鎌倉仏教

鎌倉仏教
 日本の仏教は飛鳥・奈良時代からの南都仏教。平安時代の空海・最澄らの平安仏教があったが、鎌倉時代に起きた新たな仏教が生まれ、これらを総称して鎌倉仏教という。

 鎌倉時代は気候がやや温暖になり、農業の生産性が上がり、貨幣経済が発展して庶民の生活が豊かになった。しかし平安末期に朝廷から武家へと政治の大変革が起き、保元・平治の乱以降、うち続く武士の争乱が起き、貴族から武士へ、平氏から源氏へと目まぐるしく支配者が変わり、数多くの戦乱が起きた。さらにうち続く災害や飢饉が連続し、この世は仏の教えがすたれる末法によると信じられ、人々は末法思想を背景とした社会不安にさいなまれていた。

 しかし、人々が心の拠(よ)り所とするべき大寺院は、旧来の権益を守るために武装して朝廷に強訴を繰り返すばかりで、また仏教の教義そのものが祈祷や学問中心で、厳しい修行を必要としたことから、とても庶民の心を平安に導くものではなかった。

 仏教では釈迦の死後千年間を正法(しょうぼう)、次の千年を像法(ぞうぼう)、その後の一万年を末法に分けていた。末法では仏法が正しく行われず、世が混乱するとされ、1052年がちょうど末法元年になっていた。

 当時は貴族による摂関政治が衰え、院政へと向かう時期であり、さらに武士が台頭した時期でもあった。そのため治安の乱れがひどくなるのも、諸寺の僧兵出現などによる仏教界の腐敗退廃も、末法を真実ととらえ民衆の不安は増大していった。

 それまでの仏教は貴族を相手にした加持祈祷や経典の研究が主で、鎮護国家達成の手段としての色合いが強く、庶民の身近な「生死や悟り」との関わりは希薄だった。仏教は朝廷の権威づけの道具であり、知識人たちの学府であり、あるいは怨霊鎮魂のためであった。そこには「民衆」という視線はなく特権階級の道具にすぎなかった。いわゆる貴族仏教で、貴族の支持を得て発展していた。

 鎌倉仏教と呼ばれる新しい仏教は、「武士や民衆の幸福」に主眼を置き、武士や庶民などから幅広く信者は広まった。武士や庶民にとって死は身近であり、彼らは宗教に救いを求めていた。武士の仕事は人を殺すことであるが、それゆえに武士の信仰は熱心かつ真剣だった。また庶民にとっても死は身近であり、仏の力にすがりたかった。庶民は新たな救いを求めていた。鎌倉仏教はこの末法を背景に人々の心のあり方を重視した。この武士や農民たちの望みを叶えようとする鎌倉仏教はまさに宗教改革といえた。

 こうした状況のもと庶民や武士など幅広い階層に門戸を開く新しい仏教がおこった。鎌倉仏教の開祖たちのほとんどが比叡山で修行し「仏の前に一切は平等である」とする天台教を学んだことが大きな要因だった。鎌倉仏教の開祖たちは源平の争乱、承久の乱、蒙古襲来を経験していた。それは激動する社会を体験した生きた教えであった。

 開祖たちの言葉に耳を傾けた人々は念仏・題目・禅の中から一つの教えを選択すれば、たとえば「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでよい、というような誰にでもできるやさしい修行であった。あとはそれを信じるだけであった。新たな仏教は幅広い階層の人々に受け入れられた。

 鎌倉仏教の宗派として、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗が新たに生まれた。この6宗はいずれも開祖は比叡山延暦寺などで天台宗を学んでおり、前4者はいわゆる念仏仏教で旧仏教のなかから生まれた。念仏仏教はひたすら「念仏さえ唱えていれば救われる」とする「他力本願」である。座禅を組む後2者(臨済宗、曹洞宗)は中国から輸入された仏教で、きびしい修行を積み、戒律を守ることで救われることから「自力本願」という。

 これら鎌倉新仏教6宗は教えも成立も異なるが、旧仏教にみられるきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず、信仰は在家(在俗生活)であった。旧仏教(南都六宗、天台宗および真言宗)側も普及につくしながら、社会事業に貢献するなどした。新仏教・旧仏教においても官僧(天皇認可の仏僧)よりも遁世僧(仏道修行に努める仏僧)が活躍した。

