鎌倉仏教

仏教とは
 仏教とは読んで字の如く「仏(ほとけ)の教え」のことで、仏(ほとけ)とは悟りをひらいたお釈迦様のことである。

 お釈迦様は約2500年前にインドに生まれたシャカ族の王子で、何不自由のない生活を送りながら、王子は苦しみや悩みを背負って生きている人間の姿に気づかれ16歳で出家した。「生老病死という人間の本源的な苦悩の解決」が出家の目的だったが、出家して6年にわたる苦行を行ったが苦行から得られるものはなかった。そこで菩提樹の下で静かに瞑想に入られ、35歳で「この大宇宙の永遠の真理」に目覚められた。目覚められた王子は仏陀(ブッダ・目覚めたもの)になられ、80歳でお亡くなりになるまで、45年間、仏として説かれたのが仏教である。
 仏教は世界の三大宗教のひとつとされているが、仏教は宗教というよりも、むしろ「生きるための教え」と捉えた方が仏教の本質に近いと思われる。つまり仏教の教えには、神と人との間に宗教が存在するのではなく「人生はいかにあるべきか、人はいかに生きるべきか」という人間の根本的なことを教えにしているからである。釈迦の教えは膨大であるが譬喩(ひゆ)や例え話が多くわかりやすく、実践の方法も極端な苦行を避け、倫理面を重視しているので、さまざまな階層の人々に受け入れられた。

 

仏教の教え(抜苦与楽)
 仏の教えは「苦しみを取り、楽しみを与える慈悲の心」である。もし苦しみがあれば、それは仏の苦しみであり、幸せになってくれれば、それが仏の喜びになる。仏さまは人々の苦しみをなくし、幸せになってほしいという「抜苦与楽」の心を教えている。
 私たちの苦しみには、例えばお金がない、体調が悪い、長生きしたい、孤独感など様々であるが、仏様が救おうとしているのは、このような生活苦ではない。このような苦しみは繰り返し起きるもので永遠になくならない。(一切皆苦)
 人生の苦しみは花咲く木のようなもので、苦しみの花が咲いている枝を切っても、別の枝へ養分が行ってまた違う苦しみの花が咲く。その枝を切ると、また違う枝へ移って苦しみの花を咲かせる。切っても切っても、次から次に苦しみの花が咲く、ところがこの苦しみには、それを生み出す根源がある。

 人間はなぜ苦しみ悩むのか、仏教にはこの世を見抜く高い次元の知恵があり、この知恵と慈悲によって徹底的に苦悩を抜き去るのが仏様の教えである。また与える楽しみは永遠に変わらない幸せのことである。人生は苦悩の連続であるが、苦悩の根源を抜き去り、本当の幸せにする「抜苦与楽」が仏教である。釈迦の本意は自らが悟った大宇宙の真理を広く社会に開き、苦悩に沈む民衆の心を救うことである。

 

仏教の教え(法印) 

 お釈迦は、人間は人間の存在と行為によって決まるもので、そのためには真理を発見し、真理に基づく正しい生活をすることである。お釈迦様の教えは、世の中すべてのものは同じ状態を保てないのもので、生ある者は必ず死に、形ある物は必ず壊れるとしている。この無常を知り、変わらない本当の幸せを見つめつことである(諸行無常)。あらゆるものには我はなく、私のものでもなければ、自分そのものでもない(諸法無我)。この世の全てものは互いに関わり合い、この関係を変える事はできない(因縁生起)。この因縁生起とは「原因があって結果があること」で、私たちの「いのち」も同じである。私たちは親がいてこの世に生まれ、多くの方々に育てられ、呼吸をして食べていけるのも自然に支えられいるからである。この世に存在する一切のものは、条件が整えば生じ(縁起)、条件によって消滅する(縁滅)。「この因果の理法を明確に知れば、自我の執着によって生じる苦悩から自由になれる」と説いたのである。

 私たちは宇宙の万物の生滅変化を知らず、あるいは認めないため、多くの欲望が叶わずに苦しんでいる。この苦の原因である「煩悩の消滅こそが苦の消滅」となる。煩悩は相互に縁因するもので、お釈迦様はこの煩悩を除くため理想の涅槃寂照をめざしている。

 お釈迦様は苦のない「さとり」の境地を示しが、この欲望などの「煩悩」を除くため、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定すれば、結果として幸せに生きることができるとした。その具体的な方法として次の八正道を示した。八正道とは苦悩を克服し理想の涅槃に至るまでの方法である。

八正道

    1.正見(しょうけん)とは正しい見方をすることである。新しいものはいつかは古くなってゆく。すべてのものは常に変化し、また視点によっても見方は変わってゆく。このように物ごとは常に変化していること、この諸行無常を認めることが正見で、この変化を認める心を持つことが必要である。私たちは微細な変化に気づかずに、変化を認めようとしないが、私たちは瞬間・瞬間の変化の中で生きている。生きることは無常であり、変化の停止こそが死である。正見とはこの無常を認める正しい世界観、人生観を持つことである。
    2.正思惟(しょうしゆい)とは正しく思索をすることで、正思惟には無害心、無瞋恚、無貪欲の三つがある。無害心とは勉強も研究も自由であるが、それが人や生きものを害さず、生きとし生けるものの命を守るためのものである。どうすれば助けられ慈しみを持てるのかということである。木が邪魔だと伐採したり、害虫といって殺してしまうのもいけないことである。

 無瞋恚は怒りのことで、人間は時として相手を憎んで、その怒りを支えに闘うことかある。怒りは自分の欲望を邪魔されたからで、怒りはよくないことである。

 無貪欲とは「お金はいくらでも欲しい」「クルマは何台あってもいい」「いつまでも若くいたい」というように、人間は際限なく欲望をつのらせてしまう。その欲のために人間は苦労や悩みを背負いこんでいる。これらが正思惟の三つの考えである。
    3.正語(しょうご)とは正しく物事を話すことである。穏かで調和のとれた生活を送るための言葉づかいであり、真実をつたえる言葉である。しかし真実を言うことが相手を傷つける場合もあるので、話をしたり、文章で伝える場合も、その言葉が人を幸福にしなければ意味がない。
    4.正業(しょうごう)とは正しい行いをすることである。殺生をしない、窃盗や不倫をしてはいけない。また他人の迷惑にならず、生物を愛護し善行を行うことである。
    5.正命(しょうみょう)とは正しい生活(仕事)をすることで、私たちは生きるために働らくが、職業や仕事は人間に少しでも貢献するものがよい。毒を作ったり武器を作るのはよくない。日々規則正しく生活することである。
    6.正精進(しょうしょうじん)とは自分の悪いところを消す努力で、悪いことをしないための努力、自分の良いところを積極的に伸す努力である。これらの精進によって立派な人間を形成する。
    7.正念(しょうねん)とは正しい道を思い念ずることで、精神統一によって自分に気づくことである。その方法として体で覚えさせる修行がある。私というのは自分の肉体のことで、私は寒いというのは体が寒いということである。人間はまず体に執着しているので、修行によって肉体に実践させることである。
    8.正定(しょうじょう)とは正しい瞑想や、正しい精神統一で心を整えることである。雑音のない場所で坐って命を念じることである。自分が生きているのは命のお陰であり、幸せになるように、苦悩がなくなるように、解脱、涅槃、悟りがあらわれれるようにと念じることで、また自分が生きているのは周りの人たちのお陰なので、周囲の人たちが幸せになるように念じることである。さらに心を穏やかにして、周りのすべての生きものの幸せを念じ、修行を積み煩悩を克服し「苦」をなくすことである。

中道

 お釈迦様は悟りを開かれた後、5人の修行僧に最初に説法されたのが中道である。

 当時の修行者は苦行から悟りを得ようとしたが、お釈迦様は苦行では悟りを得ることはできないとした。また快楽によっても悩みは取れないとした。欲望や苦行をともに否定して、その両極端に偏らないこと(中道)を悟りに至るとしたのである。
   1本の材木が大きな河を流れていたとする。その材木は右左の岸に近づかず、中流の流れに身を任せて海に流れる。この材木のように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正にも邪にもとらわれず、迷いを離れて身をまかせるのが中道である。道を修める者にとっては、両極端にとらわれず、常に中道を歩むべきである。仏教では有ることや無いこと(有無)や正しいことや間違ったこと(正邪)にとらわれないことを中道としている。
 中道とは「両極端な道は正しくない、両極端では悟りは得られない」としたのである。中道の「中」は、左右、有無、上下の中間という意味ではなく、それらの対立を超越したのである。

 仏は存在するのかしないのか、神はいるのかいないのか、地獄はあるのかないのか、そのような対立する問いは意味のないことで、そのような問題はすでに存在すらしない。そのような問題に悩むのは煩悩であり、悟りとは意識を超越した無の世界である。

 我が強くなるとこだわりを持つ。たとえ正論でも両極端にとらわれてはいけない。世俗に生きる私たちは自分中心になりやすいが、中道を歩めば平穏に過ごせるのである。
  中道とは意識せずに最適な道を歩むことであるが、怒り・喜び・楽しみ・悲しみは人によって異なり、それらを超越して意識しないことは意外に難しい。

 中道は「空(くう)」の思想に似ている。空(くう)とは空(そら)とは違い「こだわってはいけない、こだわりを捨てろ」ということである。「こだわってはいけない」と言うことすら駄目だとしている。この無の世界は微妙で表現のできないのが中道である。

 

お経

 お釈迦様は81歳で入滅されるまで、大勢の人々に教えを説かれ、釈迦の死後その教えを弟子たちがまとめたのがお経である。お経は8万4千あるとされ、膨大な経典にはお釈迦様が直接説かれたものだけでなく、お釈迦様の教えに従ってその注釈を説き明かして作られたものがある。

 「お経」はお釈迦様の直接の教え以外のものも含まれるが、お釈迦様のお心を誤りなく伝えていることから、お釈迦様のご説法と同じように受け継がれてきた。お経の始めが如是我聞(私はこのように聞きました)という言葉で始まっているのはこのためである。

 仏教の教えは「人生は苦であり、苦の原因である煩悩を消滅させること」を基本としている。各宗派は「苦を克服するための手段の違い」と考えれば分かりやすい。

 釈迦は経験も論証も不可能なことは説明していない。説明できないのではなく、説明していないのである。

 世界は無限なのか有限なのか。身体と精神(霊魂)は同一なのか別なのか。死後は存在するのかしないのか。このような質問には釈迦は沈黙を以って答えられている。これを「無記」或は「捨置答」という。

 現世を天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界に分類し、人はこの六道を生まれ変わり輪廻転生を続けるとしているが、この世界観は古代インド人の考えによるものである。仏教はこの輪廻転生から永遠に脱出することを「解脱(げだつ)」、解脱した状態を「涅槃(ねはん)」として輪廻転生の世界から永遠に脱出することを解いているが、「六道の輪廻転生」が釈迦の教えかどうかの確証はない。

 霊魂の有無・滅不滅・六道の輪廻転生よりも「生きるべき真の道」を明らかにすることを優先させているのが仏教である。六道は原始仏教においてはさほど意味はなかった。六道が体系化したのは平安時代以降で、庶民から大に受け入れられ普及したのである。

 

毒矢の例え

 「無記」の分かりやすい例として毒矢の例えがある。ある修行者が「世界は永遠かどうか、生命と肉体は同じか別か、死後はどうなっているのか」と釈迦に尋ねた。すると「毒矢に射られた人が、矢を射た者はどこの種族か、名前は、弓の種類は、弦(つる)はなんの弦か、矢鏃(やじり)はどんな種類なのかなどは考えない。すぐに毒矢を抜かなければ、毒が体中にまわって死んでしまうからである。毒矢を抜くことが生命を永らえることである」と答えたのである。このように霊魂の有無・滅不滅の問題を考えるよりも、大事なのは「人の生きるべき真実の道を明らかにするべき」と釈迦は教えたのである。もちろんこの教えは死後の世界を否定したのではなく、説明しなかっただけである。

 

宗派

 仏教は世界各地に伝えられ、戒律の解釈をめぐって各仏教教団が分裂し、各地でそれぞれ独自の発展を遂げた。日本の仏教はインド仏教、中国仏教を経て、日本の精神風土のなかで在地の信仰・習俗と習合した。したがって日本の仏教は「日本民族が育てた独自の宗教」といえる。仏教信仰は在来の信仰・習俗が形を変え現在も息づいている。例えば葬送儀礼は、中世以降に仏僧が積極的に葬儀に関与したために仏教葬が葬法となり、先祖供養の習俗が一般化して今日に繋がっている。

 仏教には多くの宗派が存在するが、それぞれの宗派が全く別の思想をもっているわけではない。2000年以上にわたる時代の移り変わりの中で、多くの経典が編纂され、教えに対して様々な解釈が生じ、多くの宗派が誕生したのである。

 お釈迦様の深い教えによる経典の中で「何を最も大切にするか」という違いから宗派が生まれた。宗派が異なれば、教えや僧侶の袈裟や仏事のしきたりが違ってくる。日本の仏教では13宗56派が公認される。

大乗仏教・小乗仏教とは

 現在の仏教の源泉となる初期の仏教は、仏様が入滅されて100年ぐらい後に「保守的立場の小乗仏教と進歩的立場の大乗仏教」に大きく分かれた。お釈迦様は1人ですから2つの教えを説かれたのではない。

 小乗仏教とはお釈迦様が入滅されてから「お釈迦様の教えだけを忠実に守る人々の信仰」で、悟りと極楽は出家した僧にだけにあるとしている。「自分だけが助かればよい」という我利の教えで仏様はお釈迦様だけである。

