元寇

蒙古襲来
 鎌倉幕府が成立した直後、世界はモンゴル(蒙古=元)による世界帝国という大事件に見舞われていた。英雄チンギス・ハーンテムジン)とその子孫たちは中央アジアから南ロシアに至る広大な地域を征服し、ユーラシア大陸のほぼ全域を支配していた。

 朝鮮半島では高麗が、満州では女真民族の金帝国が、中国では漢民族王朝の宋(南宋)が次々に蒙古に呑み込まれていった。

 蒙古軍は短くて強力な弓と自由に操る騎馬による戦いが強く、得体の知れない巨大な胃袋のように、蒙古軍の通った後の荒野には血祭りにされ屍だけが累々と残され、あらゆるものを飲み込んでいった。

 蒙古軍が巨大な帝国を作り上げたのは、蒙古軍の結束が固く、その戦術が優れていたことに加え、征服した住民を皆殺しにしたからである。皆殺しであれば捕虜の手間はかからず、恐怖から敵対する国々は戦う前に降伏するか、あるいは戦って皆殺しにあうかのどちらかだった。

 第5代皇帝・皇帝フビライは蒙古王朝の「元」を率いて、中国を完全支配するために都を大都(北京)に定め、南宋(南中国)と大々的に戦った。高麗は三別抄という抵抗組織があり、蒙古軍はこれをなかなか鎮圧できず、3年間、高麗は蒙古からの侵略に耐えていた。この3年間が日本の防備に時間を与えてくれた。

 蒙古は高麗を征服すると国号を元と改め、日本侵略の計画をねった。日本は蒙古の襲来に備え北九州に石塁を築き兵力を増強した。当時の鎌倉幕府は海外の知識に乏しかったが、周りを海で囲まれている我が国といえども、蒙古はその凶暴な力を日本に及ぼそうとしていた。

 元寇とは、モンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことである。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、7年後の2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。

 なお「寇」とは「外敵」という意味で、元寇は元による侵略する」を意味している。

 

蒙古からの国書

 1268年、蒙古に征服された高麗王は命令に逆らうことができず、側近の使者がフビライの国書を持ち、我が国に朝貢を要求してきた。フビライが日本へ関心を抱いたのは、マルコ・ポーロの東方見聞録で日本は黄金の国で、日本の富に興味を持ったからでもあるが、世界制覇の一環として日本征服を悲願としたのである。

 「天に守られている蒙古の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることに努めてきた。まして蒙古皇帝は天命によって大領土を支配し、はるか遠方の国々も代々の皇帝をうやまって家来になっている。例えば、私が皇帝になってからも高麗(朝鮮)が降伏して家来の国となり、私と高麗は父子の関係になり喜ばしいことになっている。高麗は私の東の領土であるが、日本は昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を蒙古皇帝に出すでもなく、国交を持ともしないのはどういうわけか。日本が我々のことを知らなければ困ったことなので、この国書を通じて私の気持ちを伝えよう。

 これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。我々は全ての国を一つの家と考えている、日本も我々を父と思うことである。このことが分からなければ軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。日本国王はこの気持ちを良く理解して返事をしてほしい」

 要するに「日本よ、自分の家来になれ」とのフビライの国書(命令書)が九州の太宰府にもたらされたのである。国書は表向きは友好な貿易をうたっていたが、実情は日本を属国として従わせる内容であった。国書には「フビライを皇帝とよび、日本の天皇を王」と呼んでおり、これは冊封体制を意味していった。また「軍を送る」という言葉が使われていた。つまりは「降伏しろ、降伏しなければ武力侵略する」と恫喝してきたのである。

 国書は太宰府から、幕府をとおして朝廷に届けられた。我が国にとっては国家存亡の危機であったが、日本には「朝廷と幕府」という二つの権力構造があり、当時の外交は朝廷の担当であったため、幕府は朝廷に国書を回送したが、朝廷では連日会議を重ねても結論に至らなかった。最終的には幕府の意見によって「返事をしない」、つまり「高圧的国書に対し黙殺」を決めたのである。鎌倉幕府は蒙古襲来に備え老齢の北条政村から18歳の若き北条時宗執権を替えることになった。

 日本と中国は、それまで朝貢関係(主従関係)にはなかった。「日本の天皇は中国の皇帝と対等」としてきた。鎌倉幕府の若き第8代執権北条時宗朝貢の強要は我が国への侮辱であると激昂し国書を破り捨てた。外敵と戦った経験がない日本は、蒙古の恐ろしさを知らなかった。しかし武力で日本を支配してきた鎌倉幕府は、たとえ残忍な強敵であっても蒙古の軍門に下るわけにはいかなかった。鎌倉幕府が尻尾を巻いて逃げれば、幕府のメンツは丸潰れになり権威の失墜は間違いなかった。幕府は蒙古人が凶心を持ち日本を窺っているとして、蒙古軍の襲来に備えて用心するよう御家人らに通達した。

 北条時宗は、元からの再三の使者に返事をせず、元の使者を長期間置き留め返事を持たさずに追い返した。それはまさしくフビライに対する服属の意志のないことを示す侮蔑行為だった。この日本の対応に激怒したフビライは、日本を力でねじ伏せようにと属国である高麗に命じ、高麗はただちに1千隻の軍船をつくった。また官吏を高麗に派遣して朝鮮半島からの日本侵攻ルートを調査させた。

