律令体制

天武天皇
 壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位され、第40代の天武天皇となった。天武天皇は大臣を置かずに自らが先頭に立ち政治を行った。

 豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には皇族出身者を中心とした新たな身分制度・八色の姓(やくさのかばね)を定めた。その他にも中国にならった律令や我が国の国史の編纂を命じ、日本初の銭貨となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行った。
 外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を派遣して、唐との国交を一時に断絶した。新羅が朝鮮半島を支配していたため、日本は、新羅をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたからである。遣唐使の復活は8世紀まで待つことになる。

 天武天皇は天皇中心の国家体制を目指していた。中国にならい本格的な都である藤原京の造営を開始したが、その完成を見ることなく686年に崩御された。

 天武天皇は崩御する前の679年に、天鸕野讃良皇后(持統天皇)と6人の皇子に吉野の盟約を交わせていた。6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子であった。天武天皇は皇子たちに互いに争わずに協力することを誓わせたのである。しかし天武天皇が崩御すると、天武天皇の心配が現実となった。

 

持統天皇

 天武天皇が崩御されると、皇后である持統天皇が即位する。持統天皇は天武天皇の皇后であり、また天智天皇の娘でもある。持統天皇は天武天皇との子である草壁皇子(くさかべのおうじ)の成長を待って、称制(天皇代行)として政治を行った。このとき草壁皇子のライバルである大津皇子を謀反の疑いで殺害している。

 大津皇子は僧行心らにそそのかされて謀反を企てたとされているが、僧行心を除き逮捕された30余人は罪に問われなかったことから、謀反の計画を口実に大津皇子を抹殺したと考えられる。しかし草壁皇子が自分より先に死去したため、690年に自らが即位された。

 持統天皇は天武天皇の諸政策を引き継ぎ、689年には飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍(こういんねんじゃく、戸籍)がつくられた。694年、天武天皇の時代に造設を始めたた藤原京が完成し遷都された。それまでは天皇が変わるたびに都を変えていたが、藤原京はひとつの城下町のように整備されていて、代々の天皇が継続して使用できるようになっていた。事実、文武天皇、元明天皇の初期までは藤原京で政務が行われた

 大化の改新以来、我が国が目指していた律令国家の大事業はほぼ完成に近づいていた。697年、持統天皇は草壁皇子の子で、自身の孫にあたる第42代の文武天皇(中大兄皇子)に譲位され、703年に崩御された。持統天皇は天皇として初めて火葬にされた。火葬は仏教の考えに則っていた。

 

大宝律令

 文武天皇の治世の701年、日本初の本格的な法令である大宝律令が、天武天皇の子である刑部親王と藤原鎌足の子である藤原不比等によって完成した。律とは刑罰の規定で、令とは行政法や民法などの法規のことである。これまで近江令、飛鳥浄御原令などの令が編纂されていたが、律と令がともに整ったことはなかった。

 大宝律令の完成によって初めて国家法典が完備した。大宝律令は唐にならって作られたとされているが、基本的理念は同じでも、その内容は日本特有のものである。大宝律令は我が国の法律の基本となった。

 律令制度は7世紀に中国の隋や唐が整えた法典体系である。独自の元号と独自の律令は中国の冊封体制から離れ、独自の国家になったことを意味しているが、我が国初の大宝律令は今日残されていない。令集解(りょうのしゅうげ)・続日本紀」に断片的に記載されているだけである。

 ところで大宝律令は、ちょうど対馬から金が献上されたことから「大宝」という元号が用いられた。この大宝以降、日本では初めて独自の元号を 持つことになる。それまで我が国では独自の元号がなかったため、年号は何々天皇の何年目の年と表現されてきた。私たちは明治何年、大正何年、昭和何年とい う言い方に慣れているが、その時代まではそのような表現はなかった。また明治、大正、昭和という区分は1天皇1元号が導入されてからのことで、それ以前は 天皇の交代の度、大きな災害や事件がる度に年号がかわった。元号をかえて運気を呼び戻すためであったが、一般人にとっても、歴史を学ぶ者にとっても現在の 元号はわかりやすい表記である。

