源平の戦い

平清盛

  1156年の保元の乱で、平清盛は後白河天皇側について勝利し、さらに4年後の1159年の平治の乱で反対派を一掃して政治的地位を高めた。この二つの乱で有力武士が滅亡したため、清盛は朝廷の軍事力・警察力を独占し武家政権樹立の礎を築いた。

 清盛は二条天皇を警護し、関白・近衛基実に娘の盛子を嫁がせ、二条天皇が崩御して幼少の六条天皇が即位すると近衛基実の摂政になり、清盛は大納言に昇進して、近衛基実を補佐することになる。清盛の地位が上がるに伴い平家一門の官位も高まり知行国を増やしていった。1167年、清盛は武士として初めて太政大臣になるが、病気のため政界を一時引退すると後継者を嫡男の重盛に譲った。この引退は清盛が病に倒れたことによるが、病から回復すると福原(神戸)に雪見御所を造営して日宋貿易の拡大に力を入れた。

 清盛は日宋貿易で莫大な財貨を手にし、全国に多くの荘園を保有し、日本の半分近くの土地を治めるほどになった。そのため平家にあらずんば人にあらず」といわしめた。しかし平清盛の権力が増大するにしたがい後白河法皇との関係が悪化し、清盛の権力を不快に思っていた後白河法皇は平家の権力を削ぐことに躍起になった。

 1179年に清盛の娘・盛子が死去すると、後白河法皇は盛子の荘園を没収し、さらに同年に嫡男の重盛が死去すると重盛の知行国である越前国を没収して法皇の力を取り戻そうとした。

 この白河法皇の行為に激怒した清盛は、福原から軍勢を率いて上洛し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。清盛は後白河法皇の処置を三男・宗盛に任せて福原へ引き上げたが、後を任された宗盛には政治の経験がなく、結局、清盛が表に出ることになる。

 平清盛は後白河法皇を幽閉して院政を停止させると「政治に口を出さないこと」を約束させ、その翌年、高倉天皇を譲位させ、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位された。しかしこの白河法皇を幽閉する強引な手法は周囲からの反発を買った。武士でありながら摂関家と同じ政治手法に対し武士たちは裏切られたと失望し、貴族の警備員にすぎない平家出世することは、由緒ある貴族にとっては不愉快極まることだった。そのため平家への不満が高まった。

 

貴族の反平家感情

1 殿下乗合事件

 1170年7月、平清盛の孫・資盛(重盛の子)が乗った牛車が、摂政・近衛基房の行列と路上で出くわした。近衛基房は資盛が清盛の孫とは知らず、馬から降りずに舎人が乱暴を働いた。事件後、摂政基房は乱暴を働いた舎人を重盛に引き渡し、勘当することで決着を付けようとした。しかしこの時、基房は公家の最高位で従一位であったが、正二位大納言の重盛はこれを許さなかった。そして3ヵ月後、参内しようとする基房の行列が多数の武士たちの狼藉をうけ参内を中止した。平家一族の思い上がった一面が表面化したのである。

 2 徳子の入内

 清盛の子・徳子は1171年に後白河法皇の養子になり、翌年、高倉天皇に嫁いだ。平家は全盛を誇っていたが、所詮は成り上がり者であり、元来皇后になるべき家柄ではなかった。そのため伝統を重んじる貴族たちの反感を深めた。

 3 成親ではなく重盛、宗盛の昇進

 1177年、左大将・藤原師長が辞職すると、その空席を院の近臣の藤原成親らが争ったが、左大将に平重盛がなり、さらに右大将には平宗盛がなった。藤原成親は妹が平重盛の妻になっていたが、平家と親しいだけに腹を立てた。