 元の来襲を予想した北条時宗は、九州の御家人に異国警固番役を課して、沿岸の警備を強化した。さらに挙国一致体制を築くため、反鎌倉だった名越時章、兄の北条時輔を討伐して後難を断った。日本にとってはこれほどの侵攻を受けるのは歴史上初めてのことである。開戦必至と見た朝廷は、全国の寺社に大規模な祈祷を行わせた。

(下左:フビライ。下右:北条時宗

文永の役

 フビライは計6回、日本へ使節を派遣したが服属させることができなかったため、武力侵攻を決断し日本攻撃の準備に取り掛かった。またこの時点で元は南宋との5年に及ぶ襄陽・樊城の戦いで勝利し、南宋は元に対抗する国力を失っていた。

 フビライの命令は絶対である。高麗は多くの労働者と大量の食料を強要され、1年間に数10万の餓死者を出しながら数百隻の軍船を完成させた。さらに高麗人は、その船に乗って蒙古の兵士として海を渡らなければならなかった。
 1274年11月、朝鮮半島の合浦を出港した蒙古・高麗軍4万が大小9百隻の軍船に分乗させ、対馬・壱岐両島に襲いかかった。両島はたちまち陥落し、武士のほとんどが討たれ、住民は奴隷以下の扱いを受けた。

 わずかに生き残った女たちは両手に穴を穿たれ、そこに縄を通され数珠のように船に繋がれた。こうすれば日本軍が矢を撃てないからで、このような蒙古の残虐な行為は世界の至る所で行われていた。

 文永の役で鷹島に上陸した元軍は、島民のほとんどを虐殺した。開田に暮らす一家8人は元軍から隠れていたがニワトリが鳴いたため、「ニワトリがいるなら人も住んでいるはず」と元軍は山中を捜し一軒家を発見し、灰だめに隠れていた老婆1人を除く一家7人が虐殺された。以来、開田では現在でも「鶏を飼ってはならない」とされている。鷹島 (長崎県)には「開田の七人塚」が残されており、多くの村人が蒙古軍の手で無惨に殺されていった。

 対馬・壱岐の両島を補給基地とした蒙古の軍船は、11月19日 の未明、博多湾に現れた。蒙古は博多湾の北側に上陸すると、太鼓やどらを打鳴らして前進した。それは日本の武士にとって見たこともない新しい戦法だった。

 日本軍の大将は大宰少弐御家人は海岸線で蒙古軍を迎え撃った。蒙古軍(多くは高麗人)は、てつほう(火器)を用い、槍衾を持った歩兵による集団戦法で攻めてきた。てつほう(火器)とよばれる大砲はオレンジ色の火炎をひきながら弾丸を打ち出した。その弾丸はうなり音を上げて飛来し、大音響をあげて爆発した。ものすごい爆音と爆風で、馬は驚き暴走し、乗っていた武士は振り落とされた。

 また火炎放射機のような武器もあり、さらに140キロの巨石を遠くまで射てる弩砲(どほう)と呼ばれる重砲を持っていた。蒙古兵が持つ弓はコンパクトで強力だった。打ち出す力は強く、武士の身に付けていた鎧を打ち抜くことが出来た。しかも射程距離は長く、日本の2倍以上の200メートルであった。矢には毒が塗っていて、かすり傷でも体は麻痺して致命傷となった。

 日本の武士の戦闘は従来の「名乗りをあげてから攻め込む方法」であったが、蒙古軍には通用しなかった。戦と云えば一騎討ちと思い込んでいた日本の武士たちは、従来通り名乗りを上げた後、敵陣に単騎で突撃していったが、たちまち馬もろとも無惨に射抜かれた。

 そのため海岸には武士たちの屍が無惨にも多数ころがった。日本側からすると蒙古の戦法は卑怯な戦術としか思えなかったが、蒙古にすれば、日本の戦法は単純で無謀きわまりない自殺行為であった。

 熊本の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)は援軍を待たず、わずか4人の家来とともに蒙古の大軍の真中に突撃していった。2名の家来はたちまち斬り殺され、竹崎自身も胸に重傷を負ったが、かろうじて助け出され九死に一生を得た。

 わずか1日の戦闘で、日本の軍勢は太宰府まで後退した。博多の街は逃げまどう住民でパニックに陥り、多くの住民が捕らえられて惨殺された。夜になると町のあちこちから出火し、炎は天高く舞い上がり、夜空を焦がして博多湾を赤々と照らした。

 このままでは蒙古軍が博多湾に強力な橋頭堡(補給基地)を築き上げるのも時間の問題であった。蒙古軍は博多を足場に本州を攻めてくるだろう。そうなれば、北条時宗は殺されるか切腹するかして鎌倉幕府は滅亡し、多くの日本人は虐殺され、奴隷の道をたどることになる。つまりは日本人は歴史上から姿を消してしまうことになった。

 蒙古軍の野蛮さを伝える話として、蒙古軍は射殺して海岸に累々と横たわる武士の死体の腹を裂くと、手づかみで肝を引きずり出し、それを食べたという。

 幕府軍は苦戦を強いられたが、それでも武士たちの戦意は高く士気は固かった。蒙古軍も幕府軍による激しい抵抗によって大きな被害を受けた。戦いは蒙古軍に有利に進んだが、夕方になって空が暗くなると雲行きが怪しくなってきた。

