聖徳太子

聖徳太子の生まれ

 聖徳太子には多くの言い伝えがあり、妊娠中の母親が宮殿の中を散歩をしていたら、馬屋の前で産気づき太子が生まれたので厩戸皇子」とよばれるようになった。この話はイエス・キリストの誕生と似ている。キリスト教は唐では景教として伝来しており、日本からの唐への留学生がこの話を持ち帰ったのであろう。さらに生まれてすぐに言葉を話したり、十人の言葉を同時に聞き分ける話も釈迦の逸話に似ている。

 しかしこれは逸話であって「厩戸」は明日香村・橘寺付近の古い地名で、さらに蘇我氏興隆の地「馬屋戸」(奈良・御所市)が由来であるとする説もある。

 さらなる逸話として、聖徳太子は生まれたときに左手を握りしめ、握りしめた左手には仏舎利(仏の骨)があったとされている。2歳のときに両手を合わせお経を唱え、7歳のときには百済から献上された書籍をすべて読みつくしたなどがある。一度に10人の話を聞き、的確な答えを各々に返したことから「豊聡耳」(とよとみみ)とも呼ばれている。聖徳太子が生まれたには古墳時代の末期である。

 

仏教伝来

 552年、かねてからよしみのある百済の聖王(聖明王)から釈迦仏の金銅像と経論が欽明天皇に献上されると、仏教信仰の可否について朝廷を二つに割る論争が勃発する。欽明天皇は仏教の教えを「これまでの教えの中で最も優れている」と感動するも、朝廷の群臣に問うと、物部尾輿中臣鎌子(神道勢力)は「日本には昔から伝統の神々をまつっているのに、異国の仏教を信じれば、この国の神々はお怒りになる」と反対するが、蘇我稲目は西の国々(朝鮮・中国)は仏教を信じているのだから日本も信じるべきと主張した。

 物部尾と蘇我稲目はもともとの2代豪族は、それまでの金村氏を一緒に追放するほどもともと仲よかった。しかし仏教信仰をめぐり、主導権争いになったのである。

 蘇我氏は大陸からの帰化人を多く受け入れていた。戦火を逃れ、あるいは朝鮮王朝から遣わされた帰化人の多くは仏教を信じていたので、仏教はみじかで仏教支持は帰化人の支持を得ていた。いっぽうの物部氏は保守的な軍事が専門で、中臣氏は神道の祭り事の職にあったので論争に決着がつくことはなかった。

 蘇我稲目は私邸に寺を建て仏像を拝んだが、その後、疫病が流行すると、物部尾輿らは「異国の神(仏)を拝んだので、国神の怒りを買った」と不快感をあらわにして、天皇の許しを得て蘇我の寺を焼き仏像を難波の掘江に捨ててしまった。神道を信奉する物部氏と仏教に帰依した蘇我氏の対立は、彼らの子(物部守屋と蘇我馬子)の代まで持ち越された。

 蘇我稲目が仏教に帰依すると宣言したため、天皇は蘇我稲目に百済からの仏像と経論を与えた。仏教を崇拝する蘇我馬子と、日本古来の神道を信奉する物部守屋が激しく対立しており、国際派の蘇我馬子は「アジア各国が仏教を信奉しているのだから、日本もこれを取り入れ世界の仲間入りをするべき」とし、物部守屋は「そんなことをすれば天照大神など日本の神々の怒りに触れる」という保守勢力の代表だった。

 聖徳太子の祖母は蘇我馬子の叔母であり、母方が蘇我馬子の妹であることから蘇我氏の血をひく聖徳太子も少年期から仏教に傾倒していた(聖徳太子の妻は蘇我馬子の娘・刀自古)。蘇我馬子が百済から献上された弥勒像自邸に安置すると、10歳の聖徳太子が供養に訪ねている。

 585年に病になった蘇我馬子は敏達天皇に仏法を信奉する許可を求め、天皇はこれを許可した。しかしこの頃から疫病が流行し物部守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は異国の神を信奉したため疫病が起きたとして仏教の禁止を求めた。敏達天皇は物部守屋に応じたため物部守屋は仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げこみ、仏法信者を面罵し3人の尼を捕らえて全裸にして群衆の目前で鞭打った。

 しかし疫病は更に激しくなり敏達天皇も病に伏した。蘇我馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を求めた。敏達天皇は馬子に限り許したため、馬子は三尼を崇拝し寺を営んだが、ほどなくして敏達天皇は崩御した。

 敏達天皇の葬儀の際、小柄な蘇我馬子が弔辞を読むと、物部守屋は「まるで雀のようだ」と笑い飛ばした。次に物部守屋が震えながら弔辞を読むと、蘇我馬子は「鈴をつけたらおもしろいであろう」と逆襲した。この言葉に両者は刀をぬこうとするが、どうにか周囲に制止された。

 敏達天皇が崩御すると次期天皇を誰にするかが問題になった。敏達天皇の弟の穴穂部皇子が天皇になるつもりでいたが、物部守屋が推す穴穂部皇子ではなく蘇我馬子の推す推仏派の用明天皇が即位した。

 585年、聖徳太子11歳の時に、父親・第31代用明天皇が即位し、天皇として初めて公に仏教に帰依したが、2年後の587年、聖徳太子が13歳のときに用明天皇が崩御した。ここで後嗣が定まらず皇位は一時的に空位となった。