 4 白山事件

  1777年4月、加賀国目代・藤原師経は、加賀白山の中宮八院の湧泉寺で、些細なことから寺僧と口論になり湧泉寺を焼き払って帰京した。白山勢力は本寺の比叡山に「湧泉寺の焼き打ち」を通報し、比叡山は目代の藤原師経と国司の藤原師高兄弟の処分を院に求めてきた。藤原師経は備後国へ流罪になったが、この軽すぎる国司の処分を不満とする比叡山の僧侶が神與を奉じて強訴し、朝廷方の平重盛と激戦となる。結局、国司の藤原師高は尾張に配流となった。

 

鹿ヶ谷の陰謀

 平家全盛の頃、鹿谷の俊寛(しゅんかん)の別荘都で夜な夜な反平家勢力が密会を繰り返していた。東山の鹿谷は、うしろに三井寺に続き堅固な要塞となっていて、鹿谷の別荘では常日頃から仲間たちが集って平家滅亡の謀をめぐらしていた。しかしこの鹿ヶ谷での陰謀が多田行綱の密告によって発覚したのである。

 摂津守・源頼盛の子である多田行綱は「平家の栄華を見るにつけ、打倒などできるものではない。もし計画がもれれば自分が命を失うことになる。他人の口からもれる前に、自分から寝返って命を繋ごう」とした。行綱は夜にまぎれて平清盛が住む西八条の邸へ行き「申し上げることがあり参上しました」と告げ、平家滅亡計画を密告した。行綱は証人に引き出されることを恐れ、密告すると急いで外へ逃げた。

 この鹿ヶ谷には後白河法皇の近臣の藤原成親、法勝寺の俊寛、北面の武士らが参加していた1177年6月1日、関係者は突然平家の軍にとらえられ、藤原成親は備前に流罪となった後に処刑され、西光、師高は斬首されるなど厳しい処罰を受けた。集会に参加したのは後白河法皇の側近で、後白河法皇も関与していたが、後白河法皇を罪に問うことはさすがの清盛もしなかった。しかし以前から悪化していた清盛と法皇の仲はこの事件をきっかけに決定的になった。

 高名な僧・俊寛が陰謀の中心人物とされ、藤原成経、平康頼とともに鬼界ヶ島(鹿児島)に流罪となった。彼らは鬼界ヶ島で望郷の念にかられ、つらい流人生活を送り、都への帰還を神仏に祈る日々であったが、翌年、平徳子の安産を祈る恩赦で俊寛以外の二人は都に帰ることを許された。しかし俊寛だけは許されずに島に残されて一生を終えた。あるいは絶望から断食して死んだともされている。この俊寛の話は、能や浄瑠璃、歌舞伎などで演じられよく知られている。

 

以仁王

 平家への蜂起は後白河法皇の第3皇子以仁王(もちひとおう)の令旨がきっかけになった。「これ以上、平家の好き勝手やらせてよいのか。平清盛の孫にあたる安徳天皇を天皇の座から引きずりおろし、新しい政権をつくり上げるべきである」。以仁王は普通なら次期天皇になる地位にいたが、清盛の孫である安徳天皇が3歳で即位すると、その望みは途絶えてしまった。このため1180年、以仁王平家を倒し自らが天皇として即位するために清盛の側近の源頼政とともに挙兵したのである。

 この以仁王の挙兵は事前に計画がもれ、清盛は追討軍を出し以仁王は園城寺に逃れた。以仁王は源頼政の軍勢と合流するが、宇治平等院の近くで平家の軍勢と衝突して二人は討ち死にする(橋合戦)。

 以仁王の挙兵は失敗に終わるが、平家打倒の令旨(皇太子による命令)を全国に発したことから、この令旨が平家追討の発火点となった。令旨は全国の源氏に届けられ、源頼朝も叔父の源行家から令旨を受け取っている

 以仁王とともに平家打倒に立ち上がった源頼政は、保元平治の乱で勝者の清盛側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まっていた。源頼政は平清盛を支え、清盛からも信頼されていた。平家の専横に不満が高まり、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。しかし計画が露見して、準備不足のまま挙兵を余儀なくされたのである。

