藤原/反藤原

 奈良時代は80年間との短いが、政治の実権者が6回交代している。人間関係が入り組み複雑であるが、時の実力者が「藤原氏派」なのか「反藤原氏派」なのかで2つに大別することができる。それだけ藤原氏の影響が強かった。

1 藤原不比等 [藤原氏派]
 飛鳥時代の末期から奈良時代にかけて、日本は律令制度による国家を目指していた。天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男・藤原不比等の功績は大和朝廷の中央集権化に力をつくしたことである。不比等なくして天皇中心の政治はなかった。また不比等が次の平安時代まで続く藤原氏の栄華の基礎を作った。

 藤原不比等が中臣鎌足の息子だから宮廷で出世したと思う人が多いだろう。しかし実際には違っている。藤原一族は「壬申の乱」で近江朝側についたので処罰を受け没落した。不比等は13歳だったので、処罰はまぬがれたが、地位は低いままであった。

 藤原不比等が成人して文武天皇の乳母・橘三千代と結婚するが、文武天皇の乳母と結婚したことが、出世の足かがりとなった。乳母は赤ん坊に乳をやるだけではなく、赤ん坊が成長すると腹心になり、政治の相談を受けた。このように乳母の政治的立場が高かったのである。

 藤原不比等は701年に大宝律令、718年には養老律令を完成させ、朝廷から厚い信任を得ていた。文武天皇が崩御すると元明天皇、次いで元正天皇と女性天皇が2代続いたが、そのこともあり不比等は頼りにされ、実権を握ったのである。

 不比等は娘の藤原宮子を文武天皇に嫁がせ、宮子が生んだ首皇子(おびとのみこ)が聖武天皇であり、聖武天皇に自分の娘である藤原光明子(宮子の異母妹)を嫁がせ、皇室と密接な外戚関係を築いた。藤原不比等は天皇中心の政治を実現するために力をつくしたが、不比等の子孫たちは天皇をかざり物として政治を行う摂関政治を行った。藤原不比等は720年に62歳で死去している。


2 長屋王 [反藤原氏派]
 藤原不比等が死ぬと、天武天皇の孫にあたる長屋王が右大臣になった。不比等の4人の息子はまだ幼く長屋王が政治の実権を握った。長屋王は不比等の娘を妻にしていたので、不比等の生存中は藤原氏の立場にあった。722年の百万町歩の開墾計画、723年の三世一身法は長屋王のよって制定された。724年、首皇子が第45代聖武天皇として即位し、長屋王は同じ日に左大臣に出世して発言権を強めた。

 藤原四兄弟である武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)は、妹の光明子を聖武天皇の皇后にしようとした。皇后は天皇の代わりに政治ができ、次の天皇を決める発言権があり、自らが天皇として即位することもできた。しかし律令では「皇后は皇族に限る」と明記されていて、藤原氏出身の光明子は皇后になる資格はなかった。長屋王はそのことを指摘し、光明子が皇后になることに猛反対した。このことで長屋王と藤原四兄弟との仲は険悪になってゆく。
 このような状況の中で、727年、聖武天皇と光明子との間に待望の男子が誕生した。光明子は聖武天皇の子を産んでいるが女子だった。それだけに聖武天皇は後継の誕生に喜びはひとしおで、男の子は基皇子(もといのみこ)と名付けられた。皇太子は成年になってから付けられるもので、誕生と同時に皇太子になったのは極めて異例のことであった。基皇子は成人になれば天皇の地位が約束されたことになった。皇室との外戚関係が強化されたことは藤原四兄弟の望みどうりだったが、基皇子は生後1年足らずで亡くなってしまう。

 基皇子の死は藤原四兄弟にとって大きな痛手だった。このとき聖武天皇は光明子以外の側室に男子を産ませていた。このままでは藤原氏は外戚どころか、政治の実権を完全に奪われてしまう。追いつめられた四兄弟は陰謀をめぐらした。
 愛する我が子を亡くし、悲しみにくれる聖武天皇の耳もとに、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人から「基皇子が亡くなられたのは、長屋王が呪ったからで、長屋王は密かに左道を学び国家を傾けようとしている」このような悪魔のささやきがもたらされた