 蘇我馬子は先代の第30代敏達天皇の妃で、太子の父の妹・額田部(ぬかたべ)皇女(推古天皇)を皇位継承者に推した。額田部皇女は優秀な皇女で熱心な推仏派だった。

 ここで穴穂部皇子が再び天皇の座を狙うことになるが、しかし穂部皇子は586年5月に額田部皇女(推古天皇)強姦未遂事件を起こしていた。これは穂部皇子が額田部皇女(推古天皇)を犯そうとして宮に侵入、寵臣・三輪逆に拒まれ宮に入れなかった事件である。蘇我馬子は穴穂部皇子を諌めたが、物部守屋は穴穂部皇子の命令で寵臣・三輪逆を斬り殺している。この額田部皇女(推古天皇)強姦未遂事件が、蘇我馬子と物部守屋の溝を深めていた。蘇我馬子と物部守屋の戦いは仏教を受け入れるかどうか、排崇仏論争が主とされているが用明天皇継承を巡る勢力争いでもあった。

 聖徳太子は蘇我氏の血を引いていることもあり、若い頃から仏教を深く信仰していた。父親の用明天皇も仏教を信仰していたが、587年に用明天皇が崩御すると、反対派の物部守屋と賛成派の蘇我馬子との間でついに戦いの火がついた。

丁未の乱

 蘇我馬子は群臣にはかり物部守屋を滅ぼすことを決めた。蘇我馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などをきつれて河内国渋川郡(東大阪市衣摺)の物部守屋の屋敷に攻め込んだ。物部守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。物部氏は軍事が専門だったので戦いは強かった。物部守屋は木の上の櫓によじ登ると指揮を取りながら雨のように矢を射かけた。蘇我の軍兵は恐怖し退却を余儀なくされた。

 このように戦いは物部氏に有利に運んでいた。聖徳太子はこのとき14歳の少年であったが蘇我馬子について戦闘に参加した。戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続いたが、これを見た聖徳太子は四天王に勝利を祈願し「戦闘に勝てば四天王のお寺をつくる」と誓いを立てた。

 蘇我馬子は物部守屋に狙いを集中させる作戦に出た。弓の名手に迹見赤檮に物部守屋を狙わせると、放った矢が物部守屋に命中して物部守屋は戦死した。すると形勢は逆転し、大将を失った物部軍は総崩れとなって物部一族は消滅する。この戦いを丁未の乱と称する。

崇峻天皇暗殺事件

 物部氏を滅亡させ朝廷の中で一番の実力者となった蘇我の馬子は、自分の甥の崇峻天皇を即位させた。しかし額田部皇女の弟・崇峻(すしゅん)天皇と蘇我馬子との関係は必ずしもよくなかった。崇俊天皇は蘇我氏の血すじを引いてるが、最高位の天皇に口ばさむ馬子を憎く思っていた。

 そして4年後、崇峻天皇が当代一の実力者・蘇我馬子に暗殺される事件が起きta

。これまで暗殺されたと思われる天皇は何人かいるが、これほど明確に記録されているのは崇峻天皇だけである。

 592年10月4日、崇峻天皇に猪(いのしし)を奉る者がいた。すると崇峻天皇は「この猪の首を落とすように憎い奴の首を落としたいものだ」と言った。このことが蘇我馬子の耳に入り、馬子は「天皇が自分を無実の罪で討とうとしている。自分は正当防衛で天皇を討つ」として先手を打ち、東国から貢物が来ていると嘘をつき、部下の直駒(あたいこま)を刺客として送り込み崇峻天皇を暗殺した。しかし刺客の直駒は後宮にいた美女を略奪して帰るが、これが蘇我馬子の娘の河上娘だった。そのため直駒は馬子に殺害されることになる。

 

聖徳太子

  蘇我馬子は崇俊天皇を殺したあと、自分の姪にあたる推古天皇(初の女性天皇)を即位させる。さらに593年、自分の甥の聖徳太子を弱冠20歳で推古天皇の摂政とした。摂政とは天皇が女性だったり、子供だったりした場合、天皇の代理を務めることであった。摂政となった聖徳太子は、約束どおり摂津(現在の大阪府)の地に四天王をまつる寺の造営を始めた。これが現在も大阪市天王寺区に残る四天王寺である。大阪の街で「梅田」「難波」と並んで有名な「天王寺」は、四天王寺の略称がそのまま地名になった。

 聖徳太子の仏教信仰は摂政後も深まり、多くの寺院が建てられた。中でも607年 に斑鳩の地に建てられた法隆寺は、聖徳太子が建立したことで有名である。法隆寺は7世紀後半(天智天皇時代)に火事で消失したが、その後再建され、それでも世界最古の木造建築として世界遺産に登録されている。法隆寺は建てられた地名から「斑鳩寺」ともいわれている。ちなみにJRの線路(=関西本線)によって天王寺駅と法隆寺駅はつながっている。両駅間は直通の快速で約21~24分で行ける距離である。
 聖徳太子は仏教信仰のために、高句麗の高僧であった恵慈に仏教を学び、後に仏教の法典の注釈書である三経義疏を著している。聖徳太子が恵慈から仏教だけではなく、恵慈の出身国である高句麗などの朝鮮半島の情勢や、高句麗と敵対関係にあった中国の隋の情報を学んだ。東アジアの国際情勢に関する理解を深めた聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていた。

 最大のライバルを打倒した蘇我氏は、朝廷の実権を独占することになる。新しい国をつくる場合、巨大プロジェクトには強力な独裁体制が有利になるので、蘇我独裁体制が必ずしもは悪いわけではない。蘇我馬子とその親族である聖徳太子は、天皇家の政治的権威を高め、冠位十二階や十七条憲法を定め、中国と同じ法治国家へと大改造をおこなった。