 

 法然(浄土宗

 鎌倉仏教の最初は法然(1133~1212)であった。美作国(岡山県)の武士の家に生まれた法然は、比叡山延暦寺で天台宗を学んだ後に下山し、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけで、誰でも死後は極楽往生への道が開かれるとする専修念仏の教えを説いた。他の行をせずに、ひたすら念仏をとなえることを説いた。いわゆる浄土宗である。

 法然によれば極楽往生するには二つの道があり、ひとつは聖道門、もうひとつが浄土門である。聖道門は旧来の仏教で「自力難行道」というべきもので経典を買う財力、それを読み解く学力、目的を達成する強い意志と困難な修行が必要であった。それに対し、浄土門は阿弥陀仏の力にすがって極楽往生を目指す、誰にでも実行可能な、いわば「他力易行道」である。

 浄土門にも正行と雑行の二つの修行方法があるが、法然は「正行の中の正定を専らにすべし」に帰すべし」と説いた。正定には読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の五つ(五種正業)があり、それぞれ経典を読んだり、仏像を見たり、礼拝したり、念仏したり、仏の徳を讃えたりするわけであるが、法然は「阿弥陀仏の名を称える」すなわち念仏を唱えることが最も大切としたのである。阿弥陀仏は48の誓願をたて、その第18願(本願)に「私(阿弥陀仏)に帰依する衆生(のすべて救おう」と誓われていた。ですから阿弥陀仏のこの言葉(本願)を信じて、ひたすら念仏すればよいとしたのである。それは自分で何とかしようというのではなく、「念仏を唱えることでお釈迦様が救ってくださる」という他力念仏の教えであり、法然は念仏が選択し浄土門に入ることを勧めた。

 摂関家の九条兼実(かねざね)のような身分の高い公家貴族のみならず、武士や庶民に至るまで多くの人々の支持を集めた。しかし念仏という易行によって信者を獲得し、急速に宗勢を拡大する法然らに対して、旧仏教側から非難の声が高まった。

 旧仏教勢力の圧力を受け、 法然は強制的に還俗(僧侶が俗人に戻ること)させられ、讃岐国(香川県)に流されたが、かえって地方の武士や庶民に教えが広まった。法然の教えは阿弥陀仏の本願を信じて念仏を選択したので、「選択本願念仏集」といい、九条兼実の求めに応じて浄土宗の教義を説いた書となった。法然の教えは貴族や、武士・庶民にまで広まっていった。浄土宗の総本山は京都の知恩院である。

 

親鸞(浄土真宗

 法然が讃岐に流されたとき、弟子として同じく連座して越後国(新潟)に流刑となったのが親鸞である。貴族の出身である親鸞は、天台宗の僧となって延暦寺で修行を積むが、自力での修行に限界を感じ山を下りた。下山後に法然と出会った親鸞は、法然の弟子として研鑽を積む。その間、師・法然の教えをさらに徹底させて、阿弥陀仏の存在を信じ、心 に念ずるだけで(念仏を言葉で唱えることなく)極楽往生できるとした。

 越後国に流刑となった親鸞強制的に還俗させられ、妻帯(妻:恵信尼)し、自らを「戒律を守れない愚かな僧」と自称した。肉食妻帯は仏教の戒律に違反した行為であったが、このことが親鸞に戒律を守れない人々(悪人)こそが救われるべきだという信念を持たせることになった。いわゆる浄土真宗、別名一向宗である。

 親鸞による教えは、従来の僧の習俗にも大きな変化をもたらした。極楽往生するには何の条件も必要なく、僧が守るべき戒律にもこだわることはないとした。それまでタブーとされてい た肉食妻帯を自ら進んで実践した。現代の僧侶はどの宗派でも結婚できるが、これが広まったのは明治時代以降のことで、それ以前の僧は浄土真宗を除いて結婚はできなかった。