中央行政・政務

 中央の役所は二官八省一台五衛府と称されている。二官とは神々の祭りをつかさどる神祇官と、行政全般を担当する太政官のことで、大宝律令は唐の律令を手本にしたとされているが、この政治の中枢機関である太政官は日本独自のもので、唐の太政官は皇帝が行う政治の補助機関に過ぎない。日本の太政官は太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・少納言などからなり、大蔵省などの八省が政務を分担し、行政は太政大臣などの太政官の合議で進められていた。太政大臣は最高職であり、適任者がいなければ太政大臣は置かず左大臣が最高職となる。太政官と併立する神祇官も日本独自のものである。

 八省は政務を分担する八つの役所のことで、中務(天皇の国事・行事の事務)・式部(文官人事)・治部(儀式・仏教・外交)・民部(民政一般)・兵部(武官人事・軍政一般)・刑部(裁判)・大蔵(財政)・宮内(宮中の一般庶務)の各省が置かれた。なお間違いやすいのは大学を管轄するのは式部省で租税を扱うのは民部省である。
 一台は弾正台(だんじょうだい)のことで、風俗の取り締まりや官吏を監察する機関である。

 五衛府の「衛」は「まもる」という意味で、その中の兵衛府は下級官人の嫡子や郡司の子弟から選抜された兵士が所属する役所で、内裏宿直や内門守衛など天皇近辺を警衛した。兵衛に対し諸国から上京した兵士を衛士(えじ)といい、農民の成人男子から徴発された兵士のことである。衛士府は衛士を率いて宮城の警護や巡検、行幸の護衛などにあたった。
地方の組織
 地方の組織は、畿内と東海道などの七道に区分された。京都の周辺を畿内といい、大和・山背・河内・摂津の4カ国を意味する。後に河内から和泉が分立して5カ国になり五畿(ごき)と呼ばれた。
 七道とは東山道・北陸道・東海道・南海道・西海道・山陽道・山陰道の七つで、七道から中央の命令が地方に伝わるようになっていた。ただし西海道(九州)には大宰府(だざいふ)が置かれた。道の下には地方行政区である国、郡、里があり、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。国司は中央貴族が6年の任期で派遣され、郡司は地元の豪族(国造)が任命された。郡司は終身で世襲された。里長(郷長)は、国司が有力農民を任命した。里長は村の長であるが官人ではない。

要地の組織
京職
 都には左・右の京職が置かれ、朱雀大路を境に西京と東京の行政をそれぞれ担当した。その下にあった市司(いちのつかさ)は、西市と東市の監督にあたった。
摂津職

  難波は難波津・難波宮・客館等がおかれた政治・外交の要地だったので、この地に摂津職(せっつしき)が置かれた。摂津職は、摂津国全体の行政や難波津関係の事務を行ったが、793年に廃止された。

大宰府
 北九州には大宰府が置かれ、外交・軍事を行った。遠の朝廷(とおのみかど)として西海道(九州)を統括した。

  中央・地方の役人は正一位などの位階に応じて官職に任じられた。これを官位相当制という。役人は位階や官職に応じて、封戸(ふこ)・田地(でんち)・禄(ろく)などの給与が与えられ、上流貴族は一族の地位を維持させるため、子は父の位階に応じた位階を無条件に与えられる蔭位の制(おんいのせい)があった。