源平の戦い

源頼朝

 源頼朝は源氏の御曹司として、幼い頃から都で何不自由なく暮らしていた。しかし13歳のときに父・源義朝が反乱を起し、東国に逃れる途中で部下に裏切られ殺害された。父と共にいた頼朝は捕らえられ、平清盛の前に引きずり出された。本来ならばここで処刑になるはずだったが、清盛の乳母・池禅尼の異常なほどの嘆願により奇跡的に命を救われた。この清盛が頼朝を斬首しなかったことが、平氏滅亡につながることになる。このことは清盛最大の失策であった。

 頼朝は伊豆(静岡)に流罪となり、頼朝の暮らしは馬の世話や水汲み、米づくりなどをひとりでこなす日々であった。辛い日々であったが成長とともに、庶民や武士の気持ちを理解できるようになった。武士の考えや不満を身近に知り、特に土地制度の矛盾に苦しんでいる武士たちの「自ら耕した土地は自らの手で所有したい」という熱望を手にとるように理解するようになった。

 以仁王の平家打倒の令旨を受けたとき、源頼朝は伊豆に流されて20年が経っていた。頼朝は令旨を受け入れるかどうか態度を決めかねていた。平家の圧倒的な軍事力を前に、流人である自分に従う兵力があまりに少なかったからである。

 いっぽうの清盛は、味方と思っていた源頼政の裏切りに激怒し、全国に散らばる源氏の残党に追討命令を出した。平清盛は自分に反対する勢力を皆殺しにすると宣言し、そのため頼朝の身にも危険が迫ってきた。追いつめられた頼朝は「座して死を待つよりは、戦うべし」と覚悟を決めたが、まさにそれは窮鼠猫を噛む思いであった。

  1180年8月17日、伊豆三島大社祭礼の日、源頼朝は妻の北条政子の父・北条時政らとともに挙兵し、わずか300の兵で平家の伊豆国の目代である山木兼隆(かねたか)を襲撃して戦死させた。

 初戦こそは勝利したが、その後三浦半島の三浦氏と合流しようとするが、続く石橋山の戦いでは大庭景親ら3000人の兵と交戦して大敗北をきたし追いつめられた。大庭景親の残党狩りは厳しかったが、この絶体絶命の頼朝を助けたのが敵の梶原景時であった。

 頼朝が数人の家来と山中に逃げ、大きな木の洞に隠れていたが、追ってきた梶原景時は、洞窟に頼朝が隠れているを知りながら、蜘蛛の巣があるから洞窟に隠れているはずがないと嘘をつき、故意に頼朝を逃したのである。後に梶原景時は頼朝の片腕として活躍する。

 石橋山の戦いで敗北し、危機を脱した頼朝は真鶴から船で房総半島(千葉)に逃れ、千葉常胤の元に逃げ込んだ。すると反平家の豪族たちが続々と集まってきた。千葉常胤は頼朝に「安房国は源氏のゆかりの地ではなく、守りも期待できない。関東でその条件を満たすのは相模国の鎌倉だけだ」と助言した。

 鎌倉は北・東・西の三方が山に囲まれ、南は海である。確かに鎌倉は敵の侵略を防ぎやすく、関東武士たちの利益を保護しやすかった。頼朝は集まった大軍勢を率いて鎌倉を目指して進軍した。

 平清盛は石橋山の戦いの結果を聞くと、安心したのかそれ以上頼朝を追討することをしなかった。この平家の油断が頼朝の再起を可能にした。石橋山の戦いで敗れた頼朝は千葉常胤に援助を求めたが、初めは小さな勢力だったが、源氏の棟梁が挙兵したことが瞬く間に広がり、頼朝の元には関東一円の武士団を次々と集まり、次第に一大勢力へと成長した。東国の武士が続々と集まり、その軍勢は数万の大軍にふくれ上がり、10月6日に鎌倉に入ると頼朝はここを本拠地とした。

 

