律令体制

天武天皇
 壬申の乱は大海人皇子と大友皇子との争いといえるが、それは「天智天皇派 対 反天智天皇派の戦い」であり、さらに近江朝を支える旧豪族と大海人皇子を支える地方豪族との戦いでもあった。結果として天智天皇派は、白村江の戦の敗戦によって、地方豪族に新宮の近江朝の建設や、さらには水城などの防衛施設の建築を押し付け、民衆には重税を課したため、人気は急落していたのである。

 壬申の乱で勝利した大海人皇子は都を近江から飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位し第40代天武天皇となった。

 天武天皇は大臣を置かずに自らが先頭に立ち政治を行った。大友皇子の近江朝は従来の豪族が味方し、大海人皇子には地方の豪族が味方したことから、壬申の乱により近江朝を支えていた旧豪族が没落したため、旧豪族に縛られることなく天武天皇の独自専制色が強くなったのである。天武天皇は皇族中心の政治を目指した。

 まず豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には新たな身分制度・八色の姓(やくさのかばね)を定めた。その他にも中国にならった律令や我が国の国史の編纂を命じ、日本初の銭貨となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行った。
 外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を派遣して、唐との国交を一時に断絶した。新羅が朝鮮半島を支配していたため、日本は新羅をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができたのである。遣唐使の復活は8世紀まで待つことになる。

 天武天皇は天皇中心の国家体制を目指し、中国にならい本格的な都である藤原京の造営を開始したが、その完成を見ることなく686年に崩御された。

吉野の盟約

 天武天皇は崩御前の679年に、天鸕野讃良皇后(持統天皇)と6人の皇子とともに吉野へ行幸し「吉野の盟約」を交わしていた。6人の皇子とは草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子であった。

 しかし実際には、「吉野の盟約」は天武天皇と鸕野讚良皇后の(後の持統天皇)の間にもうけた草壁皇子を次期天皇にすると宣言した盟約であった。天武天皇は皇子たちに互いに争わずに草壁皇子に協力することを誓わせたのである。この誓いは壬申の乱の教訓で、皇族による天皇中心の政治を確立させるためであった。しかし天武天皇が崩御すると、天武天皇の心配が現実となった。

持統天皇

 天武天皇が病気がちになると、天武天皇の天鸕野讃良皇后(持統天皇)が天皇代行として政治に参与していた。天鸕野讃良皇后天武天皇の皇后であり、また天智天皇の娘でもあった。天鸕野讃良皇后は統治者として政務を代行し、天武天皇が崩御すると、天武天皇との実子である草壁皇子の成長を待って政治を行った。つまり次期天皇を草壁皇子に決めていたのである。しかしライバルとして器量に優れた大津皇子も政治に参加することになり、大津皇子を押す豪族もいて、天武天皇の後継は曖昧なものとなった。

 天鸕野讃良皇后(持統天皇)は草壁皇子のライバルである大津皇子を謀反の疑いで殺害し、大津皇子は非業の最後をとげた。大津皇子は僧行心にそそのかされて謀反を企てたとされているが、僧行心を除き逮捕された30余人は罪に問われなかった。このことから謀反を口実に大津皇子を抹殺したとされている。

 もし皇位を兄弟、あるいは異母の皇子に譲ると、それが原因で乱がおこる。このことから皇位継承予定者は天皇の直系にしようとしたのである。しかし思わぬことがおきた。それは草壁皇子が天武天皇の喪が開ける前に死去したのである。

 天鸕野讃良皇后は草壁皇子の長男で自分の孫にあたる軽皇子(後の文武天皇)に譲位しようとするが、軽皇子がまだ4歳と幼かったため690年に自らが持統天皇として即位した。11年後に軽皇子に譲位し、持統天皇は史上初の太上天皇(上皇)となった。

