藤原広嗣の乱

  藤原不比等の孫・藤原広嗣が橘諸兄政権に異を唱え、大宰府で叛乱を起こした。

 天然痘で藤原四兄弟が相次いで亡くなると、政治の実権は橘諸兄が握り、橘諸兄は唐から新知識を学んで帰国した吉備真備(きびのまきび)玄昉(げんぼう)重用し、吉備真備は唐から多くの経典や文物を持ち帰り、皇太子(孝謙天皇)の教育係になった。玄昉は天皇の母である宮子の鬱状態を祈祷で癒した。このことからふたりは聖武天皇の信頼を得ていた。特に吉備真備はのちの菅原道真と称されるほどの学識をもち、説話絵巻「吉備大臣入唐絵巻(きびのおとどにっとうえまき)」の主人公になるほどの学者だった。


 これに対して藤原氏は、武智麻呂(南家)の子の藤原豊成が参議になっただだけで、政権から遠ざけられていた。藤原宇合(式家)の長男で不比等の孫である藤原広嗣は不満をたぎらせていた。自分たちをさしおいて、どこの馬の骨かわからない地方出身の学者や得体の知れない僧侶が、突然政治の中枢に参画してきたのだから面白いはずはなかった。

 吉備真備は学者玄昉は僧侶で、政治のことなどわかるはずはない。家柄も良くないし、戦になったら真っ先に逃げ出すだろうと不満をつのらせていた。

 吉備真備と玄昉の躍進と反比例するように、藤原一族は落ち目になっていた。特に藤原広嗣は名門の出で式部小輔・大養徳(大和)守という2つの要職を兼務していたが、「親族を誹謗した」として、橘諸兄政権下で孤立しただけでなく、藤原氏内部からも孤立し、738年に九州の太宰府に左遷させられた。

 都から遠く離れた辺境の地で、藤原広嗣は不満をたぎらせる。その不満の矛先は成り上り者の吉備真備と玄昉に向けられた。740年8月、藤原広嗣は「君側の奸である吉備真備と玄昉の宮廷からの排除を求める上表文」を朝廷に提出する。九州は飢饉と疫病に襲われているが「このような天災は真備玄昉のような輩を重用してるからである」との内容であった

 朝廷はとりあえず広嗣に上京を命じるが、朝廷は広嗣が上京を受け入れることはないとみていた。広嗣は太宰小弐の権限で兵力を集めると、朝廷からの返事が届く前の9月3日に大宰府で挙兵した。

 

藤原広嗣の乱

 藤原広嗣の挙兵の知らせが朝廷にもたらされると、聖武天皇は「これは謀反である」として、征夷征討で勇名を馳せた大野東人を大将軍に任じ、紀飯麻呂を副将軍に任じると五道の軍1万7,000人を動員して広嗣討伐にあたらせた。さらに佐伯常人・阿倍虫麻呂を勅使として従軍させ、寺社には戦勝祈願を行わせた。

 藤原広嗣の軍勢は1万人で九州各国の正規の軍団、豪族、隼人が含まれていた。太宰府のトップである広嗣の挙兵を、兵士たちは天皇への反逆とは考えていなかった。父・宇合も太宰府につとめていたため、広嗣は親子2代の顔をきかせて相当数の軍勢を集めたのである。

 朝廷軍は大野東人を大将軍に、9月21日に関門海峡を突破すると、翌22日、佐伯常人・阿倍虫麻呂の兵4000人が広嗣軍が拠点とする北九州の板櫃鎮(兵営)を急襲した。広嗣軍も抵抗したが惨敗、多数の捕虜と兵器を残して敗走した。

 藤原広嗣は動員した軍を三手に分け、広嗣が率いる本体5000人は筑前から、広嗣の弟の綱手(つなて)が率いる5000人は豊後から、側近の多胡古麻呂(たこのこまろ)は筑前から田河道を通って軍勢を進めた。多胡古麻呂は田河より軍兵を集めながら進み、朝廷軍を迎え攻撃するための策をとった。しかし二軍が未着のまま、10月9日に朝廷軍と広嗣主力部隊が板櫃川を挟んで対峙した。