富士川の戦い

 しかしその数週間後には、平家政権の朝廷は源頼朝追討の宣旨を発し、平維盛を総大将に平家軍が鎌倉をめざした。源氏と平家の両軍が駿河国(静岡県)富士川を挟んで対峙したが、源氏が数の上でも、意気込みの上でも圧倒していた。平家志気が低く、脱走する者が続出した。

 決戦前夜である。甲斐源氏が平家の背後に回ろうとした動きに水鳥が驚いて一斉に飛び立った。不安に駆られた平家は、水鳥の羽ばたく音を源氏の夜襲と驚き、取るものも取らずに我先に散り散りに逃げてしまった。その様は敗残の兵のごとくで、五騎・十騎とばらばらに京に戻ってきた。総大将の維盛が帰京したのは11月5日であった。これを知った祖父の平清盛は激怒した。

 この「富士川の戦い」で戦わずに勝利した源頼朝は、黄瀬川(きせがわ)で弟の源義経と再会する。頼朝は敗走した平家を追いかけずに鎌倉で勢力を固めることにした。石橋山の戦いの敗北から、関東で実力を蓄えることを優先したのである。

 頼朝は翌月には鎌倉に軍事や警察組織を統率する侍所を設置し、初代別当(長官)に和田義盛を任命して多数の武士が従った。

 頼朝は身分に関係なく「開拓した土地を所有する」という武士の願いのための政治を目指した。そのため鎌倉を本拠地として関東の体制を固める必要があった。一方、頼朝との戦いに大敗した平家には過酷な運命が待ち受けていた。

 

平清盛の死

 源氏の挙兵に危機感を持った平清盛は、1180年6月、平家の本拠地である福原(神戸)に都を移したが、急な遷都だったため皇族や貴族、寺社からの反対が強く、結局は11月に都を京都に戻すことになった。強引な手法で体制を固めてきた平家政権も、この頃には陰りを見せていた。

 大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは衰える。また不可抗力による事態が起きても、人の恨みは時の政権に向けられる。このことは平家政権も例外ではなかった。末期になると立て続けに不運が襲ってきた。まず人材不足が平家を悩ました。清盛の嫡男で将来を期待されていた平重盛が父に先立ち42歳で亡くなり、娘婿の院政を行うはずの高倉上皇も崩御した。

 源氏は徐々に勢力を拡大すると、延暦寺や東大寺の僧兵も平家追討に立ち上がり、源氏に味方した。1180年12月、清盛奈良の東大寺や興福寺の寺社勢力を鎮圧するために兵を出した。しかし鎮圧はしたが、強風の日に攻めたため火が燃え広がり東大寺の大仏が焼け落ちてしまった。その日以降、平家は仏敵とされ、庶民の多くは源氏を支持するようになった。平清盛は法皇の権力を利用して有利に勢力を復活しようとして、幽閉していた後白河法皇に再度の政務を願いでた。

 富士川の戦いの敗北を知った平清盛は激怒したが、その数ヶ月後の1181年2月、熱病に冒された。水風呂に入ると水が沸騰し、体に水をかけると水が飛び散り炎となったとされている。

 清盛は死に際に「頼朝の首を墓前に供えることを無二の供養と思え」と言い残して、64歳で悶絶しながら絶命した。

 次に平家を待ち受けていたのが大飢饉であった。異常気象により農作物は不作となり、西日本を中心に餓死者が相次ぎ、この異常気象は数年続いた。これを当時の年号から養和の大飢饉という。

 清盛の死後、三男の平宗盛(むねもり)が平家の棟梁となったが、清盛ほどの器量はなく、また白河法皇が院政を再開したこともあって、平家政権の将来に暗い陰が立ち込めた。

 もちろん大飢饉は平家のせいではない。寺の延焼も強風のために火の勢い強かったせいである。しかし当時の人々は「飢饉は大仏を焼いたタタリで、すべての災いは平家にある」と信じ込み、平家への恨みが高まった。