 持統天皇は天武天皇の諸政策を引き継ぎ、689年には飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍(戸籍)を作った。694年、天武天皇の時代に造設を始めたた藤原京が完成して遷都された。藤原京は日本初の計画都市で、政府のある宮にくわえ寺院や邸宅からなる京(みやこ)を加えた日本始の本格的な都市になる。ひとつの城下町のように整備され、代々の天皇が継続して使用できるようになっていた。それまでは天皇が変わるたびに都を変えていたが、事実、文武天皇、元明天皇の初期まで藤原京で政務が行われた。この藤原京も手狭になり、ゴミや排泄物などに悩まされ、710年元明天皇の時代に平城京に移ることになる。

 大化の改新以来、我が国が目指していた律令国家の大事業は持統天皇によってほぼ完成に近づいていた。697年、持統天皇は草壁皇子の長男で自分の孫にあたる第42代の15歳の文武天皇(軽皇子)に譲位すると703年に崩御された。持統天皇は天皇として初めて火葬にされた。火葬は仏教の考えに則ってのことであった。

 

日本の女帝

 昭和22年の現行の皇室典範の第1条には「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」さらに第4条には「皇位を継承するのは天皇が崩じたとき」と定められている。

 しかし現在、高齢である今上天皇の健康への配慮から負担軽減のために第4条が改定されようとしている。さらに41年間男性皇族が誕生しなかったことから、いずれ皇位継承問題が生じることが予想されるため第1条についても議論されている。その際、語句の類似から皇統についての「女系天皇」と、天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念であることが分かりにくいので説明が必要である。

 日本の歴史を古くから辿れば推古天皇(第33代) 、皇極天皇(第35代)、斉明天皇(第37代は皇極天皇が重祚)、第41代持統天皇) 、元明天皇(第43代) 、元正天皇(第44代)  、孝謙天皇(第46代) 、称徳天皇(第48代は孝謙天皇が重祚)、明正天皇(第109代) 、後桜町天皇(第117代)と、日本の歴史には8人10代の女性天皇が存在していた。

 しかしそのうち4人の女性天皇は皇后で夫が亡くなったために天皇になったので、ほとんどが次期天皇が成長するまで、あるいは皇子たちの皇位継承争いが終結するまでの中継ぎであった。つまり女性天皇は天皇・皇太子の元配偶者(未亡人、再婚せず)か未婚(生涯独身)であった。さらに上図で示すように8人10代が奈良時代以前に集中している。
 皇室はこれまで「万世一系」の男系による家系で皇位継承を行ってきた。この男系とは「歴代天皇の父親の父親の……」と辿っていくと、初代天皇である神武天皇に行き着くことで、その意味で女系天皇は過去に例がない。女性天皇はすべて男系であり、皇室において女系は存在しないのである。
 例えば敬宮愛子内親王が女性天皇になり、歴代天皇の男系子孫以外の男性と結婚した場合、産まれた子は天皇になれず、神武天皇以来の皇室の男系血統は「天皇愛子」を最後に終わってしまうのである。
 つまり男系ではなく女系を認めれば、従来の天皇制そのものが、他家による天皇家の乗っ取りや他家による政治利用が可能になるからである。日本の皇室は日本の歴史とともにあるように、欧州諸国の王室とは歴史的背景がまったく違うのである。このことから皇室のあり方、女性天皇及び女系天皇の是非などについて議論されているが、たとえ象徴天皇であっても、天皇制の基本を知らずに民主主義的発想で議論することは、日本の根本を揺るがすことになるのである。

大宝律令

 文武天皇の治世の701年、日本初の本格的な法令である大宝律令が、天武天皇の子である刑部親王と藤原鎌足の子である藤原不比等によって完成した。

 律とは刑罰令とは行政法や民法などの法規のことである。これまで近江令、飛鳥浄御原令などの令が編纂されてきたが、律と令がともに整ったことはなかった。

 大宝律令の完成によって日本で初めて国家法典が完備した。大宝律令は唐にならって作られたが、その基本的な理念は同じでも、内容は日本特有のものといえる。大宝律令は我が国の法律の基本となった。

