源氏の終焉

源氏の終焉

 初代将軍の源頼朝は猜疑心の強い性質で、自分の権威を脅かす可能性を次々と排除した。従兄弟の義仲、叔父の行家、弟の義経と範頼を抹殺し、そのため有能な源氏一族は壊滅し、頼朝の死後、頼朝の血脈が政争の中で絶えてしまうと、幕府の実権を握る熾烈な内部抗争が始まる。いつしか幕府は頼朝の側近や有力御家人からなる13人の合議制による政治が主流となった。

 頼朝の死後、子の源頼家(よりいえ)が後を継いで第2代将軍となる。しかし父並みの器量は望むべくもなかった。源頼家の乳母は比企氏であった。頼朝の乳母をしていた比企尼は、頼朝が14歳で伊豆国に流されて以来、長年に渡って援助を続けてきた。その功をねぎらうため、頼朝は比企尼の娘たちを嫡男の乳母に任じた。比企尼の甥の比企能員の妻も乳母となり比企能員(ひきよしかず)は乳母父となった。

 1202年、頼家が将軍になると比企一族が重用された。源頼家は有力御家人である比企能員の娘を妻とし、頼家は自分の後ろ盾として比企氏を頼りにしていた。比企能員は外戚として権勢を誇るようになった。娘の若狭局が頼家の嫡男一幡を生んだからである。疎外された北条氏は強い危機感を抱いた。

 翌年、頼家が重病に陥ったため、北条時政は後継を実朝に決定。さらに先手を打って1203年に無警戒であった比企能員を謀殺してしまう。若狭局と6歳の一幡も戦火の中で命を落とし比企一族は滅亡した。後ろ盾を失った頼家は伊豆の修善寺に幽閉され暗殺された。

  1205年、北条時政は頼家の弟である源実朝(さねとも)を第3代将軍とした。源実朝の母は正室の北条政子である。1218年、実朝は武士としては初めてとなる右大臣に任じられたが、翌年の1月、八幡宮拝賀の夜、2代将軍の遺児で甥の公暁に暗殺される。公暁は切り落とした首を抱えたまま逃走したが、乳母の夫である三浦義村によって殺害された。時に公暁19歳「親の仇」と叫んだと公式の記録に残されている。実朝は26歳であった。打ち落とされた首は公暁が持ち去り行方はわかっていない

 実朝はなぜ甥に暗殺されたのかを知るには、乳母とその一族に目を向ける必要がある。頼家、実朝、公暁には、それぞれ比企氏、北条氏、三浦氏という乳母一族がいた。いずれも関東に強い勢力を持つ豪族たちである。この時代の乳母は単に乳をやるだけでなく、夫や息子ともども養君に仕え、その立身出世を盛りたてる存在であった。養君の出世は乳母一族の立身出世にも直結し、養君が没落すれば乳母一族も命運を共にする、いわば運命共同体であった。

 つまり北条氏は幕府開設当時から実権を握っていたと思われがちであるが、それは単に「妻・政子の実家」というだけで執権の地位にあったにすぎない。公暁に実朝を討てとそそのかしたのは、乳母の夫である三浦義村だとされている。それでいながら、三浦義村は自分を頼って屋敷を訪れた公暁を討った。

 北条義時はしたたかにも暗殺現場から暗殺直前に逃亡していたため、三浦義村の作戦に大きな狂いが生じた。北条義時に「公暁を討て」と命じられた三浦義村は、一族の安泰をはかるため養君を討たざるを得なかったのである。大事な旗頭である実朝を見殺しにした北条義時、大事な養君を殺させた三浦義村。二人とも冷血漢ではなかったはずだが、一族のため涙を呑んで決断せざるをえなかった。ちなみに実朝を暗殺したのは公暁であるが、暗殺の現場で「我こそは公暁なり」と叫んだからで、その後にすぐ討ち取られているので本物に公暁だったとの確証はない。殺害は殺害によって最も得する人物が糸を引いているものである。いずれにしても源氏の直系の将軍は3代で絶えてしまう。

 

 

源氏の終焉

 初代将軍の源頼朝は猜疑心の強い性質で、自分の権威を脅かす可能性を次々と排除した。従兄弟の義仲、叔父の行家、弟の義経と範頼を抹殺し、そのため有能な源氏一族は壊滅し、頼朝の死後、頼朝の血脈が政争の中で絶えてしまうと、幕府の実権を握る熾烈な内部抗争が始まる。いつしか幕府は頼朝の側近や有力御家人からなる13人の合議制による政治が主流となった。

