鎌倉幕府の滅亡

鎌倉幕府の滅亡への道

 鎌倉幕府は元寇の3度目の攻撃に備え、北九州の防衛を強固に備えなければならず、それだけでも膨大な費用がかかった。元寇の2度の襲来に勝っても、外敵蒙古からは土地を得られず、そのため蒙古との戦いで功績のあった武士たちに領地も報酬も与えられなかった。

 そもそも元寇の時、御家人たちは戦の準備を自費で賄い、多くの御家人が商人に土地を質入して金を借り、その金で武具を揃えていた。しかし借りた金は返さなければならない。返せなければ土地は戻ってこないので御家人たちはまさに踏んだりけったりであった。一般的な歴史の教科書では、鎌倉幕府が滅んだ理由について「元寇後に恩賞に不満を持った武士たちが蜂起したから」と書いてある。

 確かに恩賞を得られなかった西国武士の多くが、幕府や北条氏への反感を募らせていたことは事実であろう。しかし2度目の元寇から鎌倉幕府滅亡まで52年もの月日があった。鎌倉幕府が滅んだ理由については様々な要因があるのであろう。

徳政令

 御家人たちは「座して死を待つ」わけにはいかない。評定所に行って「何とかしてくれ」と連日のように訴えた。

 その訴えから、1297年に幕府は「永仁の徳政令」を出すことになる。これは御家人が質入れした土地を無条件で返してもらう政令である。これで御家人たちは安堵したが、商人からすれば「貸した金は帳消しで、土地を返さなければならない」。こうなると武士にお金をかす者がいなくなり、武士の生活はさらに困窮した。この棒引きの逆効果が混乱を招き、わずか1年で徳政令は廃止された。

 

徳政令の逸話

 徳政令についておもしろい逸話がある。

 京都の三条で、宿屋の主人がある日「今日か明日にでも徳政令が出る」という噂を耳にした。「これは良い事を聞いた」と、その主人は宿に戻るなり早速、泊まっている客から「用心のため大事な物をお預かりします」と金目の物を預かった。

 当時の宿は相部屋なので、何も知らない客は「これは親切なご主人さん」とばかりに快く金目の物を預けてしまった。かくして2日後、徳政令が出るとその主人は客たちの前で高らかに、「さぁ、徳政令が出ました。これは将軍様が天下の平等を考えてお出しになる御命令です。皆さんからお預かりした品々は、皆、私の物になります」。客たちは「しまった」と思ったが後の祭りであった。徳政令ならばどうしようもなかった。

 ところが客の一人が立ち上がり「そうかい、将軍様のご命令とあれば、こっちは聞くしかない。でも俺たちもアンタからこの宿を借りたんだら、この宿は俺たちの物ってことだな」。これには宿の主人は慌てふためき、お上に訴えるが当然聞き入れてもらえず、欲を出した主人は宿を明け渡すことになった。このように徳政令は人々を混乱させた。

 

貨幣経済

 鎌倉時代後期は執権・北条氏だけが繁栄し、御家人たちは貧困に苦しんだ。そのため御家人たちの恨みの声が強くなってきた。さらに新たな貨幣経済が広まり、貨幣経済に対応できない御家人は田畑を手放なし「報酬と奉公」から成り立つ鎌倉幕府と武士の基盤が失われ、鎌倉幕府は滅亡へとつながってゆく

 武士たちは土地を保証しない鎌倉幕府に奉公するよりも、土地を与えてくれる守護に奉公する流れになった。守護は次第に鎌倉幕府から独立した形となり、これがやがて室町時代の守護大名になる。さらに地方の有力者である名主たちも力をたくわえ、他人の土地を奪ったり、金を強奪するようになった。

 鎌倉幕府の力が及ばなくなると、名主の中には守護や地頭の命令に従わない者が現れ、このような者を悪党(あくとう)とよんだ。悪党というと悪いイメージがあるが、悪党とは「反幕府の力のある者」の意味で、この悪党の中で最も有名なのが楠木正成である。各地に「悪党」がふえ、社会不安が高まったが、鎌倉幕府はこれを取り締まらなかった。守護や悪党たちは独立して自分の利益を守るため、やがて鎌倉幕府は亡ぶこととなる。

 