 聖武天皇はこの密告を信じ、激怒してしまう。729年2月、長屋王は「天皇に対する反逆の罪」で軍勢に邸宅を取り囲まれ、無実を訴えるが聞き入れてもらえず、長屋王は一族とともに服毒自殺した。この事件を「長屋王の変」という。長屋王が無実の罪を着せられたのは公然の事実であった。


3 藤原四兄弟 [藤原氏派]
 藤原四兄弟は長屋王と政権の座を争ったが、長屋王の変で長屋王を死に追いやった直後に、光明子は聖武天皇の皇后となった。皇族以外の人間が皇后になったのは史上初のことだった。光明子は「光明皇后」呼ばれ、藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになる。四兄弟は、武智麻呂が南家、房前(ふささき)が北家、宇合(うまかい)が式家、麻呂が京家で、それぞれの始祖となり藤原氏の繁栄の基礎となった。阿倍仲麻呂を帰国させようとした遣唐大使の藤原清河は房前の子になる。まさに我が世の春を迎えた藤原四兄弟であったが、その繁栄は永くは続かなかった。

 四兄弟には悲惨な運命が待っていた。長屋王が死んで8年目の737年に、九州で天然痘が流行し、たちまち都にまでおよび、藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり全員が病死した。猛威をふるった天然痘は秋に入っておさまるが、それまでに重要な官僚が死に絶えて朝廷の機能が立ち行かなくなってしまう。天然痘は空気感染によるもので、それぞれが見舞いに行って感染したのだろう。あまりの凶事に、朝廷では「長屋王のタタリ」とおびえた。

 天然痘は10日程度の潜伏期間を経て発症し、悪寒、発熱、頭痛といった症状から始まる。やがて顔や手足を中心に発疹ができ、発疹が化膿してかさぶたとなる。かさぶたが落ちた後も「あばた」が残った。発疹は体の表面だけでなく内臓にもでき、最悪の場合呼吸困難にいたった。伊達正宗が右目の機能を失ったのも、子供の頃に患った天然痘の後遺症である。


4 橘諸兄(たちばなのもろえ) [反藤原氏派]
 藤原四兄弟が相次いで病死し、その子たちがまだ幼かったことから、皇族出身の橘諸兄が右大臣になって政治の実権をにぎった。橘諸兄は唐から帰国した留学生の吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)を重用した。橘諸兄は吉備真備・玄昉などのクセの強い部下を使いこなしたが、その一方で不満も出てきた
 まず反発したのが藤原四兄弟の宇合の子・藤原広嗣であった。藤原広嗣は、740年に北九州の大宰府で大規模な反乱を起こす。これが「藤原広嗣の乱」で、乱自体は間もなく平定されたが、長屋王のタタリに動揺した聖武天皇は、平城京から山背国相楽郡(京都府木津川市)の恭仁京(くにきょう)、摂津国難波(大阪市中央区)の難波宮(なにわのみや)、近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市信楽町)の紫香楽宮(しがらきのみや)と次々に都を遷た。

 聖武天皇は長屋王のタタリを鎮め、政情不安をなくすには仏教信仰が大切と考え、仏教に国家を守る力があるとする思想のもと、仏教の興隆を国の柱とした鎮護国家をめざした。741年、聖武天皇は国分寺建立の詔を出すと、全国の国府の近くに次々と国分寺を建てた。743年には大仏造立の詔を出し、大仏(奈良)の造立によって長屋王のタタリを鎮め、我が国の平安を築こうとした。
 最新の技術によって造られた大仏は、10年の歳月を費やして752年にようやく完成し、僧侶1万人が参列して盛大な開眼供養が行われた。大仏の造立には巨額の費用と多数の人員(延べ260万人)が投入された。この大事業に協力したのが僧の行基(ぎょうき)で、行基は橋を架け道路を整備し、土木事業の指導や貧しい人々への社会事業を行った。
 朝廷は行基に対して当初は厳しい姿勢で臨んだが、後に和解して大仏造立の際には僧侶の最高職である大僧正に任命した。行基は大仏造立に積極的に関わったが、大仏完成前の749年に死去している。
 行基の死去と同じ749年に聖武天皇は退位され、光明皇后との間に産まれた娘の孝謙天皇が第46代天皇として即位された。752年の大仏の開眼供養の儀式に関わった天皇はこの孝謙天皇である。

