壬申の乱

壬申の乱

 壬申の乱は古代日本最大の内乱であり、皇位継承に関わるクーデターだった。この壬申の乱は天智天皇の独裁政治が生んだといえる。天智天皇は大化の改新の際に中臣鎌足とともに、蘇我氏を潰した中大兄皇子の天皇名であるが、中大兄皇子には弟がいて、それが大海人皇子だった天智天皇は大化の改新を断行し、豪族の私有地・私有民を廃止し、都を飛鳥から難波に移し公地公民制を一新した。さらに白村江の戦いに負けると、唐・新羅の襲来を恐れ、太宰府を守るために水城を築き、全国各地に山城や狼煙台を設置し、都を大津にうつした。このため国家財政は傾き、豪族や民の負担が重くなった。そのことから治世晩年には人々の不満をつのらせていた。

 さらに天智天皇は次期天皇の即位についても、ルール違反のわがままを通そうとした。当時、同母弟がいた場合は皇位は弟に譲るのが普通であった。弟の大海人皇子は天智天皇を常に補佐して支えてきたので周囲は大海人皇子が継ぐものだと思い、大海人皇子も皇位を継ぐと思い込んでいた。天智天皇はもともと大海人皇子に皇位を譲る気でいたが、自分の息子である大友皇子が成長すると、大友皇子に皇位を継がせたいと思うようになった。そこで邪魔者となった大海人皇子を排除しようとする。

 大友皇子には天皇になるだけの実績がなかった。そこで天智天皇は、671年に新たな人事を発表した。それによると大友皇子を太政大臣に、左大臣には蘇我赤兄が、右大臣には中臣連金を任命し、大友皇子に実績を持たせようとしたのである。太政大臣は朝廷では最高の位なので「次の皇位には大友皇子がつく」と臣下の間にも噂がとんだ。大友皇子を後継とする意思を周囲に示し、大海人皇子は天皇の弟という立場だけにした。

 天智天皇と大海人皇子には、額田王をめぐる女性関係での心情的不和もあった。額田王は大海人皇子と恋仲にあったが、その額田王を天智天皇が奪ったのである。このことは額田王と大海人皇子の和歌のやりとりから想像がつく。

 天智天皇が病に臥せると、天智天皇は大友皇子への皇位継承が心配になった。671年10月17日、天智天皇は弟の大海人皇子を枕元によびつけた。この天皇の命令を伝えたのは、皇子と親しい蘇我臣安麻呂であった。安麻呂は天皇の命令を皇子に伝えた後、「言葉に注意してください」といった。大海人皇子は、兄の天智天皇を警戒していた。天智天皇に睨まれた古人大兄皇子蘇我倉山田石川麻呂有馬皇子も不幸な死を遂げたことをみてきたからである。政敵には情け容赦のない非情な兄を知っていた。

 大海人皇子は安麻呂の言葉を噛みしめ、不安な気持ちで天皇の居間へと急ぐと、病床の天皇は、

 「大海人皇子よ、わしの病気は重い、おまえに皇位を譲る」と云った。大海人皇子は天皇の意外な言葉に戸惑った。もちろん大海人皇子に次期天皇の座を譲る」この天智天皇の言葉は本心ではなかった。天智天皇は大友皇子を次の天皇にすることを決めていたからである。

 大海人皇子は安麻呂の言葉を思い出し、自分を試している罠と直感し、返答によっては命すら危ないと感じた。もしこのとき大海人皇子が素直に譲渡を受け入れていたら、謀反の心ありで殺されていた。大海人皇子は、

「わたしはもともと病気がちで、次期天皇には大友皇子がなるべきです。わたしは天皇の病気回復ために出家したいと思います」と、次期天皇に大友皇子を推挙すると、自分には天皇になる意志がないことを伝え,すぐに剃髪すると出家を申し出た。天智天皇の内心を見抜き、やわらかく皇位を辞退したのである。

 2日後、大海人皇子は武器を朝廷に返上すると,わずかな従者を連れて大津宮を去り、奈良の吉野へ向かった。宇治橋まで見送った舎人(とねり)は,去っていく大海人皇子を見て「翼のある虎を野に放すようなものだ」と云った。