 しかしながら全国に拠点を持つ平家の勢力はまだ健在であった。しばらくは平家の天下が続くと思われていた。しかしすい星のように現れた源氏の若武者によって、1183年、平家はついに都落ちを余儀なくされた。平家を京から追い出したのは木曾義仲(源義仲)であった。

 

木曽義仲

 木曽義仲は1歳の時に父・義賢が、義朝(頼朝の父)と対立して、頼朝の兄義平に殺されている。そのことから源義仲と頼朝は従兄弟でありながら、仲はよくなかった。

 頼朝は義仲の7歳年上で、義経は5歳年下である。木曽義仲は幼少のことから木曽の豪族・中原兼遠の元で隠れ住んでいたが、以仁王の令旨を受け取ると挙兵し、その勢力は信濃から越前へと急速に拡大した。

 木曽義仲は京に攻め入る前の、1183年3月(29歳)に、父の弟・源義広が頼朝の配下になることを良しとせずに挙兵するが、頼朝に負け義広は義仲を頼ってやってきた。義仲が源義広を保護したため、義仲と頼朝は対立し、義仲は西に平家軍、東に頼朝軍と両面から挟まれる形になった。頼朝は10万の兵で信濃に侵攻したが、義仲は長男・義高を人質として頼朝のもとに送り和議を求めてきた。頼朝はこの和睦に応じたため、義仲は平家との戦いに集中できるようになった。

 木曽義仲の勢力は信濃から越前へと、日々急速に拡大した。義仲は政治家向きの頼朝とは違い戦上手であった。

 義仲に危機感を持った平家は、北陸の反乱勢力を討つために平維盛・平通盛を大将に10万の大軍を派遣した。

 1183年5月、富山と石川の境にある倶利伽羅峠で、平維盛率いる征伐軍と義仲軍が激突した。義仲軍5万に対し平家軍は10万の大軍であった。義仲は平家軍を狭い倶利伽藍峠に誘い込むため、昼間は矢合せなどで時間を稼ぎ、義仲軍を本隊4万と分隊1万に分けると、分隊を平家軍の背後に回らせ、辺りが暗くなってから四方から一挙に鬨の声を上げた。

 義仲は牛の角にたいまつをくくりつけ、断崖の近くの平家の陣中へ乱入させた。牛は暴れまわり平家軍を襲った。多くの平家の武士は逃げ場を失い、暗闇のなかで次々に谷底へ落ちていった。7万騎が谷底に落ち、谷底には馬には兵が、兵には馬が重なった。地の利を生かした戦法で源義仲は圧勝し、平家軍は一夜にして10万の兵が2万にまで激減する空前の大敗北を喫した。この火牛の計を用いた戦いは倶利伽羅峠の戦いと呼ばれている。

 倶梨伽羅峠の戦いで捕虜にした平家の猛将・瀬尾太郎兼康を「失うには惜しい武士」と命を救ったが、瀬尾は再び敵に回り多くの被害を与えた。義仲は「今度は許さん」と大攻勢をかけて瀬尾を自害に追い込む。最期まで瀬尾が奮戦したことを聞くと「さすがは瀬尾、やはり殺すには惜しい男だった」と悔いたとされている。例え裏切られても、忠義心を高く評価するのだった。

 源義仲は倶利伽羅峠の戦いに勝った勢いに乗り比叡山に迫った。比叡山では平家勢力が集まり、僧侶たちが義仲に協力した。都に乱入する体制が整うと、身の危険を感じた平家安徳天皇を奉じて西国をめざした。

 この際に院政を行っていた後白河法皇を連れ出さなかったことが後々まで尾を引くことになる。後白河法皇は比叡山に身を隠していたのである。平家は法皇の同行を諦め京を去った。これが平家の都落ちである。

 その2週間後、義仲は比叡山にいた後白河法皇を保護して京都に入った。都の人々は傲慢な平家を追い出した英雄として義仲軍を喝采で迎え、木曽から日の出の勢いで上洛した義仲を「朝日将軍」と呼んだ。