 これに対し、初期の仏教は非常に難解なので、一般に普及させるために土着信仰と融合させ分かりやすくしたのが大乗仏教である。大乗仏教は「お釈迦の教えの心」を生かしていこうとする信仰である。大乗仏教は「人はみな迷っている存在であるが、必ず仏になる種子を持っており、自分よりも他人の幸せを願い、共に仏様の教えに従い悟りの道を説いている。悟りは一般信徒だけでなく出家してない人にも広く提供されており「大きな・深い・より優れた教え」の意味で名づけられた。

 大乗仏教では多くの仏陀が登場して、例えば浄土教の阿弥陀如来・薬師経の薬師如来、密教の大日如来などである、また大乗仏教の修行者として観音菩薩や地蔵菩薩など、他にも不動明王など多くの尊格を生み出したが、小乗仏教では仏(ブッダ)は釈尊のみである。
 大乗仏教は「美しい花を見て美しいと感じるのは迷いではないが、その美しさに心をうばわれてはいけない」と説く。いっぽう小乗仏教では「綺麗に咲いている花を見て美しいと思うのは迷いである」と説いている。

 このように「大乗仏教は物事にとらわれないおおらかな心と他人のことを考えようと目を外に向ける」が、「小乗仏教は人間の欲望は迷いのもとなので厳しく自分を律する。他人のことより自分のこと」としている。 
 大乗・小乗の「乗というのは乗り物」という意味で「私達が迷っている此岸から、悟りの彼岸に渡してくれる教えを乗り物に例え、大乗は大きな乗り物・優れた乗り物。小乗は小さな・劣った乗り物」との意味になる。

 しかし大乗仏教に対して小乗仏教というのは、大乗仏教の人が小乗仏教を軽蔑した用語なので、現在では小乗という言葉を使わずに、上座部仏教、部派仏教、長老派仏教・南方仏教とよんでいる。 
 現在の中国・日本などは大乗仏教を奉じ、東南アジアの仏教国は小乗仏教系である。大乗と威張っても自分を律することを忘れては困るし、精進努力している東南アジアの人々を小乗といって蔑視するのもよくない。小乗仏教からすれば、日本の何でもありのお寺を見たら「これは仏教ではない」と思うであろう。

いろはにほへと
 芥川龍之介は「侏儒の言葉」の中で、「いろは歌は、人生における必要なことを全て教えている」と書き残している。かつて「読み書きを教える時に使われた「いろは歌」は、平仮名47文字を重なることなく並べたものであるが、古くから伝わるこの「いろは歌」に、仏教の深い教えが込められていることは案外に知られていない。
    色は匂えど 散りぬるを
    わが世誰ぞ 常ならむ
    有為の奥山 今日越えて
    浅き夢見じ 酔いもせず
 「色」とは桜の花のことで、爛漫と咲き誇る桜花もすぐに散ってしまうことを詠っている。二句目では、桜の花と同じようにこの世のどんな者もその栄光や若さを保ち続けられない世の無常を訴えている。三句目は、悲しみに満ちた世界を「有為の奥山」とし、その悲しみを「今日越えて」と説かれている。無常の世を悲しむ私たちでもその苦しみを解決し、迷いの道から絶対の幸福になれるとしている。四句目は、この現世を超越しはかない夢をみたり、酔いにふけったりはするまいと、仏の教えが示されている。
  この「いろは歌」は、かつて小学6年生用の国語の教科書に「修行者と羅刹」という題名で掲載されていた。なお作者は教養ある高僧・空海とされているが確証はない。


修行者と羅刹
 真の幸福を求めて、雪山にこもり苦行に打ち込む修行者がいた。すると風に乗ってどこからか美しく言葉が聞こえてきた。「色はにほへど散りぬるを、わがよたれぞ常ならむ」。咲いた花もたちまち散り、人は生まれてやがて死ぬ。無常は免れない運命である(諸行無常 是生滅法)。その言葉を聞いた修行者は、言い知れぬ喜びがわきあがってきた。喉の渇きにあえいでいる時に清らかな水を得たような悦びだった。もしこれが御仏の言葉ならば、次に続く言葉がなくてはならないと思ったが、辺りを見ても人影は見えなかった。修行者は残りの真理の言葉を聞きたいと探し回ると、突如、崖の上に恐ろしい鬼の姿をした羅刹(らせつ)が現れた。
「今、尊い言葉を発せられたのは、あなた様ですか。残りの部分を聞かせていただきたい。どうか、私に悟りを開かせてください」すると羅刹は「わしは何も知らない。ただあまりに空腹なので、うわごとのように何か言ったのかもしれぬ。もう腹が減って、何も言う力がない」とつれない言葉を吐いた。「ではあなた様のために食べ物を用意しますから教えてください」重ねて懇願すると「それはとてもおまえに用意できるものではない。私は生きた人間の血のしたたる肉しか食わないのだ」と言ったが、修行者は少しも驚かず「分かりました。では残りの言葉を聞かせていただければ、私の肉体をあなたに差し上げましょう。どうせ死ぬべきこの身体で、永久の命を得るのであれば、この身は惜しくはありません」と答え、羅刹に教えを乞うた。
 羅刹はおもむろに口を開いた。恐ろしい形相であるが、どうしてこんなにも美しいもの声が出るかと思われるほどであった。「有爲(うゐ)の奥山今日(けふ)越えて 浅き夢見し酔ひもせず」修行者はその意味を悟って心に大きな喜びを得た。後世の人のために、その悟りの言葉を、石といわず木にも書き込み、書き終えると近くの木に登り、そこから羅刹の口に向かって身を投げた。すると真っ赤な口を開いた羅刹は帝釈天に姿を変えて修行者を受け止めると、礼拝して地上に降ろして合掌した。
  さらに「善いかな、その覚悟あってこそ、悟りを得ることができるのである」と言われた。仏教では「悟りとは大宇宙の真理を悟ることで、すべての人が本当の幸せになれる真理」のことである。仏教は私たちが本当の幸福になれる道を教えている。

日本への伝来

飛鳥時代

 日本へ正式に仏教が伝えられたのは、552年、飛鳥時代の欽明天皇の時である。もちろん、それ以前から仏教信仰が渡来人から伝えられていたが、インドで釈迦が仏教を創始してから千年以上の時間が経っており、552年の年号を憶えるのは試験対策であり意味はない。仏教はインドから中央アジアへ、さらに中国・朝鮮へと伝わり日本へ入ってきたが、その膨大な時間の中で仏教は大きな変化を遂げ、多種多様な仏教が成立した。

 日本では仏教伝来以前から古来の神々を信仰していたが、この仏教を正式に受け入れるかどうかをめぐって蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)が争った。結局、崇仏派の蘇我氏が勝利し物部氏が滅びたことから仏教は急速に普及してゆく。

 その後、用明天皇の皇子だった聖徳太子が仏教興隆に力を入れ、仏教を治世に活かした。また「法華経」など三経を講義し、法隆寺、四天王寺などの寺院を建立した。

 聖徳太子は仏・法・僧の三宝は一体であって、本来区別されるものではないとした。仏教とは「悟をひらいき涅槃を見出した仏」、「仏の説かれた教えである法」、「法を学び民衆を指導する僧侶」は区別されるものではないの三宝とした。聖徳太子が制定した「十七条憲法」の、第二番目の条項に「篤く三宝を敬え」とある。

奈良時代
 奈良時代には仏教は鎮護国家の基本に据えられ、国の安寧と平和を願って東大寺をはじめとして各地方に国分寺が建立された。日本の仏教は確固たる地位を築いたが僧侶になるには戒律を受けて遵守しなければならなかった。しかし当時の日本には正式な受戒の儀式が伝わっていなかったので、唐から授戒のできる人物を呼ぶことになり、それが鑑真であった。鑑真は来日を四回挑戦して四回目にようやく日本に来ることができ、日本でも受戒が可能となり、東大寺など三カ所に戒壇が設置された。

 奈良仏教は南都六宗として知られる諸宗が勢力を誇った。南都六宗とは三論宗、法相宗、成実宗、倶舎宗、華厳宗、律宗で、奈良時代までは「鎮護国家」を目的とした学問仏教の色合いが濃厚であった。奈良仏教は後世の宗派と違い、いずれもインドに由来する唯識教学を研究する学派で、僧侶らは各宗派を自由に行き来し、学問としての仏教を学んでいた。奈良時代の仏教は確固たる地位を確立し、鎮護国家の性格上政治にも口を出すようになった。

 奈良仏教の南都六宗の「南都とは奈良時代の都である平城京」を意味している。

    法相宗:開祖 道昭 本山 興福寺、薬師寺
    華厳宗:開祖 審祥 本山 東大寺
    律宗 :開祖 鑑真 本山 唐招提寺
    三論宗、成実宗、倶舎宗は衰退した。

 

平安仏教とは
 奈良仏教は栄華を極め、奈良の大仏でも分かるように各寺院は相当な権力を持っていた。桓武天皇は仏教が政治に口出しするのを嫌がり、奈良から平安京へ遷都した。

 仏教は奈良時代から平安時代へ大きく変わった。それまで栄華を極め、権力を持ち過ぎた奈良仏教に対抗するため、新たな鎮護国家のために新たな仏教の力が必要であった。そのため空海が開いた真言宗と最澄が開いた天台宗は「平安二宗」と呼ばれるように大きく進展した。

 奈良仏教と平安仏教には大きな違いがある。それは奈良仏教が「顕教系」の宗派なのに対し、平安二宗は密教系の宗派であった。密教というと怪しい響きに聞こえるが、そういうわけではない。

 経典の中で文章として釈尊が説いたとされる教えが顕(あらわ)に記されたことから「顕教」で、明確には書かれていないいが、仏教を深く学ぶと見えてくる教えが「密教」である。言い換えれば「仏の教えとは人智を越えた尊いもので、全てを文字や言葉に表すのは難しく、経典に書かれている(顕教)のは教えは上面で、真意は文章の中ではなく行間にあり、一見すると分かりにくい秘密の教え(密教)こそが真意」ということである。奈良仏教は顕教が、平安仏教は密教が特徴である。

 空海(弘法大師)が開いた真言宗は純粋な密教で、天皇から京都の東寺を賜り、総本山は高野山金剛峯寺である。布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力した。空海と最澄は同時期に中国で密教を学んだが、日本に帰国後、最澄はもう一度空海から密教を学びなおした。最澄は密教に加え禅、念仏、経などの様々な宗派の考えを取り込んだ総合仏教として天台宗を開いた。天台宗の総本山は比叡山延暦寺である。

 平安末期には、朝廷から武家へと政治の大変革が起き、保元・平治の乱以降、武士の争乱が起き、貴族から武士へ、平氏から源氏へと目まぐるしく支配者が変わり数多くの戦乱が起きた。

 また災害や飢饉が連続し、この世は「仏の教えがすたれた末法」に入ったと信じられ、人々は末法思想を背景とした不安にさいなまれ、仏教に頼ったのである。

 平安末期の仏教は、心のより所となるべき大寺院は、旧来の権益を守るために僧侶が武装して朝廷に強訴を繰り返すばかりで、また仏教そのものが加持祈祷や学問が中心となり厳しい修行を必要としないことから、庶民の心を平穏に導くものではなかった。

 

末法思想

 この背景には末法思想があった。仏教では釈迦の死後千年間を正法(しょうぼう)、次の千年を像法(ぞうぼう)、その後の一万年を末法に分けている。末法では仏法が正しく行われず、世が混乱するとされ、1052年がちょうど末法元年になっていた。 

 当時は貴族による摂関政治が衰え、院政へと向かう時期であり、さらに武士が台頭した時期でもあった。そのため治安の乱れが強くなった。仏教界は僧兵の出現などによる腐敗退廃も見られ、末法を真実ととらえた民衆の不安は増大していった。

 平安時代の仏教は貴族を相手にした加持祈祷や経典の研究が主で、鎮護国家達成の手段としての色合いが強く、庶民の身近な「生死や悟り」との関わりは希薄だった。仏教は朝廷の権威づけの道具となり、知識人たちの学府として、あるいは怨霊鎮魂のためであった。そこには「民衆」という視点はなく、貴族などの特権階級の道具にすぎなかった。いわゆる貴族仏教で、貴族の支持を得て発展した。

 また仏寺の衆徒が,朝廷や幕府に対して,神威をかさに大挙して強硬に訴訟する強訴が頻繁にみられ、比叡山延暦寺の僧兵,興福寺の僧兵、園城寺の僧兵などが我が物顔で出没した。平安時代後期に朝廷が弱体化して、武家政権の世となるとともに、僧侶による強訴は影をひそめていった。

 

鎌倉仏教
 鎌倉時代になって仏教は一般民衆の信仰を集めるようになった。鎌倉仏教は鎌倉新仏教とよばれるように、これまでの仏教とは大きく違っていた。平安時代までの仏教は貴族だけのものであったが、鎌倉時代になると庶民や武士も仏教を求め、仏教にすがるようになった。

 当時の多くの民衆は字を読めなかったので、仏教の難しい教義(難行)を理解することはできなかった。そのために仏教は分かりやすくなり(易行)普及したのである。

 法然や親鸞は 「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の念仏を唱えれば極楽にいけると説き、日蓮は法華経の題目「南無妙法蓮華経」を唱えればよいとした。このように鎌倉は仏教は庶民にわかりやすく日本中に広まった。なかでも時宗は別名「踊り念仏」といい「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えながら踊り恍惚状態に入ることをよしとした。