 非妻帯の戒律を守ったことが浄土真宗の教えの特異性がうかがえる。この他にも親鸞は「自分の煩悩の深さを知っている人間(悪人)こそが、自らが阿弥陀仏の救いの対象となる」という悪人正機(しょうき)を説いた。

 越後国(新潟)に流刑後、常陸国稲田の西念寺(茨城県笠間市)を拠点に東国地方に布教し、さらには東北・北陸地方へも布教を進めた。代表作「教行信証」は西念寺で書かれた。
 法然の念仏は他力本願の立場から念仏を一遍唱えるよりも十遍、十遍よりは百遍というように、「極楽往生するには念仏は数多く称えた方がよい」という教えであった。他力本願ながら念仏の回数という自力を重視していた。しかし親鸞は自力本願的要素を徹底的に排除した。
 念仏は回数ではない。親鸞は「戒律を守れない救いようのない凡夫ゆえに、阿弥陀仏しか頼るものがないと自覚すれば、我が身のすべてを阿弥陀仏の前に投げ出す信心があればこそ重要」とした。自覚をもつ煩悩深い人間(悪人)こそが、阿弥陀仏の救済されるべきと親鸞は説いたのである。この考えを悪人正機説という。
「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(善人が往生できるのだから、悪人が往生できないわけがない)。

 親鸞の教えは農民や地方武士のあいだに広がり、やがて浄土真宗(一向宗)とよばれる教団を形成してゆく。

 親鸞の没後に弟子がまとめた歎異抄(たんにしょう)が有名である。ちなみに浄土真宗の総本山は京都で東西に分かれている本願寺である。

 

恵信尼 

 

 

 恵信尼は浄土真宗の開祖・親鸞の妻である。越後の豪族、三善氏の出である。1182に生まれ1201年に親鸞との結婚生活に入る。恵信尼の手紙をみると、越後のような交通不便で文化の低いところにもかかわらず、高い教養を身につけていたことがわかる。越後に九条家の荘園があり、その管理人・三善氏の娘であり、京の関白・九条兼実の屋敷に上がっていたためと思われる。

 親鸞は戒を破って妻帯を公にした最初の僧だけに、非難中傷も多く、結婚生活は苦難の連続だった。親鸞はおのれを語らず、その史料は極めて少ない。ため、親鸞の死後、恵信尼が娘の覚信尼に送った手紙十通が、大正10年に本願寺の宝蔵から発見されるまで、恵信尼はもちろん親鸞の存在さえ疑問視されていた。ただ、それでも不明な点は依然として多い。

 親鸞と恵信尼の二人が知り合ったのが流罪以前の京都なのか越後なのかは不明である。1207年に親鸞は越後の流罪とされ、恵信尼は越後で一子をもうけ、流罪がとけた親鸞とともに、1214年に常陸国に移住してさらに数人の子をもうけた。親鸞・恵信尼一家は先妻の子、善鸞をふくめ四男三女の七人までは確認されている。親鸞が寺を持たなかったので、恵信尼の苦労は並大抵のものではなかった。食うや食わずの生活が一生続いた。あまりの貧乏に使用人が逃げ出すほどであった。

 最後に許されて京に戻ってからも、食えないため、何人かの子供が越後に移り、恵信尼も夫や末娘の覚信尼と別れて越後に戻らなければならなかった。親鸞82歳、恵信尼72歳のことだ。関東時代の弟子がお金を送ってきたといっても一家の生活を支えるには足りなかったようだ。その点、越後には三善家の相続財産である家や土地があったが、越後に帰ってからも着るものもろくになかった。

 とはいえ恵信尼は決して厭世的になることも、卑屈になることもなかった。京にいる覚信尼から着物を送ってもうと、「死出の旅の着物にする」と手紙を書いている。このときはもう80歳を過ぎている。貧窮の中でも、いつまでも女らしさを忘れない女性だった。家庭的な苦労をいっさい引き受けて、陰で夫の布教活動を支えた。

 京の親鸞と別れて越後に帰ったまま、恵信尼は二度と夫に会うことがなかったと。越後で親鸞の死の知らせが届いたとき、心を静めてから娘・覚信尼に宛てた手紙がある。痛切な心に響きわたるような文面だ。

