承久の乱

承久の乱

 源平の戦いで平氏を滅亡させた源頼朝は、その後、鎌倉幕府を開き(1180年~1192年頃)自らは征夷大将軍に就任する。当時、後白河法皇が亡くなり、源頼朝と親しい九条兼実が朝廷の中心であったため、幕府と朝廷の関係は良好だった。しかし征夷大将軍の任命からわずか7年目に源頼朝は馬から落ちたのが災いして亡くなってしまう。

 その後を継いだ息子の源頼家の評判は悪く、有力御家人達の権力争いを背景にした政変もあり、結局、失脚して暗殺されてしまう。後を継いだのは12歳の源実朝であったが、頼家の子の公暁によって暗殺され、その公暁も殺害されてしまい、ついに源氏の血筋が途絶えてしまった。

 源氏将軍の血統が3代で絶え、執権・北条家による傀儡政権が始まると、この鎌倉の混乱を冷ややかに眺めている人物がいた。それは鎌倉幕府を虎視眈々と狙う後鳥羽上皇であった。後鳥羽上皇は幕府内部の有力家人同士が互いに争うとみていた。

 特に北条氏と三浦氏の実権争いはかねてより上皇も知っており、京都にいた三浦胤義(三浦義村の弟)から、上皇が北条氏にかわって兄の三浦胤義に関東を治めよと宣旨(命令)を出せば、日本中の武士が集結するに違いないとしていた。後鳥羽上皇は優秀すぎ、周囲には冷静に情勢を判断できる人や上皇を諌める者がいなかった。

 

荘園の寄進中止

  鎌倉幕府以前の荘園は、藤原氏など有力な貴族や東大寺や伊勢神宮などの有力な寺社に寄進されていた。荘園の実際の持ち主は豪族だが年貢の摂取、荘園の境界争い、さらに役人からの嫌がらせから領地を守るため、豪族は荘園の管理人になって,名目上は力のある摂関家や寺社にしていた。しかし鎌倉幕府になると貴族や寺院に年貢を払う者や荘園を寄進する豪族が少なくなった。鎌倉幕府が全国に守護・地頭をおき豪族の後ろ盾になり、貴族や寺院の名を借りて庇護を受ける必要がなくなったからである。貴族や皇族にとって地頭を送ってくる鎌倉幕府は邪魔者でしかなかった。

 当然のことながら、実入りの少なくなった朝廷の不満は高まることになった。天皇や有力貴族は、様々な謀略を用いて幕府の屋台骨を揺さぶった。そのため鎌倉幕府の暗殺やクーデターの頻発は朝廷による謀略の可能性が強い。

 2代将軍・実朝は27歳で右大臣になるが、この異例の出世は後鳥羽上皇による「官打ち」とされている。官打ちとは身分不相応な官職につけさせ、相手を重圧から早死させることで合法的呪いであった。事実、後鳥羽上皇は興福寺と延暦寺に命じて、北条義時に対しの呪詛を行わせていた。日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていた。これほどまで朝廷は鎌倉幕府を嫌っていた。

 

後鳥羽上皇

 鎌倉幕府では東国を中心として諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していた。しかし西国への支配は充分ではなかったため、依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。

 1202年に後鳥羽上皇が院政を始めると、朝廷の復権をめざして種々な政策を断行した。後鳥羽上皇がそれをなし得たのは、巨大な軍事力を有していたからで、皇室の荘園を手中におさめた後鳥羽上皇は、その経済力で西国の武士や御家人たちを誘いそれまでの「北面の武士」に加え「西面の武士」をつくると、勝ち気な性格の後鳥羽上皇は武士さながらに武芸にはげんだ。

 後鳥羽上皇は多芸多才で、当時一番の教養だった和歌にも優れ、歴代天皇の中で最も優秀とされ、上皇ではあるが天皇よりも大きな影響力を持っていた。しかし鎌倉幕府がある限り、東国の荘園の地頭は年貢を払わず、東国の荘園寄進も少なくなり、後鳥羽上皇にとって鎌倉幕府は我慢できない存在だった。