 

5 藤原仲麻呂 [藤原氏派]
 藤原鎌足の子、藤原不比等には4人の子がいて、それぞれが独立して北、南、京、式の4家に分かれた。武智麻呂の子の藤原仲麻呂は南家の出身で、南家一族で聖武天皇と叔母の光明皇后の権威を背景に地位を築き、大納言・紫微令・中衛大将に任じられ次第に台頭してきた。

 光明皇太后は、自分を補佐する役所・紫微中台(しびちゅうだい)を新設し、その長官に藤原仲麻呂を就任させた。その結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と失脚させていった。755年には、朝廷を誹謗したとして橘諸兄に左大臣を辞職させ、757年には皇太子の道祖王を引きずり下ろし、仲麻呂の長男の未亡人と結婚させた大炊王を皇太子に立てた。

 聖武天皇(後の上皇)と光明皇后の間に男の子が育だたなかったため、天皇の娘が即位する。これが孝謙天皇である。女性の天皇としては、持統天皇や元明天皇のように、天皇あるいは皇太子の妻が即位することはあったが、天皇の娘が即位する例は初めてのことだった。

 孝謙天皇は後々にわざわいの種を残さないように独身を貫き、子供をもうけないことを覚悟の上で即位した。孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂は事実上の最高権力者となった。

 しかし孝謙天皇の父・聖武上皇が死の直前、藤原仲麻呂を呼ぶと、天皇の後継ぎとして道祖王を皇太子にあてると告げた。聖武上皇も王位継承を複雑化したくないため、娘の孝謙天皇はあくまでも中継ぎとしていた。

 ところが聖武上皇が亡くなった翌年、道祖王が自分に仕える少年と関係を持っていたことが発覚。道祖王は夜な夜な住まいを出ては少年と関係し「何度忠告してもおさまらなかった」と孝謙天皇はのべている。孝謙天皇は道祖王を廃し、代わりに大炊(おおい)王(後の淳仁天皇)を立てた。孝謙天皇はその後に道鏡との関係が噂されるが、当時はまだ潔癖さを求めていた。

 藤原仲麻呂は奈良麻呂が推挙した道祖王を殺害すると不満分子を一掃した。そして強大な権力を手にし、孝謙天皇との関係をさらに深いものとした。藤原仲麻呂の権力に反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、757年に仲麻呂を除こうと反乱を企てたが、事前に発覚した。この事件を「橘奈良麻呂の乱」という。こうして自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂はますます権力を強めていった。同年には仲麻呂の祖父に当たる藤原不比等が編纂を始めた養老律令が施行されている。

 淳仁天皇は天武天皇の孫で、藤原仲麻呂の息子の未亡人と結婚していた。このことで藤原仲麻呂の態度が大きく変わった。淳仁天皇は皇太子に推してもらった恩義もあり、仲麻呂も淳仁天皇を自分の邸宅に住まわせ、天皇との関係を築いていくと同時に孝謙上皇からは遠ざかっていった。孝謙上皇は母の光明皇太后が死去し、子も夫もなく孤立無援の孤独な存在になっていた。

 天皇は聖武から娘の孝謙(女帝)さらに淳仁へと譲位されていくが、藤原仲麻呂は淳仁天皇の側近としての地位を固め、760年に皇族以外で初の太師に就任する。太師は天皇を補佐する役職でのちの太政大臣に相当する。恵美押勝(藤原仲麻呂)はこのときまではわが世の春を謳歌していた。