 蒙古軍は日本側の夜襲を恐れ、船に戻り陣営を立て直すことになった。しかし夜半から大風雨となり海は荒れ狂った。蒙古軍の船は大波に翻弄され、互いにぶつかり横転して壊れ、その多くは沈没した。乗っていたほとんどの蒙古兵は溺死して、海の藻くずとなった。生き残った蒙古軍は逃げ帰るしかなった。

 多くの犠牲者を出し、負け戦だった日本にすれば全く運の良いことだった。11月の下旬に起きた低気圧による海の嵐は、この地方では決して珍しいことではないが、起きたタイミングがまさに日本側についていた。日本は自然の力を味方にして、強大な蒙古の攻撃を持ちこたえたのである。

 従来から「暴風雨によって軍船が難破して軍が全滅した」とされているが、元軍が自主的に退却したとの説もある。日本の軍事力を知らない蒙古は、とりあえず兵3万人を送り込んで「威力偵察」を試み、想像以上に手ごわいことを知ると引き上げたという説である。11月の戦いで、台風でなくとも季節外れの暴風雨があったと思うが、日本の記録には「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなった」と書かれているのみである。

再度の使者

 フビライは文永の役の翌年の4月15日、杜世忠(と・せいちゅう、34歳)を正使として元の使者5人と共に日本に送ってきた。使者たちは博多をさけて長門の室津(山口県豊浦町)に上陸した。使者たちは蒙古に恨みを持つ博多の人々に命を狙われるのを恐れたのである。

 文永の役で蒙古はその恐ろしさを十分に見せつけてある。今回の使者は「今度は大軍を送るから、云うことを聞いて降伏せよ」とのフビライの国書を持ってきた。

 しかし日本の徹底抗戦の意志は固かった。杜世忠一行は大宰府に移され、次に鎌倉に送られ龍ノ口(当時の刑場)で全員が処刑され、その首はさらされた。これは以前に元が送った使者が我が国に長期間滞在を余儀なくされ、使者たちはその間、上陸地点の地形などを本国に報告しており、このスパイ活動をさせないためだった。

 幕府は断固たる態度を示したが、外交使節を惨殺することは当時としては異常なことだった。幕府は国際ルールを知りながら使節を処刑したが、それは若き執権・北条時宗の断固たる決意の表れだった。時宗は尊敬する僧・蘭渓道隆から「宋が蒙古を軽く見て、そのため引き延ばしの交渉をしている間に侵略された」と教えられ、また無学祖元から「莫煩悩」(あれこれ迷わず正しいとことをやれ)と唱えられ、交渉の道を絶って徹底交戦を決意したのである。

 杜世忠たちが処刑されたことを元は知らなかった。そのため1279年6月に周福を正使とした一行をまた送ってきたが、今度は博多で全員が斬りすてられた。2ヶ月後に杜世忠を送った水夫らが高麗へ戻り全員が殺されたことを告げた。これを聞いた元の軍人はみな怒り「すぐにでも日本を撃つべし」と口々に叫んだ。フビライは周福らを送った宋の名将・范文虎(はんぶんこ)に意見を求め日本遠征の準備を進めた。

 フビライは日本へ再度使者を送ってきた。その内容は鎌倉幕府・北条時宗に対し「速やかにモンゴル帝国の大都(北京)におもむき、属国たる意志を示せ」というものであった。これは蒙古の最後通牒であった。決戦の意を固めていた時宗は、その返事として使わされた使者を斬首した。

 フビライの命令で海を渡って来た高麗の使者は、哀れにも通訳ともに鎌倉で首を斬り落とされたが、この行為は蒙古にとって最大の侮辱であった。使者を斬られた以上、報復措置を取らなければモンゴル大帝国の威信が保てない。斬首はまさに宣戦布告を意味していた。蒙古は世界の大部分を残忍な方法で征服してきたが、その残虐な蒙古に対し最大の侮辱を与えたのである。

 

戦いの前

 有史以来外国による初めての本格的な襲来という最大の危機を乗り切ったが、蒙古はまた攻めてくるはずであった。日本は蒙古の情報を入手し、次の襲来に備えて綿密な準備を立てた。

 まず再襲来に備え異国警固番役を強化し、九州方面の軍事力を充実させた。上陸地点として予想される博多湾の広大な沿岸に進撃を阻む石塁が築かれた石塁は高さ10メートル、幅3メートルに及ぶ長大な壁であった。同時に小型の船が多数建造され、水夫たちは船の操舵技術を死にものぐるいで会得した。

 また非常時に動員可能な兵力も緻密に調査され、来襲時にはただちに反撃出来る体制が整えられた。山口県から長崎県に至る長大な海岸線を石塁で防壁を築き、本州からの援軍を迅速に戦場に行けるように訓練した。武器庫にはあらゆる武器が山と積まれ、幕府の資金はすべて国土防衛にまわされた。

 朝廷や貴族も自主的に贅沢を止め、瀬戸内海を荒し回っていた海賊は進んで幕府に協力した。このように日本全体が一丸となって国難に向かった。

 その間、モンゴル帝国は中国江南地方で南宋を滅亡させ、この地の豊富な資源と人材を得ると、その強大な軍事力を一気に日本に向けた。ちょうどその頃、司令官ジュチが率いる蒙古軍は、はるかポーランドにまで侵入し、勇猛で知られた欧州騎士団4万を一瞬にして打負かし一人残らず殺していた。