 当時は政治の実権が貴族から武士へと移る転換期であり、その一方、天災・飢饉・戦乱などによって民衆の苦悩は深まっていった。しかも仏教史観によれば末法の時代でもあった。そうした中で貴族階級中心の平安仏教から、民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれた。

 平安末期の末法思想の流行により、浄土思想が急速に普及し、源信(げんしん)や法然による「念仏」が武士や庶民に広く浸透した。また鎌倉時代には親鸞、道元、栄西、日蓮、一遍など各宗の開祖が続々と登場し新しい仏教が生まれ普及した。

 鎌倉仏教と呼ばれる新しい仏教は「武士や民衆の幸福」に主眼を置き、武士や庶民などから幅広く信者が集まった。武士や庶民にとっても死は身近であり、彼らは宗教に救いを求めていた。武士の仕事は人を殺すことであるが、それゆえに武士の信仰は熱心かつ真剣だった。また庶民にとっても死は身近であり、仏の力にすがりたかった。鎌倉仏教はこの末法思想を背景に庶民の心のあり方を重視した。

 鎌倉仏教以前の奈良仏教や平安仏教は旧仏教と呼ばれ、鎌倉仏教(仏教)との大きな違いは旧仏教が厳しい戒律や学問を必要とし、僧侶になることが重要であったが、鎌倉仏教の多くは「信仰心に重点を置いていた。これは僧侶以外の民衆でも厳しい修行などしなくても仏の加護を受けられるとし、そのため鎌倉仏教は多くの一般民衆に受け入れられ仏教が大衆化した。

 鎌倉仏教は信仰心さえあれば、誰でも仏の加護を受けられた。この武士や農民たちの望みを叶える鎌倉仏教はまさに宗教改革といえる。こうした状況のもと庶民や武士など幅広い階層に門戸を開いた新しい仏教が鎌倉仏教である。鎌倉時代は気候がやや温暖になり、農業の生産性が上がり、貨幣経済が発展して庶民の生活が豊かになり、仏教に身を入れる余裕が出てきたのである。

 鎌倉仏教の開祖たちのほとんどが比叡山で修行し「仏の前に一切は平等である」とする天台教を学んだことが変革の大きな要因になった。鎌倉仏教の開祖たちは源平の争乱、承久の乱、蒙古襲来を経験し激動する社会を体験した生きた教えであった。鎌倉仏教の宗派として、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗が生まれた。この6宗はいずれも開祖は比叡山延暦寺で天台宗を学んでおり、また前4者は念仏を唱える、いわゆる念仏仏教である。

 開祖たちの言葉に耳を傾けた人々は念仏・題目・禅の中から一つの教えを選択すれば良かった。たとえば浄土宗、浄土真宗、時宗は「南無阿弥陀仏」を唱え、日蓮宗は題目の「南無妙法蓮華経」を、臨済宗や曹洞宗は座禅を一つの道として誰でもできる修行であった。あとはそれを信じるだけであった。新たな仏教は幅広い階層の人々に受け入れられた。

 念仏仏教はひたすら「念仏さえ唱えていれば救われる」とする「他力本願」である。一方、座禅を組む臨済宗や曹洞宗は中国から輸入された仏教で、きびしい修行を積み、戒律を守ることで救われることから「自力本願」という。これら鎌倉新仏教6宗は教えも成立も異なるが、旧仏教にみられるきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず信仰は在家(在俗生活)が中心であった。

 鎌倉仏教で大衆化したら仏教は、その後も様々に発展し、分派、統合を遂げるが、日本の仏教史の中で鎌倉時代が最も仏教が発展を遂げた時代である。現在、日本人のほとんどが仏教と関わりを持つが、それは鎌倉仏教が元になっている。

 近代に入ってから発足した宗派は新興宗教と呼ばれることが多く、新興宗教はどれも歴史が浅いため、社会の教科書に載るのはまだ先のことであろう。

 鎌倉時代には旧仏教(南都六宗、天台宗および真言宗)も普及につくし、社会事業などの貢献をするなどした。新仏教・旧仏教においては官僧(天皇公認の仏僧)よりも遁世僧(仏道修行に努める仏僧)が活躍した。

 

他力本願と自力本願

 他力本願と自力本願の違いについて、子猫と子猿の例がある。猫の母親は子猫をくわえて移動するので、子猫は何もしなくてよい。母猫に任せっきりなので、これが他力本願になる

 猿の母親は、小猿をお腹にぶら下げて木から木に飛び移つるので、小猿はしっかりつかまっていないといけない。これを自力本願となる

 この例は分かりやすいが、電車の中で赤ちゃんを連れたお母親を観察すると単純ではないことがわかる。赤ちゃんは赤ちゃんなりに母親にしっかりつかまり、母親も赤ちゃんをしっかり抱きかかえている。つまり人間においては、自力本願でも他力本願でもないということになる。生まれたばかりの赤ん坊が、誰も教えたわけでもないのに、母親の乳をのむことを知っている。これは自ら備わった力で、強いていえばこれが自力である。しかし他力本願も自力本願も同じ仏力で、違いを見つけるのは言葉の遊びであろう。

 他力本願はこの世のあらゆる事物は移り変わるので、自分の力で処置しないで、自己を捨てて仏の手にすべてを任せようとすることで、自力本願とは自ら修行して煩悩(執着心や欲望)を断ち、悟りを開いて仏になろうとすることである。修行によりさとりを得るのではなく「自ら備わっている力で宇宙の力を自覚すること」である。他力仏教の代表は「念仏」、自力仏教の代表は「禅」と思えばよい。

法然(浄土宗

 鎌倉仏教の先駆けとなったのが法然であった。法然は平安時代末期の1133年に美作国(岡山県久米南町)の豪族の家に生まれた。両親の深い寵愛を受けたが、幼少時に父は非業の死をとげ、仇討ちをいましめる父の教えを守り、菩提寺の観覚のもとにひきとられた。観覚は法然の非凡な才能に気づき、出家して比叡山 に移すことにした。

 比叡山延暦寺で仏教・学問のすべてを修した後、天台宗を学び求道の生活を続けた。しかし比叡山のだれひとりとして法然の問いかけに、心ゆく教えを述べる僧侶はいなかった。

 法然は思索を繰り返し「ただ阿弥陀仏の名をとなえれば、本願のみ必ず往生ができる」という阿弥陀如来の教えに確信を持つようになる。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで、誰でも極楽往生できるとした。

 

阿弥陀如来

 アミダクジで知られている阿弥陀如来は仏教を開いた釈迦如来とは違う。阿弥陀如来は「大衆救済のためには、個人が修行するよりも、修行して悟りを開いた仏陀を崇拝し、礼拝すること」で助かるとした。
 悟りを開いた人を「仏陀」とするならば、仏陀は一人ではないはずである。これは一神教との大きな違いで、一神教は神は世界を創造したのだから創造の時点で存在していたのはたった一つの神としている。しかし仏教は世界は
仏陀の存在前に存在していたので、世界を誰がつくったかは問題にしていない。
 そのため輪廻転生の中で、悟りを開いた人が釈迦以外にいて不思議ではない。本来はお釈迦様たった一人だった如来が、大乗仏教以降、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来というように増えている。阿弥陀如来が他の仏と違うのは「
多くの人を救済する境地に達したときに自分は仏陀になる」と誓いを立てたことである。
 阿弥陀は如来になっているので、すべての人を救う力を持っていることになる。つまりこの
阿弥陀如来にすがれば、私たちは救われるのである。
 阿弥陀経に書いてあるのは、念仏を唱えることで救われるとある。「我を十念すれば」、つまり私のことを信じて十回念じれば、「私はあなたを極楽浄土に生まれ変わらせてる」と記されている。
 浄土とは仏国土のことで、すべての仏様には浄土があるが、極楽という場合は阿弥陀如来の浄土を指す。普通の人間がいくら他の如来を慕っても、その浄土に行く方法は一切書いていない。だが唯一、阿弥陀如来だけが「私を念仏すれば、仏国土に生まれ変わらせる」と具体的な方法を明示している。阿弥陀如来を信仰すれば仏国土に生まれ変わり、仏国土に生まれ変われば輪廻転生から抜けられる。修行して仏陀になるというのは無理であるが、仏国土に行って阿弥陀如来の指導を受ければ、凡人でも仏になれるということである。ちなみに仏国土に行くためには段階がある。

 まずは死ななければならない。死んだ後に、阿弥陀如来が支配する仏国土の極楽浄土で生まれ変わる。これを「往生」という。往生してから仏国土で修行して最終的に仏陀になる。これを「成仏」という。
  最終目標は悟りであるが、凡人では自力修行の悟りは難しいので、如来の力、つまり他力に頼って往生して、そこで修行して仏になるという二段階を経て悟りを開くことになる。そのため死ぬことは成仏ではなく、死んで往生して修行して初めて成仏するのである。もちろん仏国土に生まれ変われば、成仏は保証されるので、昔から死ぬことを成仏といったが、往生と成仏は異なるのである。
 阿弥陀如来は48の聖なる誓いを立てるが、求める者を仏国土に生まれ変わらせる願いが最も重要である。そのためその誓いのことを「王本願」と言った。浄土真宗の本山を「本願寺」というのもここからきている。

 

南無阿弥陀仏

 法然は一求道僧として誰からの束縛もうけずに、自由に念仏に打ち込むべく、三十年住みなれた比叡の山をおりて、東山に住房をうつした。

 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、浄土に生まれることを願った。南無阿弥陀仏と口にとなえて仕事をするように、南無阿弥陀仏のなかで生活しするようにと教えた。ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、修行や仏教の教えを学ばなくても、極楽浄土に行けるを説いた。

 お経はお釈迦さまがお説きになった「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三部経をよりどころにしているが、無量寿経は阿弥陀仏の修行時代の衆生救済の本願と、その願いが成就してからの御利益がのべられている。

 阿弥陀経は極楽浄土極楽浄土は西方の彼方にあり、阿弥陀仏が説法されており行者を守ると説いている。浄土宗の特徴は極楽往生した後、極楽浄土で修行し成仏することである。

 浄土門は阿弥陀仏の力にすがって極楽往生を目指すという、誰にでも実行できる「他力易行道」である。浄土門には正行と雑行の二つの修行があるが、法然は正行の中の「正定を専らにすべし」と説いた。正定には読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の五つがあり、それぞれが経典を読んだり、仏像を見たり、礼拝したり、念仏したり、仏の徳を讃えたりすることであるが、法然は「阿弥陀仏の名を唱える」すなわち念仏を唱えることを最も大切としたのである。

 阿弥陀仏は48の誓願をたて、その第18願(本願)に「阿弥陀仏に帰依する衆生のすべて救うと誓っている。そのため「阿弥陀仏の本願を信じて、ひたすら念仏を唱えればよい」としている。それは自分で何とかしようというのではなく「念仏を唱えることでお釈迦様が救ってくださる」という他力念仏の教えであり、法然は念仏を唱え浄土門に入ることを勧めた。

 法然の人格は暗夜のともしびのように多くの民衆をひきつけ、その念仏の教えは各階層の人たちに受け入れられた。浄土教は摂関家の九条兼実(かねざね)のように身分の高い公家貴族のみならず、武士や庶民に至るまで多くの人々の支持を集めた。しかし念仏という易行によって信者を獲得し、急速に宗勢を拡大する法然に対して、旧仏教側から非難の声が高まった。 

 南都興福寺の衆徒が後鳥羽院に念仏禁断の奏状に九箇条の過失を書きそえ、法然およびその門弟の処罰を強訴した。ちょうどその頃、門下の住蓮と安楽房遵西が、教えに感銘した院の女房と密通する捏造事件がもちあがり、75歳の法然は強制的に還俗(僧侶が俗人に戻る)させられ、讃岐国(香川県)に流された。

 法然は僧の身分を剥奪されて「藤井元彦」という俗名をつけられたが「たとえ死罪となっても念仏はやめない。辺鄙な土地で田夫野人に念仏を勧めることができるのはむしろ朝恩というべきだ」と語り、かえって地方の武士や庶民に教えが広まった。

 法然の教えは仏の御名の南無阿弥陀仏をとなえれば、生きることによろこびを感じ、充実した日々を過ごすせることである。唱えれば唱えれるほど私たちは仏の願いに近づくことができる。わたくしたちは素直な心になり、今日の生活に必ず光がさし込んで、活き活きした平和なくらしができる。それは明日の生活にも続き、生活の上にも花を咲かせてくれる。法然はこの教えを絶対やめなという固い決意をもっていた。

 1211年11月17日、帰洛を許された法然は、その月の20日、5年ぶりに京都の地を踏み、門弟をはじめ念仏の道俗のあたたかい出迎えに再会のよろこびをふかくされた。
 
法然ご老齢と所労がかさなって翌年の正月から病床につかれた。底冷えのきつい京都の冬は、老齢の法然にとって堪えがたいことであった。高弟の信空は「ご入滅ののちは、どこを上人のご遺跡といたしましょうか」と尋ねざるを得なかった。法然はわたしが死んでも墓を建てなくてもよい、南無阿弥陀仏をとなえるところには必ずわたしがいる」といっている。

 浄土宗の総本山は京都の知恩院である。知恩院は法然が半生を過ごし、最後を迎えた場所である。本尊は阿弥陀様で向かって右に観音様、左に勢至菩薩を祀るのが基本(弥陀三尊の形式)。