官道
 官道(駅路・伝路)には駅馬(えきば)・伝馬(てんま)が定められた。
駅路
 駅路(中央政府と国府を結ぶ道)に置かれたのが駅馬である。駅路には諸道30里(約16㎞)毎に駅家が置かれ駅馬を配置した。馬の数は、駅路の等級によって異なり、大路20匹・中路10匹・小路5匹である。駅使(公用の者)は駅鈴を馬の首に下げ、鳴らしながら公用の旅をした。駅馬は一区間ごとに乗り継ぐのが原則で乗り越すことはできない。
 駅家の戸を駅戸(えきこ)といい、その職務に従事する者を駅子(えきし)といった。駅子は駅馬の飼養や駅田(駅家の不輸租田)の耕作に従事していた。駅家の責任者が駅長で終身その任にあたった。
伝路
 国衙と郡家を結ぶ道で、そこに置かれたのが伝馬である。伝馬は郡家(郡衙)に5匹ずつ置かれた。伝使(公用の旅行者)が伝馬を利用する場合には、伝符という木契を必要とした。伝馬長・伝子が置かれた。
駅路としての七道の等級 大路:山陽道
            中路:東海道・東山道
            小路:北陸道・山陰道・南海道・西海道
関所
 謀反人が東国へ逃亡するのを防ぎ、外敵が都へ侵入するのを阻ぐために設けられた。国家の大事に際して使者を派遣し、関所を閉鎖して警護させることを固関という。
 関所が設置されたのは、越前国愛発関(あらちのせき)、のちに近江国逢坂関(おうさかのせき)に変更。美濃国不破関(ふわのせき。現在の関ケ原)。伊勢国鈴鹿関(すずかのせき。現在の鈴鹿峠)で、これを三関(さんせき)といった。各関所は畿内と北陸道・東山道・東海道と間に設けられた。
 当時は三関以東を関東(関所の東の意味)と称した。関東の範囲は時代によって変るが、最初に設けられたのは三関から東、つまり京都から見て東側をよんだ。

 

官制
四等官制(しとうかんせい)
 役人は4つの職名にわかれており、これを四等官制という。上から順に「長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)」という。長官は事案を統括的に決裁し、次官は長官の補佐、判官は文書の審査、主典は文書の審査などを行った。役所によって定員や構成が異なるが読み方や役割は同じである。
 たとえば、国司の四等官は「守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)」と書くが、すべての国に四等官が揃っていたわけでも、同じ定員だったわけでもない。国は大・上・中・下国の4等級に分かれ、官人も多少の違いがあった。
 官職に就くには前提条件として位階をもっていなければならない。位階は大宝令以降、親王は1品(いっぽん)から4品までの4階、諸臣は正1位(しょういちい)から少初位下(しょうそいのげ)までの30階に分かれていました。令制では位階に相当する官職が規定されており、これを官位相当制(かんいそうとうのせい)といった。
 たとえば、太政大臣になるには正1位か従1位(じゅいちい)、左・右大臣になるには正2位か従2位、大納言になるには正3位(しょうさんみ)の位階をそれぞれ持っていることが前提でした。官人は位階によって序列化され、その位階に応じて官職を与えられ、統制されました。
貴族
 5位以上の位階を持っている官人の一族を貴族という。さらに3位以上を「貴(き)」、4~5位を「通貴(つうき)」といった。「貴」は貴族中の貴族です。官位相当制により、国政の中枢を担う官職を独占しました。奈良時代には、5位以上の官人を「公卿(くぎょう)」といいましたが、平安時代になると太政大臣・摂政・関白・左大臣・右大臣・内大臣を「公」、大納言・中納言・参議・3位以上の非参議官人を「卿」といい、これらを総称して「公卿」と呼ぶようになりました。
 貴族には収入面での優遇や、免税・減刑措置など、さまざまな特権があった。そうした特権の一つに、蔭位制(おんいのせい)という制度があり、5位以上の有位者の子や3位以上の有位者の孫は、21歳になると祖父・父の位階に応じて、一定の位階を与えられるという制度であった。蔭位による叙位は、国家試験に合格して叙位されるよりも格段に有利だったため、結局は、貴族になるのは貴族の子孫ばかりで、蔭位制は貴族層を再生産する仕組みだった。 

司法制度
① 刑罰

 刑罰は五刑とよび、苔(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死のことである。苔は細いムチで打たれる刑で10・20・30・40・50回までの5階級があった。杖は太いムチで打たれる刑で、60・70・80・90・100回までの5階級があった。徒は現在の懲役刑で1年・1年半・2年・2年半・3年の5階級があった。流は流罪で、都から遠隔地に移して課す服役刑で、距離に従い近流(きんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)の3階級があった。死は文字どおり死罪のことで、絞(こう)と斬(ざん)の2段階があった。

