床の間、ちがい棚がある。現在の日本の和室のつくりのもととなった。当時の最高権力者だった将軍の隠居屋敷とはいえ、四畳半茶室の始まりともされ、建物が小割りの部屋に分かれ天井が張られ、武家社会の生活に適合させ、客を迎え入れる座敷飾りがあるなど居住性の高いものである。

 今日のわたしたちが「日本的」とか「日本文化」と言う概念は、室町時代に確立されたものがほとんどである。茶道、華道、俳諧、将棋、囲碁、能、狂言、邦楽、礼式はいずれも南北朝室町時代に誕生し、今の生活の中にもこの頃の文化を引き継いだものが多い床の間や掛け軸などの和式の建築様式は室町時代に完成されので、文学の世界でも「太平記」、「風姿花伝」などの傑作が生まれている。

 応仁の乱のころに将軍だった足利義政は、政治を嫌い、茶の湯に親しみ、生け花や絵を楽しむ生活を送っていた。そのため動乱の世の中にも関わらず新しい文化が盛んになった。足利義政の頃の文化を東山文化と呼んでいるが、東山というのは足利義政の別荘である銀閣寺があったところである。

 八代将軍の足利義政は、政治家としては無能というよりも興味がなかった。そのため天皇から叱られるほどの人物であったが、東山文化の発展には大きな貢献を見せた。その意味では「応仁の乱」を引き起こした優柔不断の足利義政は日本文化の恩人である。

日本の伝統文化

 さてこのほか、室町時代には「茶の湯」や「生け花」、「精進料理」の原形も登場 しています。日本の伝統と呼ばれるものの多くは、室町時代のその端緒を見出すことが出来る。日本文化がこのような政治的混乱期に成熟したのか。それは「下 克上」の風潮によって、それまで朝廷の権威に圧伏されていた武士や民衆の力が健全な形で社会の表層に表れたからである。

  南北朝の内乱は諸国の武士団を東奔西走させたが、このとき、地方ごとに孤立していた地方の文化が激しくぶつかり、相互に創造的な刺激を与えたことが文化発 展を考えた場合に重要である。いわゆる地方の「名物」という概念は、南北朝時代に初めて成立した。また、日本語の共通語が生まれたのはこの時代だったとさ れている。

 新しい文化がおこると職人の種類もさまざまになり商業の仕組みも整ってきた。各地に市が出来て店が立ち並ぶようになり、お金さえ出せば欲しいものが買えるようになったのもこの頃のことである。

 また農村では村を自分たちの力で治めるようになり、農民たちは村のおきてを作り、平和を守ろうとし、土一投をおこして領主や高利貸しに手向かった。また町でも堺などは、自治の仕組みが整っていることで有名であった。

 室町時代の終わり頃には、新しくヨーロッパとの付き合いが初まり、種子島(鹿児島県)に流れついたポルトガル人が鉄砲を伝え、キリスト教も伝わってきて多くの宣教師が日本を訪れました。

 南北朝室町は「クズしかいない駄目な時代」どころか、実は日本人の生活の基礎をつくった庶民による文化の黄金期だった。

水墨画

  水墨画は墨の濃淡で絵を描きあげるもので、唐の時代から発達しまし、画家としては呉道玄や王維などがいたが、日本では特に室町時代から五山を中心とした禅 僧の間で鑑賞され描かれるようになった。特に如拙(にょせつ)はそれまで中国風の模倣に過ぎなかった日本の水墨画にオリジナリティの要素を加え、彼に続いて登場した相国寺の禅僧、周文
も水墨画の巨匠としてその名を残している。
 水墨画では狩野正信や息子の狩野元信など狩野派と呼ばれる人々が活躍した。日本の伝統的な「やまと絵」と呼ばれる技法にも精通し襖絵などの多くの障壁画を手がけている。京都の大徳寺大仙院花鳥図は狩野元信の作である。

雪舟

 この時代の最大の巨匠といえば雪舟である。岡山県総社市で生まれ、相国寺で禅と水墨画を学ぶ。周防の守護である大内氏から庇護を受け山口に居住し、大 内氏の遣明船で明へわたり留学し様々な技法を学習し、帰国後は日本の水墨画界に新風を吹き込みました。秋冬山水図、山水長巻、天橋立図などの国宝が有名である。これらは水墨芸術の中でも最高の傑作といわれ、壮大な中国大陸の大自然と日本各地を踏破して学んだことより、楼閣・塔・人物などは中国風に、四季の移り変わりを日本風に表現し、日本の持つ自然美を描いている。

 雪舟の名前を聞いて、すぐに室町時代に活躍した有名な水墨画家と答えられる人は多くはなだろうが、高齢者であれば雪舟という名前はよく知っている。かつての国語の教科書には雪舟の子供時代の話が載せられていたからである。
 その話は、総社市の宝福寺に幼くして入った少年(雪舟)は、禅の修行はそっちのけで好きな絵ばかり描いていた。それに腹を立てた住職は、ある朝、少年を本堂の柱に縛りつけるが、可哀想に思い夕方に本堂を覗いてみると、少年の足もとで一匹の大きな鼠が動き回っていた。少年が噛まれては大変と思い、住職はそれを追い払おうとしたが、不思議なことに鼠はいっこうに動かない。それもそのはず鼠は生きた鼠ではなく、少年がこぼした涙を足の親指につけ、床に描いたものだったのである。はじめ動いたようにみえたのは、鼠の姿が本物のように生き生きと描かれていたからで、それ以後、住職は雪舟が絵を描くのをいましめることはなかった。
 涙で鼠を足の指で描いたことは考えにくいが、雪舟ほどの大画家であれば、少年時代から才能を発揮していたという人びとの想いが生み出した逸話である。雪舟が涙で鼠を描いた話は単なる作り話ですが、雪舟が有名なのはこの逸話があったからである。
 しかも少年時代のものだけに、可愛い小坊主の印象がつくられ、他の有名画家とは異なって、親しみやすさを感じさせる。