 律令制度は7世紀に中国の隋や唐が整えた法典体系であるが、日本独自の元号と独自の律令は中国の冊封体制から日本が独自の国家になったことを意味している。この我が国初の大宝律令は今日残されていないが、令集解(りょうのしゅうげ)や続日本紀に断片的に記載されている。

 なお718年には養老律令として大宝律令が一部修正されしているが、その内容は大宝律令とほとんど同じで、藤原不比等の個人的な修正だった。養老律令の編纂事業はその後も継続されたが、720年に不比等が死後すると中絶され,完成から約40年後に首皇子が聖武天皇になった時に藤原仲麻呂が公布し施行した。養老律令は聖武天皇の権威を高めるためとされているが本当のことはわからない。藤原仲麻呂が宮中における藤原氏の律令貴族としての優位性を、広く印象づけるために施行されたとされている。

 大宝律令は我が国初の国家法典で、その詳細は試験問題に出やすい。しかし現在の司法や行政制度を誰も正確に言えないように、その内容は無味乾燥であり、決して興味を引くものではない。以下にその内容を記するが、極端に言えば受験用の内容で、興味があれば読めばよい程度である。

 

元号

 大宝律令は、ちょうど対馬から金が献上されたことから「大宝」という元号が用いられた。この大宝以降、日本では初めて独自の元号を 持つことになった。それまでの日本には独自の元号がなかったため、年号は何々天皇の何年目の何月何日と表現されてきた。私たちは明治何年、大正何年、昭和何年との言い方に慣れているが、その時代まではそのような表現はなかったのである。

 また明治、大正、昭和という区分は、1天皇1元号が導入されてからのことで、それ以前は天皇の交代の度、あるいは大きな災害や事件がる度に年号がかわった。元号をかえるのは運気を呼び戻すためであるが、一般人にとっても、歴史を学ぶ者にとっても現在の元号はわかりやすい表記である。

中央行政・政務

 中央の役所は「二官八省一台五衛府」と称されている。二官とは神々の祭りをつかさどる神祇官と行政全般を担当する太政官のことで、この二官は同格に扱われている(祭政一致)。大宝律令は唐の律令を手本にしているが、この政治の中枢機関である太政官は日本独自のものである。

 中国では皇帝の独裁権が強いため、唐の太政官は皇帝が行う政治の補助に過ぎないが、日本の太政官は太政大臣左大臣右大臣大納言少納言などからなり、行政は太政大臣などの太政官の合議で進められた。

  わが国の太政官は天皇の政治を代行する機関で、天皇は現人神(あらひとがみ)として現実の政治に責任を負わず、現人神としての性格から神々の祭祀を司る神祇官が必然的に出てきた。太政大臣は最高職であるが、適任者がいなければ太政大臣は置かず、左大臣が最高職となる。太政官と併立する神祇官も日本独自のものである。

 八省とは政務を分担する八つの役所のことで、中務(天皇の国事・行事の事務)・式部(文官人事)・治部(儀式・仏教・外交)・民部(民政)・兵部(武官人事・軍政)・刑部(裁判)・大蔵(財政)・宮内(宮中の庶務)の各省が置かれた。間違いやすいのは、大学を管轄するのは式部省で租税を扱うのは民部省である。
 一台とは弾正台(だんじょうだい)のことで、風俗の取り締まりや官吏を監察する機関である。五衛府の「衛」はまもるという意味で、兵衛府は下級官人の嫡子や郡司の子弟から選ばれた兵士が内裏の宿直や内門の守衛など天皇周辺を警衛した。兵衛に対し諸国から上京した兵士を衛士(えじ)とよばれ、兵士は農民から徴兵された。衛士府は衛士を率いて宮城の警護や巡検、行幸の護衛などにあたった。

地方の組織
 地方は都の京都周辺の畿内と、東海道などの七道に区分された。畿内とは大和・山背・河内・摂津の4カ国を意味している。
 七道とは東山道・北陸道・東海道・南海道・西海道・山陽道・山陰道の七つで、七道から中央の命令が地方に伝わるようになっていた。ただし西海道(九州)には大宰府(だざいふ)が置かれた。道の下には地方行政区である国、郡、里があり、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。国司は中央貴族が6年の任期で派遣され、郡司は地元の豪族(国造)が任命された。郡司は終身制で世襲された。里長(郷長)は国司が有力農民を任命し、里長は村の長であるが官人ではない。