 仏教は国家統一の武器として神道より有利だった。仏教は釈迦という絶対的存在を前に、人々の優劣を明確にしていた。そのため天皇をあがめる中央集権国家に都合が良かった。神道は神と人の間の序列については何も述べていないので、中央集権的統治を肯定する根拠にはなりにくかった。

 崇峻天皇の継承として額田部皇女が日本初の女性天皇として即位して推古天皇となった(592年)。翌年、皇太子の聖徳太子が19歳で摂政となり推古天皇の補佐にあたった。摂政とは天皇が女性や子供の場合に天皇を補佐する役割であるが聖徳太子が日本初の摂政を行うことになる。推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子によるトロイカ体制による政権が発足することになる。

 なお7~8世紀の間に推古・皇極・斉明・持統・元明・元正・孝謙・称徳の八代の女帝が出現している。

 

聖徳太子の内政
 聖徳太子が推古天皇の皇太子になり、天皇の代わりに政治を行い、当時は飛鳥に都が置かれていたので飛鳥時代と呼ばれている。飛鳥時代の朝廷は屯倉(みやけ)、豪族が田荘(たどころ)と呼ばれる土地を所有し、同じく朝廷が田部(たべ)や名代・子代、豪族が部曲(かきべ)と呼ばれる人たちを所有していた。
 この制度がうまく機能していれば良かったが、聖徳太子が摂政になった頃は、蘇我氏の支配地が朝廷をおびやかすほど巨大化し、政治上のバランスが不安定になっていた。このまま蘇我氏の勢力が朝廷を上回れば、両者の争いが起き国内が混乱しかねなかった。さらに隋などの諸外国からの介入を招けば、亡国の危機にもなりかねなかった。

 聖徳太子は政治情勢の不安を打開するために、天皇中心の国家、すなわち朝廷がすべての土地や人民を所有する「公地公民制」の導入が必要としていた。聖徳太子は公地公民制の導入を決意するが、急激な改革は蘇我氏などの豪族からの猛反発は必至で、国内の混乱を招くことは明らかだった。そこで公地公民制の実現のために、長い時間をかけて豪族や民の立場から意識を改革させることにする。

冠位十二階 

 603年に制定された冠位十二階がその1例である。

 朝鮮諸国の冠位制度を参考に、儒教の徳目を現わす言葉である「徳・仁・礼・信・義・智」をそれぞれ大小にわけて12階(大徳~小智)を定め、位ごとに色分けした冠(帽子)を授けたのである。紫を頂点に、青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差をひと目でわかるようにした。冠位十二階は血縁に関係なく、働きぶりによって冠位を上下させ、格の低い氏族の出身者でも頑張れば高い地位につけた。これが律令制の位階制の源となった。冠位十二階は朝廷に仕える役人に対する新しい身分制度である。それぞれの階級を冠(かんむり)の色で次のように区分した。
・大徳(濃い紫)・小徳(薄い紫)・大仁(濃い青)・小仁(薄い青)・大礼(濃い赤)

・小礼(薄い赤)・大信(濃い黄)・小信(薄い黄)・大義(濃い白)・小義(薄い白)

・大智(濃い黒)・小智(薄い黒)である。
 603年に定められた冠位十二階はそれまでの世襲制ではなく、役人の個人の才能や功績によって昇進を可能にした制度である。身分の上下に関わらず、能力がある人や実績のある者が役人として活躍できる画期的制度である。それまでの世襲制では、能力がなくても豪族の地位は世襲され、無能な者、民衆を理不尽にいじめる者も世襲されていた。この冠位十二階はこの世襲制度の欠点を排除するものであった。

 蘇我氏は大臣として、冠位を授ける立場として冠位十二階の例外とした。聖徳太子も蘇我氏の立場にまで踏み込めなかったのだろうが、曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことから、冠位を授ける立場の朝廷の権力は向上し、相対的に蘇我氏の権力が後退することになった。

 冠位十二階によって大礼(濃赤の冠)の地位にいた者が最高位の大徳(濃紫の冠)にまで出世した例がある。その代表が遣隋使で活躍した小野妹子である。
 聖徳太子は冠位十二階で、天皇が豪族に冠位を与える立場を明確にした。次は朝廷と豪族の立場を明らかにする規則をつくろうした。こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法である憲法十七条である。

憲法十七条

 604年に制定された憲法十七条は、現在の憲法とは違い、宮廷に使える役人の心得である。憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれているが、最も有名なのは、第1条の「和を以って貴」である。これは「和の尊重が我が国にとって何よりも大事であり、みだりに争ってはいけない」ということである。最後の第17条はこれと似ていて「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説いている。この和や話し合いの重視は、現代の我々にもつながっている。

 憲法十七条では、第1条と第17条で示したこの「和の尊重」の他にも、さまざまな規範を示している。例えば、第2条では「篤く三宝を敬え」として仏教への信仰を説いている。三宝とは仏・法理・僧侶のことで、仏教の三つの宝物を意味している。また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説き、儒教思想に基づく心がまえを役人に示している。中には第8条のように「役人は朝早くから出てきて、遅くなってから退出しなさい」という細かいものまである。
 憲法十七条は「役人として政務をとる者は和の尊重だけでなく、仏教への信仰や天皇への忠誠など様々な心がまえを自覚しなさい」ということで、国内での無益な争いを避け、天皇や朝廷に忠誠を誓わせ、さらに仏教や儒教によって朝廷に従順である意識を役人に持たせたのである。「天皇の下で役人として働くなら、この憲法に従いなさい」と聖徳太子が約束事を決めたのである。