 幕府も北条時宗も蒙古軍が必ず攻めてくることは十分に承知していた。残された時間がどのくらいかは見当はつかなかったが、次なる来襲が予想されている以上、速やかな防衛体勢が必要であった。

蒙古の怒り

 極東の小国・日本から最大の侮辱を受け、怒りが頂点に達したフビライは日本征服の準備を始めた。元の国力を背景に大規模な侵略軍を組織し、高麗にまたも千隻の船を建造するように命じた。

 中国南部でも同様の命令が出され、数千隻の軍船が建造された。占領地の住民は奴隷のように働かされ、ノルマを果たせぬ労働者や働けなくなった者は、容赦なく殺されていった。1回目の文永の役の後に、元は南宋を滅亡させ、蒙古・高麗軍からなる東路軍5万、さらに江南地方を基地とする南路軍は10万と二手に分かれて日本を目指すことになる。

 1281年5月、フビライはまず朝鮮半島の東路軍に出撃を命じた。先発した東路軍は対馬と壱岐を占領し、日本側はこの両島を「捨石」として最初から放棄していた。4万の兵を載せた大艦隊は、満を持して九州を目指して出撃した。この蒙古軍の動静は、幕府の密偵(スパイ)によって逐一報告された。

 迎え討つ日本軍は総兵力12万で、そのうち上陸の可能性の高い九州北部には4万の武士が頑強な石塁の後方に布陣した。この布陣した精鋭は鎮西軍と呼ばれる九州武士団で、これを指揮するのは北条実政であった。北条実政は博多防衛の任務を命じられ、鎌倉幕府より派遣されていた。

 さらに北条宗盛は2万5千の兵で中国地方を固め、その後方には日本軍の主力6万の兵が京都から西国方面を守り鉄壁の陣を敷いていた。さらに鎌倉には北条時宗直轄の武士団がいて、蒙古の上陸地点が明らかになった時点で、速やかに駆けつけることになっていた。

 

弘安の役

 元軍は東路軍兵4万人・軍船900艘と、江南軍兵10万人・軍船3500艘の二手に分かれて日本に攻めてきた。東路軍の大部分は元との戦争に負けた高麗の兵たち、江南軍の大部分は元との戦争に負けた宋の兵だった。

 東路軍は5月に朝鮮半島の合浦港(がっぽ)を出発し、前回と同じく対馬・壱岐を侵略し、その一部は陽動作戦をかけて長門(山口県)の海上に姿を見せたが、主力部隊は九州北岸に迫った。

 出航から1か月後の6月6日、蒙古の大艦隊は博多湾の海上に姿をあらわした。博多湾に攻め寄せた蒙古軍は博多の志賀島に上陸したが、前回と違い海岸線に築かれた防壁が効果を発揮し、蒙古軍は上陸を阻止された。

 蒙古の大艦隊が現れるや、日本の武士たちはただちに攻撃を開始した。 日本の武士は夜になると小船に乗り夜襲をかけた。敵船に乗りこんで、暗闇の中で火をつけ、敵兵の首を取るなどのゲリラ戦を行った。

 日本側は前回の戦闘から得た教訓を十分に生かしていた。6月6日の夜半から6月13日まで、海上では凄まじい戦闘が繰り広げられた。 死を恐れぬ日本軍は、小舟に乗り込んで蒙古の大型船に斬り込んでいった。

 蒙古の大型船は40メートルもあり、日本の軽快な小型船の動きに対応出来なかった。闇の海から不意に現れる日本の船は、まさに神出鬼没で、突然乗り込んで斬り掛かる武士にはさすがの蒙古兵も恐れをなした。

 武士は斬り込むと火を放ち、船もろとも燃やすと阿修羅のように闇の中に消えていった。このような戦いでは、蒙古軍は彼らの得意とする集団戦法も、強力な重火器も使えなかった。

 蒙古軍の主力である江南軍は、東路軍と壱岐付近の海上で合流する予定であった。しかし合流の予定が1か月近く遅れていた。蒙古側の計画では、両軍はこの海上で合流し4千5百隻の大艦隊で一挙に博多湾に突入することであった。しかし、江南軍が中国の慶元を出航したのは6月18日だった。この誤差は、後になって日本側に奇跡の勝利をもたらすことになる。戦いは1か月以上も続き、海上でも陸上でも激しい戦闘が重ねられた。しかし戦闘は一進一退で決着はつかなかった。

 決戦が続いている間、日本の寺という寺では、日本の勝利を祈願する祭事が行われていた。亀山上皇は昼夜を分かずに祈願するように指示を出し、後宇多天皇は自ら筆をとって祈願文を伊勢の大神宮に奉納した。まさに戦っている者も、銃後にいる者も勝利のために一丸となっていた。

 蒙古軍は日本軍の凄まじい防戦にあって、九州の海岸線から侵入出来なかった。東路軍はいったん海上に退避して、主力の江南軍を待つことになった。

 6月27日、ようやく蒙古軍の主力・江南軍が到着した。蒙古軍は肥前(長崎県・佐賀県)の鷹島海上で合流すると、蒙古の大艦隊は船団を組み直し、再度、博多湾を目指して進んできた。それは大海原を覆いつくさんばかりの大艦隊であった。おびただしい数の船が海上にひしめいた。