国名につく近遠・上中下・前中後
 分離・併合を繰り返したため古代の国数は一定していない。712年には58国であったが、823年には66国になった。
 遠近、上中下、前中後のついた国名は、都から放射状に延びた七道に沿って近遠、上中下、前中後の順に並んでいる。たとえば都に近い琵琶湖があるので近江(おうみ)、都から遠い湖である浜名湖があるので遠江(とおとうみ)。吉備は都に近い方から備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)と呼ばれるようになる。
 ところで上総(かずさ)・下総(しもうさ)は、この原則が当てはまらないように思われるが、関東平野の東京湾周辺は大小の河川が乱流して低湿地が多いため交通の障害となっていた。そのため東海道は相模(さがみ)の三浦半島から海を渡って上総に延びていた。つまり当時は、上総・下総の配列もこの原則に従っていたのである。しかし次第に河川の通過もできるようになり、武蔵を通過して下総に至るようになった。これ以後は、武蔵は東山道ではなく東海道に属することになる。

要地の組織
京職
 都には左・右の京職が置かれ、朱雀大路を境に西京と東京の行政をそれぞれが担当した。その下にあった市司(いちのつかさ)は、西市と東市の監督にあたった。
摂津職

  難波には難波津・難波宮・客館が置かれ、政治・外交の要地だった。そのためこの地に摂津職が置かれた。摂津職は摂津国全体の行政や難波津関係の事務を担ったが、793年に廃止されている。

大宰府
 北九州には大宰府が置かれ、外交・軍事を行った。遠の朝廷(とおのみかど)として西海道(九州)を統括した。

  中央・地方の役人は位階に応じて官職に任じられ、これを官位相当制という。役人は位階や官職に応じて封戸(ふこ)・田地(でんち)・禄(ろく)などの給与が与えられ、上流貴族は一族の地位を維持させるため、子は父の位階に応じて位階を無条件に与えられた(蔭位の制)。

官道
 官道(駅路・伝路)には、駅馬(えきば)・伝馬(てんま)が定められた。
駅路
 中央政府と国府を結ぶ道(駅路)に置かれたのが駅馬である。駅路には30里(約16㎞)ごとに駅家が配置された。馬の数は駅路の等級によって異なり、大路20匹・中路10匹・小路5匹である。公用の者は駅鈴を馬の首に下げ、鳴らしながら公用の旅をした。駅馬は一区間ごとに馬を乗り継ぎ、乗り越すことはできなかった。駅家の戸を駅戸(えきこ)といい、それに従事する者を駅子(えきし)といった。駅子は駅馬の飼養や駅田(駅家の租田)の耕作に従事し、駅家の責任者が駅長で終身その任にあたった。
伝路
 伝路とは国衙と郡家を結ぶ道で、そこに置かれたのが伝馬である。伝馬は郡家(郡衙)に5匹ずつ置かれた。公用の旅行者が伝馬を利用する場合には、伝符という木契を必要とした。伝馬には伝馬長・伝子が置かれた。

 駅路としての七道の等級 大路:山陽道
             中路:東海道・東山道
             小路:北陸道・山陰道・南海道・西海道
関所
 関所は謀反人が東国へ逃亡するのを防ぐため、また外敵が都へ侵入するのを阻ぐために設けられた。国家の大事に際しては使者を派遣し、関所を閉鎖して警護させた。
 関所が設置されたのは、越前国愛発関(あらちのせき)、後に近江国逢坂関(おうさかのせき)に変更。美濃国不破関(現在の関ケ原)。伊勢国鈴鹿関(鈴鹿峠)で、これを三関(さんせき)といった。各関所は畿内と北陸道・東山道・東海道との間に設けられた。
 当時は三関以東を関東とよばれた。つまり関東とは「関所の東」の意味で用いられた。関東の範囲は時代によって異なるが、最初は三関から東、つまり京都から見て東側を関東とよんだ。