 後鳥羽上皇は将軍・実朝が暗殺されたことを知ると、当初は落ち込んだ。貴族化した実朝ならば与しやすいと期待していたからである。しかし源氏の血が絶え、摂家から将軍を迎えるという不安定な状態になったのを捉えると、今こそ混乱している幕府を倒す好機とした。後鳥羽上皇は臨時政府ともいえる鎌倉幕府の情勢を見逃すはずがなかった。

 後鳥羽上皇は源氏の血統という中核を失った武士たちは、烏合の衆になると予想し、西国・近畿の武士を中心に倒幕の兵を起こすことを決意した。

 1221年5月14日、後鳥羽上皇は突然北条義時追討の院宣(上皇の命令)を出した。後鳥羽上皇は「流鏑馬ぞろい」を口実に諸国の武士1700人を集めると「北條義時を討て」と院宣を発したのである。何も知らされていなかった武士たちは一瞬とまどったが、多くが上皇にしたがった。さらに全国の有力豪族には「恩賞は思いのままにとらせる」という密書を送った。

 院宣と同時に幕府と親しかった貴族の西園寺公経実氏(きんつね・さねうじ)親子は捕らえられ、命令をこばんだ京都守護の伊賀光季(いがみつすえ)の館は襲われ、伊賀光季親子は勇敢に戦うが昼過ぎに討たれた。伊賀光季は討死したが、下人を落ち延びさせ、この事件をただちに鎌倉に伝えた。

後鳥羽上皇の誤算
 鎌倉幕府は諸国の武士団が自分たちの荘園の権益を守るために創設したのであって、武士たちは源氏の血統を絶対視していたわけではない。源頼朝が将軍になれたのは、源頼朝がたまたま担ぎやすい地位にいたからに過ぎず、たとえ源氏の血が途絶えても、武士団の権益が守られれば、幕府の体制が揺らぐことはなかった。
 また後鳥羽上皇は朝廷の権威を過大評価していた。後鳥羽上皇とその取り巻きは、朝廷を敵にすれば天罰を恐れた武士たちは戦わずに降参すると思っていた。朝敵となった以上は、北条義時に参じる者は千人もいないだろうと、院宣の効果を絶対視しており、楽観的だった。幕府の実権は北条義時が握っていても、東国の武士が北条氏に心服しているわけではないとした。もちろん北条氏あっての幕府ではなく、幕府があっての武士団であったが、後鳥羽上皇が考えるような「朝廷神話」が物を言う時代ではなかった。

 上皇方は5月15日に宣旨を発し、三浦義村をはじめとする全国の有力豪族には「恩賞は思いのままにとらせる」という密書を送っていた。ところが数時間前に親幕派の伊賀光季と西園寺公経からの急使が鎌倉に急を知らせていた。

 当時の東海道は京都と鎌倉間は徒歩で約16日を要した。大きな川に橋はなく、雨が降ればぬかるみ状態が続いた。各駅には伝馬が用意されていたが、早馬でも7日はかかるのが普通で、至急の場合でも5日間かかった。3日半で京から鎌倉まで走りきった京都守護の伊賀光季の3名の急使は、休みはおろか眠らずに駆けた。朝廷の使いは途中で捕らえられ宣旨を取り上げられ、幕府はわずか5時間の差で後鳥羽上皇の宣旨を知り、先手を打ち御家人の掌握に成功したのである。あの朝廷側の三浦義村でさえ密書を持って鎌倉幕府に駆けつけ、上皇側についた京の弟胤義のさそいを断り、 早々に執権・北条義時に忠誠を誓ったのである。、もしこの情報の時間差が逆だったら歴史は違ていたかもしれない。ここから鎌倉方(幕府)の大逆転が始まった。