 とてつもない数の大艦隊が博多湾に突入して、日本をねじ伏せ蹂躙すべく行動を開始した。湾内に入ると海上でも陸上でも壮絶な戦闘が始まった。戦いは激しさを増し、本州にいた日本の主力は博多湾の決戦場に急行した。鎌倉でも急遽援軍が編成され、精鋭鎌倉武士団が九州を目指した。

 一部の蒙古軍が博多市内に攻め入って放火したため博多の街は全焼した。蒙古軍の損害も甚大で、蒙古の副司令官が矢を射られて重傷を負ったほどである。遅れて到着した南路軍も、この戦況を逆転させることは出来なかった。そこで蒙古軍は空が明るいうちに軍船に引き上げた。

  博多湾を埋め尽くした大船団は、海岸に橋頭堡を確保出来ぬまま夏を迎え、そこで悲劇が起きた。7月1日が両軍にとって運命の日となった。

 夜半から始まったシケは、やがてものすごい暴風雨となり一昼夜にわたって荒れ狂った。大波は蒙古の巨船を木の葉のように翻弄して海中に引きずり込んだ。すさまじい暴風雨が海上を吹き荒れ、鎖で相互に結んでいた蒙古軍の軍船を木っ端みじんに粉砕した。

 巨船同士がぶつかり、マストはなぎ倒され、乗っていた兵士は海上に放り出され、ほとんどの兵士が大波に飲み込まれて海の藻屑となった。九州沿岸を襲った強力な台風が、これらの蒙古軍を舐め尽くし、いたぶるように壊滅したのだった。折からの台風がこの地域の気象に無知な蒙古軍に襲い掛かったのである。蒙古軍の軍船は過重なノルマのもとで造られた欠陥船が多かった。瞬く間に浸水し、その大部分が海の藻屑と消えた。

 嵐の去った翌日、嘘のように晴れ上がって、穏やかになった海面にはもはや見るべき艦隊の姿はなかった。ところどころに船の残骸らしきものが漂っているだけで、横倒しになって沈みかけている船や無数の蒙古兵の屍が木材の破片に混じって浮いていた。船の残骸と無数の死体が海をうめつくし、博多湾の海岸には、何万という溺死した蒙古兵の死体が打ち上げられた。息絶えている者がほとんどで、逃げ帰れたのはほんのわずかだった。

 高麗史によると生き残こった兵は19379人と伝えられ、死亡率80~90%という無残な状態であった。八幡愚童訓はこのときの様子を「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と書き、高麗史は「大風にあい江南軍みな溺死す。屍は潮汐にしたがって浦に入り、浦はこれがためにふさがり、踏み行くを得たり」と書いた。つまり海を埋め尽くした遺体の上を歩くことができたのである。

 日本側の掃討戦はすさまじく、生き残った敗残兵も日本兵に見つかれば容赦なく殺された。日本軍は生き残りの蒙古兵に襲いかかり、その戦闘は7月7日まで続き,降参して捕虜となった数千の兵士はことごとく首をはねられた。文永の役で活躍した竹崎季長もこのとき残党狩りに加わり,多くの首をはねて名をあげた。博多周辺には元軍兵士の首を埋めた蒙古塚・首塚と呼ばれる場所が数多く残されている。

 元寇はあっけない幕切れであった。神風が吹いたのである。神州不滅の神話はこのとき作られた。南北朝時代の公卿・北畠親房が書いた「神皇正統記」の書き出しは「大日本国は神の国なり」である。

 蒙古軍の敗退は確かに台風の結果であったが、台風が訪れる初春から晩夏まで海上に押し止めたのは、決死の覚悟で奮闘した武士たちであった。蒙古の戦法は文永の役の時に経験しており,前回に比べて御家人の統率がきいていた。博多地方の海岸線に防塁を築き敵の上陸をはばんだのである。

 春から夏にかけ大陸から九州に向かって風が吹いていた。この風を利用すれば、船を漕ぐ手間がかからないので、春から夏に攻め込むのは楽であったが、数ヶ月持ち耐えられれば台風がやってくる戦いは自然の力が手を貸したとは云え、日本の完全な勝利で終わった。こうしてフビライの日本征服の夢は消え去ったのである。

 もし蒙古軍の主力部隊の江南軍が遅れずに到着して東路軍と合流していたら、その大艦隊で一気に博多湾に突入していたら、と想像するだけでも恐ろしいことである。遅かれ早かれ、彼らは九州北部に強力な橋頭堡を構築したにちがいなかった。

 7月30日に台風が起きたとしても、合流の時期の1か月のずれが勝利を可能にした。日本軍の主力にしても到着には時間がかかったはずで、そうなれば蒙古軍は機動力を使った蒙古本来の戦いを展開したはずである。水を得た魚のごとく蒙古兵は縦横に暴れまわったら、決死の覚悟の日本の武士にとっても到底かなう相手ではなかった。九州は蒙古軍の手に落ち、九州の住民は残虐な扱いを受けたにちがいない。当然それを足がかりに、蒙古軍は本州を席巻し、そうすれば我々の大部分は生まれていなかっただろうし、その後の日本史は想像を絶したものになっていただろう。