官制
四等官制
 役人は4つの職名にわかれ、これを四等官制という。上から順に「長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)」という。長官は事案を統括的に決裁し、次官は長官の補佐、判官は文書の審査、主典は文書の審査を行った。役所によって定員や構成が異なるが読み方や役割は同じである。
 たとえば国司の四等官は「守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)」と書く。しかしすべての国に四等官が揃っていたわけでも、同じ定員だったわけではない。国は大・上・中・下国の4等級に分かれ官人の地位も多少の違いがあった。
 官職に就くにはその前提条件として位階を持っていなければならず、位階は大宝令以降、親王は1品(いっぽん)から4品までの4階、諸臣は正1位(しょういちい)から少初位下(しょうそいのげ)までの30階に分かれていた。令制では位階に相当する官職が規定され、これを官位相当制といった。
 たとえば太政大臣になるには正1位か従1位、左・右大臣になるには正2位か従2位、大納言になるには正3位の位階を持っていることが必要であった。官人は位階によって序列化され、その位階に応じて官職を与えられた。
貴族
 5位以上の位階の官人を貴族という。さらに3位以上を「貴(き)」、4~5位を「通貴(つうき)」といった。「貴」は貴族中の貴族である。官位相当制により国政の中枢を担う官職を貴族が独占した。奈良時代には5位以上の官人を公卿というが、平安時代になると太政大臣・摂政・関白・左大臣・右大臣・内大臣を「公」、大納言・中納言・参議の3位以上の非参議官人を「卿」といい、これらを総称して「公卿」と呼ぶようになった。
 貴族には収入面での優遇や、免税・減刑措置など、さまざまな特権があった。この特権の一つに蔭位制(おんいのせい)があり、これは5位以上の者の子や3位以上の者の孫は、21歳になると祖父・父の位階に応じて一定の位階を与えられる制度であった。蔭位による叙位は、国家試験に合格して叙位されるよりも格段に有利だったため、結局は貴族になるのは貴族の子孫ばかりで、蔭位制は貴族層を再生産する仕組みだった。 

 

司法制度
刑罰

 刑罰は五刑とよばれ苔(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死のことである。苔は細いムチで打たれる刑で10・20・30・40・50回までの5階級があった。杖は太いムチで打たれる刑で60・70・80・90・100回までの5階級があった。徒は現在の懲役刑で1年・1年半・2年・2年半・3年の5階級があり、流は流罪で、都から遠隔地に移して課す服役刑である。流罪には距離に従い近流(きんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)の3階級がある。死は文字どおり死罪のことで、絞(こう)と斬(ざん)の2段階があった。

八虐(はちぎゃく)

 八虐とは天皇や国家、尊属(自分より上の親族のこと)に対する罪のことで、これらは有位者でも減刑されず、恩赦の対象からもはずれる重罪であった。八虐は、具体的には謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義の八つの大罪を指す。これらは天皇・国家・神社・尊属等に対する罪で、支配秩序を揺るがすことを重罪とされた。

 

民衆支配のしくみ
籍帳制度
 律令制は、農民の租税と労役によって支えられた。そのため租税負担者を掌握するための戸籍と、租税の台帳である計帳が作成された。
戸籍
 戸籍は人民登録台帳のことで、6年ごとに作成(6年1造)され、30年間保存することになっている。ただし天智天皇の時代に作成された庚午年籍(こうごねんじゃく)だけは、わが国初の戸籍として現存していないが永久保存になっていた。持統天皇時代の庚寅年籍(こういんねんじゃく)は飛鳥浄御原令を受けて作成された6年1造の規定に基づいた最初の戸籍である。
 戸籍には郷戸(ごうこ)の構成員が記載されている。郷戸とは多数の房戸からなり、房戸とは現在の家族に近いものを呼ぶ。例えば兄の家族、弟の家族、叔父の家族をそれぞれ「房戸」といい、行政上の都合でそれらを一括りにしたのが「郷戸」である。そのため当時の戸籍には現在では考えられないような大家族が見られる。たとえば筑前国嶋郡川辺里の大領(郡司の長官)肥君猪手の戸籍には、124人(うち37人が奴婢)の人々が一つの戸として計上されている(現存最大の戸籍)。