 淳仁天皇は仲麻呂に貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに、藤原仲麻呂に恵美押勝」(えみのおしかつ)の名前を授けられた。天皇に準ずる権力をもった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣に相当する太師に皇族以外で初めて就任した。

 恵美押勝の権力が絶頂期にあった当時、唐では安史の乱が起き政情が不安定になっていた。これを好機と見た恵美押勝は、長年対立関係にあった新羅を、唐が混乱している間に征討しようと計画した。しかし仮に新羅征討に成功したとしても、勢力を立て直した唐によって巻き返される可能性があり、日本が唐に攻め込まれる口実をつくる危険なことだった。100年前の白村江の悲劇を繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が高まった。このような時に、最大の後ろ盾であった光明皇太后が死去すると、恵美押勝の勢力は次第に衰えていった。

 そのようなとき孝謙上皇が行幸先の近江で重病になり、密教の修法を会得した道鏡に祈祷を頼むことになった。この祈祷が効いてまたたく間に病は治癒した。道教は誰も治せなかった上皇の病を祈祷で治し、孝謙上皇の寵愛を一身に浴びることになった。道教は恵美押勝に裏切られた女帝の心に深く入り込んできた。女帝にとっては、まさに待ち人現れる心境だったのだろう。上皇は道鏡を手放さず道鏡も断ることはなかった。以来孝謙上皇は常に道鏡を傍らに置き、恵美押勝(藤原仲麻呂)との関係はさらに疎遠となった。

 道鏡は河内国の物部氏の一族で、弓削氏(ゆげし)の出のため弓削道鏡と呼ばれていた。華厳宗の僧で密教の経典や修法を読解し、如意輪法を会得していた。当時の仏教は学問的な色彩が強く、祈祷を主体とした密教は不可思議で神秘的であった。このため密教を操る道鏡にのめり込んでいく孝謙上皇に、淳仁天皇は冷静になるようにいさめるが、上皇はこれに逆上し、「天皇の行為は私への不孝」となじり出家して天皇と別居したいと言い出した。

 上皇は恵美押勝が担当していた全国の僧を統括する少僧都(しょうそうづ)の職を道鏡に変えた。恵美押勝は「道鏡さえいなくなれば、上皇さまもきっと目を覚ましてくれるはず」と考えていた。恵美押勝は淳仁天皇に願い出て、畿内とその周辺の軍事力強化のために新しく設けた司令官に就任すると兵を集め出した。このときの規定では、新設の司令官が10カ国から動員できる兵の数は一国につき20人と決まっていた。ところが、仲麻呂は太政官高丘比良麻呂に命じて600人を動員した。
 平城京に都が移って50年。朝廷は政争に明け暮れ、天下を揺るがす乱や騒動が起き、長屋王や藤原広嗣、橘奈良麻呂といった有力者が次々と消えていった。そして今回も尋常を超えた兵の動員に、太政官高丘比良麻呂はただ事ではないと身の危険性を感じ、孝謙上皇に恵美押勝の挙兵が間近いことを密告した。さらに数日後、道鏡の排除計画について恵美押勝が計画を占わせた陰陽師が上皇にこの計画を密告した。
 最初に動いたのは孝謙上皇(道鏡側)だった。少納言・山村王を天皇のいる中宮院に派遣して、駅鈴と天皇の印を回収するように命じた。駅鈴は朝廷から支給された官僚の通行手形で、各地から兵を動員するための必需品だった。これを知った恵美押勝は上皇の行動に焦りを隠せず、3男の藤原訓儒麻呂(くすまろ)に、山村王から印と駅鈴を奪回するように命じる。ここに恵美押勝の道鏡排除に向けたクーデターが勃発した。これが歴史上知られている「恵美押勝の乱」である。