 しかし奇跡が起こり、日本は救われたのである。この大敗のため中国江南地方では出征した多くの兵士が帰らず、民衆の不満が勃発して大規模な反乱が起きた。そのためフビライは、鎮圧にかなりの時間を裂かねばならず、日本再遠征どころではなかった。

 この蒙古襲来以降、日本人の頭の中には危機に陥った際、神仏に祈祷すれば必ず神風が吹き荒れ、日本を救ってくれるという考えが定着した。日本という国は特別な神に守られているとする神国思想が信じられるようになった。

 元寇の時期が武家政権の鎌倉幕府であったことが幸いしたが、それ以外にも様々な勝因があった。まず蒙古軍の大半が征服した異民族の連合軍だったことから、兵士の戦意は低下していて、異民族の集合のため意志の疎通が不十分であった。蒙古軍は東路軍・江南軍の二軍に分かれて互いの連絡が悪く、両軍が同一の行動をするまでに時間がかかり、そのあいだ兵士らは船に乗りっぱなしで疲労していた。また突貫工事で高麗に作らせた船は手抜きのため丈夫でなかった。

 蒙古は大陸を縦横無尽にかけまわっていたが、元軍にとって海戦は不慣れであり、風土に合わない疫病で兵士が次々と倒れるという不利もあった。さらに得意の騎馬軍団が使えなかった。騎馬軍団の馬は神経質で船に乗せることが出来なかったため、元軍は騎馬を使わずに戦わなければならなかった。

 竹崎季長

 元寇というと神風が吹いたから日本が勝利した。日本は神によって守られた国である、との印象が強いが、鎌倉幕府の執権・北条時宗に指揮された武士たちが九州北部に集結して勇敢に戦ったから勝てたのである。その勇敢に戦った武士の中に肥後国(熊本県)の御家人・竹崎季長がいた。竹崎季長は貧しい地方の武士だったが、二度にわたる元寇を戦い、その勇猛さは際立っていた。

 現在、竹崎季長の存在は何といっても「蒙古襲来絵詞(えことば)」が残されているからである。元寇の戦闘の様子を生々しく描いた教科書でおなじみの絵巻である。二度にわたる蒙古襲来(元寇)を戦った竹崎季長が、晩年に自らの戦いぶりを描いた絵巻物を作らせ地元の鎮守・甲佐神社に納め、それが「蒙古襲来絵詞」として現在に残されている。

 絵詞は竹崎季長の地元の旧家・大矢野家が保有していたが、評判を呼んで江戸に運ばれ、それを明治23年に宮内省が買い上げたのである。絵詞の奥書には「永仁元年2月9日」と記されている。この年は竹崎季長にとって忘れられないできごとがあった。

 文永の役で、竹崎季長はわずか4人の手勢で蒙古軍へ一番駆けを果たした。竹崎季長は戦いの後、論功行賞を待っていたが、幕府は戦功を認め図、幕府から下されたのは「季長主従が傷を負った」との感謝状だけであった。季長は先駆けをしたのに幕府への報告に漏れがあったのではないか、そう思うといたたまれない気持ちになった。悩み抜いたあげく、1275年5月23日、地元の甲佐大明神(熊本県甲佐町)に詣でると、季長の必死の祈りが通じたのか、甲佐大明神が社殿の東側に植えられた桜の枝の上に姿を現した。竹崎季長は東側という方向に意味を感じて、鎌倉に出向いて幕府に訴えることを決意した。

 見送る親族は誰もいなかった。所領を持たない竹崎季長は、馬と鞍を売って鎌倉までの旅費を工面した。季長は鎌倉に着くと、鶴岡八幡宮を詣でて武運長久を祈った。季長にとって武勇も所領獲得の褒美を得るのも同じ戦いであった。当時は手柄や主張を訴えることがごく当たり前に行われ、決して非常識な行動ではなかった。
 竹崎季長は鎌倉幕府に訴えるが、2ヵ月経っても貧乏御家人の訴えをきいてくれる奉行は一人も現れなかった。思い余った竹崎季長は、御恩奉行・安達泰盛に庭中(直訴)するに及んだ。安達泰盛は竹崎季長の言葉に耳を傾けた。一通り聞き終えた後、的確で無駄のない尋問を始めた。

「報告の内容を知らないのに、なぜ漏れたと申す」
「先駆けの事は報告するので感状に載るだろうと聞いていたが、載らなかったからです」
「もし不審が残るのなら、小弐景資(証人)へ御教書でお訊ねなさい」
「御教書で問い合わすなど、先例がありません」
「ないとは思えない」

「これは異なことを、異国との合戦に先例はありません」
「仰せはごもっともだが、訴訟は先例がなければ成立しない」 
 安達泰盛はそう言いながらも、竹崎季長の言葉を決して遮らなかった。
「私は恩賞をいただこうと直訴に及んだのではありません。「先駆け」の事を景資に訊ね嘘だと判明したら、首を刎ねていただいて結構です。事実と判明したら、功を披露していただき、合戦の勇としたいのです」
 この竹崎季長の言葉に、安達泰盛は偽りがない事を見抜いていた。竹崎季長という一途な御家人をここまで思い詰めさせたのは幕府の責任である。安達泰盛はそれを理解していた。それに嘘と分かれば首を刎ねてくれと言う、この男を泰盛は気に入った。
「御合戦の事は承知した。見参に入れよう」