 憲法十七条は聖徳太子が蘇我氏などの豪族に対し、天皇中心の国家を巧妙に仕向けるためのもので、役人の中には有力豪族にへつらい、豪族に有利に働く者がいたが、このような役人を排除したのである。「蘇我氏の思うままにはさせない」という聖徳太子の執念が隠れている。

 憲法十七条の詳細
 日本で最初の成文である「憲法十七条」は聖徳太子が理想国家の実現へ願いを込めて作った、官僚の行動倫理で仏教や儒教の長所を導入した。(以下抜粋)
第1条「和をもって貴しと為す。協調・親睦の気持ちをもって論議せよ」
第2条「あつく三宝(仏・法・僧)を敬いなさい。本当に極悪な人間はまれであり、正道(仏道)を知れば従うものである」
第4条「官僚は礼の精神を根本としなさい。上に立つ者に礼があれば、民も必ず礼を守り、国家は自然に治まる。その逆も然りである」
第5条「官僚は欲を貪(むさぼ)らず民の訴えを公正に裁くようにしなさい。近頃の訴訟を治める者は賄賂が常識となり、賄賂を見てから訴えを聞いている。裕福な者の訴えはすぐに受け入れられるのに、貧乏な者の訴えは容易に聞き入れてもらえない。もってのほかである」
第6条「悪を懲らしめて善を勧めなさい。へつらいあざむく者は、国家や人民を滅ぼす鋭い剣である」
第8条「官僚たちは、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公務はうかうか出来ぬものである。1日かけても全て終えるのは難しい。遅く出勤すれば緊急の用に間にあわない。早く退出すれば必ず仕事をやり残してしまう」
第10条「心の怒りを絶ち、人が自分と考えが違っても怒ってはならない。人それぞれに考えがあるからである。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚かということはない。皆ともに凡人なのだ。これをよく踏まえ、相手がいきどおっていたら、自分を振り返って自らに過ちがないかと恐れなさい」
第12条「地方官は勝手に税をとってはならない。国に2人の君主なく、みな天皇の臣下である」
第16条「春から秋までは民を使役してはいけない。民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕が為されなければ、何を着たらよいのか」

 憲法十七条を読めばまず冒頭の第一条の「和を以って貴しと為し」が出てくる。さらに第十七条でも「必ず衆とともに宜しく論ふべしず」と念を押している。このように大切なことは、話し合いの重要性であることを示している。しかし現在の教科書では「憲法十七条には仏教や儒教の考えが取り入れられ、天皇のもとに支配を秩序づけ、官僚として勤務する心がまえなどが説かれた」と説明し、「和をもって貴しと為す」という最も大事な部分を指摘していない。

 

聖徳太子の外交

第1回遣隋使

 聖徳太子が摂政に就任する4年前、中国には約370年ぶりの統一王朝・が誕生している。朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が覇権を争っていたが、日本は130年も中国と公式に交流がなく、大陸の情報が極端に不足していた。

 聖徳太子は隋の建国に伴い、約130年ぶりに中国大陸との交流を再開した。600年に様子を見るために初めて遣隋使を送ったが、隋の大国ぶりを聖徳太子は痛感することになる。

 当時の日本は大豪族が一族の利益を求めて互いに争い、民の暮らしは常に困窮しており政治制度が立ち遅れていた。聖徳太子は先進国の隋と国交を結ぶことで、最先端の文化・技術を取り入れ、交流を通して日本の国際的地位を向上させようとした。蘇我馬子も同じ考えで両者は協力して改革に取り組んだ。
 596年(22歳)国内初の本格的仏教寺院の法興寺(飛鳥寺)を完成させた。五重塔と伽藍を備えた荘厳な寺院である。大和政権は百済人を中心に優れた建築術・彫刻技術を持つ者を大量に受け入れ、渡来人は宮廷人口の3分の1に達していた。その意味でも出身国に関係なく互いの心を結ぶ仏教が重要であった。

 そして600年(26歳)、聖徳太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣する。隋を建国した文帝は官僚の登用に際し、貴族が世襲制で就任していた伝統を廃して、真に優秀な人材を確保するために、全ての人々に登用の機会を与える科挙(国家試験)を導入した人物である。聖徳太子は渡来した高僧から隋が高度な文明社会を築いていることを聞かされていた。隋には法律と官僚制による優れた行政システムがあり、政治に儒教を導入して役人に道徳を重んじさせ、首都長安では仏教芸術が花開いていることを知っていた。

 しかし隋に派遣された使者は、日本の政治システムを問われると、大和政権には法令もなく、政治的に未熟にもかかわらず、天皇の権威を全面に出し、日本の神話まで引き合いに出してしまった。文帝は呆れ果て「倭国(日本)の政治は道理にかなっていない。指導して改めさせねばならない」と語り、使者は外交関係を結んでもらえなかった。日本にとって屈辱的とも云える、この第1回遣隋使は「日本書紀」には記載されていない。中国の歴史書にのみ載っている。

第2回遣隋使(第1回遣隋使)
 607年(33歳)、第1回遣隋使の不面目から、冠位十二階、十七条憲法を制定し、前年には飛鳥大仏を法興寺に安置させ、仏教の総合大学・法隆寺を建立した。

 外交官の小野妹子は血縁ではなく能力によって選ばれ、公式の冠位を持っていた。政治システムも仏教美術も以前の「倭国」とは違っていた。まず隋に対抗するために、高句麗や百済と同盟を結んだが、かつて任那(みまな)を滅ぼした新羅とは険悪な関係が続いていたので同盟からはずしていた。このような事前の準備を整えた聖徳太子は、満を持して607年に小野妹子を使者として、日本書紀に記されている「第1回(実際には第2回)の遣隋使」を派遣した。