親鸞(浄土真宗

 両親とも貴族の出身である親鸞は源平の戦いの最中に京都で生まれた。4歳の時に藤原氏の一族の父が、8歳の時に母を亡くし、幼くして天涯孤独の身になり、次に死ぬのは自分と思った親鸞は「死んだら、一体、どうなるのか」と悩んだ。

 9歳の時に親鸞は出家をするため、叔父に連れられ京都・東山の青蓮院(しょうれんいん)を訪ねた。青蓮院は比叡山の座主を務める慈鎮和尚の寺で、出家をするため得度の式を「今日はもう遅いから、明日あげよう」と慈鎮和尚がいうと、

 明日ありと 思う心の あだ桜

 夜半に嵐の 吹かぬものかは

 この歌をみ「明日があると信じていても明日が来るとは限らない。人の命も同じでしょう」と親鸞聖は詠んだ。
 幼くして両親を亡くした親鸞にとって、死は身近なものだったが、9歳でこのよ
詠まれ、慈鎮和尚はそのに打たれ、早速「得度の式をあげよう」と答え、その夜のうちに得度の式を終え、髪はきれいに剃り落とされた。それは天台宗比叡山での20年間に及ぶ血のにじむような修行の始まりであった。と同時に親鸞90年の波瀾万丈の生涯が始まりであった。


比叡山での修行

 当時の僧侶は特権階級で、その地位を求めて入門する者が多くいた。しかし9歳で天台宗の僧侶となった親人は、「死んだらどうなるか分からない」ことを晴らすために比叡山に入ったのである。
 天台宗とは法華経に説かれた修行を実践し、煩悩と闘って悟りを得ようとする教えで、当時の比叡山は「女人禁制」で、男性だけが入山を許されていた。
 現在も残されている
難行「千日回峰行」は、12年間比叡山に籠もり、うち7年間は峰から峰を歩き続ける苦行の連続である。夜中零時前に起きて出発し、山上山下の行者道を30キロ歩く。その間に堂塔伽藍や山王7社、霊石霊水など約300カ所で修行を行う。始めの3年間は毎年100日修行し、次の2年間は200日、翌年は100日、最後の1年は200日間と休まずに修行しなければならない。

 途中の5年目には、9日間、比叡山の無動寺谷の明王堂に籠もり、断食断水、不眠不臥の「堂入り」と呼ばれる生死の境を切り抜ける荒行がある。どんな天候、病気になってもやめルコとはできず、もし敢行できなければ持参の短刀で自害するのが掟であった。これまで多くの行者が自害しているが、親鸞はこの大難行に打ち込み、言語を絶する煩悩との格闘をされた。修行行中の親鸞聖は「人間は煩悩に汚れ悪しか造れない。だから後生は地獄とお釈迦様はおっしゃていた。私の心の中にも欲望が渦巻き、怒りの炎が燃え盛り心にとぐろを巻いてくる。どうすればこの煩悩の火を消し、後生の一大事を解決できるのか」と思い悩んだ。
 私たちの苦悩、罪を造ることを仏教では「煩悩」といい、1人が108の
煩悩を持っているとされ、中でも「貪欲の心」「怒りの心」「愚痴(恨み・ねたみ・そねみの心)」の三つを「三毒の煩悩」といった。
 「貪欲」とは金や物が欲しい、褒められたい、認められたいという欲の心である。無いときはもちろん、どれだけあっても際限なく貪り求める心である。欲が妨げられると出てくるのが怒りの心「瞋恚」である。「あいつのせいで損をした」「こいつのために恥かかされた」と抑え難い瞋恚の炎で一切を焼き尽くしてしまう。「愚痴」は因果の道理が分からず、人の財産や才能、美貌や権力などを妬みそねむ心である。
 仏教では自分の運命は全て自分の行いが生み出す「自業自得」とされ、善
悪はすべて自分がまいた結果で、誰を恨むことも憎むこともできない。幸せそうに笑っている相手を憎み、不幸を願う醜い心が「愚痴」である。因果の道理が分からず悪を造り苦しみ続けることを「煩悩の塊」とお釈迦様は仰っている。それゆえに悪因悪果では苦しみ続けなければならない。どうすれば煩悩の火を消し、苦患から永久に救われるのか、9歳から29歳までの20年間、親鸞聖人は「法華経」の厳しいご修行に打ち込まれたが、抑えても払ってもどうにもならぬ煩悩になかされるのである。

 親鸞19歳の時「暗い心」の解決を求めて聖徳太子廟(大阪の磯長)に3日参籠した。三日三晩祈り念じると、真夜に聖徳太子が現れ 「阿弥陀仏はすべての者を救わんと力尽くされている。日本は真実の仏法が花開くふさわしい所である。私の言うことをよく聴きなさい。そなたの命はあと十年なるぞ、命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう。真の菩薩をよく信じ深く信じなさい」。親鸞はこの言葉を全く理解できなかった。「本当の菩薩を心から信じなさい」と言われても、本当の菩薩とは誰なのか、どこにいるのか、謎は深まる一方であった。

 9歳で出家された親鸞は、26歳になっても暗い心の解決はつかなかった。師匠の慈鎮和尚に苦悩を明かすと「仏道を求めることは大宇宙を持ち上げるより重いことである。悩んでないで仏様を信じろ」と大喝される。聖人は「どれだけかかろうとも、悟りが開けるまで求め抜きます」とさらなる修行を決意された。


美女の一言

 京都の慈鎮和尚を訪ねた帰り道、親鸞聖人が比叡山の麓の赤山明神の前を通りかかると、どこからともなく美しい声に呼び止められた。振り返ると妙齢な女性の姿があり、「親鸞さま、私には深い悩みがございます。どうか山にお連れください」と言った。驚いた親鸞聖人は「それは無理です。この山は伝教大師が開かれてより女人禁制ですから、お連れすることはできません」と答えた。これで女性はあきらめるかと思いきや、鋭く迫った。
  「親鸞さま。伝教大師ほどの方が、涅槃経を読まれたことがないのですか。涅槃経には、山川草木悉有仏性と書かれ、すべての者には仏性が有るとお釈迦様は仰っています。なのになぜこの山の仏教は、女性を差別するのでしょうか」
  七千余巻もあるお経の中で、涅槃経の言葉を知っているこの女性は一体何者なのか、どれほど経典を読んでいるのかと
親鸞は驚いた。

 答えられない親鸞に、女性はさらにたたみかけてきた。
「親鸞さま。女が汚れていると言われるのなら、汚れている罪の重い者ほど、余計に哀れむのが、仏さまの慈悲ではないでしょうか。なぜ、この山の仏教は女性を見捨てるのですか」人間には苦しむ者を助けてやりたいという慈悲があります。できのよい子より不器用な子ほど親の心はかかるもの。ましてや仏の慈悲は苦ある者に重いはずです。仏様ならなおさらのこと、罪重く苦しみの深い者を助けてやりたいのではないでしょうか。
衆生苦悩 我苦悩 (しゅじょうくのう がくのう)
衆生安楽 我安楽 (しゅじょうあんらく があんらく)
(人々の苦しみは私の苦しみである。人々の平安・楽しみは私の安楽である)と
仏は慈悲を重くかけられている。女性の罪が重いのなら、女を哀れみ救うのが、仏様のまことの慈悲ではないでしょうか」と女性は言った。立て続けに発せられる理の通った言葉に、親鸞は立ち尽くすばかりだった。

 とどめを刺すように女性は言い放った。
「親鸞さま。この山には、鳥や獣のメスはいないのでしょうか。汚れたメスが入ると山が汚れるならば、すでに鳥や獣のメスでこの山は汚れています。鳥や獣のメスがいる山へ、なぜ人間のメスだけが入ってはならないのでしょうか」
 仏教では人も動物も、鳥や虫に至るまで全ての命は平等であり、仏の慈悲はすべてに注がれていると教えている。それなのになぜ女性だけは山へ入って仏道を求めてはいけないのか、女は山を汚すというのが理由なら、すでに
山は鳥や獣のメスに汚されている。なぜ人間の女だけが入山を禁ずるのか。女を見捨てる比叡山の教えは仏の慈悲の教えといえるのでしょうか。鋭い指摘に、親鸞は絶句させられた。
「お願いでございます。親鸞さま。どうかいつの日か、すべての人の救われる真の仏教を明らかにしてください。お願いでございます」
女性はこう告げて去って行った。 万人を救済できぬ教えは本当の仏教ではない。このように言う謎の女の言葉に親鸞は衝撃を受けた。出家して17年、厳しい修行を重ねても暗い心の解決がつかず、真の仏法を明らかにする道を間違えていたのではないか、女性の言葉に親鸞の心は激しく揺さぶられた。
 
恋に煩悶される親鸞聖人
 親鸞が比叡山で修行をしていた頃、源平の合戦に敗れた平家の落ち武者たちが、源氏の厳しい追っ手から逃れるためににわか坊主となって隠遁生活を送っていた。
比叡山は刀を持つ者が入山できぬ治外法権の場であった。仏道を求めるのは財、権力、名誉を得るためではない。暗い心を解決することが目的なのに、にわか坊主たちは形だけの修行で比叡山に入ってきた。
 彼らは夜になると山を抜け出して遊女と戯れ朝帰りをした。そのような者を見ると「自分も楽しんだり、おいしい物を食べたい」と心が動いてしまう。自分だけ真面目に努力するのが馬鹿らしく、何も苦しい修行に打ち込まなくてもと精進する気持ちは薄らいだ。

 比叡山には仏道修行の妨げになるものは何もない。店もなければ遊ぶところもなく、女性さえ入山を禁じられていた。そんな環境に、夜な夜な女と戯れ、朝帰りする者たちが入ってきて風紀を乱らしたが、それでも親鸞は「ああ、何たることか。人の目はごまかせても、仏さまの目はごまかせない。自分だけでも戒律を守り抜いてみせる」と、昼夜なくひたすら解決に打ち込まれた。
 ところが親鸞は、かつて赤山禅院で出会った美しい女性のことが頭から離れなかった。修行をしていても、仏さまの顔があの女性の顔に見えてきた。経本には女性の笑顔が浮かんで自分を呼ぶ声が聞こえてくる。仏道を求めながら女のことばかり考え修行に集中できなかった。頭を振って修行に臨むが、払っても払っても浮かんでくる女性の姿態に狂おしいほどに悩まされた。


仏の眼をあざむく偽善者
 仏さまは見・聞・知(けん・もん・ち)を知るお方である。
仏さまはどんなに隠れても、やっていることを見ている。誰にも話さなくても、心でひそかに思っていることを全て知っている。「心で何を思っても、口に出さねば分からない」というのではない。お釈迦様は、私たちの全てをお見抜きなのである。
 
親鸞は平家の落ち武者たちを「仏の眼を欺くあさましい者」と思っていたが、赤山禅院で出会った女性に恋い焦がれ、「ああ、何たることか。体では抱いてはいないが、心では抱き続けているではないか。これほど戒律を守っていない者はいない。自分を聖人とうぬぼれて、にわか坊主たちを見下していたが、心のおもむくままの彼らのほうが、よほど私より正直者ではないだかろうか。醜い心を抱えながら上辺だけを取り繕って、仏の眼を欺こうとしている自分こそが偽善者ではないか。この心、一体、どうしたらよいのか」と心の悪に悶絶されたのである。
 
親鸞は叡山の麒麟児(きりんじ)といわれるほど自己に厳しく、仏道一筋に修行する者は他にないとされていた。その親鸞を慕いそばで修行がしたいと入山した覚明(かくみょう)「覚明殿。この親鸞ほどあさましい者はない」と述べた

 すると覚明は「何があさましいのか分かりません」と答えるだけであった。親鸞は「心は、醜いことばかり思い続けている。それが親鸞なのだ。覚明たのむ、この煩悩に汚れ切ったこの親鸞を打って、打って、打ちのめしてくれ」と懇願なされるのであった。

 
逆巻く煩悩の波
 9歳で仏門に入られた親鸞は、29歳まで比叡山で想像を絶する難行苦行に専心された。しかし暗い心の解決はできず、天台宗の教えに絶望され、20年間、全てをなげうって修行なされた
比叡山を下りる決断をした。
  静寂な夜、親鸞が比叡の山上から鏡のような
琵琶湖を見下した。
「あの湖水のように、私の心はなぜ静まらないのか。静めようとすればするほど散り乱れてしまう」仏さまのことだけを思おうとするが、思ってはならないことがふと浮かんでくる。考えてはならないことが、次から次と浮かんでくる。どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。自分の心でありながら、どうにもならぬ心に親鸞は苦しんだ。
  親鸞が尊敬していた中国の善導大師は、30年間、床を敷かず勉学修行に励まれ、また母親以外の女性を見なかった。余程、意志堅固な人でなければ30年も貫くことはできないが、その善導大師が次のことを仰っている。
 一日のうちに無限に心が変わる。心は盆の上の卵のように転がり続ける。しかも心に浮かぶことは、苦しみの世界(三塗・さんず)へ堕ちる悪いタネ(三塗の業)ばかりである。
体や口を動かしているのは心だから、仏教では心をいちばん重く見ている。心がその人の真の姿であり、口や体に表れているのは、その人の本質ではない。その心を静めようとすればするほど動きづめの煩悩が見えてくる。このさとりを得るのを妨げる煩悩である。