恵信尼は晩年を越後でしごしたまま親鸞の死後6年間存命、87歳で亡くなった。残された彼女の手紙の中で、87歳のときのものが最後だから、亡くなるその歳まで手紙を書いた、苦労を一身に背負い込み、親鸞の布教を支えた糟糠かくしゃくとした馬だった。

 

一遍(時宗

 「念仏を唱えればよい」とする法然の浄土宗や「阿弥陀仏の存在を信じ、心の中で念ずればよい」とする親鸞の浄土真宗は、浄土信仰の流れをくんでいるが、同じ流れの中で遅れて登場したのが一遍(別名智真、1239~1289)である。同じ浄土教系でも一遍は念仏の回数はおろか、善人・悪人の区別や信心の有無さえ関係なく、すべての人々が救済されると説いた。「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば、極楽往生はその瞬間に決定するるというのだった。

 「阿弥陀仏様はとてつもなく偉大なお方であり、善人と悪人の違いや、仏の道への信心の有無に関わらず、私たちはすべて極楽往生ができる」と考えた一遍は、全国を行脚しながら、踊念仏によって信者たちと集団で念仏を唱えて教えを広めた。踊念仏には人間にとって捨てきれない煩悩を、ひたすら踊ることで燃え尽くすほ どに発散させようとする狙いと、極楽往生できることがすでに決まっていることに対する喜びや感謝の気持ちを表現するという意味が込められている。

 一遍とその信者たち(時衆)は、踊念仏によって多くの民衆に教えを広め、諸国を巡り歩いて教えを説いた。一遍は「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」とよばれた。また「日常のどのような時も臨終と心得て念仏せよ」との教えから一遍の教えは時宗とよばれました。

 一遍は死の直前に自己の所有していた経典などをすべ て火中に投じさせた。そのため一遍自身による著作は伝わっていない。ただ一遍の活動は、弟子たちが一遍の法語・和歌・消息などを編集して江戸時代に刊行した「一遍上人語録」や、一遍の布教の有様を描いた「一遍上人絵伝」などによって知ることができる。一遍の教えは時宗と呼ばれ、主に地方の武士や農民の支持を受けた。時宗の総本山は神奈川県の清浄光寺である。

 

日蓮(日蓮宗

 安房国(千葉県南部)の漁村に生まれた日蓮(1222~1282)は、若い頃は比叡山延暦寺で天台宗を学んだが、修行を重ねる間に「正しい宗教の教えが行われていないので世の中が乱れる」と強い信念を持つようになった。やがて日蓮は法華経のみが釈迦の正しい教えであると確信し、法華経の経典が読めなくても「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われると説いた。いわゆる日蓮宗である。

 日蓮は法華経こそが真の教えとして「念仏無間(むげん)、禅天魔(てんま)、真言亡国、律国賊(念仏を称える輩は無間地獄に堕ちる。禅宗は天魔の所為である。真言宗は国を滅ぼす。律宗を信じる者は国賊である)」と他宗を激しく攻撃しながら、鎌倉で布教を進めた。日蓮は法華経のみがこの世の中を救うことができるとし、それ以外の宗教は邪教であり、 邪教を信じれば自身や国を滅ぼすことになると他の宗派を激しく攻撃し、転宗させようとした。このように排他性を持つのが日蓮宗の大きな特徴である。

 浄土宗や浄土真宗のように静かに念仏を唱えたりするのではな く、自らが法華経を信仰していることを周囲に広めるという意味から、題目を唱える際には団扇太鼓(うちわだいこ)をドンドンと打ちながら「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と大声を張り上げるという形式が主流となった。

 1260年、日蓮は北条時頼に「立正安国論」を提出した。その内容は天変地異が続発するのは法華経の正法に背くからである、このまま法華経を尊信しないなら「薬師経」に書かれた七難の内、自界叛逆難(国内の反乱)と他国侵逼難(外国の侵略。蒙古襲来の予言)の二つの国難が起こるというものであった。しかし日蓮は処罰され、伊豆・佐渡に流された。