後醍醐天皇
 1221年の承久の乱の後に即位した後堀河天皇が亡くなり、次の四条天皇が12歳で崩御すると、鎌倉幕府は土御門上皇(つちみかど)の子である後嵯峨天皇を擁立した。

 弘安の役から40年後、源頼朝が幕府を開いてから150年後に、京都では後醍醐天皇の即位式が厳粛におこなわれた。

 もともと天皇の名は、天皇の死後に「おくり名」としてつけられるのが通常であった。しかし後醍醐天皇は即位すると自ら「後醍醐天皇」(醍醐の後という意味)を名乗った。

天皇の追号は崩御後に決められる。たとえば平成の天皇は今上天皇であり、崩御されて初めて平成天皇になる。しかし平安時代の醍醐天皇による延喜の治を理想とする後醍醐天皇は、崩御前に自らを「後醍醐」と名乗った。

 このように後醍醐天皇の名称は天皇理想主義への強い決意を表している。後醍醐天皇が理想とした醍醐天皇は平安時代初期の天皇で、藤原時平・菅原道真を左右大臣として、その上に立って天皇がみずから政治をおこなった。そのためかつての醍醐天皇の朝廷中心の政治は、元号にちなんで「延喜の治」とよばれていた。

 その後、藤原氏が主導する摂政政治になり、次に上皇(退位した天皇)による院政がおこなわれ、鎌倉時代からは幕府が朝廷よりも大きな力を持つようになった。後醍醐天皇は醍醐天皇のころの政治にあこがれ、みずからを後醍醐と名乗った。

 後宇多天皇の子である後醍醐天皇は、幼少期から宮廷で何不自由のない生活をしていた。しかし自信家である後醍醐天皇は現実の政治に意欲を燃やし、朱子学(儒教)に傾倒して朝廷の実権を握る鎌倉政権を深く憎んでいた。そのため後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、かつての天皇中心の国家をつくろうとしていた。すなわち日本を藤原氏以前の天皇中心の政治(延喜・天暦の治)に戻そうとしたのである。

 さらに問題を複雑にしたのは、当時の皇室は大覚寺統持明院統の二つの系統にわかれ、交互に天皇を出すことになっていた。しかも天皇を選ぶのは鎌倉幕府の権限だった。そのため後醍醐天皇が自分の皇子を次の天皇にしたいと思ってもできなかった。

 「なぜ天皇なのに鎌倉幕府の指図を受けなければならないのか、このまま幕府の言いなりになれば、自分も天皇の地位から引きずり落されるかもしれない」このように「天皇中心の政治」をめざす後醍醐天皇の怒りとあせりは強まっていた。

 天皇の大覚寺統と持明院統を振り返ってみる。嵯峨天皇は嫡男の後深草天皇持明院統)に譲渡して院政を始め、やがて後深草天皇の弟である亀山天皇大覚寺統)に天皇の座を譲位させた。もちろんそれは天皇の意志ではなく鎌倉幕府の指示であった。

 1272年に嵯峨上皇が崩御すると、幕府は世仁親王を後宇多天皇として即位させ、次の皇太子を同じ後深草天皇の子である熈仁親王(ひろひと)とした。この時、幕府の調停によって後深草上皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と、亀山上皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)が交互に皇位につくことになり、両統は幕府に働きかけて有利な地位を得ようと互いに争うようになった。
 政治への意欲が旺盛な後醍醐天皇は、即位するとさっそく院政を廃止して、かつて朝廷にあった記録書を再興して民衆の訴えを聞きながら自ら政治を行った。1321年の飢饉の時にも民衆を思い倹約を心がけ、物価が高騰すると悪徳商人や役人を取り締まり民衆に施した。
 しかし政権は幕府が握っているため、後醍醐天皇の思い通りにはならず、後醍醐天皇は両統の対立を解消して政治の実権を幕府から取り戻そうとして北畠親房(ちかふさ)などの優秀な人材を起用した。

 後醍醐天皇が親政を始めた頃の鎌倉幕府は、第14代執権の北条高時と内管領の長崎高資による専制政治が行われていた。北条高時は政治を側近の長崎高資にまかせ、自分は毎日のように田楽や闘犬に興じ、酒と女に狂っていた。長崎高資は権力を思うままに行使し、武士の困窮を顧みようとしなかった。乱れた政治により各地で治安が悪化し、世の荒廃は誰の目にも明らかだった。貨幣経済、分割相続などで御家人の窮乏が進み、幕府への反発が大きくなり、北条高時やその側近たちの贅沢な暮らしは武士たちの不満は高めた。

