エドワード・バーン=ジョーンズ

 男爵、サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(1833年8月28日 - 1898年6月17日)は、イギリスの美術家。ラファエル前派が次第に象徴主義への影響を高めていった時、ジョーンズは作品の神秘性を高めながら、装飾性にこだわり、イギリス画壇の主流に押し上げた。同時に数々の精巧で美しい芸術作品を作り上げた。
 ジョーンズはバーミンガムでメッキ師の息子として生まれた。生まれて6日目に母親が亡くなり、父親と家政婦によって育てられた。バーミンガムのグラマースクールに通い、1848年からオックスフォード大学のエクスター・カレッジで神学を学ぶ。そこでウィリアム・モリスと出会った。2人とも将来牧師になるつもりだったが、ラスキンの思想や中世ゴシックの建築・美術に興味を抱き、別の道へ進んでいくことになった。

 その後のトマス・マロリーの「アーサー王の死」と出会い彼の人生に大きな影響を与えることになった。1855年、ロンドンでロセッティやラファエル前派の作品に接する。
その年の夏、ジョーンズとモリスはフランスを旅行する。そこで、バーン=ジョーンズは画家、モリスは建築家になることを決めた。
 旅行によって、彼特有のスタイルを発展させた。彼は聖職者になるつもりだったが、モスの影響で美術家、デザイナーになることに決めた。オックスフォード大学を卒業。イギリスのステンドグラス美術の伝統の復活に打ち込むようになった。

 1859-73年の間、4回イタリアへ旅行する。マンテーニャ、ボッティチェリ、ミケランジェロの影響を受けた。
 1860年、妹の友人で画家のジョージアナと結婚した。以後、彼女は木版画を描いた。1867年、バーン=ジョーンズ夫妻はロンドンのフラムに居を構えた。1870年代、バーン=ジョーンズは展覧会を開かなかった。バーン=ジョーンズはモデルであったギリシア人マリア・ザンバコと不倫関係になり妻の元を去っており、そのために新聞紙上で批判されたからである。二人の関係は彼女の公衆の面前での自殺未遂で幕を閉じた。
 絵画同様、彼はセラミックスのタイル、ジュエリー、タペストリーなどの様々な工芸品も制作した。他にも本の挿絵(1896年のチョーサーの本、ケルムスコット・プレス刊)、舞台衣裳などを手懸けた。
 1894年にはナイトに叙せられ、1896年に友人のモリスの死に精神的打撃を受け、バーン=ジョーンズ自身の健康も徐々に悪化し続けた。そのまま回復することなく、1898年6月17日、永眠。ウェストミンスター寺院で葬儀が執り行われた。芸術家がそのような光栄に浴したのは初めてのことだった。埋葬されたのは、家族と休日を過ごしてきたロッティングディーンの教会付属の墓地であった。