 671年12月3日、天智天皇が近江宮で46歳で崩御すると、近江宮(大津宮)で実権を握った24歳の大友皇子は、危険な大海人皇子を滅ぼそうと兵を集めた。672年5月、吉野に緊急の事態が知らされた。それは近江朝廷が天智天皇の陵を造ると云って、美濃と尾張の農民を集め,武器を持たせているという情報だった。また大津から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,吉野への道を塞ぐ動きがあると伝わってきた。

 もちろん大海人皇子は自分に危険が迫っているのを感じ、ついに決断の時がきた、と行動に出た。6月24日、大海人皇子はただちに村国連男依ら3人の使者を、近江(滋賀県・大津宮の所在地)にいる子の高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を呼びにやらせ、さらに自身の領地があった美濃(岐阜県)にも使者を送り、挙兵の準備をさせた。飛鳥でも兵を募り、大伴馬来田(おおとものまぐた)とその弟・吹負(ふけい)を味方につけた。

 美濃の国司と連絡をとって軍勢を集め、不破を抑えようとした。吉野には女子供だけで武力がなかった。そのため安全な地へ身を移さなければいけない。大海人皇子は美濃への脱出を決意すると、東国の豪族たちが味方につくように準備を進めた。大友皇子の軍勢よりも多くの兵を集めることが勝敗のカギを握るとわかっていた。

 6月26日、大海人皇子は吉野を出て美濃へ向かう。妻子従者20数人と昼夜を歩き伊賀(三重県)の名張へ着いた。名張に着いて兵を集めようとするが、名張郡司は出兵を拒否した。伊賀の東部は大友皇子の母の出身地(現大山田村)であった。いつ敵に襲われても不思議ではなかった。この状況を不利と見た大海人皇子は伊勢国に滞在すると伊勢神宮に参拝した。

 空には不気味な黒雲が漂い、雷が鳴り響いた。

 「これから天下が二つに分かれようとしているが、自分が最後には天下を得るだろう」大海人皇子がこのように呟いた直後、伊賀の長が500の兵を引き連れて大海人皇子の下に馳せ参じた。さらに美濃、伊勢、熊野などの豪族が参戦し、積殖(つみえ 伊賀市柘植)で息子の高市皇子の軍と合流することができた。さらに伊勢国でも兵を得て美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けていた多臣品治がすでに兵を興し、不破の道を封鎖し、朝廷軍の援軍補給路を絶っていた。東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日に軍勢を二手にわけ、一隊を琵琶湖畔を北から周り込んで大津宮に至るルートを進ませ、もう一隊は琵琶湖の南側を進み大津宮を目指した。

 大友皇子は大海人皇子が吉野を脱したことを知ると、家臣が「ただちに騎馬兵を差し向けて大海人皇子を殺すべし」と忠告するが「大海人皇子を殺すより、これを機に大海人皇子に味方する勢力を一掃すべき」と考え、東国、吉備、筑紫(九州)に兵の動員を命じた。しかし東国の使者は不破で大海人皇子の部隊に阻まれ、吉備では総領の気持ちを動かせず、筑紫では外国への備えを理由に出兵を断ってきた。それでも近江朝廷は諸国から兵力を集めることができた。

 飛鳥では大海人皇子が去ったあと、近江朝が兵を集めたが、大海人方の大伴吹負が挙兵して朝廷部隊の指揮権をうばった。大伴吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝軍と激戦を繰り広げたが、近江朝の方が優勢で吹負の軍はたびたび敗走した。しかし大伴吹負は繰り返し軍を再結集すると朝廷と戦い撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮地を救った。

 近江朝軍は美濃にも向かったが、副将蘇我果安(はたやす)が総大将・山部王を殺害したため指揮が混乱し前進が停滞した。蘇我果安は、大海人皇子が大津から吉野へ向かうとき「翼のある虎を野に放したようなものだ」と云った人物である。なぜ蘇我果安が山部王を殺害したかは不明であるが、大海人皇子に内通していた総大将・山部王が大軍を率いて大海人皇子軍に降伏しようとしたのを蘇我果安が必死に諌止し、遂に殺害したとされている。大軍の統率を失い、戦線を崩壊させた責任を取る形で、蘇我果安は山部王を殺害すると自ら自刃して果てた。蘇我果安は近江朝廷に忠誠心の強い重臣だった。