② 八虐(はちぎゃく)

 八虐は天皇や国家、尊属(自分より上の親族のこと)に対する罪のことで、これらは有位者でも減刑されず、恩赦の対象からはずれ重罪となった。八虐は、具体的には謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義の八つの大罪を指す。これらは天皇・国家・神社・尊属等に対する罪で、支配秩序を揺るがすため重罪とされた。

 

民衆支配のしくみ
① 籍帳制度
 律令制は、農民の負担する租税と労役によって支えられた。そのため租税負担者を掌握するための戸籍と、租税の賦課台帳である計帳が作成された。
戸籍
 戸籍は人民登録台帳です。6年毎に作成(6年1造)し、30年間保存することが決められました。ただし天智天皇の時代に作成された庚午年籍(こうごねんじゃく。670年)だけは、わが国初の戸籍として永久保存することになっていた(現存しない)。なお持統天皇時代の庚寅年籍(こういんねんじゃく。690年)は、前年施行された飛鳥浄御原令を受けて作成された6年1造規定に基づく最初の戸籍である。
 戸籍には、郷戸(ごうこ)の構成員が記載されている。現在のわれわれが考える家族に近いものは、房戸(ぼうこ)と呼ばれ、郷戸は多数の房戸からなる。たとえば、お兄さんの家族、弟の家族、叔父さんの家族などそれぞれを「房戸」といい、行政上の都合でそれらを一括りにしたのが「郷戸」である。そのため、当時の戸籍には現在では考えられないような「大家族」が見られます。たとえば、702年の筑前国嶋郡川辺里(しまのこおりかわべのさと)の大領(郡司の長官)肥君猪手(ひのきみのいて)の戸籍には、124人(うち37人が奴婢)もの人々が一つの戸として計上されている(現存最大の戸籍)。
 郷戸が50戸集まると、それを1里といいます。「国-郡-里」という行政区画の「里」であり、里を統括するのが里長(さとおさ)である。
計帳
 計帳は都に納入する調庸の賦課台帳である。一国全体の戸籍・口数・調庸物数を書き上げた統計文書です。計帳は、毎年作成されました。計帳は「手実(しゅじつ。郷戸単位)→歴名(れきみょう。里(郷)単位)→計帳(けいちょう。国単位)」という作成手順を経た。
 手実は各戸主が作成した申告書で、戸(郷戸)内の人名・年齢・容貌・調庸負担の可・不可を記し、毎年6月30日以前に国司に提出した。写真などなかった時代ですから、「右目の下に黒子(ほくろ)がある」などというような税負担者の身体的特徴まで細々申告させていることには、どこまでも追跡して税を取り立てようとする為政者の強い意志を感じます。事実、税の過重さから、奈良時代には税負担者の浮浪・逃亡等が相次いだ。
 歴名(れきみょう)というのは、手実の内容を戸(郷戸)ごとに集計し、里(郷)単位にまとめたものである。
 計帳は、歴名を一国単位で集計したもので、計帳は毎年8月30日までに太政官に上申した。そのために国司が派遣する使者を大帳使(計帳使)といいます。
 なお、国司は毎年4種類の公文(公文書)を持参するため、4種類の使者を中央に派遣した。これを四度使(しどのつかい)という。大帳使、正税使(しょうぜいし)、貢調使(調庸使・調帳使)、朝集使の4種である。