 郷戸が50戸集まると1里といった。「国-郡-里」という行政区画の「里」で、里を統括するのが里長(さとおさ)である。
計帳
 計帳は都に納入する調庸のための台帳で、戸籍・口数・調庸物数を書いた文書である。計帳は毎年作成され、郷戸単位の「手実→里(郷)単位の歴名→国単位の計帳」という作成手順を経た作成された。

 手実は各戸主が作成した申告書で、戸(郷戸)内の人名・年齢・容貌・調庸負担の可・不可を記し、毎年6月30日以前に国司に提出した。税負担者の身体的特徴、たとえば「右目の下に黒子(ほくろ)がある」など細々にわたり書かれていて、逃亡しても追跡して税を取り立てる為政者の意志が感じられる。事実。奈良時代には重税から逃亡者が相次いだのである。
 歴名(れきみょう)というのは、手実の内容を戸(郷戸)ごとに集計し、里(郷)単位にまとめたものである。計帳は歴名を一国単位で集計したもので、計帳は毎年8月30日までに太政官に上申された。国司が上申のため派遣する使者を大帳使(計帳使)という。

 国司は毎年4種類の公文(公文書)を持参するため、4種類の使者を中央に派遣した。これを四度使(しどのつかい)という。大帳使、正税使(しょうぜいし)、貢調使(調庸使・調帳使)、朝集使の4種である。

 

班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)
 農民から租税を徴収するには、農民の最低の生活を保障し、租税を生産させなければならない。農民には土地が支給され、土地は国有地として建前上は「国が農民に一生涯、土地を貸し出す」形をとった(公地公民)。支給された土地を口分田という。口分田を確実にするため戸籍が作成され、口分田の支給は戸籍作成から6年ごとに行われた(6年1班)。対象者は6歳以上の男女で、1代限りの所有が認められ、死去すると回収された。ただし宅地と宅地に付属した果樹・野菜などを栽培する土地の売買は可能だった。

 支給される口分田の面積は、男女・身分で差があり、一般の農民ならば、男は2段、女は1段120歩の口分田の支給をうけた(1段は360歩)。「五色の賤」のうち、陵戸・官戸・公奴婢も良民と同じ面積の口分田支給を受けた。ただし家人・私奴婢は良民の1/3の口分田が支給された。
 賤民への口分田は、賤民の所有者に支給され、家人・奴婢には納税義務がないため、賤民を多く所有する者ほど経済的には有利だった。
土地の種類
 口分田のほかに、位田(いでん。5位以上に与えた土地)、功田(功績があった者に与えた土地)、賜田(しでん。特別の恩勅によって与えた土地)、職田(しきでん。官職に応じて与えた土地)、神田(しんでん。神社の用に与えた土地)、寺田(じでん。寺院の用に与えた土地)などの種類の土地があった。口分田、位田、功田、賜田、職田の一部(郡司に与えた土地)などは租を納入しなければならない輸租田(ゆそでん)であった。職田の一部(郡司以外の官人に与えた土地)、神田、寺田などは、租の納入を免除された不輸租田(ふゆそでん)である。
 口分田などで余った土地を乗田といった。「乗」は「余剰の意味で、乗田は公田ともいった。乗田を遊ばせておくのはもったいないので、1年を限度として農民に貸して耕作させ、地子(賃料)を取った。土地を借りた農民は、収穫高の1/5を地子として納めた。このように、地子をとって期限付きで貸すことを「賃租(ちんそ)」といいました。賃租は地子を春の耕作前に支払うことを「賃」、秋の収穫後に支払うことを「租」といったことに由来する。