 村国男依に率いられて直進してきた大海人皇子の部隊は連戦連勝で進撃を続けた。大海人皇子は総大将を高市皇子にすると「不破」より軍を二手に分け、一隊は琵琶湖の西岸より大津近江へ、もう一隊は琵琶湖東岸を下り瀬田へ向わせた。瀬田へ向う軍勢は鳥籠山、安河、栗太などで大友軍と戦い勝利を重ね、7月22日、最後の決戦が瀬田橋で起きた(瀬田の唐橋の戦い、滋賀県大津市唐橋町)。

 唐橋を挟んで東側に村国男依の軍,西に大友皇子率いる朝廷軍が構えた。朝廷軍は後方も見えないほどの大軍であった。朝廷軍が村国男依の軍を待ちかまえ、弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち,矢が雨のように落ちてきた。朝廷軍は橋の中程の板をはずして敵を川へ落とす仕掛けをつくっていた。しかし大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)はこのワナを見破り、弓矢の中を突撃してきた。大分君稚臣は抜刀し切り込み、そこへ大海人皇子軍がなだれ込んだ。さらに村国男依の軍が一気に対岸を目指してつっこんできたそのため朝廷軍は総崩れとなり、村国男依軍が朝廷軍を破り朝廷軍は敗走した。その日のうちに大津宮は戦火に燃え落ち、大友皇子はあやうく逃れ、長等山から大津京を眼下に見て首を吊った。

 この壬申の乱には大きな謎が潜んでいる。それは吉野を出た大海人皇子は数人の付き人だけだったのに、なぜ朝廷軍に勝つほどの軍勢が集まったのかである。軍勢のない大海人皇子が吉野から東国に逃れたのだから、東国に親大海人皇子の豪族がいたのは間違いないだろう。大海人皇子に加勢した豪族は、尾張氏、蘇我氏、大伴氏で、彼らは東国と強いつながりを持っていた。特に尾張氏は大海氏と同族で、2万の軍勢と最大の軍資金を提供している。しかし日本書紀には尾張氏を意識的に無視しているように記載がされていない。さらに蘇我氏や大伴氏は東国に縁があり、天智天皇(中大兄皇子)の強引な独裁に恨みを持っていた。本来ならば天皇になるはずだった不遇な大海人皇子側につくのは心情的に当然であった

 当時の皇位継承は母親の血統や后妃の位が重視され、このことは長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これを背景に、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながったとみられる。さらに大海人皇子の行動が機敏で、大友皇子は全てが後手にまわり、決戦を控え内部混乱が生じたことが敗因であろう。約1ヶ月に渡る後継者争いだったが、壬申の乱と呼ぶのは、この年の干支が壬申だったからである。

 673年2月、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位した。近江朝廷が滅び、都は再び飛鳥に移された。大海人皇子は即位して天武天皇となる。天皇の名称は歴史上始めて用いられた。神話の時代からの歴代大王はすべて天皇と新たに呼ぶことになった。

律令体制
 壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位され、第40代の天武天皇となった。天武天皇は大臣を置かずに自らが先頭に立ち政治を行った。豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には皇族出身者を中心とした新たな身分制度・八色の姓(やくさのかばね)を定めた。その他にも中国にならった律令や我が国の国史の編纂を始め、日本初の銭貨となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行った。
 外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を何度も派遣して、唐との国交を一時的に断絶した。日本は新羅をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができた。遣唐使の復活は8世紀まで待つことになる。
 天武天皇は天皇中心の強い国家体制の確立を目指していた。中国にならい本格的な都である藤原京の造営を開始したが、その完成を見ることなく686年に崩御さた。天武天皇が崩御なされると、皇后である持統天皇が即位する。持統天皇は天武天皇の皇后であり、天智天皇の娘でもある。持統天皇は天武天皇との子である草壁皇子(くさかべのおうじ)の成長を待って、称制(天皇代行)によって政治を行った。このとき草壁皇子のライバルである大津皇子を謀反の疑いで殺害している。大津皇子は僧行心らにそそのかされて謀反を企てとされているが、逮捕された三十余人のうち僧行心を除き赦免になっていることから、計画が事実無根ではなかったとしても、草壁皇子擁立のために大津皇子を抹殺したと考えられている。しかし草壁皇子が自分より先に死去したため、690年に自らが即位された。