 先手をとられた押勝は、自分の息子の藤原訓儒麻呂と部下に山村王を襲撃させて鈴印を奪取するが、そこに上皇側の応援部隊が駆けつける。さらに押勝側も増援部隊兵を差し向けた。この戦いで藤原訓儒麻呂が戦死し、鈴印は上皇の手に渡った。上皇軍の主力となったのは、上皇の親衛隊「授刀衛(じゅとうえい)」と呼ばれる兵士で、上皇の皇太子時代の警備兵・授刀舎人(とねり)を発展させたものだった。当時、授刀衛の幹部は押勝の影響で藤原一族が占めていたが、兵士が常に上皇の身辺にいたことが上皇側にとっては幸いした。また宮中の守衛や門の開閉を役目にしていた「衛門府(えもんふ)」の長官が、道鏡の弟だったことも後押しした。
 押勝軍の主力は天皇の警備を担当する「中衛府(ちゅうえふ)」だった。聖武天皇の時代、農民層の構成で弱体化していた兵士の質を上げるために新設した組織であるが、押勝の長官就任で天皇よりもむしろ押勝の私兵的な性格が強まっていた。
 鈴印を巡る戦いの後、上皇は戦闘停止を求めて押勝邸に使いを派遣するが、押勝は抵抗をやめなかったため、上皇は押勝を謀反人と公式に決定する。恵美押勝は「逆賊」となり、鈴印もなく、徴兵の手立てを失い、押勝の本拠地の近江国(滋賀県)の国府に向かい越前国司の息子と合流して態勢を立て直そうとする。
 上皇は反乱軍の行動範囲を狭めるため、押勝を謀反人とする通知書を周辺国に送ると同時に討伐軍を編成した。軍師には吉備真備(きびのまきび)を迎え入れ、藤原良継を指揮官に任命した。藤原良継は押勝と同じ藤原一族だが、兄・広嗣の反乱で昇進もかなわず、押勝の暗殺計画を立てたが、事前に発覚して官職、姓を剥奪されていた。
 それだけに2人の押勝への憎しみは強かった。特に70歳に近いとはいえ真備の執念はすさまじく、鈴印を巡る戦いでは、東大寺造営中の工員や写経中の学生もかり出すほどだった。とりあえず鈴印奪回に失敗した押勝は、都を出て奈良街道から宇治を北上、東海道の逢坂山から近江国府を目指した。道も整備されていて早く到着するとみたのだろう。だがそれを予測した上皇軍は田原から宇治・瀬田川沿いに近江に入ると、押勝軍の進路を妨害するため国府近くの勢多橋を焼き払った。
 その直後国府に行くため勢多橋まで来た押勝軍は橋が無くなっていることに驚き、対岸に敵軍がズラリ展開しているのを見て国府入りを断念した。琵琶湖西岸沿いのルートを北上するが、すでに湖東から北上していた上皇軍は越前国府に入って押勝の息子を殺害すると、近江と越前の国境・愛発関(あらちのせき)で押勝軍と激突した。
 まだ息子の死を知らない押勝軍は強硬に関を突破しようとするが、上皇軍の強固な守りを崩せずに退却。三尾の崎、勝野の鬼江の戦いにも敗れ、捕らえられた押勝は妻子らともに琵琶湖畔で処刑される。
 処刑された数は40人前後で、湖畔の砂浜と面は真っ赤な血で染まったとされている。6男の藤原刷雄だけは禅行を修めており、唐に留学した経験があったため処刑は免れて隠岐島に流された。この藤原刷雄の減免には、同じ禅行を積んでいた道鏡の存在があった。

6 孝謙上皇と道鏡  [反藤原氏派]

 恵美押勝が死ぬと、孝謙上皇と道鏡をさえぎる者はいなくなった。仲麻呂の乱で淳仁天皇を廃帝にして淡路に流すと、再び天皇の座に戻り称徳天皇となった。恵美押勝の太政大臣の後任に道鏡をあて、道鏡は女帝との関係をさらに深め、破格のスピードで出世を重ねていった。