 広嗣軍1万人は板櫃川の西岸に、対する東岸には佐伯常人と阿倍虫麻呂が率いる朝廷軍6000人が布陣した。広嗣軍は勇猛をもってなる隼人を先鋒として、筏を組んで川を渡ろうとしたが、佐伯・阿倍部隊は弩で矢を射かけこれを阻止した。

 朝廷軍が用いた矢は「弩」という機械仕掛けの弓で、中国でよく用いられるものであった。川を挟んでの矢合戦となるが、朝廷方の隼人が広嗣軍の隼人に向かい「逆人の広嗣にしたがって官軍を妨げる者は、その身を滅ぼすだけでなく、抵抗すれば罪は妻子親族におよぶ」と呼びかけると、広嗣軍は隼人だけでなく一般の兵士も矢を射るのをやめた。

 佐伯常人は「私は朝廷から派遣された勅使だ。藤原広嗣とはそのほうか」と藤原広嗣に呼びかけると、広嗣は「わたしは朝命に反抗しているのではない。朝廷を乱す二人(吉備真備と玄昉)を罰することを請うているだけだ。もし、わたしが朝命に反抗しているのなら、天神地祇が罰するだろう」と言った。佐伯常人は「軍兵を率いて押し寄せて来て、朝命に反抗したではないか」と問うと、広嗣はこれに答えることができず、馬に乗って引き返した。この問答を聞いていた広嗣軍の隼人、騎兵らが官軍に続々と降伏してきた。投降者たちは3方面から官軍を包囲する広嗣の作戦を官軍に報告し、まだ綱手と多胡古麻呂の軍が到着していないことを知らせた。

 広嗣軍は総崩れとなって退却した。藤原広嗣は弟の綱手ととも博多から舟に乗り、肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に逃げ、さらに新羅に行こうしていた時、朝廷軍が追ってきて広嗣は無位阿倍黒麻呂に10月23日捕らえられ、翌月11月1日に斬られた。広綱・綱手兄弟は肥前の唐津で斬られた。このようにして藤原広嗣の反乱は2か月で鎮圧された。

 処罰は翌年に行われ、罪は都にいた藤原広嗣の弟たちまで含まれていたた。死刑16人・没官5人・流罪47人・徒罪32人・杖罪177人である。没官とは奴婢の身分に落とすこと、徒罪とは一定の労役を課すこと、杖罪とは杖で打つことである。流刑については広嗣の弟の田麻呂が隠岐に、同じく良継が伊豆に流された。

 反乱は鎮圧されたが、その報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如都を出てしまった。反乱に加え、飢饉や疫病にも動揺したのでか、聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国から恭仁京(山城国)に移つり、その後難波京へ移り、また平城京へと遷都を繰り返えした。遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れ、反乱に巻き込まれるはずもないのに、5年間も都の周囲を動揺しながら転々としたのである。

 なお広嗣によって名指しされた玄昉は、乱後に台頭した藤原仲麻呂に745年、筑紫観世音寺に左遷され封物も没収され失意のうちに翌年没した。もう一人の吉備真備も筑前守に左遷されるが、逆に吉備真備は藤原仲麻呂追討軍の一翼を担い、以後も政治の中枢を占めた。この様に広嗣の乱によって、直接的には何も変革せずに、橘諸兄政権が瓦解する遠因を作ったに過ぎなかった。

 藤原広嗣は吉備真備と玄昉をやり玉に挙げたが、吉備真備と玄昉は所詮は成り上がりで出世しただけで、広嗣が命がけで糾弾するほどの人物ではない。聖武天皇の動揺をみると、広嗣の本当の狙いは聖武天皇だったのではないかと疑ってしまう。