 小野妹子が隋で謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)であった。

 「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝は宮殿に現れると、手にした我が国からの国書を読み始めた。すると煬帝の表情は厳しくなり、顔を真っ赤にして叫びだした。
「何だ、この失礼な物言いは」、あまりの煬帝の怒りに隋の外交官たちが震え上がったが、我が国の使者・小野妹子は涼しい顔をしていた。「こんな無礼な蕃夷の書は、今後は自分に見せるな」煬帝の怒りは収まらず、周囲にこう言い放つとその場を立ち去る勢いだった。煬帝をここまで激怒させた国書とは、どのような内容だったのか。
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。お元気ですか)。
 隋の煬帝を激怒させた日本の国書は、この文章で始まっていた。一見すると「日出ずる」と「日没する」に問題があるように思える。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅ぶ」という意味に取れるからである。しかし書かれた「日の出」と「日没」は、単なる方角として使われただけで、「日の出」が東、「日没」が西という意味にすぎない。 
 煬帝が激怒したのは「天子」という言葉だった。天子とは中国では皇帝、我が国では天皇を意味する君主の称号であるが、この言葉を隋に対して属国の我が国が用いたことは、予想外のことだった。中国では「皇帝」は世界で一人だけの存在だったからである。

 今から2200年前、中国大陸を初めて統一した秦の始皇帝は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号を初めて用いた。これが慣例となって中国の支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命した。この構図は中国周辺諸国への中国からの強制であった。

 例えば、57年に奴国が後漢に使者を送った際には「漢委奴国王」という金印を与え、邪馬台国の女王卑弥呼は、魏から「親魏倭王」の称号が与えられている。5世紀の「倭の五王」も、中国の歴史書には「倭王」と書かれている。
 これは日本の支配者が中国皇帝の臣下となって、皇帝をバックに地域を支配する、いわゆる朝貢外交を意味していた。しかし独立国を自負する日本の朝廷にとって、このような屈辱的なことはなかった。
 聖徳太子は中国の支配者が替わったのを機会に、天皇を皇帝と同じ立場に立たせようとした。そのため対等な外交姿勢を「天子」という言葉で示したのである。聖徳太子は東アジアの宗主国である隋に対して、日本はこれまでの服属ではなく、対等な立場であることを外交の国書で示したのである。この大胆な作戦は、日本にとって命取りになりかねない危険な賭けであった。
 隋は中国統一後に、朝鮮半島の高句麗と激しく戦っていた。高句麗は一度は隋の猛攻を跳ね返したが、隋に敗ける前に低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて朝貢外交をはじめていた。高句麗でさえ卑屈な態度なのに、日本が対等な関係を求めることは、日本に対して隋が攻め入る口実を与えかねなかった。それほど危険な国書を送りつけた聖徳太子に勝算はあったのか、あるいは無謀な行為だったのか。

 聖徳太子の外交戦術は正しかった。隋には日本を攻める余裕は全くなかったのである。隋は高句麗との戦いで国力が低下し、さらに煬帝の圧政による政情不安があり、隋は安定した状態ではなかった。さらに日本は島国のために、攻めるとすれば多数の船が必要になり、多額の出費が予想された。そのような状況で、無理をして日本へ攻め込んで失敗すれば国家存亡にかかわることになった。そのため煬帝はためらっていたのである。
 日本は高句麗や百済と同盟関係にあり、そのことが煬帝の足かせになった。隋が日本を攻めれば高句麗や百済は黙っていない。逆に三国が連合して隋に攻め入る可能性もある。そうなれば隋といえども、苦しい戦いになることは目に見えていた。つまり隋が日本を攻めようにも危険すぎたため、国書を拒否して日本と敵対関係になる選択肢はなかった。

 国書を読んだ煬帝は激怒した。隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いにしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていた。そのような日本が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のように「日没する国」とは無礼千万であった。しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王が使うとは何事か。煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど憤慨した。
 小野妹子は処罰されそうになったが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることになる。また小野妹子が、公式な官位を持つ外交官であることから、日本には整った官僚制度があり交渉が可能と理解した。

 翌年、隋の外交官が初めて飛鳥の地を踏み、朝廷で国書を読み上げ、日本式の礼(4度お辞儀をする等)を行った。聖徳太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見はここに見事成就した。以降、数度にわたる遣隋使、遣唐使の派遣で多くの留学生・学僧を送り、彼らが吸収した知識を国政に反映させ、日本は国力を高めてゆくことになる。

 隋は日本からの国書を黙って受け取るしかなかったが、それは日本と隋との対等外交を意味していた。聖徳太子は遣隋使を送る前から、朝鮮半島の情勢や隋の現状を調べ、その結果、隋が日本に攻め入る可能性はゼロに等しいとして、対等外交を一方的に宣言した国書を送りつけたのである。聖徳太子の完全な作戦勝ちであった。
 煬帝も聖徳太子の作戦を理解し、対等外交の選択しか残されていないことから、より激怒したのである。煬帝は遣隋使の翌年に、隋からの返礼の使者である斐世清(はいせいせい)を小野妹子に同行させて帰国させた。しかしここで大きな事件が起きた。小野妹子が隋から頂いた正式な返書を紛失したのである。
 小野妹子が国書を紛失する失態に朝廷は大あわてとなった。本来なら小野妹子は死罪でもおかしくなかったが、軽い罪に問われただけであった。多分、隋からの返書が「日本を臣下にする」など、とても受け入れられないものだったのであろう。それゆえに小野妹子は「失くしたこと」にしたのである。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を軽くしたのも、妹子の苦悩を察したからである。