正中の変

 自分たちのことしか考えない鎌倉幕府の政治は明らかに間違っていた。後醍醐天皇は西国の反幕府運動を好機として、朝廷の力を鎌倉幕府から取り戻そうとした。貴族たちは後醍醐天皇に、かつての華やかな生活と権力の復活を期待した。

 後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕計画を密かに企て、倒幕は後醍醐天皇と側近の公家・日野資朝日野俊基らによって計画された。彼らは倒幕の密会を幕府に悟られないように、連日、美女をはべらせ、酒宴の場を隠れ蓑にしながら密会した。公家たちは計画を実行するため、幕府に不満を持つ武士を誘うことになり、在京の武士や各地の武士たちを密かに謀議に加えた。
 1324年6月、倒幕計画を実行に移す謀議が行われ、挙兵は9月23日と決められた。9月23日は北野神社の祭礼があり、その祭りの隙を突いて土岐頼員多治見国長の武士団が、六波羅探題(幕府の京都出張所)を襲撃する計画であった。
 ところがその計画が鎌倉幕府に密告されてしまう。土岐頼員が「今生の別れ」と思い、妻に謀議を漏らしたからである。土岐頼員の妻はそれとなく土岐を問い詰め、六波羅襲撃計画の全貌を知ってしまう。この土岐頼員の妻の父親は幕府側の六波羅の奉行・斎藤利行だった。妻は土岐頼員が寝静まると父・斎藤利行のもと駆けつけ襲撃を告げた。

 後醍醐天皇の計画が失敗すれば夫・土岐頼員の命はなく、成功すれば自分の親族が殺されてしまう。土岐頼員の妻は父を救うため討幕計画を密告したのだった。

 このようにして倒幕の謀議は幕府の知ることになり、六波羅探題の軍勢は、倒幕に加担した土岐十郎や多治見国長の屋敷に攻め込み彼らを討ちとった。もちろん天皇や公家にも詮索の手が伸びたが、鎌倉幕府は穏便にすませようとして、日野資朝と日野俊基の2人の公家を捕らえるにとどめ、日野資朝は佐渡に流罪となったが日野俊基は無罪となった。倒幕の処分としては異例なほどに軽く、この1324年に起きたこの1回目の討幕計画は正中の変とよばれている。

 

元弘の変

 後醍醐天皇は正中の変で倒幕に失敗したが、討幕の意志は変わらなかった。正中の変から7年後、後醍醐天皇は日野俊基らを使って密かに倒幕計画を再度企てた。まず宗教勢力を味方につけるため、後醍醐天皇は東大寺・興福寺・比叡山に行幸して討幕の意志を告げ僧侶を味方にした。

 比叡山の座主となっていた後醍醐天皇の第3子・護良親王が味方となった。護良親王は座主でありながら武芸にも秀れ天皇から厚い信頼を得ていた。さらに京都・山科小野の文観・僧正などに倒幕の祈祷を依頼し、その祈祷は4年間続き、後醍醐天皇自らも倒幕の祈祷を行った。

 ところが天皇の討幕を危惧した重臣の吉田定房が、この動きを「天皇の側近が天皇をそそのかしている」と憂慮し、悩んだ末に幕府に倒幕の企みを密告した。吉田定房としては、天皇に危害が及ばないようにするためだった。
 幕府は吉田定房の密告を聞くと、ただちに状況を調べ、まず倒幕の祈祷を行った文観、円観、忠円の3僧を捕らえて鎌倉に送った。文観は口を割らずにいたが、拷問にあって精神的な限界から天皇に頼まれて鎌倉幕府調伏の祈祷を行ったことを自白した。円観、忠円も観念して洗いざらいしゃべってしまった。

 正中の変で無罪となって京に戻っていた日野俊基が捕らえられ、日野俊基は鎌倉に護送され惨殺された。さらに幕府は正中の変で佐渡に流罪にされていた日野資朝を斬罪処分とした。このほか源具行も天皇へ謀叛を勧めたとして斬罪処分になった。