② 班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)
 農民から租税を徴収するには、その最低生活を保障し、租税を生産させなければならない。そのために農民に土地を支給した。公地公民が原則で土地は国有地でしたから、建前上は国が農民に一生涯、土地を貸し出すという形をとった。支給される土地を、口分田という。戸籍を作成し口分田を支給する者と、口分田を回収する者をチェックする。口分田の支給は戸籍作成の翌年、すなわち6年ごとに行われました(6年1班)。対象者は6歳以上の男女である。1代限りの所有を認められ、死去すると班田が行われる年に収公されました。ただし、宅地(家屋の建築にあてる土地)と園地(宅地に付属した果樹・野菜などを栽培する土地)の売買は可能でした。
 支給される口分田の面積には、男女・身分で差がありました。一般の農民ならば、男は2段、女は1段120歩の口分田の支給をうけました(1段は360歩)。「五色の賤」のうち、陵戸・官戸・公奴婢も、良民と同じ面積の口分田支給を受けました。ただし家人・私奴婢は、良民の1/3の口分田支給を受けました。すなわち男は240歩、女は160歩である。
 賤民への口分田は、賤民の所有者に班給された。家人・奴婢には納税義務がないので、賤民を多く所有する者ほど経済的には有利だった。
土地の種類
 口分田のほかに、位田(いでん。5位以上に与えた土地)、功田(功績があった者に与えた土地)、賜田(しでん。特別の恩勅によって与えた土地)、職田(しきでん。官職に応じて与えた土地)、神田(しんでん。神社の用に与えた土地)、寺田(じでん。寺院の用に与えた土地)などの種類の土地があった。口分田、位田、功田、賜田、職田の一部(郡司に与えた土地)などは租を納入しなければならない輸租田(ゆそでん)です。職田の一部(郡司以外の官人に与えた土地)、神田、寺田などは、租の納入を免除された不輸租田(ふゆそでん)です。
 口分田などを班給して余った土地を乗田といった。「乗」は「余剰(よじょう。余りのこと)」の意味です。乗田は公田ともいいました。乗田を遊ばせておくのはもったいないので、1年を限度として農民に貸して耕作させ、地子(賃料)をとりました。地子をとる乗田のような土地を輸地子田(ゆじしでん)といいます。土地を借りた農民は、収穫高の1/5を地子として納めました。このように、地子をとって期限付きで貸すことを「賃租(ちんそ)」といいました。地子を春の耕作前に支払うことを「賃」、秋の収穫後に支払うことを「租」といったことに由来します。
条里制
 律令制下の土地区画を条里制という。6町(654m)四方の正方形(1里)が縦・横に隙間なく並んでいれば、6町ごとのブロックを横に1条、2条、3条、4条…、縦に1里、2里、3里、4里…というように、条・里をつけて番号を振っていった。
 6町(654m)四方の正方形(1里)は、さらに縦6×横6の計36の正方形のブロックに分けます。1町(109m)四方のこの正方形を坪といいった。36の坪にも1の坪、2の坪、3の坪…というように番号を振る。1列目を1・2・3・4・5・6の坪、2列目を7・8・9・10・11・12の坪、3列目を13・14・15…と振っていくやり方を平行式(並行式)坪並という。1列目を1・2・3・4・5・6の坪、2列目を12・11・10・9・8・7の坪、3列目を13・14・15…とジグザグに振っていくやり方を千鳥式(蛇行式)坪並という。
 1坪はさらに10等分されます。10等分された1枚分の面積は1段(=360歩)です。

     6町(654m。この場合の町は長さの単位)四方=1里=36坪
         1坪=  1町(この場合の町は面積の単位)=10段
      1/10坪=1/10町 = 1段=360歩

 1坪を10等分する方法には2種類あります。1坪を縦方向に細長い短冊状に10等分する土地分割法を長地型(ながちがた)といいます。すなわち、縦60歩(1町=109m)×横6歩(10.9m)の土地が10枚分になるわけです。1坪を縦に5等分、横に2等分にする土地分割法を半折型(はおりがた)といいます。すなわち、縦30歩(50.4m)×横12歩(21.8m)の土地が10枚分とれます。
どちらの土地分割法がすぐれているのか、一概には言えませんが、牛馬を使用して農具を引かせる場合には、なるべくターン回数の少ない長地型の方がよい。事実、長地型の方が優勢であった、牛馬耕が普及するのは鎌倉時代まで待たねばなりません。
さて、条里制によって分割された土地の中に、あなたの口分田があったとしましょう。そうすると、条と里の座標軸によって、その口分田の位置が即座にわかる。たとえば、「3条5里1坪」というように。条里制はたいへん合理的で、為政者にとっては管理しやすい土地区画制度だった。