 さて煬帝からの返書とは別に、随伴した斐世清が日本からの歓待を受けた際に送った国書が「日本書紀」に残されている。その内容は、従来の諸外国に対する中国の態度とは全く異なるものであった。斐世清の国書は「皇帝から倭皇に挨拶を送る」という文章で始まっている。「倭王」ではなく「倭皇」であるが、これは隋が日本を臣下として扱っていないことを示している。文章は次のように続く、
「皇(天皇)は海の彼方にいながらも良く人民を治め、国内は安楽しており、深い至誠の心が見られる」、このように斐世清の国書には朝貢外交にありがちな高圧的な文言は見られずに、丁寧な文面で日本を褒める内容になっている。つまり聖徳太子のように終始ぶれない対等外交を進めれば、あるいは国の支配者が主張することを主張すれば、たとえ世界の超大国であっても、応じてることを示している。

 いっぽう隋からの激しい攻撃をはね返し、朝貢外交を続けた高句麗に対しては、隋は「いつでもお前の首をすげかえられる」と突き放した内容の国書を送っている。聖徳太子が見せた気概は、隋の日本に対する態度を明らかに変えた。国内においては「和の尊重」や「話し合いの重視」という平和的な姿勢を示し、外交では毅然とした態度で一歩も引かない厳しい姿勢で臨んだ、このことが聖徳太子の最大の功績である。聖徳太子の対等外交の精神は、それまでの中国による冊封体制から抜け出し、我が国が自主独立の精神と独自の文化を生み出すことになった。
 608年に聖徳太子は3回目の遣隋使を送り出した。このとき聖徳太子を悩ませたのは国書の内容だった。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは出来ない。しかし再び朝貢外交の道をたどることも許されない。考え抜いた末に作られた国書の文面は以下のように書かれている。
「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。
 我が国が皇帝の文字を避けることで隋の立場を配慮し、それでいて皇帝にも勝るとも劣らない称号「天皇」を使用し、両国が対等な立場である方針に変更がないことを明確にした。ちなみに、この国書において「天皇」という称号が初めて使われた。

 遣隋使について小野妹子の功績を忘れてはならない。日本からの危険な国書を持参し、命がけの仕事を完全に果たしただけでなく、隋からの返書に問題があると判断すると、日本の名誉のために「失くした」と平気で言い切る度量があった。その功績から小野妹子は冠位十二階で5番目の地位に過ぎなかったが、後には最高位である大徳にまで昇進している。

 遣隋使には「文化の交流」という側面もあった。608年の3回の遣隋使の際に、隋への留学生として高向玄理(たかむこのくろまろ)や南淵請安、僧旻(みん)らが同行している。彼らは大陸の優れた政治制度や仏教文化を学び、帰国すると日本に政治・文化に大きな貢献を持たらすことになる。

 ところで遣隋使は、朝鮮半島の政治情勢を動かすことになる。任那を滅ぼした新羅の日本に対する態度が一変したのである。朝鮮半島では日本は高句麗と百済とはすでに同盟を結んでおり、遣隋使の成功によって隋と日本は対等の立場になったのである。この遣隋使の成功は新羅にとっては取り残された不安を抱かせた。新羅は任那を滅ぼし日本とは険悪な関係であるうえに、日本が隋と対等な関係となったのだから、日本がいつ攻められてもおかしくはなかった。

 そうなれば半島の他の国は日本と同盟しているので、新羅は孤立してしまう。そこで新羅は自から日本に接近してきた。聖徳太子が遣隋使の前に新羅と同盟しなかったのは、この事態を見抜いていたからである。まさに先見の明であるが、その聖徳太子ですら読めなかった時代の大きな流れがあった。

 周囲からの圧迫を受け追いつめられた新羅は、常識では考えられない行動に出る。それが新羅にとっては起死回生となり、日本にとっては不幸を招くことになる。

 

その後の聖徳太子

  晩年の聖徳太子は、将来の日本のために若い人材を育てるため政治の第一線から離れ、教育者として斑鳩宮(法隆寺東院)で仏典の研究に没頭する。

 聖徳太子は20歳の頃から仏教の慈悲の心の実戦として、民の救済の為に力を尽くしてきた。四天王寺には貧しい人の為の施薬院(薬局)、療病院(病院)、悲田院(飢えた人を救い身寄りのない老人を世話した社会福祉施設)などを設けていた。太子は高句麗の高僧・慧慈(えじ)に師事し、全ての人が慈悲心を大切にする平和国家の為に、615年(41歳)、仏教の教科書となる「三経義疏」を作成した。

 人々が興味を持ちやすいように、膨大な仏典の中から選んだ「三経」は、誰でも必ず仏に成れると説く「法華経」、唯一女性が主人公の仏典「勝鬘(しょうまん)」、問答式で親しみやすい「維摩(ゆいま)」を選んだ。
 622年(48歳)、前年暮れに聖徳太子の母が亡くなると、年が明けて太子も床に伏し、2月に入ると4人の妻のうち膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が他界する。そして、翌22日に聖徳太子も逝去した。享年48。

 日本書紀は人々の様子を次のように記す。王族・諸臣及び天下の百姓などことごとく、長老は愛児を失うが如く、幼い者は父母を亡くした様に、泣き涙する声が巷に満ち、耕す男は鋤を手にとらず、杵を突く女は杵をとらず。皆、日月が光を失い、天地が崩れ落ちたようだった。「今後、誰を頼りにすれば良いのか」と嘆いた。