 この義仲軍を後白河上皇や都の貴族たちは初めは歓迎した。しかし義仲軍は都で傍若無人の振る舞いを始めた。源義仲軍は大軍勢による遠征で食料が乏しく、京も養和の大飢饉で食糧が著しく欠乏していた。人口約15万人のうち、餓死者が4万人でるほどの飢饉で、道には死者が連なっていた。

 義仲軍は都で兵糧を補給することが出来ず、腹を空かせた兵たちが民家へ押し入り略奪を始めた。食糧不足から兵が暴徒化するのは無理のないことであった。収穫前の青田を馬のエサにし、他人の家の蔵を開け、兵の中には追い剥ぎをして着物を奪う者もいた。このような略奪行為、乱暴狼藉は「平家の方がまだよかった」と云われるほどで義仲の評判は地に落ちた。

 義仲は略奪を止めたくても、略奪の代わりに与えるものがなかった。ここが関東に残ってじっくりと足固めをしていた頼朝との違いであった。また後白河法皇を始めとする公家たちは、義仲が牛車の乗り方を知らず、食事の作法もなっていないことから、木曽の野生児と馬鹿にした。義仲にとっては武勇こそが大切で、政治的駆け引きなどは思いも寄らないことだった。義仲の軍勢は寄せ集めだったため統制がとれず、その日の食糧にもこと欠いていた。準備もせずに京に入ったことから、義仲の軍勢の乱暴狼藉は住民から嫌われ、かくして義仲の評判は地に落ちた。

 木曾義仲は安徳天皇が都落ちしたことから、皇位継承を巡って後白河法皇と対立した。法皇を始めとして貴族からも疎まれ、10月、後白河法皇は義仲軍を都から遠ざける為に「平家追討」を命じて西へ下らせた。しかし義仲軍にはかつての連戦連勝を続けた覇気はなく、規律も乱れて「水島の戦い」(岡山・倉敷)で完敗した。しだいに義仲から離反する武士が増え、義仲は追いつめられ孤立した。

 義仲に不満を持つ後白河法皇は、義仲の留守の間に密かに頼朝と連絡をとり、頼朝に流罪前の官位を復活させ、頼朝に義仲を討つように命じた。頼朝は東国での支配権と引き換えに後白河法皇の申し出を承諾し、それまで「反乱軍扱い」だった頼朝の軍勢が、ここで初めて朝廷から正式に認められた。これを寿永二年十月宣旨という。

  12月、帰京した木曽義仲は、入洛時には数万騎だった軍勢は水島の戦いの敗北と脱落者が続出したことから千騎あまりに激減していた。しかし義仲軍は後白河法皇の味方となった2万の僧兵・武士を討ち取り(法住寺合戦)、後白河法皇の館を襲撃して近臣たちを殺害した。後白河法皇を幽閉し、無理やり約370年ぶりに征夷大将軍を任じさせた。

 義仲は後白河法皇の軍勢を蹴散らすと「この義仲、帝との戦に勝利した以上、私が天皇、法皇になるべき」と宴を開き上機嫌であった。義仲には義経の軍勢が関東の飢饉によって動員でないという情報が入っていたため安心していたのである。しかしこの情報は間違いであった。

 源義仲を倒すため、源頼朝は源義経を大将に5万5千の軍勢を派遣した。義仲は平家に対し「過去を水に流し、力を合わせて頼朝を倒そう」と呼びかける。このことから日本は三国志の世界の如く、西に平家、都に義仲、東に頼朝と三者が対峙しあう一触即発の状況になった。

 

宇治川の合戦

 1184年1月20日、頼朝が派兵した源義経・源範頼の率いる義仲討伐軍が京都に迫った。義仲軍の本隊は都への入口となる宇治川に布陣して義経隊と向かい合った。源氏の一族どうしが宇治川で戦うことになった。