 その晩、安達泰盛は大勢の家来がいる席で竹崎季長のことを「奇異の強者である。後日の大事にも、駆け付けるだろう」と評した。これを聞いた竹崎季長は、この言葉を生涯の誇りとした。

 竹崎季長の提訴は聞き届けられ、地元の海東郷(宇城市小川町)の地頭に任ぜられた。さらに名馬一頭を与えられる栄誉にも浴した。これらの様子が竹崎季長の絵巻に詳しく描かれている。蒙古襲来絵詞は元寇の様子だけでなく、御恩と奉公に象徴される鎌倉武士の生きざまをも伝えている。

 竹崎季長はこの安達泰盛とのやりとりにうれし涙を流し、終生忘れなかった。そして人生の終わりに、安達泰盛への恩義を絵巻で残すことを決意したのである。蒙古襲来絵詞が完成する8年前に恩人であった安達泰盛と一族が霜月騒動で滅ぼされており、絵詞の中に安達泰盛が描かれていることから、泰盛への鎮魂のために作成されたとされている。

 かつての救国の英雄も、戦後の歴史教育では「軍国主義をかきたてた広告塔」という否定的な評価になっているが、竹崎季長が蒙古と戦った最大の理由は、自らの所領獲得という願いがあったからである。当時の武士ならではの「一所懸命」の心情があった。竹崎季長は当時、兄弟親族との領地争いに敗れ失意の中にあった。しかしいくら領地が大切といっても、祖国が滅亡してしまっては元も子もない。竹崎季長の戦いは命も惜しまず、当時の日本人がそれぞれの立場で願っていた「祖国防衛」の思いに通じていた。
 この国を守る思いは戦後、軽んじられてきた。

 元寇防塁は蒙古襲来への対応を物語る歴史上極めて重要な史跡であるが「白村江の戦い」(662年)に敗れたあとに築かれた金田城や大野城が国の特別史跡なのに、防塁はいまだ国史跡のままである。扱いがあまりに不公平である。果敢さ、律儀さ、一途さ、信心深さ、竹崎季長はかつての日本人の美徳を持ち続け、自分だけでなく家族を育て故郷の寺社をうやまっていた。奇人とはいうが、他人を傷つけたり欺いたりはしていない。「蒙古襲来絵詞」は単なる美術品であることを超え、武士の美しい行動や心情を語りかけている。

霜月騒動

 「蒙古襲来絵詞」を描くきっかけななった霜月騒動について説明を加える。1284年、8代執権北条時宗が亡くなると時宗の子・北条貞時が執権となった。しかし六波羅探題の北条時国は時宗の死に乗じて、自らが執権の座に就こうとした。このことが露見し、北条時国は捕らえられて、常陸国に流された後に誅殺された。さらに北条貞時の外祖父・安達泰盛がまだ若い北条貞時に代わって政治の実権を握り、将軍中心の政治にするための改革を行った。
 安達泰盛の改革は、執権・北条貞時の実権を奪うものとして、家臣の平頼綱が反感を抱き、さらに安達泰盛の子・宗景は、先祖が源頼朝と縁があったとして「源」の姓を名乗るようになった。これを平頼綱は謀叛として北条貞時に報告したのである。
 1285年11月17日、平頼綱は多数の軍勢を北条貞時邸に隠し、出仕した安達泰盛父子を襲撃し、安達一族の敗北に終わった。この戦いで安達泰盛父子は討死し、有力御家人500人が戦死し、将軍の御所が炎上して鎌倉が戦乱に巻き込まれた。
 安達泰盛の娘を妻としていた金沢顕時も上総国に流され、この霜月騒動により平頼綱が実権を握るが、恐怖政治を行ったため、1283年に執権・北条貞時によって滅ぼされた(平禅門の乱)。
 霜月騒動によって安達一族のほとんどは滅んだが、安達泰宗の娘(覚海尼)は北条貞時に嫁ぎ、高時と泰家を生んでいる。またのちに北条高時の後見役を務めた安達時顕は霜月騒動で滅ぼされた宗顕の子であった。
  1285年に起きたこの「霜月騒動」によって、安達泰盛は殺害されたが、後に霜月騒動を仕掛けた平頼綱が滅ぼされ、安達泰盛派の人たちは復権を遂げた。48歳だった竹崎季長がこの復権を記念して、安達泰盛への追悼の気持ちを込めて絵詞を制作させたのである。

 絵詞は鎌倉時代の絵巻物としては極めて優れた作品である。描いたのは都で修業を積んだ絵師とされ、描き直しも多く、かなりの時間と資金を要したことが分かる。この時代の絵巻は、皇族や上流貴族、あるいは有力社寺しかできないことで、それを地方武士がなし遂げた例はほとんどない。竹崎季長は安達泰盛への大恩を忘れず、泰盛ゆかりの人々の復権を心から喜んだのである。

 

鎌倉の落日
 鎌倉政権は朝廷との力関係、御家人たちとの協定関係の上に立っていた。この土台を大きく揺さぶったのが蒙古襲来(元寇)であったが、勝利した鎌倉幕府は勝利したがゆえに不安定になった。

