岩宿遺跡

【岩宿遺跡の発見】

 岩宿遺跡は群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡である。1946年(昭和21年)にこの岩宿遺跡を発見したのは納豆の行商をしながら熱心に考古学を研究していたアマチアの相沢忠洋(ただひろ)だった。彼の発見は「旧石器時代の日本列島に人類はいなかった」とする定説を覆し、「日本にも旧石器時代が存在し、ヒトがいた」ことを証明したのだった。相沢忠洋が日本の歴史を塗り変えたのである。
 群馬県新田郡笠懸村には丘陵が並び、その間に赤土(関東ローム層)が露呈している切通しがある。太平洋戦争が終わってまもない昭和21年、相澤忠洋は納豆の行商をしながら地層に注意を向けていた。山寺山にのぼる細い道の近くまでゆくと、赤土の断面に見なれないものが、突きささった状態で見えた。近づいて、指先で動かしてみると、少し赤土がくずれただけで突きささった石はすぐ取れた。

 それを見たとき、危く声をだすところだった。じつにみごとだった。黒曜石の槍先をした石器だった。長さ3センチ、幅1センチの小さな石片は手のひらで、ガラスのような透明な帳面を見せ黒く光っていた。形はすすきの葉を切ったように両側がカミソリの刃のように鋭かった。これだけ小さなものを見つけだしたところが相沢の素晴らしさである。

 赤土の層(関東ローム層)は富士山などの関東の火山が激しく動き、噴火した火山灰が降り積もった地層であった。日本に人間が住み着く以前の地層で、そこから石器が出てくるはずはなかった。しかし関東ローム層の赤土から石器らしいものが出たのだから、相澤忠洋が驚くのも無理はなかった。

 それは世界史に残る重大な発見があった。そのときの様子を、相沢忠洋は自伝「岩宿の発見」に、次のように書かれている。

 

山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。
近寄って指をふれてみた。
指先で少し動かしてみた。
ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。
それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。
じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。
完全な形をもった石器なのであった。
われとわが目を疑った。
考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に!」
私は、その石を手におどりあがった。
そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。
たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。
そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
もう間違いない。
赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。
ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。

 

 それから相澤忠洋は毎日岩宿に通った。縄文時代の石器であれば土器が見つかるはずであったが見つからなかった。約3年後、黒曜石製の完全な形をした槍先形尖頭器を発見した。「空にかざし太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っていて、神秘的なほどに美しかった。それはみごとな石器だった」と回想している。

 「ついに見つけた。それも槍先形をした石器を、この赤土(関東ローム層)の中に、赤城山麓に石器だけを使って生活していた日本人の祖先の生きた跡があったのだ」。

しかしこの発見は、地元ではアマチュアだからとバカにされた。「夜学の小学校しか出ていない、学歴の無い納豆の行商人が考古学など生意気だ、行商人のやっていることなど学問ではない」と中傷された。

 しかし相澤忠洋は「納豆の行商ならば朝晩行商に出れば、日中は発掘研究が出来る。考古学がやりたいから、納豆の行商をしているのだ。サラリーマンでは、時間に拘束され遺跡の踏査が自由に出来ない。考古学の手段として行商をしている」と心で反発していた。

 相沢忠洋はただひとつの石器の発見でよしとせず、同じ場所から次々と数十点の石器を発掘した。そこで昭和24年のある日、彼は東大人類学教室と千葉の国府台の考古学研究所に手紙を書いた。
 そして昭和24年7月27日、東京に出た相沢忠洋は明治大学の大学院生であった芹沢長介と出会う。2人はちょうど同じくらいの年頃で、しかもどちらも北関東の縄文土器や石器を研究していた。2人はすっかり意気投合して、以降、相沢忠洋は群馬県桐生から東京まで120キロの道のりを、当時の重たい自転車でなんどもなんども往復した。午前3時頃に家を出て、到着するのがお昼。それからまた、自転車で帰宅するが、最後が急な上り坂になっていた。しかしそれ以上に、相沢忠洋の考古学への情熱が強かった。相沢忠洋が発掘した石器類が非常に高い価値を持つと直感した芹沢長介は、相沢忠洋の発見物を、明治大学の助教授だった杉原荘介に渡す。ところが渡された石器を見た杉原助教授は「これはちょっと疑問です。調べてみるから置いて行きなさい」というので発掘物を置いていった。しばらくして、杉原助教授が文部省で岩宿遺跡での石器発見に関する新聞記者発表をおこなった。
 このことが、昭和24年9月20日の毎日新聞で二段抜きの見出しで「旧石器の握槌 群馬県で発見 十万年前と推定」とスクープ記事が報道された。新聞内容は以下のとおりであった。
「このほど明大考古学研究室によって、原始人の手で作られた旧石器が発見された。現場は群馬県桐生市外笠懸村字岩宿にある岩宿小丘といい、去る四日地元アマチュア考古学者がここで集めた石削のなかに珍しい形のものがあるのを同教室の杉原助教授が発見、十日から三日間現地試掘をしたところ関東ローム層の下部から旧石器時代特有の形をした横刃型、尖刃型石器十数個をはじめ粘板岩製グトボアン(握槌形石器)も発見した。これと同時に出土地点が関東ローム層の下部であるという事実を確認するため、東大地質学助教授多田文男氏が十五日現地を再発掘し、その地点を確認して遺物包含層を岩宿地層と命名した。
 発表原稿を杉原助教授から渡された芹沢長介はびっくりする。なんと相沢忠洋の名前の名前がまったく載っていなかったのである。その記事では発見者は杉原助教授のように書かれ、新聞には「地元のアマチュア考古学者が収集した石器から、杉原助教授が旧石器を発見した」と書かれていた。

 記者会見が行われると、「3万年前の石器が発見され、その石器は旧日本人が加工し製造したもので、世界最古の磨製石器」というニュースは日本の考古学会を震撼さた。それまで日本は古くても1万年まで人間は住んでいなかったとされていたのが、急に数万年も前から人間がいたとなったのだから、学者たちは興奮したのも無理はなかった。
 相沢忠洋は旧石器の発見者で、日本の旧石器文化研究のパイオニアだった。ところが考古学の大家と呼ばれる人々から詐欺師呼ばわりされ迫害を受けた。迫害する側はその地位を利用して相沢忠洋の発掘のじゃまをし、遺物を盗み相沢忠洋の人格を中傷した。経済的にも追いつめられた相沢忠洋は、畳のないない床板がむき出しの家で、押し入れに藁(わら)を敷いて寝起きする生活だった。布団はの綿はすべて遺物の標本箱にしていた。
 相沢忠洋は迫害を受けたが考古学への情熱を失わず、迫害している人々にさえ「ボクは人間が好きだから」と嘘や中傷への反論もせず、黙々と発掘を続けた。
 相沢忠洋が世間で認められるようになるのは、最初に石器を発見してから21年後の昭和42年になって吉川英治賞を受賞することになってからである。さらに同年、相沢忠洋は勲五等が授与された。勲五等をいただいた5月22日当日、脳内出血によって相沢忠洋は63歳の若さで他界した。相沢忠洋の座右の銘は、「朝の来ない夜はない」だった。