 この戦いで源義経軍の佐々木高綱と梶原景季(かげすえ)が、先陣争いをしたことは有名である。佐々木高綱、梶原景季が馬で宇治川を渡りきったことをきっかけに、一斉に全軍が渡河を開始。ここに「宇治川の合戦」の火蓋が切って落とされた。木曽義仲は6万の頼朝軍に7千の兵で激しく抗戦した。

宇治川の先陣争い。 白馬「生月」に乗った武士が佐々木高綱、黒い馬「磨墨」に乗った武士が梶原景季である。
宇治川の先陣争い。 白馬「生月」に乗った武士が佐々木高綱、黒い馬「磨墨」に乗った武士が梶原景季である。

宇治川の先陣争い

 後白河法皇から木曽義仲追討を命じられた源頼朝が、源義経軍を先発隊として出兵させ、義経軍が宇治川に到着すると、宇治橋は義仲軍により破壊され渡ることが出来なかった。川を渡るにも対岸には義仲軍が待ち構えて矢を放ってくる。そこで「我こそが先陣を切って川を渡る」と梶原景季と佐々木高綱が名乗り出た

 白馬に乗った武士が佐々木高綱、黒い馬に乗った武士が梶原景季である。この二人はかつて頼朝の白い名馬「生月」を欲しがり、結局この白馬は佐々木に与えられた。梶原には黒い名馬「磨墨(するすみ)」が与えられたが、それ以来二人は並々ならぬ競争心を持っていた。 佐々木と梶原は宇治川に飛び込むと、先に対岸へ渡ろうと意気込み、磨墨に乗った梶原が先を行った。そこで佐々木が梶原に「梶原どの、馬の腹帯が緩んでいるぞ」と声をかけた。それを聞いた梶原が腹帯を確認している隙に、佐々木は宇治川を渡りきり見事に先陣を果たした。

 宇治川の合戦で義仲軍は6万の義経軍に7千の兵で激しく抗戦した。しかし多勢に無勢である。義仲軍の敗北は時間と共に決定的になっていく。木曽義仲は義経の軍勢に大敗し、1184年1月、北陸へ脱出をはかる。戦場の混乱の中で、義経軍の間で「義仲は丹波へ逃げた」「いや北陸へ向かった」と情報が錯綜したが、義仲はまだ瀬田近辺にいた。

 兵数はわずか13騎、義仲は今井兼平を探していた。今井兼平は義仲が1歳の時に預けられた乳母の家の子で2人は兄弟のように育ち、子どもの頃から「死ぬ時は一緒」と誓い合っていた。

 義仲の視界に琵琶湖が見えてきたとき、遠くから約50騎の武士が近づいてきた。今井兼平だった。今井兼平も義仲と死を共にする覚悟でいた。馬の足を速めて駆け寄り義仲は兼平の手をとった。この姿を見て散り散りになっていた味方の兵が集まり出した。その数、約300騎。彼らは皆、今から死ぬことを承知の上で自分の意思で集結した。

 「この浜で最期の戦いを始めるか」そう覚悟していると6千騎を率いた甲斐・一条次郎隊が見えてきた。「良い相手が見つかった。同じ死ぬなら大軍の中で散ろうぞ」義仲は先頭に立ち「義仲はここにあり、この首をとって頼朝に見せい」と叫び突っ込んで行った。突撃した300騎は大いに暴れ、敵陣を突破して50騎が残った。義仲も兼平も、まだ生きていた。続いて土肥実平の200騎に特攻をかけられ、さらに別の500騎がこちらの300騎へ突撃を繰り返しで、最後に5騎が残った。上洛前に5万人いた義仲軍は最後は5人になった。そしてこの中に一人の女武者が生き残っていた。それは巴御前である。

