承久の乱

承久の乱

 源頼朝が亡くなり源氏将軍の血統は3代で絶え、北条家による傀儡政権が始まると、この鎌倉の混乱ぶりを冷ややかな目で眺めている人物がいた。それは鎌倉幕府を虎視眈々と狙う後鳥羽上皇であった。

後鳥羽上皇

  鎌倉幕府以前の荘園は、摂関家(藤原氏など有力な貴族)や有力な寺社(東大寺や伊勢神宮など)に寄進されていた。そのため荘園を持つ貴族や寺院が多かったが,武士たちが鎌倉幕府の御家人になると,名目上の領主である貴族や寺院に年貢を払う者や荘園を寄進する豪族がいなくなった。武士たちが荘園の多くを所有し、鎌倉幕府が武士たちの後ろ盾になったので、貴族や寺院の名を借りた庇護は必要なくなったからである。

 当然のことながら、実入りの少なくなった朝廷の不満は高まることになった。天皇や貴族は様々な謀略を用いて幕府の屋台骨を揺さぶった。そのため鎌倉政権の暗殺やクーデターの頻発は、朝廷の謀略の可能性が強い。

 2代将軍実朝は27歳にして右大臣に出世するが、この異例の出世は後鳥羽上皇による「官打ち」とされている。官打ちとは身分不相応な官職につけさせ、相手が重圧から早死させることで、合法的呪いであった。後鳥羽上皇は北条義時に対しても興福寺と延暦寺に命じて呪詛を行わせている。これほど朝廷は鎌倉幕府を嫌悪していた。

 1202年に後鳥羽上皇が院政をはじめると、以後、朝廷の復権をめざして種々の政策を断行した。後鳥羽上皇がそれをなし得たのは、巨大な軍事力を有していたからで、皇室荘園領を手中におさめた後鳥羽上皇は、その経済力で西国の武士や御家人たちを誘い「北面の武士」や「西面の武士」をつくると、勝ち気な性格の後鳥羽上皇は武士さながらに武芸にはげんだ。また当時一番の教養だった和歌を作ることにも優れていた。歴代天皇の中でも最も優秀とされ、上皇ではあったが天皇よりも大きな影響力を持っていた。

 しかし鎌倉幕府があるため、上皇への荘園の寄進は少なく、地頭は年貢を払わなくなった。後鳥羽上皇にとってそれば我慢しきれないことだった。

 後鳥羽上皇は将軍実朝の暗殺を知り、当初は気落ちしていた。貴族化した実朝は与しやすいと期待していたからである。

 しかし源氏の血が絶え、摂家将軍を迎えるという不安定な状態になったのを捉え、今こそ混乱している幕府を倒す好機とした。後鳥羽上皇は臨時政府ともいえる鎌倉幕府の情勢を見逃すはずはなかった。

 後鳥羽上皇は源氏の血統という中核を失った武士たちは、烏合の衆になると予想し、西国・近畿の武士を中心に倒幕の兵を起こす決意をする。

 1221年5月、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣(上皇の命令)を出した。後鳥羽上皇は「流鏑馬ぞろい」と称して諸国の武士1700人を集めると「北條義時を討て」と院宣を発したのである。何も知らされていない武士たちは一瞬とまどったが、多くが上皇にしたがった。同日、幕府と親しかった貴族の西園寺公経実氏(きんつね・さねうじ)親子は捕らえられ、命令をこばんだ京都守護の伊賀光季(いがみつすえ)の館は襲われ、伊賀光季親子は勇敢に戦うが昼過ぎに討たれた。この事件はただちに鎌倉に伝えられた。