 護良親王はこの処分を事前に察知し、後醍醐天皇に伝えると、後醍醐天皇は比叡山から笠置山(奈良県)に逃れて立てこもり、比叡山の花山院師賢が天皇を装いおとりになった。
 幕府軍は比叡山を一斉に襲ったが、比叡山はなかなか落ちず、やがて比叡山に後醍醐天皇がいないことがわかり、幕府軍は20万以上の軍勢を後醍醐天皇がいる笠置山に移動して攻撃を開始した。

 笠置山は峻険な山で難攻不落を極め、攻めるのは困難だった。峻険な山なので馬で攻めることができず、重い鎧を着た幕府軍が徒歩で山を登らざるを得なかった。しかもこの間にも後醍醐天皇の煽動によって周辺諸国の武士が蜂起し、笠置山攻めはますます難航した。

 幕府軍が攻めあぐねていると、鎌倉からさらに追討軍20万人が送くられてきた。士気旺盛な笠置山の後醍醐軍であったが、9月末、幕府軍の陶山義高と小宮山次郎の2人が、部下数人と共に、天嶮で無防備な北の絶壁を夜中の豪雨のなかをよじ登り、山頂にある笠置寺に火を放った。この奇襲攻撃に後醍醐軍は混乱をきたし、そこに数万の兵が押し寄せ笠置山は落城した。後醍醐天皇は籠にも牛車にも乗らず素足のままで逃亡した。しかし途中で捕らえられ、ついに隠岐に流罪となった。

 しかしこの2度目の元弘の変は、正中の乱のときとは世の情勢が違っていた。後醍醐天皇の挙兵によって西国の反幕府勢力は「大義名分」を得て立ち上がったのである。

 この情勢を前にして隠岐島の役人は天皇方につき、後醍醐天皇は隠岐島から山陰に脱出した。脱出に協力した後醍醐天皇は、名和長年(なわながとし)や楠木正成とともに倒幕に立ち上がり、鎮圧に向った鎌倉幕府軍の足利高氏は鎌倉幕府をうらぎり、逆に鎌倉幕府を攻撃した。

 天下の情勢は天皇方に傾き、1333年、幕府を見限った御家人が続々と朝廷に忠誠を誓った。さらに幕府側の足利高氏と新田義貞が、それぞれ京都と鎌倉を攻め鎌倉幕府の命運は尽きた。執権北条一門は最期まで鎌倉で戦い、壮絶な最期を遂げた。日本は再び天皇中心の中央集権国家として生まれ変わったのである。

 図下:笠置山

楠木正成 

 後醍醐天皇の挙兵に真っ先に駆けつけたのが、河内の楠木正成であった。幕府の悪党・楠木正成わずかな兵で河内国(大阪東南部)の赤坂城や尾根づたいの千早城に立てこもり幕府の大軍と戦った。

 鎌倉からの幕府軍は、後醍醐天皇がこもる笠置山が陥落すると、近くの城に立てこもる楠木正成を攻めた。

 楠木正成は幕府軍が功を焦って塀をよじ登ると、塀を引き倒し、上から大石や大木を落とし、巧みな戦法で応戦して鎌倉幕府軍を苦しめた。楠木正成は鎌倉幕府の大軍の猛攻を頑として撥ね付け勇ましく戦い続けた。しかし城内の食料が尽きると、楠木正成は夜中に城を脱して姿を消した。この時、楠木正成の偽の遺骨が置かれ、老兵が泣き崩れる姿を見て、幕府軍は楠木正成が死去したと思い込んだ。

 鎌倉幕府は反乱を鎮圧したが、隠岐の島に流されていた後醍醐天皇は、全国の守護が鎌倉幕府に対して反乱をおこすと予感していた。

 後醍醐天皇が隠岐に流されると、鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇(こうごん)を皇位につけたが、後醍醐天皇が退位を拒否したため2人の天皇が並立された。この2人の天皇の並立は後の南北朝時代のさきがけとなった。後醍醐天皇は京都から追放されたが、討幕への意志を失わなかった。後醍醐天皇の子・護良親王(もりよし)は父の意志を継ぎ、諸国の武士に幕府を倒せとの命令を出し、天皇に味方する武士が各地にでてきた。