 後鳥羽上皇は討幕の兵をあげるが、鎌倉幕府の対応は早かった。鎌倉幕府はすぐに対策会議を開き、大江広元の「こちらから京都へ進軍する」ことが決定すると、15カ国の豪族に動員を発したのである。幕府の首脳はその日のうちに上皇軍と戦う作戦を立案し、軍団編成の計画も整えられた。京都守護殺害の報がはいってから鎌倉を出るまで5日である。勝敗は幕府側の迅速な勢いにあった。宣旨さえ出せば関東の武士はことごとく院・朝廷になびくと思っていた上皇方とは大きな差だった。

北条政子の一世一代の演説
 この急変を聞いて集まった武士にすれば、北条義時追討の院宣に逆らえば朝敵になる。このことから東国の武士団は朝敵の汚名を受けることに大いに動揺していた。北条義時にすれば自分への追討令では自分から号令は出しにくかった。御家人たちが自ら手をあげてくれるのを 待つしかなかった。しかし自ら進んで、自分のために朝敵となる武家がいったいどれくらいいるのか。

 しかし尼将軍の異名を持つ北条政子(源頼朝の未亡人)が、動揺する御家人たちを前に政権樹立までの苦節を語り結束を呼びかけたのである。北条政子は武士団を集め、一世一代の演説でカリスマ性を発揮した。この有名な演説は吾妻鏡や承久記に書かれている。

「皆さん、心を一つにして聞いて下さい。これが私の最後の言葉です。今は亡き頼朝殿が木曽義仲や平家を滅ぼし、関東に武士の政権をつくってから、あなたたちの官位は上がり収入は増えました。平家に仕えていた時には、あなたたちは京まで裸足で行き、京で無理やり働かされていたのです。それが幸福な生活を送れるようになったのは、それもこれも、すべては頼朝殿のお陰です。頼朝殿から皆さんが受けた恩は、山よりも高く、海よりも深いのです。

 今、私たちは、不正な命令によって反逆者の汚名を着せられようとしています。天皇や上皇をだまし、私たちを滅ぼそうとしている者が現れ他のです。武士の名を惜しむ者は藤原秀康・三浦胤義を討ち取り三代将軍の恩に報いてほしい。断固として戦うべきです。もしこの中に朝廷側につこうとする者がいるのなら,まずこの私を殺し,鎌倉を焼きつくしてから京都へ行きなさい」

 これは歴史に残る名演説である。頼朝の未亡人で2人の実子の将軍を失った尼将軍・北条政子の演説に御家人たちは心から感銘し、涙を流しながら団結を誓った。武士たちは頼朝以前の悲惨な待遇を思い出し朝廷と戦うことを決意したのである。

 政子は反乱の首謀者が天皇をあやつっている後鳥羽上皇であることを知っていた。しかしあえて後鳥羽上皇の名を出さず、あくまでも上皇を悪知恵でそそのかした藤原秀康・三浦胤義を撃ち破れと命じたのである。つまり朝敵ではなく、朝敵を仕組んだ者を撃てとしたのである。

 承久の乱は武士が政権を握って以来、朝廷と武士団との初の対決であった。畿内の御家人や西国武士は朝廷に味方したが、東国武士はだれひとり後鳥羽の誘いに応じなかった。承久の乱には、北条政子と執権・北条義時、正義漢にあふれた嫡男の泰時、 相模最強の武人・三浦義村、切れ味抜群の文官閣僚大江広元という強靭な仲間がいた。

 北条政子の演説は有名だが、 この戦いの行方を決めたのは大江広元の 「道理にそわぬ追討を箱根で待っていてはだめだ。こちらから進軍し朝廷軍をうつ」 の強攻策だった。義時も時房も「箱根で待つ」という消極策だったが、「こっちから出撃しないと相手の思う壺。出陣すればみながついてくる」。強行策をただ1人主張したのは、京都からきた公家出身の大江広元だった。大江広元は東国武士をばかにしている公家のやり方を知っていた。そのため朝廷軍を待たず、攻め入ることを主張したのである。