 


 民衆は6年に1度作成される戸籍、あるいは課税台帳に毎年登録されて口分田が支給された。口分田は売買が禁じられ、死亡した場合は6年毎の調査によって国に取り上げられた。この制度を班田収授法という。
 税負担は租(そ)、庸(よう)、調(ちょう)、雑徭(ぞうよう)があった。租は口分田からの収穫の3%を税として負担することで、庸は都で10日働くか布を納める制度で、調は各地の特産品を納めるものであった。庸や調による納税品は都まで自費で運ぶ義務があり、これを運脚といった。また雑徭は一年に60日間(のち30日間)国司の命令で働く労役制度だった。
 この他、春に稲を貸し付け、収穫時に高い利息とともに徴収する公出挙(くすいこ)があり、国の重要な財源となった。しかし公出挙は年5割~3割という重い負担で民衆を苦しめることになる。私的に行われた私出挙(しすいこ)は、年率が10割という厳しいものであった。

 治安と国防にも民の力が必要だった。そのため成年男子は3~4人に1人の割合で徴集され、諸国には軍団に配属され、京の警備には衛士(えじ)が、九州沿岸の警備は防人(さきもり)が任じられた。兵士たちは食料と武装を自分で調達しなければならず、経済的な負担が重かったが、庸や雑徭などの一部の税は免除された。

 

租税負担
 租は男女ともに負担しましたが、それ以外はおもに正丁(21~60歳の男子)が負担する人頭税が中心で、そのため税負担が成年男子に集中し、浮浪・逃亡等を誘発する原因になった。一方、女子・貴族・奴婢などは調・庸・雑徭を負担しない不課口(ふかこう)でした。
租(そ)
 男女ともに収穫高の約3%を国の郡家(ぐうけ)に置かれた正倉に納めました。女性も納入する税はこの租だけである。
調(ちょう)
 郷土の特産品の1種類を、京都の大蔵省に納めた。絹なら約2.6m、麻布なら約7.9m)、綿(絹綿)1斤(きん)を納めた。納入するのは正丁で、次丁(老丁、61~65歳の男子)は正丁の1/2、中男(少丁、17~20歳の男子)は正丁の1/4の量を納入しました。
 なお、万葉集には「たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まゆごも)り…」という慣用句が見られる。自分たちは決して身につけることのない絹布を、調として納入するために、多くの女性たちが桑を植え、養蚕に携わったのである。女性には租以外の税負担はありませんでしたが、結局は家族が手分けして税を負担した。
庸(よう)
 本来は正丁が京都で、年間10日を限度につとめる歳役である。歳役につかない場合には、代わりに長さ2約7.9mの麻布を民部省に納めた。
 次丁(老丁、61~65歳の男子)は正丁の1/2の量を納入しましたが、中男(少丁、17~20歳の男子)には負担はなかった。
 なお、調と庸は中央政府の税収となりましたから、中央政府は律令農民を「調庸の民」の別称で呼ぶことがあった。調・庸は官人の給与や事業費となりました。
雑 徭(ぞうよう)
 雑徭は正丁が年間60日を限度に地方(国衙)で歳役に従事するもので、次丁(老丁、61~65歳の男子)は正丁の1/2の期間(30日)、中男(少丁、17~20歳の男子)は正丁の1/4の期間(15日)をそれぞれ限度に歳役に従事した。
 なお、調・庸・雑徭の3種を総称して課役(かえき)という。課役負担者を課口(かこう)といい、課口のいる戸を課戸(かこ)、いない戸を不課戸(ふかこ)といった。
運 脚(うんきゃく)
 運脚は脚夫・担夫ともいわれ、調・庸などの貢納物をかついで、京都まで徒歩で運搬する労役である。往復の食料は自前で、往復の期間は農作業などができないので、働き手を徴発された家族には重い負担がかかった。途中、食料がなくなり、行き倒れになる農民もいました。奈良時代の行基は、そうした農民を助けるために布施屋(ふせや)をつくった。
義 倉
 備荒貯穀を義倉といった。凶作に備えて毎年、粟などを農民から強制的に供出させ、貯蔵させた。貧富の差によって農民の戸を9等級に分け、等級ごとに粟の負担額を変えるようにしました。裕福な戸ほど負担が重くなったが、等外戸(負担できない貧しい戸)が大多数を占めていた。
出 挙(すいこ)
 春、農民に稲を貸し付けて、秋に利息とともに回収する仕組みを出挙といいます。最初は、勧農や凶作時の農民救済から始まったが、のちには強制になった。税と同じで、これを公出挙といい、年利は3~5割になった。出挙の利稲は、国司の自由な処分に任せられていました。一方、民間が農民に貸し出す私出挙(しすいこ)があった。年利は5~10割で、とんでもなく高利だった。
雇 役(こえき)
 政府が賃金・食料を支給して行う雇傭労働を雇役という。雇役で使役される人々を役民(えきみん)といった。雇役と仕丁(50戸につき2人、3年1替で食料は50戸が負担)は、造寺・造都事業等の重要な労働力源となりました。
兵役 
 正丁は3~4人に1人の割合で兵役についた。兵器は自前で兵役負担は非常に重いもので、「兵士に一人が徴発されると、その家は滅んでしまう」とまで言われました。兵士は諸国の軍団で訓練を受け、都に上り京都の防衛にあたる兵士を「衛士(えじ)」という。任期は1年です。
 九州に赴き大宰府の防人司に所属し、海防にあたる兵士を「防人(さきもり)」という。任期は3年である。防人は東国兵士に限定された。東国兵士は素朴かつ勇敢で九州の人たちと言葉が通じにくかったからである。