 頼朝の死後、子の源頼家(よりいえ)が後を継いで第2代将軍となる。しかし父並みの器量は望むべくもなかった。源頼家の乳母は比企氏であった。頼朝の乳母をしていた比企尼は、頼朝が14歳で伊豆国に流されて以来、長年に渡って援助を続けてきた。その功をねぎらうため、頼朝は比企尼の娘たちを嫡男の乳母に任じた。比企尼の甥の比企能員の妻も乳母となり比企能員(ひきよしかず)は乳母父となった。

 1202年、頼家が将軍になると比企一族が重用された。源頼家は有力御家人である比企能員の娘を妻とし、頼家は自分の後ろ盾として比企氏を頼りにしていた。比企能員は外戚として権勢を誇るようになった。娘の若狭局が頼家の嫡男一幡を生んだからである。疎外された北条氏は強い危機感を抱いた。

 翌年、頼家が重病に陥ったため、北条時政は後継を実朝に決定。さらに先手を打って1203年に無警戒であった比企能員を謀殺してしまう。若狭局と6歳の一幡も戦火の中で命を落とし比企一族は滅亡した。後ろ盾を失った頼家は伊豆の修善寺に幽閉され暗殺された。

  1205年、北条時政は頼家の弟である源実朝(さねとも)を第3代将軍とした。源実朝の母は正室の北条政子である。1218年、実朝は武士としては初めてとなる右大臣に任じられたが、翌年の1月、八幡宮拝賀の夜、2代将軍の遺児で甥の公暁に暗殺される。公暁は切り落とした首を抱えたまま逃走したが、乳母の夫である三浦義村によって殺害された。時に公暁19歳「親の仇」と叫んだと公式の記録に残されている。実朝は26歳であった。打ち落とされた首は公暁が持ち去り行方はわかっていない

 実朝はなぜ甥に暗殺されたのかを知るには、乳母とその一族に目を向ける必要がある。頼家、実朝、公暁には、それぞれ比企氏、北条氏、三浦氏という乳母一族がいた。いずれも関東に強い勢力を持つ豪族たちである。この時代の乳母は単に乳をやるだけでなく、夫や息子ともども養君に仕え、その立身出世を盛りたてる存在であった。養君の出世は乳母一族の立身出世にも直結し、養君が没落すれば乳母一族も命運を共にする、いわば運命共同体であった。

 つまり北条氏は幕府開設当時から実権を握っていたと思われがちであるが、それは単に「妻・政子の実家」というだけで執権の地位にあったにすぎない。公暁に実朝を討てとそそのかしたのは、乳母の夫である三浦義村だとされている。それでいながら、三浦義村は自分を頼って屋敷を訪れた公暁を討った。

 北条義時はしたたかにも暗殺現場から暗殺直前に逃亡していたため、三浦義村の作戦に大きな狂いが生じた。北条義時に「公暁を討て」と命じられた三浦義村は、一族の安泰をはかるため養君を討たざるを得なかったのである。大事な旗頭である実朝を見殺しにした北条義時、大事な養君を殺させた三浦義村。二人とも冷血漢ではなかったはずだが、一族のため涙を呑んで決断せざるをえなかった。ちなみに実朝を暗殺したのは公暁であるが、暗殺の現場で「我こそは公暁なり」と叫んだからで、その後にすぐ討ち取られているので本物に公暁だったとの確証はない。殺害は殺害によって最も得する人物が糸を引いているものである。いずれにしても源氏の直系の将軍は3代で絶えてしまう。

 

 

北条氏の台頭

 鎌倉幕府は不安定なバランスを保ちながらも150年も生き延びたが、それは有能な政治家が続出したからである。頼朝の妻・北条政子らの北条一族が優秀であった。

 幕府は頼朝の側近や有力御家人からなる13人の合議制による政治が主流となるが、その中から頭角を現したのが頼朝の舅である北条時政や頼朝の妻の北条政子を中心とする北条氏であった。北条時政は政所の別当となり、さらに時政の後を継いだ子の北条義時は、1213年に侍所の別当だった和田義盛を滅ぼし、侍所の別当も兼ねることになった。