 涙に曇った眼を天上に移すと青くさえる月光が見える。どうしてあの満月のように、さとりの月が拝めないのか。煩悩の群雲が親鸞の心を覆い隠してしまうのか。この絶望の淵からどうして一歩踏み出されたのか。
  私たちは当たり前のように息を吸ったり吐いたりしているが、やがて必ず吸った息が吐けない時、吐いた息が吸えない時が来る。こんな暗い心で、一息切れたらどうなるか。この一大事をどうしたらよいのか。
  親鸞聖人はいても立ってもいられぬ不安に親鸞聖人は、追い詰められた。そしてついに新たな道を求め下山を決意した。

 

女犯の夢告

 下山後、親鸞は真っ先に聖徳太子が建立した六角堂(京都)へ100日間の参籠を行い、鸞は本尊の救世観音に救われる道を必死に尋ねた。それは磯長の夢告で聖徳太子から「おまえの命はあと10年」と告げられてからちょうど10年目であった。祈願の95日めの夜明け、救世観音が顔かたちを整え、僧の姿をして現れ、親鸞にこう告げた。「そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私(観音)が玉女という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には極楽に導いて生まれさせよう。これは私の誓願であり、すべての人に説き聞かせなさい」。

 それまでの仏教では僧侶は一切女性に近づいてはならないという厳しい戒律があった。しかし色と欲から生まれた人間が、色と欲から離れ切れるのか。この矛盾に苦しんでいた親鸞が、「もしおまえが女性と交わる時は、私(観音)が女となってあげよう」と告げられたのである。

 これは男も女も、すべての人間がありのままの姿で救われる、阿弥陀仏の絶対の救済を教えた夢であった。赤山禅院で美しい女性に会ってからの煩悶が解決し、親鸞は肉食妻帯を決意したのである。このことは内室・恵信尼の手紙に書いてある。


法然との出会い

 その後、かつて比叡山でともに修行をした聖覚法印と京都で出会った。親鸞のお顔は沈痛な面持ちであったが、聖覚法印の表情は晴れやかであった。親鸞は「肉体はどこも悪くないが、心の病気で苦しんでいる。聖覚殿はこの暗い心の解決をどうしたのか」、聖覚法印はその問いを待っていたかのように、満面の笑顔で法然上人を紹介したのである。

 親鸞は法然と出会い「阿弥陀仏の本願」を説く法然上人に導かれ、法然の弟子として研鑽を積むことになる。法然の教えを受ける親鸞は「他力本願」という概念にたどり着いた。他力本願とは「他人に任せっぱなして自分は何もしないこと」という意味ではない。

 「他」は阿弥陀如来、「力」は仏様の法力、「本願」は人間を皆仏に導きたいという願いである。つまり「阿弥陀如来様のお力を信じて仏になろう」という意味である。法然と出会い、阿弥陀仏の本願によって絶対の幸福に救われた時、親鸞の疑問はすべて氷解した。親鸞は法然上人を恩師として生涯忘れなかった。

 さらに法然の教えを徹底させ、阿弥陀仏の存在を信じ念仏を言葉で唱えることだけでなく、心に念ずるだけで極楽往生できるとした。

 

承元の法難

 浄土宗の教えはわかりやすく、一般人や武士にも受け入れられやすいため信徒が増えていった。これに対して興福寺も延暦寺は「浄土宗の念仏はけしからん、天皇のお力で禁じてください」との書状を朝廷に送った。

 そもそも聖職者が俗世を動かそうとする。これを放置しておくと武力行使をすると主張したのである。朝廷の中にも浄土宗派がいたため、朝廷も対処に困ってしまうが、その時「松虫鈴虫事件」が起きてしまう。この「松虫」と「鈴虫」は虫のことではなく、後鳥羽上皇の寵姫した女官の名であった。彼女たちがこっそり御所から抜け出し勝手に浄土宗に出家してしまったのである。
 当然、後鳥羽上皇は激怒し、出家させた僧を死刑にし、法然・親鸞の僧籍を剥奪して流罪に処した。
老いた法然が讃岐に流されたとき、弟子として34歳の親鸞は連座して越後国(新潟)に流刑となった。

 その後、法然は赦免されたが帰京して2ヶ月後に亡くなってしまう。親鸞は法然の赦免と同じく罪を許されたが、法然が体調を崩した頃は雪で身動きできず法然と会えないままになってしまった。

 親鸞は強制的に還俗させられ、妻帯(妻:恵信尼)し、自らを「戒律を守れない愚かな僧」と自称した。肉食妻帯は仏教の戒律に違反した行為であるが、このことが親鸞に「戒律を守れない人こそが救われる」という信念を持たせた。これが浄土真宗(一向宗)である。

 親鸞による教えは、従来の僧の習俗にも大きな変化をもたらした。極楽往生には何の条件もなく、僧が守るべき戒律にもこだわることはないとした。それまで禁じられていたた肉食妻帯を自ら進んで実践した。それには「女性は穢れているから、入山は許されない」とする比叡山に、「鳥獣畜類」のメスはたくさんいるではないかという矛盾をついていた。この女性の鋭い問いかけに対して、すべての人がありのままで救われる真の仏法を明らかにするという意味が含まれていた。

 現代の僧侶はどの宗派でも結婚できるが、これが広まったのは明治以降のことで、それ以前の僧は浄土真宗を除いては結婚できなかった。妻帯と言う戒律を破ったことが浄土真宗の特異性である。この他にも親鸞は「自分の煩悩の深さを知っている人間(悪人)こそが、自らが阿弥陀仏の救いの対象となる」という悪人正機(しょうき)を説いた。

 親鸞は越後国(新潟)に流刑された後、常陸国稲田の西念寺(茨城県笠間市)を拠点を移し東北・北陸地方へも布教を行なった。親鸞の代表的教えである「教行信証」は常陸国の西念寺で書かれた。

 

法然と親鸞の違い
 法然の念仏は他力本願の立場から念仏を一遍唱えるよりも十遍、十遍よりは百遍というように「極楽往生するには念仏は数多く称えた方がよい」とする教えである。つまり他力本願ながら念仏の回数という自力を重視していた。しかし親鸞は自力本願的要素を徹底的に排除し「念仏は回数ではない。戒律を守れない救いようのない凡夫ゆえに、阿弥陀仏しか頼れないことを自覚すれば、また我が身のすべてを阿弥陀仏の前に投げ出す信心こそが重要」とした。

 法然の教えは念仏のみ唱えれば極楽浄土に行けるが、親の浄土真宗は念仏を唱えようと思った時にはすでに救われているという「絶対他力」である。念仏を称えることは大切だが、称えようとして言葉を発せない状態にあても、信心は決定しているので救われるといいうことである。

 また煩悩深い人間(悪人)こそが、阿弥陀仏に救済されるべきと親鸞は説いている。「善人が往生できるのだから、悪人が往生できないわけがない」というのが、親鸞の悪人正機説である。悪人という言葉に誤解があるが、自分では善人だと思っている人間の傲慢さこそが悪という意味で、自分の中にある悪への自覚をいっているのである。

 親鸞の教えは農民や地方武士のあいだで広がり、やがて浄土真宗(一向宗)とよばれる教団を形成してゆく。念仏を唱えれば極楽往生に行けるという手軽さから多くの民衆に受け入れられ、日本全土に広がってゆく。自力で極楽浄土に行こうとせず、阿弥陀如来にお任せするのが大切だというのが親鸞の教えである。

 しかし一方で、共通の思想を持った民衆が宗派の名の下で団結し、大名などの施政者に反乱を起こすことがあった。それは当時一向宗と呼ばれていた浄土真宗である。この一向宗が起こした反乱は一向一揆と呼ばれ、全国各地で多くの大名たちに恐れられた。
 奈良仏教で政治に集中し過ぎた寺院の権力を分散させるために平安仏教が始まり、その平安仏教が元となった鎌倉仏教で民衆が団結し、再び仏教が大きな力をつけたのである。親鸞の没後に弟子がまとめた歎異抄(たんにしょう)が親鸞の教えである。

 

89歳で大往生

 親鸞は越後国(新潟)に流刑後、気を取り直し、東国に師の教えを広めようとした。当時は「お経を何回も唱えれば救われる」という教えが主流だったが、浄土真宗では「信心さえあれば救われる」としていた。東国の茨城県笠間市にある西念寺を拠点として、親鸞はここに草庵を結んで、約20年間布教を行った。

 60歳代になってから京都に帰るが、その理由はわからない。東国で得た弟子たちを置いて、老体の身で長距離を移動するが、親鸞の本心はわからない。承久の乱を挟んでおり、後鳥羽上皇が隠岐へ流されたためとの説もあるが、理由はともかく帰京してからの親鸞は著作活動に専念した。東国のことも忘れたわけではなく、息子の善鸞とその息子(親鸞の孫)如信を派遣して、正しい教えを広めるように言いつけている。
  しかし善鸞は親鸞の教えに逆らう言動をしたため、絶縁せざるを得なかった。そのとき、親鸞は82歳であった。そして7年後、89歳で親鸞は亡くなった。何人かの弟子と弟の尋有、末娘の覚信尼が死を看取った。孫の如信は後に覚信尼らの依頼で親鸞の廟所である大谷廟堂(本願寺の原型)の法灯を継ぎ、親鸞の命日の法要「報恩講」のため京にやってきて来て、後に本願寺二世になり「如信は親鸞の教えに適う」とされた。

 浄土真宗の総本山は京都で東西に分かれている本願寺である。なお親鸞自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できたことを生涯の喜びとしている。

恵信尼

 恵信尼は浄土真宗の開祖・親鸞の妻である。

 1182に生まれた恵信尼は越後の豪族・三善氏の出であるが、親鸞と恵信尼が知り合ったのは流罪以前の京都なのか、越後なのかは不明である。

 1207年に親鸞は越後に流罪になるが、流罪と言っても牢屋に監禁されたわけではなく、監視付きで恵信尼との生活を強いられたわけではない。当時の流罪は国境を越えなければ自由に生活できた。

 恵信尼の手紙をみると、越後のように交通が不便で文化の低い所であっても、高い教養を身につけていたことがわかる。越後には京の関白・九条兼実の荘園があり、恵信尼はその管理人・三善氏の娘で、その高い教養は九条兼実の屋敷に上がっていたためとされている。

 親鸞は戒を破って妻帯を公にした最初の僧であった。そのため非難中傷も多く、結婚生活は苦難の連続だった。親鸞はおのれを語らず、親鸞の史料は極めて少ない。そのため親鸞の死後に恵信尼が娘の覚信尼に送った十通の手紙が大正10年に西本願寺の宝物庫から発見されるまでは、恵信尼はもちろんのこと親鸞の存在さえ疑問視されていた。架空の聖人とされていた親鸞の実在を恵信尼が手紙で実在の人物として登場させたのである。もちろんそれでも不明な点は依然として多い。

 1207年に親鸞は越後に流罪となり、恵信尼は越後で一子をもうけ、その5年後に親鸞は赦免となったが、そのまま2年間滞在しており越後に7年間い他ことになる。1214年に親鸞とともに常陸国に移住し、さらに数人の子をもうけた。

 親鸞・恵信尼一家は先妻の子・善鸞をふくめ四男三女の七人である。親鸞は寺を持たなかったので、恵信尼の苦労は並大抵のものではなかった。食うや食わずの生活が一生続き、あまりの貧乏に使用人が逃げ出すほどであった。

 1253年、親鸞82歳、恵信尼72歳の頃である。親鸞一家は常陸国から京に戻るが、食えないほどの貧乏生活であった。関東時代の弟子たちがお金を送ってきても一家の生活を支えるには足りなかった。そのため恵信尼と何人かの子が、親鸞や末娘の覚信尼と別れて越後に戻る事になる。

 越後には三善家の実家や土地があったが、越後に帰ってからも着るものもろくになかった。しかし恵信尼は決して厭世的になることも、卑屈になることもなかった。京にいる覚信尼から着物が送くられてくると「死出の旅の着物にする」と手紙を書いている。このとき恵信尼は80歳を過ぎていて、貧窮の中でも女らしさを忘れない女性だった。家庭的な苦労を全て引き受けて陰で夫の布教を支えた。

 親鸞と別れて越後に帰ったまま、恵信尼は二度と親鸞に会うことがなかった。越後で親鸞の死の知らせが届いたとき、心を静め娘・覚信尼に宛てた手紙がある。心に響きわたるような痛切な文面である。

 当時の平均寿命の倍近く生きた恵信尼が、83歳の時に大病をして死期が近い事を悟り、自分のお墓を建てたいと願った。このことは日本人にとって珍しい事ではない。来世のみらなず現世の往生を願うのが日本人の素朴な信仰心なのである。親鸞と恵信尼の信仰が必ずしも一致していないが極楽往生を確信していたことは確かである。

 恵信尼は晩年を越後ですごし、親鸞の死から6年間後に87歳で亡くなった。残された恵信尼の手紙は87歳の時のものが最後で、亡くなるまで手紙を書き、恵信尼は苦労を一身に背負い親鸞の布教を支えていた。

 親鸞の偉大な浄土真宗の一端を担ったのは恵信尼である。しかし目立つのは親鸞ばかりで、恵信尼は歴史の中から忘れ去られている。恵信尼の父母は誰なのか、兄弟はだれなのか、いつ親鸞と知り合い結婚したのか、子供は何人なのか、いつ越後に移ったのか、いつ亡くなり、その様子はどうだったのかなどは何も残されてはいない。あるのは恵信尼が書いた手紙だけである。