承久の乱・鎌倉の大逆転

 政子の演説からわずか3日後、鎌倉幕府は戦いの準備を終え、およそ20万の大軍が東海道を主に、中山道、北陸道から京に向かった。幕府軍の大将は後に武士の法律「御成敗式目」を作り名執権とよばれた北条泰時である。北条泰時は義時の妾腹の嫡男であったが、政治力があり、武道も強かった。 またいかなる時も正義を選び戦いをさけるが、最終的には勝利をおさめることができるという稀有な人物であった。 正義の味方なので凶作時には農民を援助して民衆からの人気も高かった。

 東海道を行く北条泰時は最初は20騎ほどで全員討ち死に覚悟で鎌倉を出たが、すぐにその数は10万に膨れ上がった。それまでは北条泰は生きて鎌倉に帰れるとは思っていなかったが、この北条泰時の素早い動きに対し、朝廷軍は軍勢2万数千で数で劣るばかりか、命令系統が統一されてないため動きは鈍かった。

 上皇側はまさか鎌倉側が攻めてくるとは思っていなかった。幕府軍が大挙して京都を目指していることを知ると、朝廷軍はあわてて木曽川に防衛線を敷こうとした。しかし朝廷軍が木曽川に到着する前に幕府軍の攻撃が始まり、戦いはわずか1日で決着がつき、朝廷軍は総崩れとなって敗走した。

 幕府軍が木曽川を突破すると、京では貴族から民衆まで幕府軍の攻撃を恐れ逃げまどった。後鳥羽上皇は自ら武装し軍団を指揮して京都宇治川に防衛線を敷いた。しかし6月14日、幕府軍が増水した宇治川になだれ込み、防衛戦を突破すると幕府の大軍が京に入った。政子の演説からわずか1月後に20万の軍勢によって京都は完全に包囲され制圧された。しかもふだんは農民やってたた東国の武士たちが包囲したのである。幕府軍の完全勝利だった。これを「承久の乱」という。

 北条政子の名演説に勇気百倍となった東国武士は、北条義時の子である北条泰時を大将に大軍で京へ攻めのぼり、圧倒的な武力で朝廷側を敗退させたのである。

 この戦いで首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ土御門上皇順徳上皇はそれぞれ土佐佐渡島へ流罪になり、上皇方についていた6人の貴族は、実朝の妻の兄・坊門忠信が流罪となり,他の5人は処刑された。上皇方についた武士はほとんどが処刑され領地はすべて没収された。臣下が上皇を流罪にしたのは日本有史初のことであった。

 武士たちは朝廷に対し公然と戦い勝ったのである。これは日本史上において、民が官を打ち負かした最初の事件で、革命と呼ぶにふさわしい画期的事件であった。皇族が武士によって処罰を受けるのは史上初めてで、朝廷は大きな衝撃を受けた。この乱以降、世の中は大きくかわった。
 ここで鎌倉幕府は朝廷を滅ぼさなかった。鎌倉政権は「朝廷の幕府」という建前を重んじ、朝廷の権威を保持したのである。つまり朝廷を滅ぼせば、幕府統治の根拠まで失うからである。天皇家には宗教的権威(日本神道)があったので、天皇を失うことは同国人として憚られてしまうからである。日本人のこの微妙な感覚が日本史の特徴である。

 

六波羅探題

 鎌倉幕府はただちに京都に六波羅探題を置き、朝廷を監視するとともに敵対した西国の御家人の処罰や京都の監視にあたった。上皇の味方をした公家や武士の所領地3,000余ヶ所を没収し、戦功のあった東国の御家人に与えられ、承久の乱は武士から朝廷への政権交代を謀ったが、逆に幕府の体制の基礎を固めることになった。