 反幕府の楠木正成は一旦姿を消したが、翌年12月に突然赤坂城を襲ってこれを奪回した。楠木正成は城に立てこもり幕府の大軍と戦った。わずかな兵であったが、松明を投げつけ油をポンプでふりかけるなどの奇策を用い幕府軍を翻弄し続けた。鎌倉幕府は大軍で攻め込んだが、楠木の軍勢に手こずり、いつまで経っても勝てなかった。この幕府軍の脆弱から、幕府の威信が傷がつき、楠木正成が戦っている間に各地で討幕の機運が高まった。楠木正成が時勢を変えたのである。

 この情勢をみていた後醍醐天皇は、1333年にこっそり隠岐を脱出し、伯耆国(ほうきのくに、鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)に迎えられ船上山(鳥取県)に移った。

 鎌倉幕府はこの事態を重く見て、北条氏と姻戚関係にあった有力御家人・足利高氏を大将として大軍を京都に攻め上らせた。

足利尊氏

 足利派遣は清和源氏の子孫で、北条氏の御家人の中でも名門の血筋であった。足利尊氏は北条守時の妹を妻にしており、北条一門の扱いも厚遇されていた。

 千早城が陥落せず、全国各地で武士の反幕府の挙兵が相次いだことから、焦った鎌倉幕府は足利尊氏を大将にして京に大軍を派遣した。この大軍の派遣に窮地に立っていた京都の六波羅探題(幕府の機関)は喜び歓迎した。

 足利尊氏は六波羅探題の命を受け、山陽道を通って後醍醐天皇のいる船上山を攻めるべく京を出発した。ところが丹波国の篠村まで来た時、足利派遣はにわかに幕府に反旗を翻した。足利尊氏は楠木正成を倒せない鎌倉幕府に見切りをつけ、幕府に背いて謀叛を起こしたのである。

 反旗を翻した足利尊氏は反幕府軍となり、軍勢を率いて京都に攻め込み、1333年5月7日、鎌倉幕府の六波羅探題を滅ぼした。六波羅探題にとってはまさかの反旗であった。幕府は六波羅探題を滅ぼされ、それまで様子を見ていた国々の武士たちは天皇方につくようになった。

 足利尊氏は逆賊として後世良く言われていないが、新しい世の中をつくるために理想に燃えていた。鎌倉幕府を滅ぼすまで、後醍醐天皇とともに戦ったのが何よりの証拠である。ただ「後醍醐天皇が目指した理想」と、「足利尊氏が目指した理想」は違っており、武士中心の世の中で、後醍醐天皇の理想には時代錯誤の感があった。そのため足利尊氏は反逆者と後世扱われたれが、足利尊氏こそが時代に即した生き方だった。

 

新田義貞

 御家人の新田義貞は足利尊氏と同じ源義家の血を引いていたが、足利氏が幕府に重用されたのに対し、新田義貞は30歳を過ぎても無位無官だった。1333年5月8日早朝、新田義貞は一族150騎を生品明神(群馬県新田町)に集めると討幕の兵を挙げた。

 翌日、新田義貞は利根川を越えると、鎌倉を脱出した足利尊氏の子の千寿王(足利義詮)と合流して鎌倉へ向かった。その間、続々と武士が馳せ参じ、同日夕方には20万7千騎に膨れ上がった。5月11日、入間川を渡り小手指原までたどり着いた。

 新田義貞の挙兵を知った幕府は6万の兵を集めて小手指原で激突し、さらに幕府は北条康家に10万騎をつけて分倍河原で両軍は大激突となった。幕府軍は優勢な戦いを展開したが、その日の夜に三浦義勝が武士6000人を率いて新田義貞のもとに到着し、さらに武蔵野の御家人も馳せ参じたため、新田義貞は勢力を取り戻して幕府軍を攻め、幕府軍は総崩れとなり敗退した。新田義貞の軍は総勢60万に膨れ上がっていた。

 分倍河原で北条軍を破った新田軍は鎌倉へ向けて南下し、一方の北条軍は鎌倉の七つの切通(鎌倉七口)を固め防戦した。鎌倉は三方を山に、一方を海に囲まれ、攻撃しにくい地形であった。

 幕府軍も必死で、7個所の切り通しを完全に封鎖し、戦いは20日まで膠着状態が続いた。新田軍は隊を三隊に分け、本隊は仮粧坂、大舘宗氏と江田行義の部隊は極楽寺坂、堀口貞満と大島守之の部隊は巨福呂坂を攻撃した。
 天然の要害「鎌倉」を攻めあぐんでいた新田義貞は、切り通しからの攻撃は無理と判断し、海岸ぞいの稲村ケ崎から強行突破を決意した。だが稲村ケ崎は潮が満ちていて、海には幕府の兵船が無数に浮かんでいた。