 

身分制度

 律令制下の身分制度には良民・賤民の2種があった。693年、持統天皇は良民は黄色の、賤民は黒色の衣服をそれぞれ着ることを命じた。身分制度を色分けされた衣服によって、可視化しようとたのである。
 官僚は位階に応じた色の制服を着ていたが、無位官人以下の良民はクチナシの実を使って染めた黄色の制服を着ていた。一方、賤民はドングリを煮出して染めた黒色の制服を着ることを強制されました。
① 良民
 良民には貴(3位以上)・通貴(5位以上)と呼ばれる貴族(上級官人)、6位以下の下級官人、公民(班田農民・調庸の民・百姓など)と呼ばれた農民、雑色人(雑戸や品部)などがいた。
② 賤民(五色の賤)
 奈良時代には賤民とされた人々が、全人口の1割程度いた。官有のものが3種、私有のものが2種の計5種類の区別があったので、五色の賤(ごしきのせん)といった。
 官有の賤民には陵戸・官戸・公奴婢(くぬひ)の区別があった。陵戸は皇室の陵墓を守衛、官戸は官司の諸役、公奴婢は官有の奴隷で戸は形成できずに売買の対象になった。
 私有の賤民には、家人(けにん)・私奴婢(しぬひ)の区別があり、家人は戸を形成し売買されなかった。私奴婢は私有の奴隷で戸は形成できず、売買の対象になった。
 『万葉集』に、次のような和歌が収められています。
 橡(つるばみ)の衣(きぬ)は人皆事なしといひし時より着ほしく思ほゆ
 「ドングリを煮出して染めた黒い衣服を着ている人は煩わしいことがない、というのを聞いたときから黒い服を着たいと思った」という意味である。黒は賤民が着る服の色なので、この和歌の作者は、良民身分を捨てて「賤民になりたい」と言っているわけです。
 なぜ「賤民になりたい」のか。山上憶良の「貧窮問答歌」に税負担に追われて困窮ししている良民の姿を詠んでいます。このように良民が「税負担を免除された賤民身分をうらやんだ」といえる。