 日本書紀には厩戸皇子が斑鳩宮で亡くなったと記述されているが、太子伝暦には斑鳩宮で亡くなるとき、膳部妃(かしわでのひ)を寝室に呼び「私は今日死ぬつもりだ。いっしょに死のう」と言い毒を口に含んだとされている。この真意は別であるが膳部妃は正妻でも第二第三婦人でもない女性である。聖徳太子は今もこの女性と埋葬されている。

 聖徳太子は27歳の時に、墓の候補地を既に決めており、他界する2年前に自身の廟を造っていたが、その際、自分の子孫を残さないようにと風水の吉兆に逆らって「あそこの気を断て、ここを断て」と命令していた。これは「一族の繁栄を、幸せの絶対条件」とする時代にあっては驚くべきことであった。権力を誇る者の愚かさや、物部氏のような大豪族が滅んでいく様を見てきた聖徳太子ならではの強烈なエピソードである。
 大阪府南河内郡太子町の叡福寺北古墳(聖徳太子墓)は直径50m、高さ100mの円墳で、内部は横穴式石室になっている。太子、母、膳郎女の3人が合葬されていることから「三骨一廟」の墓となった。724年に聖武天皇が伽藍を建て、太子信仰が盛んになるにつれ、聖徳太子の墓や遺品を伝える同寺は霊場となり、空海、親鸞、日蓮などの名僧が巡礼し、同寺の不動明王、愛染明王は空海の作と伝えられている。周辺は「王家の谷」と呼ばれ、推古、敏達、用明、孝徳天皇陵などがある

 

聖徳太子の死後

 聖徳太子は推古天皇の摂政になると、内政・外交ともに活躍を見せた。しかし晩年には蘇我氏という大きな壁を崩せず、悩んだ聖徳太子は蘇我氏との衝突を避け、政治から遠ざかり、仏教に重きを置くようになった。「世間虚仮、唯仏是真」を唱えながら、仏門の日々となった。世間虚仮、唯仏是真とは「この世は仮のもので、仏の世界こそが本物である」という意味である。聖徳太子にとって仏教と信仰だけが救いとなっていた。聖徳太子が622年に49歳で死去すると、死を待っていたかのように蘇我氏の横暴が再び始まった。

 蘇我馬子は推古天皇に対し、蘇我氏がかつて所有していた推古天皇の所有地・葛城(奈良県)の返還を迫った。推古天皇は馬子の要求に次のように答えている。

「私は蘇我の血を引き、馬子は私の叔父である。しかし公の土地を、私人に過ぎない馬子に譲っては、後世の人に私が愚かな天皇と言われるのみならず、馬子も不忠な人物と後ろ指を指されてしまう」。

 このような毅然とした見識を持った推古天皇も628年に75歳で崩御された。蘇我馬子は推古天皇の崩御2年前に亡くなっており、つまり620年代に聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇が相次いで亡くなり、政治の実権は馬子の子である蘇我蝦夷が握った。

 推古天皇の後継について推古天皇の遺言が曖昧だったため朝廷内で意見が分かれた。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声が多かったが、蘇我蝦夷は田村皇子(たむらのみこ)を推した。田村皇子は馬子の娘を妻としているため、蘇我蝦夷は義兄弟の田村皇子を支持したのであろう。田村皇子の子で蘇我氏の血を引く古人大兄皇子への中継ぎにする思惑があった。一方の山背大兄は聖徳太子の実子だったため煙たがられ、結局は田村皇子が即位して舒明天皇になった。山背大兄王が天皇になれなかったのは、年齢が田村皇子より若かったためと思われる。皇位を争ったことからすれば、このとき山背大兄王は少なくとも30歳前後であったであろう。

山背大兄王
 推古天皇が病没した時、聖徳太子と妻・蘇我刀自古(とじこ)の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を擁立する動きがあったが、馬子亡き後の蘇我蝦夷はこの即位を封じこめようとした。山背大兄王が天皇になると推古天皇と連続して蘇我氏系の天皇になるので、反蘇我氏勢力との対立が深刻化することをその理由にした。

 しかし舒明天皇が崩御された641年に、再び皇位継承の問題が起きた。天皇家の系譜からすれば、皇位を継承するのは舒明天皇の嫡男である中大兄皇子であったが、まだ16歳で皇位を継げる年齢ではなかった。舒明天皇の長男である古人大兄皇子も、皇位を継げる年齢には達していなかった。山背大兄王は43歳となっており皇位に付くには十分な年齢であった。しかしながら、舒明天皇の皇后(敏達天皇の曽孫)が即位して皇極天皇となった。「日本書紀」は皇極天皇の即位についての経緯について記載していないが蘇我蝦夷の差し金と考えられる。

 皇極天皇のもと蘇我蝦夷は引き続き大臣となっるが、息子の入鹿が国政を執り、その権勢は父以上になった。643年、病気のため朝廷に出仕できない蝦夷は、勝手に紫冠を入鹿に授け大臣の位であるかのようにさせた。蝦夷の子・蘇我入鹿が政治の実権を握ると、入鹿は自分の手足同然の古人大兄皇子を勝手に擁立し、邪魔な山背大兄王を廃しようとした。

