百済と倭国

 6世紀、大陸の文化は百済を経由して倭国(日本)に伝わってきた。この時代の朝鮮との関係について、一方的に朝鮮から文化が入ってきたイメージがあるが、相互の文化交流があったと思われる。韓国には前方後円墳があり、古墳からの出土品が日本のものと似ていることから、日本からも高官が百済に渡っていたとされている。当時の飛鳥政権は百済重視の外交をしており、百済の王子・豊璋(ほうしょう)が飛鳥の朝廷で重用されていた。

 隋が618年に滅んだ後、唐は朝鮮半島を支配下に置くため陸続きだった高句麗を攻めた。高句麗は唐の猛攻をはね返すと、百済と結んで新羅を攻め立てた。新羅の武烈(ぶれつ)王は高句麗と百済の両方から攻められ、日本から支援も得られないため唐と軍事同盟をむすんだ。これで新羅は高句麗や百済と戦いやすくなったが、高句麗や百済が滅んだ後は、唐は新羅のみを滅ぼせばよいことになった。唐にとって、遠く(新羅)の相手と結んで、近く(高句麗・百済)の敵を倒す遠交近攻であった。

 新羅は滅亡を免れるため唐と同盟を結び、唐の属国をアピールするために自国の文化を捨て唐のマネを始めた。民族の風俗や服装、官制や年号まで中国風に改めた。まさになりふりかまわぬ政策だった。655年、朝鮮半島北部で唐と高句麗が戦いが始まり、南部では百済が新羅へ侵攻した。そのため新羅は唐に援軍を求めた。

 唐は新羅の軍とともに百済の都であった扶余(ふよ)に攻め入り、百済の義慈王(ぎじおう)は降伏し百済は滅亡する。百済の滅亡は日本にとって大きな衝撃であった。唐は百済を統治するが、まだ百済の有力貴族たちは反乱軍を結成して戦っていた。その中心人物が鬼室福信(きしつふくしん)だった。

 660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるため「倭国にいる王子(豊璋)を国王につかせたいので朝鮮に送り返してほしい。倭国から百済の復興のための援軍を送ってほしい」と訴えてきた。百済とは300年に及ぶよしみがあるうえ、唐の圧力は日本にまで及びかねなかった。このため斉明天皇は百済王朝再建の要請を受けると、自ら飛鳥を出て、筑紫(九州)へ移ることにした。各地から武器を調達し、兵を集めながら筑紫へ向かった。同行者は中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中臣鎌足などの有力者がいた。飛鳥から筑紫への大移動となったが、斉明天皇は病のためその年の夏に68歳で崩御された。斉明天皇が崩御後、中大兄皇子が即位しないまま政治を行い、1年近い準備を重ね兵27000人の大軍を百済に送り込んだ。

白村江の戦い

 朝鮮半島南西にある白村江(はくそんこう)は、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺周辺をいう。663年、この白村江日本・旧百済の連合軍VS唐・新羅の連合軍が2日間にわたる壮絶な戦いが行われた。

 倭国・百済連合軍は、百済軍が立て籠もる周留城を救援するために、大船団をくみ周留城に向かったが、白村江で大型の戦船170艘で待ち伏せる唐の水軍に行く手を阻まれた。倭国・百済連合軍は軍隊を上陸させるために、唐水軍の封鎖線を突破する以外に道はなかった。白村江河口の唐・新羅軍に対して中央突破をはかった。倭の水軍は数の上では唐の水軍より勝っていたが、小舟で構成された船団にすぎなかった。海流に逆らい、風に逆らい、4回突入を試みたが、唐の水軍は倭の船団を挟み撃ちにすると、火玉や火矢を射かけてきた。倭の船団は火玉や火矢を受け、風にあおられ、つぎつぎに炎上していった。突破口を開くどころか400艘を焼かれ、兵士たちは争って海に飛び込んだ。

 倭国・百済連合軍は「我先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて精神論的作戦であった。中国の歴史書に「倭国の船400艘が燃え上がり、煙は天を覆い、海は赤く血で染まった」と書かれるほど激しい戦いであった。白村江の戦いは中国の歴史書「旧唐書」だけでなく、わが国の「日本書紀」にも、韓国の「三国史記」にも詳しく記されている。

 九州の豪族・筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられ、捕虜として8年間唐で抑留され帰国を許さた。白村江で大敗した倭国水軍は、倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われながらやっとのことで帰国した。

 中大兄皇子は、唐と新羅が日本に攻めてくることを恐れた。そこで大宰府を守る為に水城(みずぎ)をつくり、瀬戸内海沿い(長門、屋嶋城、岡山など)に山城の防衛砦を築き、九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに667年に都を難波から内陸の近江京へ移した。

 唐・新羅軍は予想に反し日本に攻め込んでこなかった。唐・新羅軍にすれば百済を倒しても朝鮮半島には高句麗が残っていた。高句麗を攻略することが先決で、日本を攻めるほどの余力はなかった。高句麗を攻めている間に日本が攻めてきたら面倒と考え、日本に和睦を求めてきた。日本と和睦を結ぶと、唐・新羅軍は高句麗を攻め、676年に高句麗は滅芒した。

 唐は次に新羅と戦うことになるが、新羅は巧みな謝罪外交と小競り合いを繰り返すばかりであった。その頃、旧高句麗領の北部に渤海が建国され、唐の内乱もあり、唐は朝鮮半島の支配をあきらめ新羅が朝鮮半島を統一した。

 日本は新羅と敵対関係にあったが、新羅が唐からの防波堤となった。我が国は朝鮮半島に独立国がいる限り、中国からの侵略を受けずに済んだのである。