後鳥羽上皇の誤算
 鎌倉幕府は、諸国の武士団が自分の荘園の権益を確保するために創設したのであり、武士団たちは源氏の血統を絶対視していたわけではなかった。源頼朝が将軍になったのは、源頼朝がたまたま担ぎやすい地位にいたに過ぎない。つまり源氏の血統が途絶えても、武士団の権益が守られれば幕藩体制が揺らぐことはなかった。
 後鳥羽上皇は朝廷の権威を過大評価していた。後鳥羽上皇とその取り巻きは、朝廷を敵にすれば天罰を恐れ武士団は戦わずに降参すると思っていた。幕府の実権は北条義時が握っているが、東国の武士が北条氏に心服しているわけではないとした。もちろん北条氏あっての幕府ではなく、幕府があっての武士であった。後鳥羽上皇が考えるような「朝廷神話」が物を言う時代ではなかったのである。

 後鳥羽上皇は討幕の兵をあげるが、鎌倉幕府の対応は早かった。対策会議を開き京都進撃を決定すると15カ国の豪族に動員を発したのである。

 

北条政子の一世一代の演説
 この急変を聞いて集まった武士団にすれば、北条義時追討の院宣に逆らえば朝敵になることから、東国の武士団は朝敵の汚名に動揺していた。しかし尼将軍の異名を持つ北条政子(源頼朝の未亡人)が、戸惑う御家人たちを前に政権樹立までの苦節を語り団結を呼びかけると、武士団の戦意は高揚し、攻め寄せる朝廷軍を果敢に迎え撃ち連戦連破したのである。

 北条政子が武士団を集め、一世一代の演説でカリスマ性を発揮した。この演説は吾妻鏡や承久記に書かれている。

「皆さん、心を一つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。今は亡き頼朝殿が、木曽義仲や平家を滅ぼし、関東に武士の政権をつくってから、あなた方の官位は上がり、収入は増えた。平家に仕えていた時には裸足で京まで行き、京都で無理に働かされていたのです。それが幸福な生活を送れるようになったのは、これもそれも、すべては頼朝殿のお陰です。頼朝殿から皆さんが受けた恩は山よりも高く、海よりも深いのです。

 今、私たちは、不正な命令によって反逆者の汚名を着せられようとしています。天皇や上皇をだまし、私達を滅ぼそうとしている者が現れました。武士の名を惜しむ者は藤原秀康・三浦胤義を討ち取り,三代将軍の恩に報いてほしい。断固として戦うべきです。もしこの中に朝廷につこうとする者がいるのなら,まずこの私を殺し,鎌倉を焼きつくしてから京都へ行きなさい」。

 歴史に残る名演説である。頼朝の未亡人で2人の実子の将軍を失った「尼将軍」・北条政子の演説に御家人たちは涙ながらに団結した。頼朝以前の武士の悲惨な待遇を思い出し朝廷と戦うことを決意した。

 政子は反乱の首謀者が天皇をあやつる後鳥羽上皇であるのを知っていた。しかしあえてその名を出さず、上皇を悪知恵でそそのかした藤原秀康・三浦胤義を撃ち破れと言ったのである。つまり朝敵ではなく、朝敵を仕組んだ者を撃てと命じたのである。

 畿内の御家人や西国武士は朝廷に味方したが、東国武士はだれひとり後鳥羽の誘いに応じなかった。

承久の乱・鎌倉の大逆転

 政子の演説からわずか3日後、鎌倉幕府は戦いの準備を終え、20万の大軍が京都に向かった。幕府軍の大将は北条泰時でこの素早い動きに対し、軍勢2万数千の朝廷軍は、軍勢で劣るばかりか命令系統が統一されてないため動きは鈍かった。幕府軍が大挙して京都を目指していることを知ると、朝廷軍は木曽川に防衛線を敷こうとした。しかし朝廷軍が到着する前に幕府軍の攻撃が始まり、戦いはわずか1日で決着がつき、朝廷軍は総崩れとなって敗走した。

 幕府軍は木曽川を突破すると、京都では貴族から民衆まで、幕府軍の攻撃を恐れ逃げまどった。後鳥羽上皇は自ら武装し軍団を指揮して京都宇治川に防衛線を敷いた。しかし6月14日、幕府軍が増水した宇治川になだれ込み、防衛戦を突破すると幕府の大軍が京に入った。政子の演説からわずか1月後に、20万の軍勢によって京都は完全に制圧された。幕府軍の完全勝利だった。この出来ごとを「承久の乱」という。