 これによって東国中心だった鎌倉幕府の勢力は畿内や西国にも及び、守護や地頭はこの時初めて全国展開となった。 幕府は制度上は朝廷と並んでいたが、事実上の権力は上になった。朝廷は皇位の継承や朝廷の政治も幕府に主導権を奪われてしまった。

 朝廷では討幕派によって捕らえられていた西園寺公経が復帰し、新後鳥羽上皇の兄の子が天皇(後堀河天皇)となった。行助法親王は天皇になったことはないのに「後高倉院」として異例の院政についた。

  さらに幕府は天皇の権力を制限したが、藤原定家など有能な貴族は重く用いた。 実務にあたった初代・六波羅探題の北条泰時は、京の貴族社会を恐怖におとしいれた東軍の総大将にもかかわらず、多くの貴族から信頼をえることに成功している。
 泰時・時房の政治力は超人的であった。 武士を下にみていた京の貴族の日記で、彼らを絶賛していることからもわかる。 承久の乱の価値はこの一連の戦後処理にあった。

 源氏の血統は途絶えたが、将軍が空位のままではいけないので、北条氏は京都から皇族を将軍に迎えようとして朝廷と交渉した。1226年、頼朝の遠縁にあたる、わずか2歳の藤原頼経(よりつね)を将軍として迎えた。

 

幕府の考え方

 後鳥羽上皇が「北條討伐」の宣旨を出したことを知ってから2日後,東海道軍の総大将・北条泰時はわずか18騎の手勢を従えて京に向かった。しかし途中で引き返すと、父の義時に「天皇自らが出陣してきた時はどうすればよいか」と尋ねた。北條義時は「その時は弓を折って降参しろ。そうでなければ千人が一人になっても戦え」と言った。

 ところが承久の乱の後、執権・北条泰時に部下の安達義景が「新しい天皇が即位するが、もし後鳥羽上皇とともに戦った順徳天皇の皇子が即位したらどうするか」と尋ねると、北条泰時は「何も考えることはない、その時は皇位から引き摺り降ろせ」と答えた。承久の乱の前後ではこのように大きな違いがあった。これは幕府の力が、朝廷より強まったことを表している。

 東国の武士は長い間,祖先が耕し自らが命をはって守り抜いてきた領地を国司や豪族から守るために,やむをえず京都の貴族や大寺社に寄進し、200年の長きにわたって京都に搾取されてきた。しかし頼朝の旗揚げと承久の乱はそれを逆転させた。まさに革命であった。

 源平の戦いで、義経が朝廷から勝手に官位をもらったことに源頼朝は激怒したが、これは武士が常に京の公家や寺社にへつらい、朝廷に支配され続けた束縛からの解放を頼朝は考えていたからである。義経の行為は「武士の,武士による,武士のための政治」を目的としている頼朝や東国の武士たちの思いを踏みにじるものだった。源頼朝の旗揚げは平家打倒という看板をあげながら、本音は「武士のことは武士がおこなう。東国武士による自治権の獲得」だった。

 承久の乱はあきらかに朝廷への反逆であったが、武士たちにとっては頼朝や祖先が築き上げた武士政権を守るための戦いであった。上皇の誘いに乗らず鎌倉方が一致団結したのはまさにこのためであった。承久の乱は京都に支配されていた東国武士たちの独立革命と云ってよい。

 源頼朝が武士政権の下地を敷き,承久の乱はその下地の上を武士団が踏み固めた戦いだった。源氏の血は絶えたが、それまで幕府と朝廷の二重支配だった我が国は、北条氏を中心とする御家人の集団指導体制へ移っていった。幕府は朝廷を利用して政治を行うようになり、朝廷の権力は制限され、皇位継承も鎌倉幕府が決定するほどになった。

 承久の乱は日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた争いで、朝廷の敗北により後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。朝廷は幕府に完全に従属し、幕府は朝廷を監視し、皇位継承も管理し、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。鎌倉と京都の二元政治を終わらせ武家政権を確立することになる。

 北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すことになる。