ドボルザーク「スラブ舞曲」

スラブの心ここにあり

~ドボルザークの「スラブ舞曲」~ 

チェコの作曲家ドボルザークの人気曲のひとつ「スラブ舞曲」。

当時、この曲が大ヒットしたためにドボルザークが抱えた悩みとは?

名曲に込められたドボルザークの思いに迫ります。

 

運命の出会い

作曲家を目指し、交響曲やオペラなどの大作をコツコツと書きためていたドボルザーク。しかし、なかなか日の目を見ることはなく、貧しい生活を続けていました。そこで、オーストリア政府が行っていた奨学金を得て、作曲だけに打ち込みます。

この奨学金の審査委員をしていたのがブラームス。ブラームスは、「このチェコのきらめく才能を世に出さなくては!」と、自分の楽譜を出版していたジムロックにドボルザークを推薦します。当時、ピアノを家庭に持ち、音楽を愛好する中産階級のあいだでは「異国趣味」が流行っていました。ブラームスとジムロックは、その流行にのって「ハンガリー舞曲」を大ヒットさせていたのです。そこでジムロックは、ドボルザークにも、「異国趣味」の作品を作曲するよう薦めます。ドボルザークも薦められるがままに、ふるさとチェコの民謡を元にして、異国情緒あふれる「スラブ舞曲」を作曲したのです。狙い通り、大ヒット!第2集では、チェコだけでなく、広くスラブ地域の民謡を取り入れました、さらにオーケストラ用にも編曲。各地のオーケストラがレパートリーに取り入れ、演奏の機会は広がりました。

こうして作曲家ドボルザークの名を広く世に知らしめた作品、それがこの「スラブ舞曲」だったのです。

 

スラブの心

スラブ舞曲第1集の大ヒットで楽譜出版社は、すぐにでも第2弾を作曲して欲しいと、ドボルザークに何度も頼みにやってきました。しかし、ドボルザークは拒み続けます。大衆受けのする売れる音楽ではなく、自分の作りたい音楽、交響曲やオペラなど芸術性の高い作品を出版したかったのです。

しかし、当時の音楽の主流は、ドイツやオーストリアであり、チェコ人の作曲する音楽の芸術性を認めなかったのです。ドボルザークの「スラブ舞曲」は売れても、「交響曲」は売れなかったのです。

この時期、ドボルザークのふるさとチェコでは、オーストリアからの独立を求め、民族運動が活発になっていました。チェコ人の芸術家たちは、民族的で郷土愛に満ちた作品を発表し、作品で民族運動を担っていたのです。そんな中、ドイツの出版社から楽譜を出版し、外国で有名になっていくドボルザークは、「ふるさとを捨てた裏切り者」と言われかねない状況におかれていたのです。

そこで、ドボルザークは「スラブ舞曲」に立ち返り、第2集を作曲。生まれ育ったふるさとで身につけた民謡など、自分のよりどころとなる音楽を芸術作品に昇華させたのです。その後のドボルザークは、オリジナリティーあふれる作品を次々と世に送り出し、大作曲家への道を歩んだのです。

 

“切なさ”にはワザがある

「スラブ舞曲」第2集から第2曲を解説します。この曲の魅力は、切なさ。その切なさはどこからやってくるのでしょうか。まずは、曲の冒頭のシャープがついた半音。半音があることで、ぐっと切なさが増します。このような半音の使い方は、映画音楽でも多く使われています。

もうひとつは、短調と長調の混在。この曲は、暗く感じる短調で書かれていますが、ところどころ、明るく感じる長調になる部分があります。さらに、細かく長調と短調を行き来するところもあり、その絶妙なバランスが、切なさをより盛り上げています。