 蘇我入鹿は山背大兄王の住む斑鳩宮を襲撃し、斑鳩宮に火を放ち、山背大兄王はいったん生駒山に逃れた。家臣から「東国へ行って再起を期し入鹿を討とう」と言われるが、「挙兵して入鹿と戦えば勝てるだろう。しかし私のことで戦乱になって苦しみ傷つくのは百姓たちだ。そんな事態を引き起こすくらいなら、私の命を入鹿にくれてやろう」と、斑鳩寺に舞い戻り山背大兄王は一族22人とともに首をくくって自害した。ここに聖徳太子の血は絶えたのである。聖徳太子をよく知る蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激しく怒ったと伝えられている。

 山背大兄王はなぜのような悲劇的な道を選んだのか。それは父・聖徳太子以上に仏教を信奉し「捨身」こそ理想としていたからである。捨て身は仏教の菩薩行の理想で、その理想に従い山背大兄王は戦争で多くの人々を死なせることを拒否して、その尊い身を投じたのであろう。

 だだしそのような綺麗事は別として、蘇我入鹿が邪魔な山背大兄王を殺害したことは確かであり、次の孝徳天皇である軽皇子も蘇我入鹿の軍に加わっていた。このように聖徳太子の子である山背大兄王の存在が、入鹿だけでなく飛鳥朝廷の一部の者にとって邪魔な存在だったことがうかがわれる。しかし山背大兄王殺害の事件から2年後に、大化の改新で蘇我氏は滅亡することになる。

聖徳太子は存在したのか

 推古天皇は象徴天皇で、実際の政治は聖徳太子が行っていた。聖徳太子は飛鳥朝廷による冠位十二階十七条憲法などの政治改革をおこなっている中国の隋王朝に使者を派遣し(遣隋使)、大陸の進んだ文化や技術を導入し、同時に「日出るところの天子、日沈む国の天子に書する」との国書を隋の皇帝に送くり、国の威信を高めた偉人になっている。

 しかし聖徳太子を偉人とする日本書記」は奈良時代に編集されたことに注目すべきである。日本書記は藤原不比等(中臣鎌足の子)が編集したもので、当時の朝廷に都合よく書かれた可能性が大である。しかも日本書記」には厩戸皇子の記載はあるが、聖徳太子の名前はどこにもない。

 聖徳太子はかつての一万円札に描かれ、誰もが知っている人物であるが、最近の学校では「厩戸皇子」と書かれて聖徳太子はカッコつきで教えられている。聖徳太子という名前は、太子の死後にその遺徳を偲んで送られた名前で、生きていた時の呼び名は、あくまでも厩戸皇子である。

 聖徳太子捏造説も散見される。これは聖徳太子が実在したとしても、その偉大さを誇張しすぎたため聖徳太子の実在そのものを疑う者が出たのであろう。天皇の権威を高めるため、聖徳太子という天皇家の偉人を後世に飾りたてた可能性は否定できない。 

 蘇我馬子は崇俊天皇を殺したあと、自分の姪にあたる推古天皇(初の女性天皇)を即位させ、さらに593年、自分の甥の聖徳太子を19歳で推古天皇の摂政とした。

 摂政となった聖徳太子は、約束どおり摂津(大阪府)の地に四天王をまつる寺の造営を始めている。これが現在でも大阪市天王寺区に残る四天王寺である。大阪の街で「梅田」「難波」と並んで有名な「天王寺」は、四天王寺の略称がそのまま地名になっている。

 聖徳太子の仏教信仰は摂政後も深まり、多くの寺院が建てられた。中でも607年 に斑鳩の地に建てられた法隆寺は、聖徳太子が建立したことで有名である。法隆寺は7世紀後半(天智天皇時代)に火事で消失したがその後再建された。それでも世界最古の木造建築として世界遺産に登録されている。法隆寺は建てられた地名から「斑鳩寺」ともいわれている。ちなみにJRの線路(関西本線)によって天王寺駅と法隆寺駅はつながっていて、両駅間は直通の快速で約21~24分で行ける距離である。

 聖徳太子は仏教信仰のために、高句麗の高僧・恵慈に仏教を学び、後に仏教の法典の注釈書である三経義疏を著している。聖徳太子が恵慈から仏教だけではなく、高句麗などの朝鮮半島の情勢や、高句麗と敵対関係にあった中国の隋の情報を学んでいる。東アジアの国際情勢に関する理解を深めた聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていた。

 日本が律令国家を目指した8世紀初頭「律令国家の確立には天皇を絶対的存在」にする必要があった。そのため聖徳太子の功績が誇張され、さらに「日本書記」の執筆者(藤原不比等)が、天皇に逆らった蘇我馬子を貶めるため、聖徳太子に全ての功績を押し付けた可能性はある。しかしたとえ誇張であっても、それなりの偉人であったことは間違いない。それだけの人物がなぜ天皇にならなかったのか、と疑問を持つ者がいるが、それは推古天皇が聖徳太子より長生きしたからである。

 聖徳太子は天皇家の政治的権威を高め、冠位十二階や十七条憲法を定め、中国と同じ法治国家へと大改造をおこなった。さらに聖徳太子は仏教を国教とした。

 ふりかえれば国家を統一のためには神道より仏教のほうが有利だった。仏教は釈迦という絶対的存在を前に人々の優劣を明確にしていた。そのため天皇を崇める中央集権国家にとって都合が良かったのである。神道は神と人の間の序列については何も述べていないので、中央集権を統治を肯定する根拠にはなりにくかった。いずれれにしても聖徳太子は偉大な人物である。

蘇我馬子の墓とされている(奈良県高市郡明日香村島庄)、聖徳太子(壱万円札)

聖徳太子の墓所(叡福寺北古墳、大阪府南河内郡 太子町太子)