 このとき夫婦同然といわれた2人は、恵美押勝の乱の翌年に旅に出る。和、紀伊、和泉をめぐる新婚旅行同然の旅で、旅の終盤、弓削寺で称徳天皇は道鏡に太政大臣を任じることを仏に誓う。道鏡は断るが、天皇の強い願いに道鏡は断れきれなかった。

 称徳天皇の愛人として力を伸ばした道鏡は、政敵・藤原氏の代表格・恵美押勝を戦いで破って以来、昇進に昇進を重ね法王の座についた。法王の待遇は天皇と同じで、宮廷では「天皇の後継者」という噂が広まった。宮廷の誰もが次期天皇即位への不安を抱いていた。2人の周辺では道鏡のライバルだった和気王の謀反による死。淡路に流された淳仁天皇の変死。天皇の異母妹・不破内親王の皇籍剥奪などの怪事件が相次いで起き、道鏡の陰謀がささやかれた。

 そのようなとき、769年5月、九州から大宰主神と大宰帥の弓削浄人が宮廷に現れ「宇佐八幡の大神が、道鏡を天皇にすれば天下は治まると告げられた」と、道鏡の皇位をすすめる神託があったことを知らせた。これには女帝は喜んだ。これで称徳天皇の後継者は道鏡で決まりと思われた。しかし穏やかでない空気が宮廷を包みこみ、称徳天皇の決心も鈍っていた。さらに大宰帥の弓削浄人は道鏡の弟で、朝廷は過去にニセ神託事件の被害を受けたことがあり、臣下の多くは神託に反発した。そこに意外にも割って入ってきたのは道鏡であった。道鏡は「宇佐八幡へ使者を遣わされて確かめるように」と提案する。よほど自信があったのだろう。この提案には周囲から異論は起こらなかった。

 神託とは「神が巫女(みこ)の口を借りて告げるお言葉」なので、どこまで信用できるかが問題だった。そこで称徳天皇が九州への派遣しようとしたのが、信頼を置いていた女官・和気広虫(わけのひろむし)だった。

 和気広虫は称徳天皇が11歳の時から30年近く仕えており、仏への信仰があつく、災害や戦いで親を亡くした孤児を預かるなど、孤児院の先駆けとなる福祉活動で知られていた。だが称徳天皇の前に出た和気広虫は病を理由に弟の清麻呂を推薦した。

 和気清麻呂が派遣されることになるが、宇佐八幡から持ち帰った神の言葉は「国が始まって以来、主君と臣下は定まっている」だった。すなわち道鏡の即位は否定されたのである。吉報を待ち焦がれていただけに、この結果に大いに失望した称徳天皇は、清麻呂に因幡(鳥取)行きを命じるが、再調査の結果、清麻呂の偽証を知ると官位を剥奪し大隅(鹿児島)に流し、和気広虫も備後(広島)に流した。押勝の乱で称徳天皇側についた清麻呂は「女帝ファミリー」として出世したが、これが裏切りだったのかどうかは不明である。宇佐八幡に使者として派遣される直前に、道鏡から脅迫まがいの恫喝を受け反発したとされている。清麻呂は押勝の強引な政治手法に嫌気がさして称徳天皇側に味方をしたが、道鏡の昇進にまで手を貸すつもりはなかった。

 清麻呂の事件以来、浄人らが伝えた宇佐八幡の神託が本当だったのか、誰の報告を信じればよいのか、称徳天皇は疑心暗鬼に陥った。そのため後継者は自分が決めると宣言し、みだりに皇位を求めないように警告した。

 ところが称徳天皇は道鏡と連れだって道鏡の故郷、河内(大阪)に行幸している。やはり道鏡にご執心の称徳天皇は、道鏡による皇位継承の夢を見ていたのだろう。最初の行幸から4年。すっかり宮城らしい景観に整えられた由義宮の素晴らしさをたたえ、称徳天皇は西京と名づけた。