一遍(時宗

 一遍や時宗(じしゅう)は踊念仏で知られているが、一遍とは「一にして遍く(あまねく)」の意味で、南無阿弥陀仏を一遍(一度)唱えるだけで悟りが得られるという教義である。一遍の属名は河野時氏で、伊予国道後(愛媛)の名門武士・河野通広の第2子として生まれている。河野家は承久の乱で京方についたため、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。

 10歳のとき母が死ぬと、天台宗・継教寺で出家し、18歳のとき比叡山(延暦寺)に入るが、22歳のとき兄の死去により家督相続の争いに巻き込まれ、叡山を出て修行の旅に出た。26歳のとき浄土宗に帰し、法然上人の弟子として知られた観智上人のもとで7年間修行し、浄土を伝授され名を智真と改めた。

 信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励んだ。参籠した熊野本宮で「衆生済度のため、信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、念仏札をくばるべし」との夢告を受けた。

 一遍は南は九州から北は奥羽にいたるまでくまなく遊行し身命を尽くし、法然上人、親鸞聖人と並び日本浄土教を確立した名僧とされている。浄土宗は開祖の法然が亡くなると、念仏への解釈や唱え方についての違う複数の宗派に分かれ、その一つが時宗である。

 「念仏を何度も唱えればよい」とする浄土宗の法然、「阿弥陀仏の存在を心の中で信じ念ずればよい」とするのが浄土真宗の親鸞で、時宗の一遍は「信仰の有無を問わず南無阿弥仏と1度でも唱えれば、極楽浄土に旅立つことができる」とした。

 時宗の一遍は、浄土宗の流れの中で最も遅く登場したが、人の善悪や外見に関わらず南無阿弥陀仏と唱えることで往生できるとする、完全な「他力念仏」が特徴である。

 一遍は踊念仏について「阿弥陀の教えを聞くだけで踊りたくなるほどうれしくなる」と述べ「踊る興奮の末に煩悩を捨て、心は仏と一つになる」と民衆にさとした。同じ浄土教でも一遍は念仏の回数はおろか、善人・悪人の区別、信心の有無とは関係なしに「南無阿弥陀仏」を唱えれば、すべての人が救済されると説いたのである。「阿弥陀仏様はとてつもなく偉大なお方であり、善人と悪人の違いや、仏の道への信心の有無に関わらず、私たちはすべて極楽往生ができる」とし、一遍は人はいつでも臨終間際(死ぬ直前)に「南無阿弥陀仏」と心で唱えればよいとした。

 踊念仏とは踊りながら太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし、念仏を唱えることで、ひたすら踊りながら念仏を唱えれば、苦しみはなくなり、その瞬間に極楽往生は決定するのである。踊念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近いものである。

 人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、男女の踊り手が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だった。踊念仏によって人間にとって捨てきれない煩悩を燃え尽くすとした。興奮の末に煩悩を捨て心は仏とひとつになるとした。民衆は踊りながら気を失ったり,仏がのりうつる現象がみられることもあって庶民に広まった。踊念仏には「極楽往生できることがすでに決まっているのだから、喜びや感謝の気持ちを表現する」という意味が込められている。

  一遍は居を定めず全国を行脚しながら踊念仏によって信者たちに念仏を唱えさせた。一遍とその信者(時衆)たちは、踊念仏によって多くの民衆に教えを広め、諸国を巡り歩いた。一遍自身も全国を巡ったことからは遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とよばれ、また「日常のどのような時も臨終を心得て念仏せよ」との教えから一遍の教えは時宗とよばれている。

 かつて定められた仏法の要義も、しょせんはかりそめで、真の行者はそのようなものは皆捨ててしまえばよい。全てを捨てさり南無阿弥陀仏と唱えるだけで他に何もしないことである。この言葉は黄金のような教えで、知恵も愚痴も、善悪の境地も、貴賤高下の道理も、地獄を恐れたり、極楽を願う心も、悟りさえもすべて捨て念仏を唱えることが、阿弥陀仏の本願であるとした。声高らかに念仏を唱えれば、もうこの世は浄土である。宇宙のすべては仏と一体なのだから、愚かな者の心になって念仏を唱えることである。

 この一遍の教えは主に地方の武士や農民の支持を受けた。一遍は全てを捨て、命を投げ出して人々を救おうとした。自分の家や田を手放して、全国いたるところに足の向くまま歩きまわり、人々に念仏を勧め「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」と書いた「名号札」を配り続けた。

 一遍の信者は次第に増え、一遍は信者とともに念仏を唱えながら各地をまわった。信者は武士・農民・商工業者とのべつなく広がり、鎌倉時代の終わり頃から室町時代にかけて、浄土教の各宗派の中では時宗がもっとも勢力があった。室町時代には信者をさらに増やし、南北朝の動乱の期には従軍僧として戦に赴いたほどである。全国津々浦々で遊行をしている僧侶を見ることができ、室町文化が生まれたのは、時宗の僧侶たちの活躍が大きいとされている。しかし江戸時代になると通行の自由がなくなり急速にすたれ、ほとんどが浄土宗に吸収された。

 一遍は死の直前に「阿弥陀経」を読み上げながら「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言し、自己の所有していた経典をすべて火中に投じた。そのため一遍自身による著作は伝わっていないが、一遍の活動はその高潔さに惹かれる弟子たちが編集した「一遍上人語録」や一遍の布教の有様を描いた「一遍上人絵伝」によって知ることができる。

 時宗の総本山は神奈川県の清浄光寺であるが、現在では時宗の寺数は約400と少なく、信者数は全国で25万人ほどである。踊念仏は徐々に変化して、お盆になると人々が踊る盆踊りの元になっている。

 長野県佐久市の「跡部の踊り念仏」は、一遍上人ゆかりの古い姿を伝えているとして、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また山形県天童市の佛向寺には踊念仏の一種である踊躍念仏が残されている。

 

日蓮(日蓮宗

 日蓮宗は鎌倉新仏教の中では遅く、鎌倉時代後期に成立した。鎌倉時代後期には飢饉や疫病の流行が相次いで起こり、また元寇による対外的危機も生じ、社会不安が高まっていた。そのような時代背景を受けて、日蓮は末法の時代にふさわしい教えを「法華経」に求め、法華経の題目を唱えることを説いた。

 日蓮宗の特徴は、他の鎌倉仏教は「来世に救いを求めたが、日蓮宗は来世ではなく今の生きる現世に救いを求めた」。つまり来世の浄土に望みを託すのではなく、この世界こそが浄土であると説いた。

日蓮聖人の誕生

 日蓮は、1222年2月16日に安房国(千葉県鴨川)の貧しい漁村で漁師の子として生まれている。日蓮は「海辺の旃陀羅が子なり」と述べているが、 旃陀羅とは古代インドで最下層階級とされた屠殺を職業とする者のことで、名もなき賎しい漁夫の子として生まれたことは、いかなる身分の民衆であっても等しく成仏できることを自ら示している。

 12歳の時に近国にある清澄山の古刹・清澄寺の道善房を師として仏門に入られ、寝食を忘れて学問や修行に打ち込み4年後に剃髪して正式に出家した。若き日の日蓮聖人は「人を幸せにするはずの仏教宗派がたくさん咲き乱れているのに、なぜ世の中は乱れるか。そもそも一人のお釈迦さまの教えであるはずの仏法に、なぜこれほど多くの宗派が乱立し、その優劣を争っているのか」。民衆の迷いと苦悩を救済するには、真実の宗教を探求しなければならない。日蓮の真の仏法を求める旅がここから始まる。

 日蓮聖人は世の安穏を実現する教えを捜し、仏法の全てを知り尽くそうとする使命感にあふれていた。清澄寺のご本尊・虚空蔵菩薩に願を掛けられ「日本第一の智者となしたまえ」と祈念してお堂に籠り、21日間の不眠不休の修行に入られた。

 21日目の満願の日には「生身の虚空蔵菩薩より大知恵を給はりしことあり。明星の如くなる大宝珠を給りて右の袖にうけとり候(清澄寺大衆中)」と、虚空蔵菩薩から「智慧の宝珠」を授かった。その満願の朝に、日蓮聖人は血をどっと吐き周りの笹を真っ赤に染めて倒れた。しかし日蓮聖人は疲れもなく心身爽快で、周囲が明るくなったと伝えられている。これは虚空蔵菩薩のご利益で「凡夫の不浄の血を吐いて清浄な身」となられたのである。
 その後、清澄寺の書物をすべて読破し、
さらに師匠の道善房に許可を得て修学の旅にたたれた。

 

新たなる確信と決意

 日蓮は比叡山・三井寺・薬師寺・仁和寺・高野山などで修行を重ねるうちに「来世ではなく、現世での在り方を問い、今を生きることの重要性」を説いた。混迷した世の中で正しく人々を救う「法華経」こそが「お釈迦さまの真の教え」であると確信を持った。日蓮は法華経のみが釈迦の正しい教えであるとして「正しい宗教の教えが行われていないので世の中が乱れる」と強い信念を持つようになる。たとえ法華経の経典が読めなくても「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われると説いた。これがいわゆる日蓮宗である。

 聖人32歳の4月28日の早朝、清澄山・嵩ヶ森の山頂に立って、太平洋の彼方から暁闇を破って差し昇る朝日を拝み、初めて「南無妙法蓮華経」の題目を唱え出だされた。大自然に向かって太陽のように人々を照らし、蓮華のように清らかな教えを礎に日蓮宗を宣言され、同時に自らの御名を「日蓮」と改めた。

 日蓮宗は大きく区分すると、最澄の天台宗の流れをくみ、前書した浄土宗、浄土真宗、時宗の浄土教とは違っている。浄土教とは他力本願の言葉からも分かるように「南無阿弥陀仏」と唱えれば人は仏様になれるとしたが、同じ他力本願でも日蓮宗は「仏は自分の中にあって、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えることで自分の中の仏が目覚めて幸せになれるとした。

 

乱れた世の中

 この頃、世の中では天変地異が続出し、大地震・大飢饉など、まさに末法の世の世相が現れ、とりわけ1256年からの5年間は、疫病・飢饉・暴風雨・大火災などの災害が相次いだ。なかでも鎌倉を襲った大地震では数万人もの死者が出て、道端に死体の山が散乱するなど想像を絶する地獄絵図を見せつけられるようであった。

 日蓮は法華経こそが真の教えとして、このように乱れた世の中(末法の世)を救えるのは「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」のみであるとした。

 日蓮はこれらの災いは「誤った仏法が広まってしまった事による天の諫めである」とした。日蓮は法華経のみがこの世を救うことができると信じ、それ以外の宗教は邪教であり、 邪教を信じれば国を滅ぼすことになると他の宗派を激しく攻撃した。

 「南無阿弥陀仏を称える者は無限地獄に堕ち、禅宗は天魔の所為で、真言宗は国を滅ぼすは国賊である」と他宗を激しく攻撃して布教を進めた。浄土宗や浄土真宗のように静かに念仏を唱えるのではなく、自らが法華経を信仰していることを周囲に認識させる意味から、題目を唱える際には団扇太鼓をドンドンと打ちながら「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と大声を張り上げるようになった。 

 日蓮は当時流行していた念仏や禅宗などは釈尊の真意に背く邪宗教としたが、この諫言は鎌倉幕府に受け入れられず、かえって他宗の激しい怒りをかう事になった。このように排他性が強いのが日蓮宗の大きな特徴である。

 

立正安国論

 日蓮大聖人は鎌倉に戻ると名越の松葉ケ谷に草庵を結び、ここから鎌倉の街辻に出られ、諸宗の邪義を破して弘教を開始された。 当時の世相は天変地異が相続き、地震、疫病、飢饉等の災害が激烈をきわめ、民衆の苦悩は筆舌に 尽くしがたいものだった。
 日蓮聖人はこうした様相を御覧になり、特に1257年8月の大地震をきっかけに、立正安国論を著した。 その大意は「一切の災難の根本原因は、時の主権者はじめ万民が、正しい仏法に背いて邪宗邪義を信仰するからであると非難した。

 「天変地異が続発するのは法華経の正法に背くからで、もしこのまま邪宗教を廃して正法に帰依しないならば、自界叛逆難(国内の反乱)と他国侵逼 (他国からの侵略)の二難が起きるであろう」。日蓮は時の実権者・北条時頼に「立正安国論」を提出した。この立正安国論は民衆の悲痛な叫びを聞いて、決然と立ち上がった日蓮大聖人の至誠の書だった。

 日蓮は相次ぐ災害の原因は、人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じているからとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱えた。正法である法華経を中心とすれば(立正)国家も国民も安泰となる(安国)と主張しが、日蓮聖人の主張は幕府に受け入れられなかった。しかし1268年にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、「立正安国論」は元寇と結び付けられることになる。また国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せた。

 

四大法難

 日蓮聖人の強引ともいえる布教活動により、他宗を信奉する者は数々の追害をもってこれに応えた。 日蓮大聖人は一生のうち生命にかかわる法難を四回、小さな法難は無数に受けた。浄土宗の宗徒はその内容に激昂し、禅宗を信じていた北条時頼からも政治批判と見なされた。、他の宗派や幕府による迫害を受け、日蓮自身も何度も生命の危機にさらされた。

松葉ケ谷の法難

 日蓮聖人は鎌倉松葉谷で草庵に住んでいたが、暮府を後ろだてにした念仏僧の信徒が徒党を組み、草庵に火にかけ焼き討ちにした。辛うじて難を逃れた日蓮聖人は下総の国の大信者・富木常忍へ身を寄せるが、日蓮聖人はすぐに鎌倉に戻り、以前にも増して激しく他宗を論破したのである。