 北条政子の名演説に勇気百倍の東国武士は、北条義時の子である北条泰時を大将に大軍で京へ攻めのぼり、圧倒的な武力で朝廷側を敗退させた。

 この戦いで後鳥羽上皇土御門上皇順徳上皇はそれぞれ隠岐土佐佐渡へと流罪になり、貴族で上皇方についていた6人は実朝の妻の兄・坊門忠信が流罪となり,他5人は処刑された。上皇方についた武士はほとんどが処刑され領地はすべて没収された。

 武士たちは朝廷に対し公然と戦い勝ったのである。これは日本史上において、民が官を打ち負かした最初の事件であった。革命と呼んで良いかもしれない。皇族が武士によって処罰を受けるのは初めてのことであり、朝廷は大きな衝撃を受けた。この乱以降、世の中は大きくかわった。
 しかし鎌倉の武士たちは朝廷を滅ぼそうとはしなかった。鎌倉政権は「朝廷の幕府」という建前を重んじ、朝廷の権威を確保したのである。つまり朝廷を滅ぼすと、幕府統治の根拠を失うからであった。天皇家には宗教的権威(日本神道)があったので、天皇を失うことは同国人として憚られてしまう。日本人のこの微妙な感覚が日本史の特徴である。

 鎌倉幕府は乱後の京都に六波羅探題を置き、朝廷を監視するとともに敵対した西国の御家人の処罰や京都の監視などの統轄にあたらせた。上皇の味方をした公家や武士の所領地3,000余ヶ所を没収し、戦功のあった御家人らにその地の地頭を命じた。これによって東国中心だった幕府の勢力は畿内や西国にも及び、幕府が朝廷よりも優位に立つことになり、皇位の継承や朝廷の政治にも主導権を持つようになった。

 源氏の血統は途絶えたが、将軍が空位のままではさすがにまずいので、北条氏は京都から皇族を将軍に迎えようとして朝廷と交渉した。1226年、頼朝の遠縁にあたる、わずか2歳の藤原頼経(よりつね)を将軍として迎えた。

幕府の考え方

 後鳥羽上皇が「北條義時討伐」の宣旨を出したことを知ってから2日後,東海道軍の総大将北条泰時はわずか18騎の手勢を従えて京都に向かった。しかし途中で引き返すと、父の義時に「天皇自らが出陣してきた時はどうすればよいか」と尋ねた。北條義時は「その時は弓を折って降参しろ。そうでなければ千人が一人になっても戦え」と云った。

 ところが承久の乱の後、執権・北条泰時に部下の安達義景が「新しい天皇が即位するが、もし後鳥羽上皇とともに戦った順徳天皇の皇子が即位したらどうしましょう」と尋ねると、北条泰時は「何も考えることはない、その時は皇位から降ろせ」と云った。乱の前後ではこのように大きな違いがある。これは幕府の力が、朝廷より強まったことを表している。幕府は朝廷を利用して政治を行うことになる。

 東国の武士は長い間,祖先が耕し自らが体をはって守り抜いてきた領地を,国司や豪族から守るために,やむをえず京都の貴族や大寺社に寄進してきた。東国の武士たちは200年の長きにわたって京都に搾取されてきた。しかし頼朝の旗揚げと、この承久の乱はまさに革命と云えた。

 源平の戦いで、義経が朝廷から勝手に官位をもらったことに頼朝は激怒するが、これは武士が常に京都の公家や寺社にへつらい、朝廷に支配され続けた束縛からの解放を頼朝は考えていたからである。義経の行為は「武士の,武士による,武士のための政治」を目的としている頼朝や東国の武士たちの思いを踏みにじるものだった。頼朝の旗揚げは平家打倒という看板をあげながら「武士の事は武士がおこなう。京都からの東国武士による自治権の獲得」だった。承久の乱はあきらかに朝廷への反抗で逆賊であったが、頼朝や武士団たちの親が築き上げた武士政権,武士の利益を守り抜く戦いであった。上皇の誘いに乗らず鎌倉方が一致団結したのはまさにこのためである。承久の乱は京都に支配されていた東国武士の独立革命と云ってもよい。