 日蓮は赦免を受けると布教活動続け、日蓮宗(法華宗)は関東の武士層や都市の商工業者を中心に広まっていった。

 日蓮の強引ともいえる布教活動は、他の宗派や幕府による迫害を受け、日蓮自身も何度も生命の危機にさらされているが、日蓮宗の教えは関東や北国の武士層や商工業者を中心に広まっていった。

 日蓮は立正安国論(りっしょう)など多数の著書を残し ている。日蓮宗の総本山は山梨県の身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)である。

 

禅 宗 

 鎌倉を中心とする関東の武士の間で広がり、大きな勢力を持っていたのは禅宗であった。難行苦行によっても悟りを開けなかったゴータマ=シッダールタが、悟りを開き仏陀(目覚めた者の意。覚者)となったのは、坐禅の力によってである。坐禅によって自らを鍛練し、仏陀の境地に近づくとする禅宗の自力本願が、実力によって武家政権を確立した鎌倉武士の気性に合致していた。坐禅によって自らを鍛え、布団の上げ下ろしや洗濯など、日常生活のなかで「自分のことは自分です る」という様々な厳しい修行を重ねることが武士の気風に合っていたため、関東武士の間で急速にひろがった。

  禅宗には二つの宗派があるが、それぞれ対照的な広がりを見せることになった。栄西による臨済宗と、道元による曹洞宗である。栄西は法然と同じ頃に比叡山延暦寺で修行を積んだ後に、生涯に二度も中国の南宋に留学して、坐禅によって自力で悟りを開こうとする臨済宗を広めた。ま た同時期に法然が他の宗派から攻撃を受けているのを見た栄西は、朝廷の権威と結びついていた従来の仏教勢力に対抗する意味もあって、誕生したばかりの鎌倉幕府に接近した。禅宗は大陸からもたらされた点で念仏仏教系とは違う。また念仏や題目を唱えるだけの他力本願の念仏仏教系に対して、禅宗は座禅を組むことによって修行する「自力本願」の宗教である。

栄西(臨済宗

 宋から日本に禅宗(唐僧臨済が開いた禅宗の臨済宗)を伝えたのは、2度の入宋経験をもつ栄西(1141~1215)であった。栄西は密教の祈祷にもすぐれ、公家や幕府の有力者の帰依を受けて臨済宗の開祖とされた。「座禅を組む」という素朴な修行が武士の心身鍛錬と通じあうため、武士の間に臨済宗は急速に広まった。臨済宗は幕府の保護の下に発展したため、鎌倉の禅寺は全て臨済宗である。建長寺は北条時頼が、円覚寺は北条時宗が創建し、京都には大本山となる建仁寺がある。

 栄西の禅は坐禅のみならず、公案という謎を解き続ける(公案問答)ことによって、階段をのぼるように悟りの高みへと導くもがある。坐禅をしながら師から出される設問を解き、悟りを開く公案問答がある。公案はたとえば「両手を叩くと音がするが、片手ではどんな音がするか」というように難解なものであった。このような禅問答を落語の題材として取りあげられた蒟蒻問答(こんにゃく)がある

 現在のようなお茶を飲む習慣を広めたのは栄西で、栄西は宋から禅宗とともに、茶(茶種や苗木)を持ち帰えった。奈良時代の最澄や空海等が遣唐師として中国から茶を持ち帰ったが、茶は解熱・強壮・眠気覚まし等の薬用で、また高級品だったため一般には普及しなかった。当時は抹茶であるがカフェインによって睡魔を払い、心身の疲労を回復する効果があるとされ、宋の禅僧にとって長時間の瞑想に耐えるために必要不可欠な飲料だった。栄西のもたらした茶種は、栂尾高山寺の明恵上人(高弁)の手に渡り、京都の宇治で栽培され全国へ広まっていった。栄西は喫茶養生記(きっさようじょうき)で、茶の薬効を紹介されている。喫茶養生記には二日酔いに悩んだ3代将軍源実朝に良薬として茶を献上したことが吾妻鏡に書かれている。

  臨済宗は栄西が亡くなった後も幕府の保護を受け、南宋から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元など多くの僧が招かれた。幕府は臨済宗を重んじ、鎌倉に大きな寺院をつぎつぎと建立した。蘭渓道隆は第5代執権の北条時頼に招かれて鎌倉の建長寺の開山(初代住職)となり、無学祖元は第8代執権の北条時宗に招かれ、鎌倉の円覚寺の開山となった。