条里制
 律令制下の土地区画を条里制といい、6町(654m)四方の正方形(1里)が縦・横に並んでいて、6町ごとのブロックを横に1条、2条、3条、4条…、縦に1里、2里、3里、4里…と番号をつけていった。
 6町(654m)四方の正方形(1里)は、さらに縦6×横6の計36の正方形のブロックに分けられ1町(109m)四方の正方形を坪といった。36の坪にも1の坪、2の坪、3の坪…というように番号を振った。1列目を1・2・3・4・5・6の坪、2列目を7・8・9・10・11・12の坪、3列目を13・14・15…と振っていくやり方を平行式(並行式)坪並という。1列目を1・2・3・4・5・6の坪、2列目を12・11・10・9・8・7の坪、3列目を13・14・15…とジグザグに振っていくやり方を千鳥式(蛇行式)坪並という。
 1坪はさらに10等分され、10等分された1枚分の面積は1段(=360歩)である。1坪を10等分する方法には2種類あり、1坪を縦方向に細長い短冊状に10等分する分割を長地型(ながちがた)という。

 すなわち縦60歩(1町=109m)×横6歩(10.9m)の土地が10枚分になる。1坪を縦に5等分、横に2等分にする土地分割法を半折型(はおりがた)といい、縦30歩(50.4m)×横12歩(21.8m)の土地が10枚分となる。
 なぜ土地分割法が2つあるかは、牛馬を用いて農具を引かせる場合には、回転数の少ない長地型の方がよいからである。実際には長地型の方が優勢であったが、牛馬耕が普及するのは鎌倉時代まで待たねばならない。
 条里制によって分割された土地は条と里の座標軸によって、口分田の位置がわかる。たとえば「3条5里1坪」というように分かりやすく、為政者にとっては管理しやすい土地区画制度だった。

 民衆は6年に1度作成される戸籍、あるいは課税台帳に毎年登録されて口分田が支給された。口分田は売買が禁じられ、死亡した場合は6年毎の調査によって国に取り上げられ、この制度を班田収授法といった。

 

租税負担
 税負担は租(そ)、庸(よう)、調(ちょう)、雑徭(ぞうよう)があり、租は口分田からの収穫の3%を税として負担することである。

 男女ともに収穫高の約3%を国の郡家(ぐうけ)に置かれた正倉に納めた。女性が納入する税はこの租だけである。
調
 郷土の特産品の1種類を京都の大蔵省に納めた。絹なら約2.6m、麻布なら約7.9m)、綿1斤(きん)を納めた。納入するのは正丁で、次丁(老丁、61~65歳の男子)は正丁の1/2、中男(少丁、17~20歳の男子)は正丁の1/4を納入した。
 なお万葉集には「たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まゆごも)り…」という慣用句が見られる。自分たちは決して身につけることのない絹布を調として納入するために、多くの女性たちが桑を植え、養蚕に携わったことがわかる。女性には租以外の税負担はなかったが、結局は家族が手分けして税を負担した。

 正丁が京都で年間10日を限度につとめることで、役につかない場合には、代わりに長さ2約7.9mの麻布を民部省に納めた。次丁(老丁、61~65歳の男子)は正丁の1/2の量を納入し、中男(少丁、17~20歳の男子)には負担はなかった。
 なお調と庸は中央政府の税収となったので、中央政府は律令農民を「調庸の民」と別称で呼び、調・庸は官人の給与や事業費となった。
雑 徭(ぞうよう)
 雑徭は正丁が年間60日を限度に地方(国衙)で役に従事するもので、次丁(老丁、61~65歳の男子)は正丁の1/2の期間(30日)、中男(少丁、17~20歳の男子)は正丁の1/4の期間(15日)をそれぞれ従事した。
 なお調・庸・雑徭の3種を総称して課役(かえき)といい、課役負担者を課口(かこう)という。課口のいる戸を課戸(かこ)、いない戸を不課戸(ふかこ)といった。

