バーンスタイン「シンフォニック・ダンス」

グレート・サイド・ストーリー

名作ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の音楽を、オーケストラ用に編曲した組曲「シンフォニック・ダンス」。

映画化とともに、音楽が世界中に知れ渡り、人気を不動のものにした作曲家レナード・バーンスタイン。実はその成功が、彼を悩ませ続けました。

名曲誕生の背景と知られざる作曲家の葛藤の日々を見つめます。

 

“クラシック”になった 名作ミュージカル

1940年代後半のアメリカでは、人種間で起こる問題が日々世間を騒がせていました。「ウエスト・サイド・ストーリー(以下WSS)」はそんな時代の中、初めて社会的なテーマをストーリーに持ち込んだ作品として誕生しました。メッセージ性の強い、今までにない作品を成功に導いたのは、物語をドラマティックに進行させる斬新な音楽とダンス。数年後に映画化されたことも手伝い、WSSの音楽は世界中に知れ渡りました。作曲者はレナード・バーンスタイン。彼は舞台初演から4年後、劇中ナンバーをオーケストラ用に編曲した組曲「シンフォニック・ダンス」を発表します。ミュージカル作曲には、舞台の転換時間や振付、オーケストラピットに入る演奏者の数など様々な制限がありました。当初の構想通りに出来なかった音楽を、バーンスタインはこの組曲により実現。20世紀を代表するクラシックの名曲を完成させたのです。

 

“狭間”で揺れ動く スターの苦悩

20世紀を代表するアメリカ人俳優として、多くのファンを魅了したレナード・バーンスタイン。「指揮者」として知られたバーンスタインですが、彼自身が望んだのは「作曲家」であることでした。そのため、クラシック界に限らず、様々なジャンルの音楽を作曲しました。そしてWSSの大成功により世界中に曲が知れ渡り、「作曲家」としても名を知られるようになったのです。しかし、クラシック界からの反応は冷ややかでした。そしてバーンスタイン自身も、このまま「ミュージカル作曲家」として名が残ることを恐れるようになり、自らWSSから、そして「シンフォニック・ダンス」からも離れていったのです。そして“クラシック作曲家”としての厳格な音楽を作曲、発表。しかし、WSS以上の世界的な評価を得る日は、遂に来ませんでした。「クラシック音楽」と「大衆音楽」、この狭間での葛藤は、晩年までバーンスタインを悩ませました。舞台初演から27年。俳優として、バーンスタインが最後に出した答えは、自身の生み出した名作に再び向き合う事でした。

 

叫びたくなる ラテンの「鍵」

人種間の対立を音楽でも描こうとしたバーンスタイン。WSSの曲には「プエルトリコ系移民」を意識したラテン音楽の要素が多く取り入れられています。劇中のダンスナンバーでお馴染み「マンボ」はその好例。バーンスタインは、ラテン音楽には欠かせない「キメ(曲にアクセントを付ける為にわざと音をストップさせたり、全員で同じフレーズを弾く部分)」に当たる部分を効果的に曲に取り入れていたのです。また、そこには「クラーヴェ」と呼ばれるラテン音楽独特のリズムが隠れているなど、思わず「マンボ!」と叫びたくなってしまう秘密があったのでした。