伊豆法難(40歳)

 念仏者はもはや法論を行なっても勝てる見込みがなく、ひそかに日蓮聖人を処罰するように幕府に訴えた。日蓮聖人をこころよく思わなかった執権・北条長時は父の重時と共に日蓮聖人を捕らえ伊豆流罪(伊東)にした。

 流罪と言えば本来なら島流しであるが、日蓮聖人を良く思わない他宗派と幕府の役人が「何とか日蓮の命を亡きものに」と海に浮かぶ岸壁「まな板岩」に「足かせ」をしたままの置き去りにした。夕陽が傾く中て溺死させようとしたが、幸いにも近くを船で通りかかった漁師が海から日蓮聖人を引き揚げ命をつなぐ事が出来た。

 日蓮聖人は伊豆に流罪となったが、日蓮聖人を迫害した北条長時と重時が病床に倒れ、重時は狂死した。この仏罰をまのあたりにして、日蓮聖人は1年9ケ月ぶりに流罪が赦免された。

小松原法難(43歳)

 日蓮聖人は再び安房の国(千葉県)での布教活動を始めようとした。工藤吉隆は鎌倉で日蓮聖人の説法を聴き、朋友、荏原義崇・池上宗仲・四条金吾・進士善春などと共に念仏を捨て法華経を信じ日蓮聖人に帰依した。その工藤吉隆の招きにより工藤邸に向かう途中、126411月11日の夕刻のことである。東条郷の松原大路(千葉県鴨川市)にさしかかった所で、地頭の東条景信が数百人の兵を率いて襲撃してきた。かつて念仏は無間地獄に落ちると教えたが、「熱心な念仏の信者」であった東条景信は念仏を否定する日蓮聖人の事を面白く思わず殺害しようとして襲撃したのである。激戦の末、弟子の鏡忍房、工藤吉隆は討ち死にし、日蓮聖人は眉に三寸の傷を負ったが九死に一生を得た。

11通御書
 日蓮聖人が再び鎌倉に戻られた時、蒙古国からの国書が鎌倉に届き、8年前に立正安国論で警告した他国侵逼難が現実の問題となった。 日蓮大聖人は当時の幕府および仏教界の代表11人に書状を送り公場対決を求めた。公場対決によって法の正邪を決し、すみやかに邪宗邪義を捨て正法に帰伏するように迫った。 この11通御書の中に諸宗の邪義を破して説かれたのが、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊という四箇の格言である。 しかしながら幕府および七大寺の僧は、11通御書にあわてふためき、その警告を無視して日蓮聖人を迫害しようと策略を練った。

龍口の御法難(50歳)

 1271年年9月12日、 日蓮聖人は良観のもとに便りをつかわし、祈雨の勝負で法の正邪を決することになり、 良観の大惨敗に帰した。 ところが祈雨に破れた良観は諸宗の僧と策略をなし幕府を動かして大聖人の御命を奪おうとした。
 日蓮聖人は奉行所に呼び出され「人心を惑乱させるもの」取り調べを受けたが、逆に「自分が是か諸宗が是か、幕府の殿上にて公場対決をもって正邪を決すべし」と強く主張し裁く者を諫言したのである。 逆上した内管領・平頼綱は、9月12日、数百人の兵と共に、松葉ケ谷の草庵を襲撃する暴挙に出た。これに対して日蓮大聖人は厳然として「平頼綱の狂気の沙汰をみよ、日蓮を失うことは日本国の柱を倒すことである」と諫め、平頼綱をはじめ居並ぶ兵士達は顔色を失った。

 鎌倉幕府にとって不都合な日蓮聖人はあたかも重罪人のように捕えられ、何の裁判も行なわれず、平頼綱によって密かに処刑することになった。日蓮聖人は捕らえられ佐渡流罪となったがこれは名目であって「日蓮聖人を亡き者に」と、日蓮聖人は裸馬にに乗せられ、鎌倉の大町・小町・雪の下、大路・小路を引き廻されて龍の口の刑罪の場所に向かった。何の罪もなく、国の法では裁くことのできない日蓮大聖人を、密かに処刑してしまう魂胆だった。途中、鶴ヶ岡八幡宮にさしかかったとき、日蓮聖人は大声で「八幡大菩薩はまことの神か」と源氏の氏神を叱りつけたのである。
 知らせを聞いた信者の四条金吾は、一緒に死ぬ覚悟で駆けつけた。日蓮大聖人は馬より静々と降りると「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と唱題し、午前2時から3時の子丑(ねうし)の刻に首を切られことになった。子丑とは陰の終り陽のはじまりで、草木も眠り流れる水も一時は止まる刻である。
 依智ノ三郎直重が立ち上がり、北条家に伝わる名剣の鞘を払い、用意していた切柄杓に水を打ちそそぎ、露を切り日蓮大聖人の頸を打つ構えを見せた。しかし依智ノ三郎直重は何思ったのか、小腰をかがめ「いかに日蓮の御坊、御身は高徳の出家と承わる。夜討ち強盗の罪もなく謀反殺害の科もあらず。ただ妙法蓮華経を広めんと諸宗を謗り給うが故に、今日この場での仕儀。三郎直重は50歳の坂を越え、いかに役柄とはいいながら老い先短き身を以って仏法弘通の出家の頸を切る罪はとても重い。未来の程も恐ろしい、よって我が身に変えても、この義を御上に申し上げ、一命をお助け申さんが如何でござる日蓮どの」と声を発した。
 日蓮大聖人は「三郎直重殿とやら、御親切なるお言葉 ありがたく承る。なれども今や御身の言葉に従い念仏を唱え、題目の修行をやめれば、年来の大願も水の泡。日蓮すでに一宗建立の時より、かねてから期したる大難である。一命を法華経に捧げ奉ることは、砂をもって黄金に代え、石に玉を商えるが如し。これに過ぎたる喜びなし。はや頚打たせ給え」今は是非に及ばず、三郎直重が高祖の後ろに立ち廻り「しからば日蓮、観念せよ」。ところがまさに首を切られようとした「その瞬間」奇跡が起きた。

 突如として対岸の江ノ島の方角から戌亥の方角へ雷が轟き稲妻が西北の方角へと光り、北条家に九代伝わる名剣が三つに折れ、さらに聖人の頸を跳ねんとした者は怪風と共に「もののけ」が襲いかかった。首を斬ろうとした太刀取りは目がくらんで倒れ、兵たちは怖れをいだいて、ある者は落馬し、ある者は馬で逃けさり、平頼綱の一行は恐れをなし処刑は出来なかった。
 怖れた他宗の権門の者や警固の武士等はあとずさみ、とても大聖人の頸は切る事が出来なかった。寄り集まった警固の面々は「日蓮をどうするのか、鎌倉中を引し、頸を切る決め龍の口へ引き出だしが、このままに捨てておかれまい。これは私事にあらず鎌倉殿へ言上すべき」と決め、鎌倉殿へ注進する事になった。

 鎌倉殿中にも夜半、同時同刻、虚空の怪しき声があり「正法の行者を失うならば国の柱を倒すが如し」と、天からのお告げが三度あり北条時宗を驚かせた。

 「正法の行者とは、日蓮が日ごろ申せし言葉。その日蓮は今、龍の口で断罪の時刻」これは一大事と北条時宗は自ら硯と筆を持ち、日蓮を許す「赦免の状」を書いた。これを早馬乗りの南条七郎に手渡し「この赦免状を龍の口へ。時刻おくれなるば一大事なるぞ」と龍の口に向かわせた。

 「日蓮の首を斬れません」という早馬が鎌倉に向かい、鎌倉からは「日蓮の首を斬るな」との連絡が、小さな川で行き合い、その川は「行合川」(ゆきあいがわ)と呼ばれている。「正法の行者」日蓮聖人を諸天善神が守護するが如く、当たり一面に怪奇な現象が起こり救われた。

 この竜の口法難で日蓮大聖人は、これまでの凡夫とされてきた身から、 自らが法華経の上行菩薩であることを示した。仮の姿をはらって真実の仏の姿を顕わしたのである。仏でない者がはじめて仏になるのではなく、最初からの仏が、真の仏の御振舞いをなされたことによる。この竜の口法難以後、日蓮大聖人は御本仏として本格的な活動を始められた。

佐渡御流罪
 この「龍口法難」での斬首を奇跡的にまぬがれたが、日蓮聖人は同年10月に佐渡へ流罪となった。当時は世界的にも厳しい気候が続いて、ましてや冬に向かう北海の佐渡では、その寒さは想像を絶するものであった。 厳冬の佐渡ケ島で日蓮聖人に用意された住居は、死人を捨てる為の塚原の三昧堂だった。屋根は板間があわず隙間だらけで、今にも柱が倒れそうで壁は落ち、小さなあばらの中にも雪が積もる状態だった。寒期に凍えながら、食べる物も着る物も思うに任せず、常人ならば確実に生命を失う状況だった。 しかし飢えと戦いながら日蓮大聖人は崩れることはなかった。日蓮大聖人は御本仏の御姿を顕し、「一期(いちご)の大事を記す」と命懸けで執筆を始め、翌年2月に「開目抄」を完成させた。

「法華経」の持経者は災難に見舞われる。お釈迦さまがこの法華経で予言されたことを実証するものだった。日蓮聖人は自分こそがお釈迦さまが法華経の弘通を直接委ねられた本化上行の菩薩であると自覚し、法華経に認められた「証」を極めたのである。

 日蓮聖人は「我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん」とする「三大誓願(さんだいせいがん)」を記され「詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期せん」と、たとえ諸天のご加護がなくとも末法の日本を救うために法華経に一命をささげる決意を示された。

赦免され鎌倉へ帰還

 松原の襲撃、龍ノ口での斬首の危機など様々な迫害を受けたが、日蓮聖人は「迫害を受けるのは法華経を広める者の証」とその強い意志を曲げることはなかった。人々はその意思に心を動かされ、次第に帰依する人の数が増えていった。

 平頼綱から蒙古襲来の予見を聞かされるが、法華経を立てよとの幕府に対する3度目の諌暁にも幕府は聞く耳を持たなかった。

 日蓮は赦免を受けると布教活動続け、日蓮宗(法華宗)は関東の武士層や都市の商工業者を中心に広まっていった。

 波木井実長の招きで山梨県の身延山に入り、この地で法華経を万年に伝える人材養成に務め、大勢の弟子や信者と共に、昼夜に法華経の講義や唱題修行に精進された。

 常陸の湯で持病を癒そうと出た旅の途中、武蔵国池上宗仲公の邸(池上本門寺)で養体が悪化した。日蓮聖人は御入滅になることを予感され、池上の地で本弟子6人を定め、力を合わせ法華経流布に精進すことを命じ、10月13日辰の刻(午前8~10時)、弟子・信者多数の唱題の中、静かにご生涯を閉じられた、享年61。池上の山に季節外れの桜の花が咲き、日昭上人の打つ臨終を知らせる鐘の音が悲しく響いた。

 日蓮は「南無妙法蓮華経」を唱えることで、お釈迦さまの功徳を全て譲り受け、誰もが仏となれると説いた。日蓮は滅後に皇室から日蓮大菩薩(1358年)と立正大師(1922年)の諡号を追贈されている。日蓮宗の総本山は山梨県の身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)である。

日蓮宗と日蓮正宗

 歴史的な背景からすると。日蓮宗の開祖である日蓮には六人の直弟子がいた。その一人である日興が開いたのが日蓮正宗である。日興は駿河の国(静岡中央部)を中心に布教をした弟子で、日興は頑固一途で妥協を許さない性格であった。その為、同じ直弟子の日向とは意見の相違で対立した。

 日向は日蓮滅後に身延山で学頭職を務め、現在の日蓮宗の基盤を作ったが、頑固な性格であった日興は後に他の五人の直弟子と訣別し、富士の大石ヶ原に大石寺と重須に本門寺を建てた。この日興の独善的なやりかたについて行けず大石寺からも離反者がでた。
  日興は孤立化し大石寺はほどなく衰退しはじめたが、現在でも日蓮正宗が存在する。これは分裂前の創価学会の急成長によるとの見解があるが、その見解は大き分かれている。
 日蓮宗では日蓮の直弟子である五人の直弟子と、その各門流の持つ伝統的な教学・本尊・修行方法などをお互いに認めながら形成されていった。一方、日蓮正宗では日興だけを正式な直弟子として認め、日蓮聖人から日興上人に秘密の法門(教え)が伝授されたとして他の直弟子を否定している。
 また本仏の相違が代表的な違いになる。日蓮宗では釈迦を本仏としているが、日蓮正宗では日蓮を本仏としている。日蓮を本仏としているのは、日蓮を真の本仏の再誕としているからで、その為、釈迦よりも日蓮を上の存在としている。日蓮宗が誕生した時代は末法であるから、日蓮を本仏としたのも無理のない話である。
 また法華経の扱いについても日蓮宗と違いがある。南無妙法蓮華経を唱えることを「正行」、法華経の本文を読誦することを「助行」として日蓮宗では方便品・寿量品・神力品などの要品を必要に応じて読誦している。しかし日蓮正宗では方便品と寿量品の二品しか読誦していない。