栄西の慈悲 

 栄西が建仁寺にいた頃のエピソードである。ひとり男が寺にやってきて「私の家は貧しくて、夫婦子ども2、3人が餓死しようとしています。お慈悲をもってお救いください」と云った。しかし建仁寺には衣食財物がなかった。ただ薬師如来像を造立するため、後背の材料にする打ちのばした銅が少々あった。栄西はこの銅を自ら打ち折って丸めると「これを食物に代えて飢えをふさぎなさい」と云って男に銅をやってしまった。

 弟子たちは「あの銅は仏像の光背を造るためのものです。それを俗人に与えるのは、仏のために使用するものを勝手に使用した罪になりますが、いかがですか」と云って栄西の行動を非難した。それに対しての栄西は、

 「誠にその通りである。ただ仏の意志を思うと、仏は身肉手足を切って施しをされたのであり、現に餓死に瀕する人びとがいれば、たとえ仏の全体をもって与えても、仏意にかなうであろう。自分は仏の物を私用に使った罪で悪趣に堕ちても、ただ人の飢えを救うことになる」と答えた。

 

道元(曹洞宗)

 貴族の家に生まれた道元(1200~1253)は、若い頃に比叡山で栄西の弟子から禅を学んだが、後に南宋に渡り曹洞宗を学んだ。帰国後の道元は、幕府と結びついた臨済宗とは対照的に権力に背を向け、山中にこもって坐禅に徹して悟りを開こうとした。権力との癒着を嫌い、坐禅に徹することを説いた。曹洞宗は9世紀に唐で始まった禅宗のひとつで、道元が南宋にわたって禅を学び日本に持ち込んだ。道元の禅宗は坐禅そのものを重視し、ひたすら坐禅すること(只管打坐(しかんたざ))によって悟りの境地を目指した。

 道元は越前に永平寺を建立し、名誉や利益を求める名利の念(めいりのねん)を捨てさせ、厳格な宗風をつくりあげた。厳しい規律のもとで修行を行い、北陸地方を中心に布教を続けた。道元は正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を残している。

 道元の弟子の懐奘(えじょう)が師の言行を筆録した「正法眼蔵随聞記」の中で、道元は次のように言っている。

 「学道の最要は坐禅これ第一なり。大宋の人多く得道することみな坐禅のちからなり。一問不通にて無才愚癡(ぐち)の人も、坐禅をもはらすればその禅定の功によりて多年の久学聡明の人にも勝るるなり。しかあれば、学人は祗管打坐(しかんたざ)して他を管することなかれ。(『正法眼蔵随聞記』)

 なお曹洞宗は道元の弟子にあたる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)によって飛躍的な発展をとげたので、道元と瑩山紹瑾が「両祖」とされ、瑩山紹瑾が開いた総持寺は、永平寺と同格の大本山となっている。ちなみに総持寺は能登国の輪島にあったが、明治時代に火災で焼失し、現在の横浜に移転している。

 

 鎌倉仏教に共通することは、6人の開祖が比叡山延暦寺で天台宗を学び、そのなかで選び取られた「一つの道」によって救われると説いたことである。例えば浄土宗や浄土真宗は念仏を、日蓮宗は題目を、臨済宗や曹洞宗は禅を「一つの道」としている。

 それまでの仏教は厳しい修行を積み、難解な経典を読破しなければならなかったが、念仏や題目、禅だけでよいとする鎌倉仏教の分かりやすさが、武士や庶民の支持を得た。

 

 

 

旧仏教の革新

   これらの新仏教に対して、従来の仏教勢力も巻き返しを図った。鎌倉時代の初めの頃、華厳宗(けごんしゅう)の明恵(みょうえ)は戒律を厳重に守りながら権勢におもねず、求道の生活を続けることで、第3代執権の北条泰時など多くの人々の尊敬を受けた。