 続いて称徳天皇と道鏡は翌年も由義宮を訪れて歌舞音曲の世界に浸る。しかしここで女帝は体調を崩し平城宮で亡くなってしまう。崩御時は「女帝ファミリー」の吉備真備の妹の吉備由利が立ち会ったのみで、道鏡や臣下の姿もない寂しい最期だった。

 以後、道鏡は崖から落ちるように急速に力を失った。政敵・藤原氏の藤原百川の推薦で皇位に就いた光仁天皇により、道鏡は下野(栃木)へ左遷される。
 ニセ神託で国家転覆の計画であればあまりに刑が軽かったため、ニセ神託の主犯は称徳天皇だったと噂されている。光仁天皇への皇位継承の際には称徳天皇の遺言が読み上げられたが、その遺言も偽造とされている。結局、一介の僧による国家乗っ取り騒動は、敵、味方とも「嘘」で塗り固められた、現代人顔負けの詐欺事件だった。

 では最も興味の深い「称徳天皇(孝謙天皇)との性的関係」についてはどうだったのか。俗説として有名なのは、「称徳天皇は、始めのうちは藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされた。その後は称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうと野心を持った」というものである。
 まず称徳天皇と藤原仲麻呂の関係であるが、両者はむしろ対立関係にあった。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占したのである。ついには無謀ともいえる新羅征討まで試みるようになった仲麻呂に対し、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がって政界に復帰したというのが本来の姿であろう。
 称徳天皇と道鏡の関係については、当時の仏教で不足していたのは「戒律」であり、それを補うために唐の高僧・鑑真が来日したが、様々な戒律の中でもっとも重要なのが「異性と通じてはならない」というものであった。鑑真によって戒律が伝えられ、それが広がり始めた頃に道鏡の活躍が始まるが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になって自ら戒律を破るようなことがあれば、当時の仏教勢力が道鏡を支持しただろうか。

 また称徳天皇が崩御された後に道鏡は下野国に追放されているが、もし彼が称徳天皇と愛人関係ならば、戒律を破った罪で僧籍を剥奪されるか、場合によっては殺害されてもおかしくないのに、彼は僧のままこの世を去っている。「道鏡が天皇になろうとした」のではなく、「称徳天皇が道鏡を天皇後継に指名いた」というのが正しい表現なのだろう。
 それならば、なぜ後世にこのような「伝説」が残されているのか。考えられるのは、称徳天皇と道鏡が「藤原氏に対抗する勢力」だったからだろう。時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った「二人は敵」であり、悪役として印象付けるために「そういう関係」があることを暗示させたのだろう。もちろん本当のところは誰もわからない。

7 藤原百川・藤原永手 [藤原氏派]
 称徳天皇は後継者を決めずに崩御されたため、次の天皇に誰を即位させるかについて朝廷内で協議された。右大臣の吉備真備(きびのまきび)は天武天皇の血を引く元皇族を推挙したが、土壇場で藤原百川藤原永手が支持する白壁王が第49代の光仁天皇として即位された。
 62歳の光仁天皇はもちろん皇室の血を引いていたが天智天皇の孫であった。壬申の乱以来、天武系で占められていた天皇の地位が約100年ぶりに天智系に復帰したのである。
 光仁天皇は白壁王の時代に、他の皇族が権力闘争で次々と命を落としていくのを横目で見ながら、酒を飲み続けて野心のないことを示していた。光仁天皇はまさか天智系の自分が天皇になるとは思ってもいなかった。とても喜び、藤原百川に感謝の気持ちばかりであった。天皇に即位した光仁天皇は藤原百川ら藤原氏の一族を重く用いた。光仁天皇と藤原氏によって律令政治の再建を目指すことになる。藤原百川は藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子で、藤原永手は房前(ふささき)の子になる。

 このようにして奈良時代の短い間に繰り広げられた勢力争いは、最終的には藤原氏の手に引き継がれ、以後も藤原氏は政治に積極的に関わっていくことになる。