 さらに本尊とする曼荼羅の授与についても違いがある。日蓮宗では各寺の住職が日蓮の書いた本尊曼荼羅を拝写し檀信徒に授与するが、日蓮正宗では大石寺の貫主(法燈職)だけが本尊を書写し授与することが出来る。さらに日蓮宗では曼荼羅の他に仏像形式の本尊を認めているが、日蓮正宗では彫刻した仏像形式の本尊は一切認めていない。
 日蓮正宗は富士山本門寺に戒壇を建立するが、これは日蓮聖人の御遺命であるとしている。その為に折伏が盛んで信徒の増大を目指している。戒壇とは本尊を祀って正式に師匠弟子の関係をつくることで、日蓮宗ではそのような戒壇は必要とせず寺院を戒場・戒壇としており、妙法蓮華経を受け保つ信念を持戒(戒を受ける)としている。まだ他にも有るが、代表的な違いを提示した。日蓮宗、日蓮正宗富士大石寺奉安堂、日蓮正宗に破門された創価学会は互いに仲が悪く、それぞれの言い分がある。

禅宗 (禅宗)

 禅宗は宋(中国)から伝えられたもので、栄西が伝えた臨済宗と道元が伝えた曹洞宗がある。臨済宗は鎌倉を中心に関東の武士の間で広がり大きな勢力を持った。禅とは精神統一の状態を意味する。禅宗は大陸からもたらされた点で念仏仏教系とは違う。また念仏や題目を唱える他力本願の仏教に対して、禅宗は座禅を組むことによって修行する「自力本願」の宗教である。すなわち座禅を組んで精神統一の状する態に入り、自己の本性を見徹し悟りを開くことを目的としている。

 難行苦行によっても悟りは開けないとして、坐禅によって自らを鍛練し、仏陀の境地に近づこうとするのが禅宗である。坐禅は辛いものであるが、坐禅によって自らを鍛え、布団の上げ下ろしや洗濯など、日常生活のなかで「自分のことは自分でする」という厳しい修行で、この自力本願が武士の気風に合っていて、実力によって武家政権を確立した鎌倉幕府によって禅宗は保護を受けた。

  栄西による臨済宗と道元による曹洞宗は、それぞれ対照的な広がりを見せた。栄西は法然と同じ頃に比叡山延暦寺で修行を積み、二度も中国の南宋に留学して坐禅によって自力で悟りを開く臨済宗を広めた。

 同時期に法然が他の宗派から攻撃を受けているのを知った栄西は、朝廷の権威と結びついていた従来の仏教勢力に対抗する意味もあって、誕生したばかりの鎌倉幕府に接近した。また水墨画、能、茶道など中世の文化に大きな影響を与えた。

 臨済宗は禅問答で知られており、栄西が幕府に接近して北条時頼や北条時宗のような上流武士に広がり幕府の保護を受けた。

 曹洞宗の道元は禅問答や幕府の保護なしで、ひたすら坐禅を組むことで悟りを求めた。主に地方の豪族の間で迎え入れらた。

 

栄西(臨済宗

 宋から僧・臨済が開いた臨済宗を日本に伝えたのは、2度の入宋経験をもつ栄西(1141~1215)であった。

 栄西は密教の祈祷にもすぐれ、公家や幕府の有力者の保護を受けながら臨済宗の開祖となった。「座禅を組む」という素朴な修行が武士の心身鍛錬と通じ合ったため、武士の間に臨済宗は急速に広まった。臨済宗は幕府の保護の下に発展し、鎌倉の禅寺は全て臨済宗である。

 栄西の禅は坐禅のみならず、公案(公案問答)という謎解きによって、階段をのぼるように悟りの高みへと導くものある。

 坐禅をしながら師から出される設問を解き、たとえば「両手を叩くと音がするが、片手ではどんな音がするか」という難解なもばかりであった。このような禅問答を落語の題材として取りあげたのが蒟蒻問答(こんにゃく)である

 栄西は宋から禅宗とともに茶(茶種や苗木)を持ち帰えり、お茶を飲む習慣を広めた。奈良時代の最澄や空海らも遣唐師として中国から茶を持ち帰ったが、茶は解熱・強壮・眠気覚ましなどの薬用で、高級品だったため一般には普及しなかった。

 当時の茶は抹茶でカフェインによって睡魔を払い、心身の疲労を回復する効果があり、宋の禅僧にとって長時間の瞑想に耐えるための不可欠な飲料だった。栄西のもたらした茶種は、栂尾高山寺の明恵上人の手に渡り、京都の宇治で栽培され全国へ広まった。栄西は喫茶養生記で茶の薬効を紹介した。二日酔いに悩んだ3代将軍源実朝に良薬として茶を献上したことが吾妻鏡に書かれている。

  臨済宗は栄西が亡くなった後も幕府の保護を受け、南宋から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元など多くの僧が招かれた。鎌倉幕府は臨済宗を重んじ、鎌倉に大きな寺院をつぎつぎと建てられた。蘭渓道隆は第5代執権の北条時頼に招かれて鎌倉の建長寺の開山(初代住職)となり、無学祖元は第8代執権の北条時宗に招かれ鎌倉の円覚寺の開山となった。京都には大本山となる建仁寺がある。

 

栄西の慈悲

 栄西が建仁寺にいた頃の逸話である。ひとりの男が寺にやってきて「私の家は貧しく、夫婦子どもが餓死しようとしている。お慈悲をもってお救いください」と云った。しかし建仁寺には衣食財物がなかったが、薬師如来像を造立するため後背の材料にする打ちのばした銅が少々あった。栄西はこの銅を自ら打ち折って丸めると「これを食物に代えて飢えをふさぎなさい」と云って男に与えた。

 弟子たちは「あの銅は仏像の光背を造るためのもので、それを俗人に与えることは、仏のためのものを勝手に用いた罪になりますが、いかがですか」と云って栄西を非難した。それに対して栄西は「誠にその通りである。ただ仏の意志を思うと、仏は身肉手足を切って施しをされたのであり、現に餓死に瀕する人びとがいれば、たとえ仏の全体をもって与えても仏意にかなうであろう。自分は仏の物を私用に使った罪に堕ちても、人の飢えを救うことになる」と答えた。

 

道元(曹洞宗)

 貴族の家に生まれた道元(1200~1253)は、若い頃に比叡山で栄西の弟子から禅を学んだが、後に南宋に渡り曹洞宗を学んだ。曹洞宗は9世紀に唐で始まった禅宗のひとつで、道元が南宋にわたって禅を学び日本に持ち込んだ。帰国後の道元は、幕府と結びついた臨済宗とは対照的に権力に背を向け、山中にこもって坐禅に徹して悟りを開こうとした。権力との癒着を嫌い坐禅に徹したのである。

 道元の禅宗は坐禅そのものを重視し、公案は用いずにひたすら坐禅し只管打坐(しかんたざ)によって悟りの境地を開こうとした。座禅は仏の活現に他ならないとして、これを「本証の妙修」といった。また日常生活の微に入り細にわたって綿密な規定がなされている。

 道元は越前に永平寺を建立し、名誉や利益を求める名利の念(めいりのねん)を捨て厳格な宗風をつくりあげた。厳しい規律のもとで修行を行い、北陸地方を中心に布教を続けた。

 道元の弟子の懐奘(えじょう)が師の言行を筆録した「正法眼蔵随聞記」の中で、道元は次のように言っている。「学道は坐禅これ第一なり。宋の人の多くが得道したのはみな坐禅のちからなり。一問不通にて無才愚癡(ぐち)の人も、坐禅をすれば禅定の功によりて多年の久学聡明の人にも勝るなり。そうなれば学人は祗管打坐にて他を管することなかれ。(正法眼蔵随聞記)

 曹洞宗は道元の弟子の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)によって飛躍的に発展をとげた。道元と瑩山紹瑾は「両祖」とされ、瑩山紹瑾が開いた鶴見(横浜)の総持寺は、永平寺と同格の大本山となっている。ちなみに総持寺は能登国の輪島にあったが、明治時代に火災で焼失し横浜に移転している。

 

道元の正法眼蔵とスティーブ・ジョブズ

 アップル創業者であるスティーブ・ジョブズやマイケル・ジョーダンなど、世界の成功者には禅の愛好家が多いことが知られている。ジョブズは青年時代から禅と接し、曹洞宗の僧侶・乙川弘文(おとがわこうぶん)老師に師事していた。
 2011年10月にジョブズは亡くなるが「死は生命にとって最高の発明」との至言を遺しているが、これは日本由来の「禅」が深く関わっている。道元の著書「正法眼蔵」の第1巻は「現成公案(げんじょうこうあん)」と題されている。現成とは「いま目の前に現れ、成っている存在」という意味で、道元によればその現成する存在のすべてが悟りの実相ということである。
  「現成公案」には次のような話が出ている。「薪たきぎは燃えて灰になるが、だからといって薪が先で灰は後と見てはいけない。前後があるとはいえ、その前後は断ち切れており、あるのは現在だけである。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時のあり方にすぎない。この道元の教えによれば、病気になっても早く治ってほしいと願うのは迷いがあるからで、病気を現成としてそのまま受け入れ、しっかり生きればよいとするのが悟りである。ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で、前年に膵臓がんの手術を受けた経験を語り、このときの「死は生命にとって唯一にして最高の発明」「あなた方の時間は限られている。他の人の人生を無駄にしてはいけない」と述べており、自分の生死をそのまま受け止めていることが分かる。

 

旧仏教の革新

 これらの鎌倉新仏教に対して、従来の仏教勢力も巻き返しを図った。鎌倉時代の初めの頃、華厳宗の明恵(みょうえ)は戒律を厳重に守りながら、権勢におもねず求道の生活を続けることで、第3代執権の北条泰時など多くの人々の尊敬を受けている。

 法相宗の貞慶も山城国(京都府南部)の笠置寺にこもって厳しい修行を続け、その後、奈良の西大寺を復興した律宗の叡尊(えいぞん、別名思円)やその弟子の忍性(にんしょう、別名良観)らは、戒律を重んじるとともに、貧しい人々や病気を救済して治療した。その他、土木工事などの社会福祉事業に力を尽くした。

 このように鎌倉仏教は大きな改革を行ったが、ヨーロッパの宗教改革は教会や王侯の権力のための宗教を、我が国同様に民衆に取り戻すためにのであった。日本の宗教改革が、彼らほど過酷な経過を取らなかったのは、仏教はキリスト教と違い攻撃的な教えがなかったからである。

 仏教は悟りをひらき極楽浄土に行くことを目的にしているが、その手段は何でも構わなかった。念仏でも座禅でも自由に選んでよかった。そのため一神教世界と比べれば、流派の違いから血で血を洗うような闘争に発展することはなかった。もっとも日蓮は法華経以外の経典を否定しており、鎌倉幕府から激しく憎まれた。

 新仏教の活動は旧仏教側に対する反発とともに、旧態依然だった旧仏教側を反省させるきっかけとなった。法相宗の貞慶や華厳宗の高弁は戒律を重視して、南都仏教の復興に力をそそぎ、律宗の叡尊(えいぞん)・忍性(にんしょう)・俊芿(しゅんじょう)らは、戒律を尊重するとともに社会事業にも力を尽くした。

貞慶(解脱)

 貞慶は法相宗を中興した。笠置寺(かさぎでら)・海住山寺(かいじゅうせんじ)で、戒律の復興に努めた。法然の浄土宗を批判した興福寺奏状(こうふくじそうじょう)を書き、法然らが京都から追放される「承元(じょうげん)の法難」のきっかけを作った。

高弁(明恵)

 高弁は華厳宗を基礎としながらも、華厳宗と真言密教を融合した厳密(ごんみつ)という独自の宗教観を打ち立てた。後鳥羽上皇から京都栂尾(とがのお)の地を賜り、高山寺(こうさんじ)を開いた。摧邪輪(さいじゃりん)を著して、法然の浄土宗を激しく批判した。また栄西から茶の種子を譲られ栂尾に茶園を開きました。栂尾から伝わったのが宇治茶である。

 高弁の自在な境地を伝えるものとして、月の明るさを詠んだ「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」の和歌が有名である。

叡尊(思円)

 叡尊は奈良西大寺を中心に戒律の復興に努め真言律宗を開きた。貧者や病人の救済事業や土木社会事業を行い、興正菩薩(こうしょうぼさつ)と呼ばれました。

忍性(良観

 忍性は叡尊の弟子で、鎌倉極楽寺を再興し、戒律復興に努めた。奈良にハンセン病の救済施設・北山十八間戸を建て慈善に尽くした。

俊芿(我禅)

 南宋から帰国した俊芿は、戒律の復興に努めた。京都の泉涌寺(せんにゅうじ)を再興して天台・真言・禅・律の四宗兼学道場としました。泉涌寺は1242(仁治3)年に四条天皇が寺内に埋葬されたところから皇室の菩提寺となり、御寺(みてら)と呼ばれるようになった。

伊勢神道

 鎌倉仏教の影響を受けた独自の神道理論が、伊勢外宮の神官度会家行(わたらいいえゆき)によって形成された伊勢神道である。度会家行は類聚神祇本源(るいじゅうぎんじほんげん)を著し、従来の本地垂迹説と反対の立場に立って、神を主として仏を従とする神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)をとなえた。

 

法然  浄土宗    他力本願  口で仏の名を唱える称名念仏

親鸞  浄土真宗   他力本願  自らの悪を見つめられる人こそ救われるべき

           とする悪  人正機説

一遍  時宗     他力本願  踊り念仏

日蓮  日蓮宗   題目          南無妙法蓮華経と唱える法華経

道元  曹洞宗   自力信仰   ひたすら座禅の修行に打ち込む只管打座

栄西  臨済宗   自力信仰   日本で初めての禅宗を開いた