室町仏教

 鎌倉時代に広まった新仏教の各派は、室町時代に入ると組織を完成させ、武士や庶民に、都市や農村へと勢力を拡大した。当初は室町幕府の保護を受けた臨済宗の五山が栄えたが、応仁の乱などで幕府が衰退するとその勢いは失われた。

 これに対しより自由な活動を求めて地方への布教を目指した禅宗諸派が、地方の武士や庶民の支持を受けて各地に広がった。禅宗諸派は叢林と呼ばれた五山に対して林下と称され、京都の臨済宗の寺院である大徳寺や妙心寺が、地方では曹洞宗の永平寺や総持寺が有名である。一休さんの本名は一休宗純ですが、実は大徳寺の住職にまで出世した高僧である。

 浄土真宗は一向宗とも呼ばれ、室町時代には農民から運送業者や行商人、手工業者などに広がった。本願寺の蓮如(れんにょ)は、応仁の乱の頃に「阿弥陀仏の救いを信じれば誰でも極楽往生できる」という教えを平易な文章で説いて各地に講を組織した。惣村などへの精力的な布教活動によって本願寺の組織は北陸・近畿・東海地方に広がり、各地域ごとに組織化された門徒の集団はやがて強大となり、農村への支配を強めようとする大名などと対立した。

 門徒たちは各地で一向一揆を起こし、加賀の一向一揆のように、約1世紀にわたって勢力を保つものがあった。東国を中心に発展した日蓮宗(法華宗)は、室町時代には京都にも勢力を伸ばしたが、蓮如と同じ頃に出た日親は、他の宗派を厳しく非難したことでしばしば迫害を受けた。日親が第6代将軍の足利義教の前で説法した際には、激怒した義教に煮えたぎった熱い鍋を頭からかぶせられた。京都の商工業者を中心に支持を受けた日蓮宗は、他の宗派と激しく勢力争うようになり、1532年には法華一揆を結んで一向一揆と対決し、山科の本願寺を滅ぼして町政を自治的に運営した。しかしその自治は長くは続かす、1536年に比叡山延暦寺と衝突すると京都を追われた。この戦いを天文法華の乱とうが、焼打ちされた京都の被害は応仁の乱をも上回るものであった。

 法華一揆の際に山科を追われた本願寺は本拠地を大坂(大阪)の石山に移し、防御力を高めた石山本願寺は城のような堅固な要塞となり、戦国大名と並ぶ大きな勢力を築き上げた。

 この当時の一向宗や日蓮宗、さらには比叡山延暦寺の天台宗といった宗教勢力同士の争いは、布教地における莫大な利権があった。宗教勢力は布教地の要所ごとに関所を置いて通行税を徴収し、布教地に座を設けて商売を許可する税金を集めた。これらの利権を維持するため、各宗教勢力は僧兵などの軍事力を強化したが、軍事力の強化は必然的に多額の資金力を必要とし、宗教勢力は布教地に対する税を増やして利益を上げれば、今度はその利権を守るために武力を強化した。この繰り返しによって、いつのまにか宗教勢力は政治力や資金力を持った巨大な圧力団体となる。

 応仁の乱などの相次ぐ戦乱で京都はかつての勢いは失われたが、それでも人も物資も集まりやすかった。京都こそが最大の布教地だったが、どの宗教勢力も同じでした。それゆえに京都のような有力な都市では宗教勢力による争いが絶えず、巻き込まれて苦しむ民衆からは、人々の暮らしに大きな障害と化してしまった宗教勢力を追放して、かつての過ごしやすい世の中に戻してほしいという声が自然と高また。まさに世は戦国時代であり、こうした民衆の声なき声をくみ取った織田信長によって時代は大きく動くことになる。

バサラ

 体制に反逆する悪党と呼ばれた人々の中に、常識から逸 脱して奔放で人目を引く者が現れた。派手な姿格好で、身分の上下に遠慮せず、好き勝手に振舞う者である。このような連中をバサラ「婆娑」という。傍若無人に徘徊する様を、舞楽用語である「婆娑羅」を用いたとされているが、建武式目ではバサラを禁止している。それだけ流行していたのであろう。バサラの流行は南北朝時代の新興武士団たちの新しいもの好きが生んだのであり、安土桃山時代には「かぶき者」といわれた。
 足利氏筆頭執事の高師直、近江国(滋賀県)の守護大名の佐々木道誉、美濃国(岐阜県)守護大名の土岐頼遠などの大名は「バサラ大名」と呼称され、バサラ の代表格とされている。太平記は「バサラ」に否定的な記述をしており、バサラが原因で国が乱れると断じている。太平記が描くバサラ は詳細に書かれ、バサラ大名達の豪奢な生活や傍若無人な振る舞いが詳らかに描かれている。

 身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばか りの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識が根底にあった。後の戦国時代における下剋上の風潮をつくった。ただし戦国時代の史料に「うつけ」や「カブキ」は出てくるが「バサラ」の表現は消失している。

 なおバサラの語源はサンスクリット語でダイヤモンドを意味する。平安時代の雅楽・舞楽で伝統的な奏法を打ち破る自由な演奏を婆娑羅と称し、これは「ダイヤモンドのような硬さで常識を打ち破る」というイメージである。