ワーグナー「ワルキューレの騎行」


 

壮大な世界に挑んだ男

映画やテレビ CMで大人気の「ワルキューレの騎行」

高い理想を掲げ 新しい芸術に挑み続けた男が生み出した 壮大な音楽に迫ります。

 

壮大すぎる男の夢

 

1813年、現在のドイツ東部の町ライプチヒに生まれたリヒャルト・ワーグナー。俳優の養父と兄、オペラ歌手の姉を持つ家庭に育ったワーグナーにとって、「歌うこと」と「演じること」とは切り離せないものでした。そんな彼はオペラ作曲家の道を歩み始めます。当時のオペラで重要視されたのは、歌手の技量をひけらかす事。物語の内容は軽んじられていました。そんな中、ワーグナーが目指したのは「音楽」と「物語」と「演技」が一体となった新しい芸術「音楽ドラマ」です。作品の中で「愛」「欲望」「救い」など、生きることの本質を表現しようとしました。そのために、作曲はもちろん、自ら台本を書き、舞台美術を監督し、演技の指導、新しい楽器の開発まで行いました。さらに「音楽ドラマ」を上演するための理想の劇場「バイロイト祝祭劇場」を建設。この理想の劇場でワーグナーが最初に上演した作品が「ワルキューレの騎行」が含まれた大作「ニーベルングの指環」だったのです。

 

失意から生まれた名場面

ヨーロッパの神話をもとに、ワーグナーが新たに書き上げた音楽ドラマ「ニーベルングの指環」。手に入れた者は世界を支配できるという指環をめぐって、神々と、人間と、地下に住むニーベルング族とが争う様が描かれています。その「ニーベルングの指環」の中で最も有名な曲が、戦いの女神ワルキューレたちが、岩山の上に集結する場面で演奏される「ワルキューレの騎行」です。ワーグナーが「ニーベルングの指環」の台本を書き始めた翌年の1849年。ドレスデンで、君主制に反対しドイツの統一を求めた市民革命が起こります。ワーグナーは宮廷劇場で指揮者を務めていましたが、芸術の価値を認めない宮廷に幻滅していました。そして、この市民革命に参加するようになったのです。しかし、革命は失敗に終わります。ワーグナーは指名手配を受け、12年にわたる逃亡生活を送ることになったのです。定期的な収入は途絶え、次第に体調も崩してゆき、「ニーベルングの指環」の作曲も滞りがちになりました。ふるさとを離れ、スイスに移ったワーグナーの心をとらえたのは、アルプスの山々でした。当時のアルプスは、荒々しい自然がむき出しの場所でした。登山道も整備されていない険しい山道を、ワーグナーは一歩一歩、登っていったのです。深く沈んだ谷を横切り、切り立った氷河を登り、たどりついたアルプスの頂。ワーグナーの目の前に広がっていたのは、まさに「ニーベルングの指環」の世界でした。アルプスで目にした岩山の風景にインスピレーションを受け、ワーグナーは岩山に舞い降りるワルキューレたちの場面を生み出しました。自然との対峙が「ニーベルングの指環」と再び向き合うための活力を、ワーグナーに与えたのです。

 

耳で観劇!音が紡ぎ出すドラマ

「ワルキューレの騎行」には、音楽でドラマを描き出す、ワーグナーならではの技がいたる所に発揮されています。その名は「ライトモチーフ」。ライトは「リードする、導く」という意味で、モチーフは「音楽のひとかたまり」という意味。ワーグナーは人物のテーマだけでなく、「愛」とか「恐れ」といった「感情」や、「剣」とか「槍」といった「物」を示すライトモチーフも書きました。このライトモチーフの組み合わせによって、物語の展開を予感させています。作曲家の加羽沢美濃さんが、「ワルキューレの騎行」に登場するライトモチーフの中から、「ワルキューレ」「天空」「騎行」の3つを紹介。歌詞がなくても、音楽に耳を澄ますだけで、そこに描かれたドラマが分かる。そんなワーグナーならではの楽しみ方をお伝えします。