 そこで新田義貞は、稲村ヶ崎の海岸で黄金の太刀を海中に投じ龍神に祈念すると、潮はみるみる引きはじめ鎌倉へと続く砂浜が広がった。この新田義貞の伝説は、尋常小学校の唱歌「鎌倉」に「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」と歌われている。

 新田義貞軍は鎌倉に乱入し、背後から攻撃を受けた幕府軍はついに崩壊した。この戦いで新田義貞は第16代の北条守時を滅ぼし、5月22日には北条高時や内管領の長崎高資がこもる東勝寺を攻め、北條一族ともども自害に追い込み、源頼朝以来140年続いた鎌倉幕府を滅亡させた。

 なお足利高氏も新田義貞も元々の姓は源氏で、北条氏の姓は平氏であった。苗字と本姓の違いは「○○の」と「の」が付くのが本姓で、苗字に「の」が付かないことから区別できる。本姓は嫡男のみが受け継ぎ、苗字は嫡男以外に用いられた。例えば源氏一門の足利氏から斯波氏や吉良氏などの庶家が派生したように名字は無数に広まっていくのである。

 足利高氏・新田義貞の血筋は元々は源氏で北条氏の血筋は平氏であった。東国の武士にとっては源氏の血筋というカリスマ性が元々あったのである。そのため自分たち武士の代表である足利高氏・新田義貞に味方したのである。

府中市分倍河原駅前の新田義貞像、 黄金の太刀を投げ入れた稲村ヶ崎。

北条高時

 鎌倉幕府の最後(第14代)の執権となった北条高時は、田楽と闘犬を異常に好み放蕩三昧の日々を送った。「太平記」など後世の記録では闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれている。いずれにしても執権の自覚は乏しく酒色におぼれ、政務を疎かにしたことは間違いない。

 鎌倉時代のおよそ130年、北条氏は執権家として術策の限りを尽くし、そのため後世の人々からは陰険な氏族として毛嫌いされている。それにもかかわらず執権を務めた一人ひとりの生き方は、権位にありながら珍しいほど清潔だった。しかし北条氏の執権を務めた中で権力に伴う富を個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した例外がいた。それが北条高時である。
 北条高時は第9代執権・北条貞時の三男として生まれ、14歳で執権となったが、執権としての重職を遂行するには器量に欠けていたため、実権は舅の時顕や執事の長崎高資が握っており、高時に政務の出番はなかった。飾り物としての執権に嫌気がさしたのか、高時は成長してからも真面目に職務に就くことはなかった。
 高時の道楽の極め付けが闘犬だった。諸国に強い犬、珍しい犬はいないかと探し求め、これが高じて遂に強い犬を国税あるいは年貢として徴収し出した。公私混同も甚だしいが、気に入った犬を献上した者には惜しみなく褒美を与えた。こうした闘犬狂いの高時のご機嫌を取ろうとして諸大名や守護、御家人たちは競って珍しい犬を飼っては献上したので、当時の鎌倉には5000匹の犬がいたとされている。月に12度も「犬合わせの日」が定められ、少なくとも3日に1度は闘犬にうつつを抜かしていた。この北条高時の闘犬狂いは地方にも波及し、地頭や地侍までが闘犬に夢中になった。
 1326年、病のため北条高時は24歳で執権をやめて出家した。後継をめぐり高時の実子・邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起きた。いったんは金沢貞顕が執権に就くが、すぐに辞任して赤橋守時が就任することで収拾した。
  1333年、後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出して、伯耆国の船上山で挙兵した。ここから事態は急展開し、足利高氏、新田義貞らが歴史の表舞台に登場し、鎌倉幕府の命運は危うさを増した。
 北条高時の放蕩三昧でタガの緩み切った鎌倉幕府に、新しい勢力の流れを阻止する力は残っていなかった。同年、新田義貞が鎌倉に攻め込んできたときには、緩み切った鎌倉幕府もさすがにこれには対抗、烈しい死闘を演じた。だが結局は6000人の死者を出し、鎌倉幕府は滅亡し、高時は東勝寺の後に「腹切りやぐら」と呼ばれる場所で自害した。