 御家人たちはあてにしていた恩賞はもらえず、戦の後も防衛のための出費が続き、生活は次第に苦しくなっていった。幕府は、特に苦しかった九州の御家人を救うために「借金で手放した領地は20年間、もとの持ち主に返す」という徳政令をだした。借金から土地を売った御家人の多くが徳政令のおかげで一時的に助かった。「一時的」にというのは、根本的に生活が豊かになったわけではないからである。御家人が次に土地を売ろうとしても、誰も買わずまた金を貸してくれる人もいなかった。

 元寇は恩賞のない戦いだった。また国内での大きな戦いがなかったため各御家人は子ども達に与える領地が不足していた。御家人の多くは自分の領地を分割して子ども達に分け与たが、分け与えればひとりあたりの御家人の収入が減ってしまうため御家人の生活はますます苦しくなった。

 アジアからヨーロッパまでを従えた大蒙古帝国を追い払ったのは、日本とベトナムだけである。ベトナムはジャングルが、日本は日本海がその大軍を拒んだのである。この勝利の恩賞は5年をかけておこなわれた。しかしその内容は貧弱で、分割相続で領地はへり、元寇で出費でかさんだ御家人は鎌倉幕府に次第に不満を持つようになった。これが幕府滅亡の最大の原因である。

 元寇は「外国が攻めてくる」という日本にとって初めての経験であった。島国の日本は蒙古からの侵入を防いだが、その中心となって戦った武士への「ご恩と奉公」という主従関係は破綻をきたそうとしていた。武士と幕府の基本は「働くみかえりに、何らかの利益をもらえる」である。

 竹崎季長が家来とともに大軍に突っ込んでいったのも、熊本から鎌倉まで長い旅をしたのも,すべて恩賞という見返りを求めたからである。季長にしてみれば蒙古との戦闘も、幕府との談判も同じ「戦さ」にかわりなかった。

 多くの御家人にとって「元寇」は大きな出費だけで何の利益にもならなかった。それどころか御家人の生活が加速的に苦しくなっていった。御家人の生活苦は「分割相続」や「元寇」だけが原因ではないが、幕府は徳政令のような「その場しのぎ」の政策しかとれなかった。その一方で北条氏だけが力をつけ、多くの御家人から反発を受けるようになった。結果的にそれが幕府滅亡の大きな原因になった。

 

鎌倉幕府の終焉

 鎌倉幕府は外国からの侵略を防ぐことはできたが、根本となる御家人の生活を守ることはできなかった。幕府のために役務を果たした御家人は「御恩と奉公」の契約において相応の恩賞を貰う権利があった。この場合の恩賞とは「土地」であるが、モンゴルとの戦いは防衛戦だったので得られた土地はなかった。九州で奮戦した御家人たちは恩賞が貰えないことに憤った。この契約違反に一枚岩だった幕府に亀裂が生じたのである。恩賞をめぐって幕府幹部たちは訴訟を出鱈目に処理したり、賄賂を取ったりとのモラルハザードが頻発した。幕府は武士が期待する本来の仕事を果たさなくなった。

 鎌倉政権内部にも内紛が起こり、さらに日本の経済社会に大変革が起きた。すなわち貨幣経済の発展と商業資本の伸長である。大陸から輸入した貨幣(宋銭)を梃子に、九州や関西などの西国で信用経済が成長したのである。それまでの農業経済から商業経済に大きく移行しようとしていた。
 鎌倉政権は武士団の集合体なので、商業経済には興味を持たなかった。しかるに鎌倉末期になると、武士団が高利貸しから土地を担保に借金をして贅沢な遊びをして、その結果、先祖伝来の所領や馬具武具が質流れになることが頻発した。鎌倉幕府は武士団の権益を守り、武士団の利益調整を本務とする機関なので、商人と武士団との利害調整は想定外のことだった。幕府は武士団を救済するために高利貸し(商業資本)を弾圧するしかなかった。それが徳政令(借金棒引き令)である。

 だがこのような政策が、時代の流れに逆行する一時しのぎであることは明白であった。徳政令の乱発は信用経済を混乱させ、いわゆる「貸し渋り」が起きた。そのために、必要な融資を受けられずに窮乏化する武士たちが増え、当然、彼らは幕府に不満を抱いた。

 

闘犬と田楽に耽る 北条高時
 このように武士の不満が高まる中、北条高時は田楽と闘犬に溺れ政務を怠った。金沢貞顕の書状には「田楽の外、他事無く候」と記され、二条河原の落書には「犬・田楽ハ関東ノ亡フル物」とある。田楽は百姓たちが田植えの前に豊作を祈った遊びから発達したものであるが、鎌倉後期の北条高時はその遊びにのめりこんだ。新座本座の田楽を呼びよせると、毎夜のように遊び戯れ、執権屋敷では重臣たちと朝に夕に宴会をした。
 また闘犬にも興味を持ち、闘犬が鎌倉中を闊歩していた。北条高時は年貢として諸国に犬を納めさせ、御家人たちも自慢の犬を飼っては鎌倉へ送り届けた。月に12度犬合せがあり、みなが犬を大切にしたので、肥え太り美しく着飾った犬が鎌倉中に溢れ、その数は5千匹に達した。「国は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ」というがまさにそのとおりになった。

 商業資本が進んでいる西国では、幕府への反発活動が頻発した。幕府は西国で暴れまわる者たちを「悪党」と呼んで恐れた。このような不穏な情勢についに後醍醐天皇が立ち上がった。