運 脚
 庸や調による納税品は都まで自費で運ぶ義務があり、これを運脚といった。運脚は脚夫・担夫ともいわれ、調・庸などの貢納物をかついで、京都まで徒歩で運ぶ労役である。往復の食料は自前で、往復の期間は農作業などができないので、働き手を徴発された家族には重い負担となった。途中、食料がなくなり行き倒れになる農民もいた。奈良時代の行基は、そのような農民を助けるために布施屋(ふせや)をつくった。
義 倉
 備荒貯穀を義倉とよび、凶作に備えて粟などを農民から毎年強制的に出させて貯蔵していた。貧富の差によって農民の戸を9等級に分け、等級ごとに粟の負担額を変えていた。裕福な戸ほど負担が重くなったが、等外戸(負担できない貧しい戸)が大多数を占めていた。
出 挙(すいこ)
 春に農民に稲を貸し付けて、秋に利息とともに回収する仕組みを出挙という。最初は勧農や凶作時の農民救済から始められたが、後には強制になった。税と同じで、これを公出挙という。年利は3~5割で、出挙の利稲は国司の自由に任せられていた。また民間が農民に貸し出す私出挙(しすいこ)があり年利は5~10割と高利だった。
雇 役(こえき)
 政府が賃金・食料を支給して行う労働を雇役という。雇役で使役される人々を役民(えきみん)といった。雇役と仕丁(50戸につき2人、3年1替で食料は50戸が負担)は、造寺・造都事業等の重要な労働力源となった。
兵役 
 治安と国防にも民の力が必要だった。そのため成年男子(正丁)は3~4人に1人の割合で兵役についた。兵器は自前だったので兵役負担は非常に重く「兵士に徴発されると、その家は滅んでしまう」といわれた。兵士は諸国の軍団で訓練を受け、都に上り京都の防衛にあたる兵士を「衛士(えじ)」といい任期は1年である。
 また九州に赴き、大宰府の防人司に所属して海防にあたる兵士を防人(さきもり)といった。任期は3年で、防人は東国兵士に限定された。東国兵士は素朴かつ勇敢で九州の人たちと言葉が通じにくかったからである。

 

身分制度

 律令制下の身分制度には良民賤民の2種があり、持統天皇は良民は黄色の衣服、賤民は黒色の衣服を着ることを命じた。色分けされた衣服によって、身分制度を可視化したのである。官僚は位階に応じた色の制服を着ており、無官人以下の良民はクチナシの実を使って染めた黄色の制服を着ていた。一方、賤民はドングリを煮出して染めた黒色の制服を着ることを強制された。
良民
 良民には貴(3位以上)・通貴(5位以上)と呼ばれる貴族(上級官人)、6位以下の下級官人、公民(班田農民・調庸の民・百姓など)と呼ばれた農民、雑色人(雑戸や品部)などがいた。
賤民(五色の賤)
 奈良時代には賤民とされた人々が、全人口の1割程度いた。官有のものが3種、私有のものが2種の計5種類があったので、五色の賤(ごしきのせん)といった。
 官有の賤民には陵戸・官戸・公奴婢(くぬひ)の区別があり、陵戸は皇室の陵墓を守衛、官戸は官司の諸役、公奴婢は官有の奴隷で戸は形成できずに売買の対象になった。
 私有の賤民には、家人(けにん)・私奴婢(しぬひ)の区別があり、家人は戸を形成し売買されなかったが、私奴婢は私有の奴隷で売買の対象になった。
 万葉集に、次のような和歌が収められている。
 橡(つるばみ)の衣は 人皆事なしといひし時より 着ほしく思ほゆ
 「ドングリを煮出して染めた黒い衣服を着ている人は、煩わしいことがないので黒い服を着たいと思った」という意味である。黒は賤民が着る服の色なので、この和歌の作者は、良民の身分を捨てて「賤民になりたい」と言っていることになる。

 山上憶良の「貧窮問答歌」に税負担に追われる良民の姿が詠まれており、良民が「税負担を免除された賤民身分をうらやみ、賤民になりたい」と述べている。