 法相宗の貞慶も山城国(京都府南部)の笠置寺にこもって厳しい修行を続けた。その後、奈良の西大寺を復興した律宗の叡尊(えいぞん、別名思円)やその弟子の忍性(にんしょう、別名良観)らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人々や病気を救済して治療した。その他、土木工事などの社会福祉事業に力を尽くした。

 このように鎌倉仏教は大きな改革を行ったが、ヨーロッパの宗教改革は教会や王侯の権力行使の宗教を、我が国同様、民衆に取り戻すためにのであった。日本の宗教改革が、彼らほど過酷な経過を取らなかったのは、仏教はキリスト教と違い、攻撃的な教えがなかったからである。

 仏教は悟りをひらき極楽浄土に行くことを目的にしているが、その手段は何でも構わないのである。念仏でも座禅でも自由に選んでよい。そのため一神教世界と比べれば、流派の違いから血で血を洗うような闘争に発展することはなかった。もっとも日蓮は法華経以外の経典を否定しており、鎌倉幕府から激しく憎まれた。新仏教の活動は、旧仏教側に法然らに対する反発とともに、旧態依然とした自らを反省させるきっかけとなった。法相宗の貞慶や華厳宗の高弁は戒律を重視して、南都仏教の復興に力をそそぎ、律宗の叡尊(えいぞん)・忍性(にんしょう)・俊芿(しゅんじょう)らは、戒律を尊重するとともに社会事業にも力を尽くした。

貞慶(解脱)

 貞慶(1155~1213)は法相宗を中興した。笠置寺(かさぎでら)・海住山寺(かいじゅうせんじ)で、戒律の復興に努めた。法然の浄土宗を批判した興福寺奏状(こうふくじそうじょう)を書き、法然らが京都から追放される承元(じょうげん)の法難」のきっかけを作った。

高弁(明恵)

 高弁(1173~1232)は、華厳宗を基礎としながらも、華厳宗と真言密教を融合した厳密(ごんみつ)という独自の宗教観を打ち立てました。後鳥羽上皇から京都栂尾(とがのお)の地を賜り、高山寺(こうさんじ)を開いた。『摧邪輪(さいじゃりん)』を著して、法然の浄土宗を激しく批判したことは前述したとおりです。また、栄西から茶の種子を譲られ、栂尾に茶園を開きました。栂尾から伝わったのが宇治茶である。

 高弁の自在な境地を伝えるものとして、月の明るさを詠んだ「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」の和歌が有名である。

叡尊(思円)

 叡尊(1201~1290)は奈良西大寺を中心に戒律の復興に努め真言律宗を開きた。貧者や病人の救済事業や土木社会事業を行い、興正菩薩(こうしょうぼさつ)と呼ばれました。

忍性(良観

 忍性(1217~1303)は叡尊の弟子で、鎌倉極楽寺を再興し、戒律復興に努めた。奈良にハンセン病の救済施設・北山十八間戸を建て慈善に尽くした。

俊芿(我禅)

 南宋から帰国した俊芿(しゅんじょう。1166~1227)は、戒律の復興に努めた。京都の泉涌寺(せんにゅうじ)を再興して天台・真言・禅・律の四宗兼学道場としました。泉涌寺は1242(仁治3)年に四条天皇が寺内に埋葬されたところから皇室の菩提寺となり、御寺(みてら)と呼ばれるようになった。

伊勢神道

 鎌倉仏教の影響を受けた独自の神道理論が、伊勢外宮の神官度会家行(わたらいいえゆき)によって形成された伊勢神道である。度会家行は類聚神祇本源(るいじゅうぎんじほんげん)を著し、従来の本地垂迹説と反対の立場に立って、神を主として仏を従とする神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)をとなえた。

 

 

 

法然  浄土宗    他力本願  口で仏の名を唱える称名念仏

親鸞  浄土真宗   他力本願  自らの悪を見つめられる人こそ救われるべき

           とする悪  人正機説

一遍  時宗     他力本願  踊り念仏

日蓮  日蓮宗   題目          南無妙法蓮華経と唱える法華経

道元  曹洞宗   自力信仰   ひたすら座禅の修行に打ち込む只管打座

栄西  臨済宗   自力信仰   日本で初めての禅宗を開いた