 持統天皇は天武天皇の諸政策を引き継ぎ、689年には法典である飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍(こういんねんじゃく、戸籍)がつくられた。694年、天武天皇の時代に造営が始められた藤原京が完成し飛鳥浄御原宮から遷都された。それまでは天皇が変わるたびに都を変えていたが、藤原京は都城制といって、ひとつの城のように整備されていた。代々の天皇が使えるようにした都で、事実、文武天皇、元明天皇の初期までは藤原京である。

 大化の改新以来、我が国が目指していた律令国家の大事業はほぼ完成に近づいた。697年、持統天皇は草壁皇子の子で、自身の孫にあたる第42代の文武天皇に譲位され、703年に崩御された。持統天皇は天皇として初めて火葬にされた。

 

大宝律令

 文武天皇の治世の701年、日本初の本格的な法令である大宝律令が、天武天皇の子である刑部親王や藤原鎌足の子である藤原不比等によって完成した。律とは刑罰の規定で、令とは行政法や民法などの法規のことである。唐にならって作られた大宝律令は、その後長く我が国の基本となった。

 大宝律令とは対馬の国から金が献上されたことから「大宝」という元号を用いており、これ以降、日本は独自の元号を持つことになる。独自の元号と独自の律令は冊封体制から離れ、独自の帝国になったことを意味している。
 当時の朝廷は、神々の祭りをつかさどる神祇官と、行政全般を担当する太政官に大別され、太政官の下で大蔵省などの八省が政務を分担していた。また行政は太政大臣などの太政官の合議で進められた。
 地方の組織は、畿内と東海道などの七道に区分され、その下に地方行政区である国や、郡、里があり、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。国の要地である京や難波には左・右京職や摂津職が置かれ、九州には大宰府が置かれた。国司は中央の貴族が6年の任期で派遣され、郡司や里長は在地の有力者が任命された。
 中央・地方の役人は、正一位などの位階に応じて官職に任じられた。これを官位相当制という。位階や官職に応じて、封戸(ふこ)・田地(でんち)・禄(ろく)などの給与が与えられ、上流貴族は一族の地位を維持させるため子は父の位階に応じた位階を与えられる蔭位の制(おんいのせい)があった。
 律令制における身分制度としては、良民と賤民に大別され、賤民は五種類の区別があり、官有の陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)と、私有の家人(けにん)・私奴婢(しぬひ)に分けられ、これらを五色の賤(ごしきのせん)という。
 さらに刑罰は、五刑と八虐がり、五刑は苔(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死のことで、それぞれ苔は細いムチで打つ刑、杖は太いムチで打つ刑で、徒は現在の懲役刑で、流は流罪に相当し、死は文字どおり死罪のことである。八虐は天皇や国家、尊属(自分より上の親族のこと)に対する罪のことで、これらは有位者でも減刑されずに重罪となった。
 民衆は6年に1度作成される戸籍、あるいは課税の台帳に毎年登録されて口分田が支給された。口分田は売買が禁じられ、死亡した場合は6年毎の調査によって国に取り上げられた。この制度を班田収授法という。
 税負担は租(そ)、庸(よう)、調(ちょう)、雑徭(ぞうよう)があった。租は口分田からの収穫の3%を税として負担することで、庸は都で10日働くか布を納める制度で、調は各地の特産品を納めるものであった。庸や調による納税品は自費で都まで運ぶ義務があり、これを運脚といった。また雑徭は一年に60日間(のち30日間)国司の命令で働く労役制度だった。
 この他、春に稲を貸し付け、収穫時に高い利息とともに徴収する公出挙(くすいこ)があり、国の重要な財源となった。しかし公出挙は年5割~3割という重い負担で民衆を苦しめることになった。私的に行われた私出挙(しすいこ)は、年率が10割という厳しいものであった。

 治安と国防にも民衆の力が必要だった。そのため成年男子3~4人に1人の割合で徴集され、京の警備には衛士(えじ)が、諸国には軍団が置かれ、九州沿岸の警備は防人(さきもり)が任じられた。兵士たちは食料と武装を自分で調達し、経済的な負担が重かったが、庸や雑徭などの一部の税負担は免除された。