 源氏の直系が絶えてから、幕府の主要機関である侍所と政所の別当を北条氏が代々世襲し、将軍は名ばかりとなり源氏に代わって北条氏が幕府の実権を握るようになった。北条氏は血で血を洗う抗争の末、多くのライバルを滅ぼし最終的な勝者となった。北条氏はもともとは伊豆の小土豪にすぎなかったが、独特の政治感覚で鎌倉政権を安定に導くことに成功した。

 京都の朝廷では、治天の君の後鳥羽上皇が中心となり政治の立て直しが行われていた。上皇は分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめ、朝廷の武力増強の一環として新たに西面の武士を置くなど、朝廷の権威の回復を目指していた。政治の実権を北条氏に奪われたが、源実朝が京都の公家から妻をもらった影響もあり、実朝は和歌を趣味として日々を送っていたのだった。これに目をつけた後鳥羽上皇は、ご自身の腹心を政所の別当として送り込み、幕府を朝廷の支配下にしようと計画していた。しかし実朝が鎌倉が公暁によって暗殺され計画が失敗してしまう。

 北条氏は征夷大将軍(将軍)の地位に就こうとはせず、自らは補佐役として「執権」にとどまったまま、将軍を京都皇族から迎えたのである。このようにして皇族の権威によって幕府をまとめようとした。北条氏の政治力は狡猾といえるが、幕藩体制を維持するには正しい選択であった。執権・北条義時、泰時、時頼らは、日本史上でも稀有の名政治家である。泰時は、「御成敗式目」という鎌倉政権内での憲法を発布して、政権の安定に努めた。時頼は諸国を漫遊して民の生活を視察したという伝説があるが、その真偽のほどはともかく、民がその善政を慕っていたことの傍証になるであろう。

  源氏の血統が途絶えたが、将軍が空位のままではさすがにまずいので、北条氏は京都から皇族を将軍に迎えようとして朝廷と交渉した。1226年、頼朝の遠縁にあたる、わずか2歳の藤原頼経(よりつね)を将軍の後継として迎えた。 

  

  
6、鎌倉の落日
 鎌倉政権はもともと不安定な土台に立っていた。朝廷との力関係、御家人たちとの協定関係などであった。この土台を大きく揺さぶったのが蒙古襲来(元寇)であった。勝利した鎌倉政権は、勝利したゆえに不安定になった。
 幕府のために役務を果たした御家人は、「御恩と奉公」の契約において相応の恩賞を貰う権利があった。この場合の恩賞とは「土地」である。しかしモンゴルとの戦いは防衛戦だったので得られた土地はない。九州で奮戦した御家人たちは恩賞が貰えないことに憤った。これを契機に、一枚岩だった幕府に亀裂が生じたのである。恩賞問題をめぐって鎌倉政権内部に内紛が起こり、その過程で幕府幹部たちが訴訟事件を出鱈目に処理したり賄賂を取ったりというモラルハザードが頻発した。つまり幕府は武士団が期待する本来の仕事を果たさなくなった。
 さらに鎌倉時代の中ごろから、日本全体の経済社会に大変革が起きた。すなわち貨幣経済の発展と商業資本の伸長である。大陸から輸入した貨幣(宋銭)を梃子にし、主に九州や関西などの西国で信用経済が成長した。日本はそれまでの農業経済から商業経済に大きく移行しようとしていた。
 鎌倉政権は武士団の集合体であるから、商業経済には興味を持たなかった。しかるに鎌倉末期になると、武士団が高利貸しから土地を担保に借金をして贅沢な遊びをして、その結果、先祖伝来の所領や馬具武具が質流れになる事件が頻発した。鎌倉幕府は武士団の権益を守り、武士団間の利益調整を本務とする機関なので、商人と武士団との利害調整は想定外の事項だった。幕府は武士団を救済するために高利貸し(商業資本)を弾圧するしかなかった。それが徳政令(借金棒引き令)である。だがこのような政策が、時代の流れに逆行する一時しのぎであることは明白であった。徳政令の乱発は信用経済を混乱させ、いわゆる「貸し渋り」が起きた。そのために、必要な融資を受けられずに窮乏化する武士たちが増え、当然、彼らは幕府に不満を抱いた。
 また商業資本が進んでいる西国では、幕府への反政府活動が頻発した。幕府は、西国で暴れまわる者たちを「悪党」と呼んで恐れた。そして、このような不穏な情勢についに朝廷がからむことになった。後醍醐天皇の登場である。