 頼朝が武士政権の下地を敷き,承久の乱はその下地の上を武士団が踏み固めた戦いだった。源氏の血は絶えたが、幕府は北条氏を中心とする御家人の集団指導体制へと移行していった。

 北条政子 

 源頼朝夫人の北条政子は夫の死後、尼将軍と呼ばれて政治の表に登場するため、権力・権勢の権化と見られられることある。しかし実際は、愚直なほどに愛情過多で、また壮大な「やきもち」によって源家三代の血みどろな家庭悲劇を引き起こす遠因をつくった。 

 頼朝が政子の妊娠中に、伊豆の流人時代から馴染みだった「亀の前」という女性と浮気したとき、政子は屈強の侍に命じて憎むべき「亀の前の隠れ家」を無残に破壊してしまった。頼朝は懲りずに第二、第三の情事を繰り返すが、その度に政子は破壊狂態を演じることになる。この当時の権力者は一夫多妻が普通だったので、政子は相当激しい性格の持ち主だった。

 頼朝の死後、政子は長男の頼家を熱愛したが、頼家は愛妾・若狭局に夢中になり振り向きもしない。政子は若狭局を憎み、遂に政子は息子の頼家と嫁に殺意を抱く。政子はせめてもの罪滅ぼしに、頼家の遺した息子公暁を可愛がる。父を弔うために仏門に入れ、都で修業をさせ、やがて手許に引き取り、鶴岡八幡宮の別当(長官)にする。ところが公暁は、父に代わって将軍になった叔父の実朝こそが親の仇と思い込み、叔父を殺してしまう。 

 母と子、叔父と甥、源家三代の血みどろの家庭内悲劇を引き起こしたのは、政子の抑制の利かない愛情過多が一因でもあった。もちろん幕府内部の勢力争いもからんでいるが、政子の関与は大きい。 

 一般には、政子を冷たい権力欲の権化、政治好きの尼将軍と見る向きもある。しかし政子は決して冷静沈着な女性でもなければ、政治の手腕家でもない。唯一、承久の変のとき、確かに政子は鎌倉の将兵を集めての名演説をしている。しかしこれも策略に長けた政治家・北条泰時の指示のままに「施政方針演説」を朗読したにすぎないとする見方がある。 政子は庶民の女性らしい激しい愛憎を歴史の中に残し、女の中にある愛情の業の深さを浮き彫りにしたのが政子の生涯だった。

 政子の父・北条時政は、伊豆に勢力を持つ平家方の豪族で頼朝を監視する役にあった。政子と頼朝が恋仲となり、父・北条時政は平氏を恐れて流罪人頼朝との仲を裂き、政子を伊豆目代の山木兼隆の元へ嫁がせようとする。ところが政子は輿入れの前夜、屋敷を抜け出すと暗夜をさ迷いながら山を越え、豪雨に打たれながら、頼朝の元へと走った。二人は伊豆山神社に匿われ、駆け落ちを果たしたのである。

 まさに天城越え「誰かに取られるくらいなら、あなたを殺していいですか」である。さすが北条政子である。尼将軍・北条政子は日本最大の烈女である。 やがて父も二人の仲を認め、その2年後に以仁王の令旨を根拠に頼朝が挙兵を決意すると、平氏側だった時政も頼朝側に参加した。石橋山の戦いで敗れ、安房へ退くが体制を立て直すと富士川の戦いで平氏軍を撃破し、東国に勢力圏を築く。頼朝と北条時政の間には長女大姫(1178)、長男頼家 (1182)、次女三幡(1186)、次男実朝(1192)をもうけ、頼朝の死後は将軍の母として政治力を発揮し、俗に尼将軍と称された。