ヘンデル「見よ勇者は帰る」

あきらめない!

勝者の一曲表彰式で流れるあの曲は、実は「見よ 勇者は帰る」と

呼ばれるクラシック音楽だった。

イギリスの作曲家・ヘンデルが書いた曲が、

なぜ遠く離れた日本で定着したのか。

定番曲にまつわる、知られざるエピソードをご紹介します。

 

いつの世も 人々をたたえて

「見よ 勇者は帰る」は元々、音楽劇「マカベウスのユダ」という、古代ユダヤの史実に基づいた、英雄物語の中で流れる一曲です。作品が書かれた当時、イギリスは王権争いの真っただ中。争いの末、勝利した国王派を讃えるために、戦いの勝者を物語の主人公・英雄ユダに重ねた音楽劇が作られたのです。「見よ 勇者は帰る」は、凱旋するユダを、民衆が歓喜のうちに迎える場面で歌われる合唱曲なのです。その後まもなく、この曲はイギリス国内で起こった合唱ブームと共に広がり、功労者を讃える場面で演奏されるようになりました。そして時を変えずして、なんと明治初期の日本にもそのメロディーが伝わります。イギリス陸軍軍楽隊長の指導により誕生した、日本初の軍楽隊の演奏レパートリーに、「見よ、勇者は帰る」が加えられたのです。明治7年の海軍の運動会で演奏されたことがきっかけとなり、軍の表彰の音楽に定められました。こうして、今でも日本の多くの式典で演奏されるようになったのです。

 

再起をかけた一曲

18世紀のロンドンで、オペラ作曲家として成功していたヘンデル。しかし50代になると、度重なる不運がヘンデルを襲いました。そのひとつは、芸術界に訪れた変化です。当時、台頭してきた新たな富裕層・中産階級が、それまで主流だったイタリアオペラを好まなかったことにより、オペラの聴衆離れが進み、ヘンデルが所属していた歌劇団も解散を余儀なくされたのです。さらに、ヘンデルは脳卒中に倒れ、「もはや再起不能」という噂まで立ちました。しかし、驚異の回復を遂げたヘンデルは、再び作曲活動を開始。それまでの創作の中心だったイタリアオペラに別れを告げ、分析の結果、時代に最適と見込んだ新たなジャンル「オラトリオ」へと創作の軸を移していくのです。そして当時、最大の話題であった王権争いになぞって、オラトリオ作品「マカベウスのユダ」を誕生させます。これが見事に大ヒットし、ヘンデルは再びロンドンの芸術界に返り咲いたのでした。

 

オラトリオマジック!

今回の名曲「見よ 勇者は帰る」はオラトリオ作品「マカベウスのユダ」の中の一曲。「オラトリオ」とは、歌とオーケストラによる音楽劇のことです。しかし、オラトリオには“劇"と言いながらも、舞台装置も、歌手の演技もありません。その為、ヘンデルは楽器や合唱を効果的に使うことで、情景や場面転換を音で表現しました。その工夫とは・・・

工夫その①ホルンの音色

曲の冒頭、合唱のアカペラに続くのがホルンのソロ。ヘンデルは“異国"や“見慣れないもの"を表現する際に、よくホルンの音色を用いました。

工夫その②女声合唱

戻ってくる兵士たちを遠くに見つけ、喜ぶ女性たちによる歌。英雄たちの帰還に浮き足立つ町の様子を思わせます。

工夫その③フルートと乙女の演奏

先ほどよりも、目の前に近づいてきた勇者たちを見て、嬉しくて踊り出す乙女の様子が表現されています。乙女の歌に添って響いているのがフルートの音色です。当時、フルートは東方発祥の楽器としてエキゾチシズム(異国趣味)の象徴でした。

工夫その④全員の歓喜の歌

曲のクライマックス、合唱は迫力のある混声合唱に切り替わります。遂に目の前までやって来た勇者たちに、民衆が湧き、全員で歓喜の歌を歌う様子が表現されているのです。

このように、舞台装置で場面転換ができない代わりに、ヘンデルは音の効果により、舞台の設定や登場人物た ちの動きの変化まで表現しているのです。