巴御前

 巴御前は27歳。今井兼平の妹で「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」と記された義仲の妻であった。荒馬「春風」に乗って風を切る巴御前は、人一倍派手な鎧を着て、大型の弓と大太刀を自在に扱った。宇治川の戦場を脱出した時、前方に立ち塞がった敵将・畠山重忠をして「かの者は女に非ず、鬼神にも勝る」と言わしめ、追討を諦めさせた勇将であった。

 義仲は巴御前に生き延びて欲しかった。もはや5騎しかいない。ここから先は確実な死が待っている。「巴、よく聞け。今からは別行動をする。早く逃げよ」「いやです。最後までお供いたします」。巴御前は死ぬまで義仲に寄り添うと云ってきかなかった。御前にし「命を大切に」と説得しても通用しなかった。そこで義仲は心を鬼にして云った。「巴、私の最後の戦に女を連れていた、と世の笑い者にしたいのか」。武士の名誉を守れと言われ、巴御前は言葉が出なかった。しばらく義仲から離れるのをためらっていたが、義仲が「さらばじゃ!」と云って馬で駆け出して行くと、敵の30余騎が後を追撃してきた。巴は泣きながら、その敵のど真ん中へ「私と戦え!」と愛馬を突入させた。巴は真っ先に大将の体を掴んで引きずり落とし、鞍(くら)に首を押し付けると、それを斬って投げ捨て、巴御前は東国へ落ち延びて行った。

 近江国粟津(大津市)で義仲は新たに追撃を受けた。琵琶湖南岸は敵だらけで、矢は少なく、いよいよ最後となった。兼平は腹をくくった。「ここまで戦えば悔いはない。殿、残りの矢は7、8本です。私が時間稼ぎをしている間に、あそこに見える粟津の松原で静かに御自害なされ」、「何を言う。私は共に戦って散るぞ」。

 兼平の頬を涙がつたう「日本国に名を馳せた殿が、無名の雑兵に討たれてはあまりに無念ゆえ、早く松原へお入り下され」。これ以上、義仲は何も云えなかった。そこで義仲は「兼平さらば!」と単騎、松原を目指した。

 今井兼平は素早く矢を放って瞬時に7、8騎を射落とし、矢が尽きると太刀を振り回した。敵は「奴を早く射れ!」と、次々と射掛けたが、気迫に圧倒されて命中しない。義仲が「よし、もうすぐ松林だ」と思ったその時、馬の足がぬかるみに捕らわれ身動きがとれなくなった。「不覚、兼平はどうなったのか」と背後を振り返った瞬間、義仲の額を矢が貫いた。即死だった。享年30。

 敵は義仲の首を掻き切ると太刀の先に刺し掲げ「鬼神と聞こえし木曽殿をこの石田次郎が召し取ったり」と、名乗りを挙げた。今井兼平はこれを聞いて「もはや戦う意味はなし、木曽武士の死に様、貴様らよく見とけ」。兼平は馬上で太刀の先端をくわえると、頭から飛び降りて刺し抜いて自害した。

義仲寺

 木曽義仲の墓は義仲を憐れんだ近隣の村人たちが造った。その数年後、尼僧が墓の側に草庵を結び、朝夕に菩提を弔い始めた。人が尼僧の名を尋ねると「名は捨てました」と答えた。後に村人は彼女が巴御前と知り、没後に草庵を「無名庵(むみょうあん)」と呼んた。草庵の名は巴寺、木曾塚、木曾寺と変わり、100年後には「義仲(ぎちゅう)寺」となった。

 義仲の他界から510年後の1694年、松尾芭蕉が遺言を弟子に残す。「私の亡骸は義仲公の側に葬って欲しい」。芭蕉は木曾義仲を愛し、奥の細道の完成後は、京都・嵯峨の住居「落姉舎(らくししゃ)」と義仲寺を交互に住んだ。芭蕉は無骨で一本気な義仲を、さらに敵に後ろをみせない哀れな末路を愛おしく受け止めたのである。

 芭蕉の亡骸は遺言に従って弟子の去来、基角らが舟に乗せ、淀川を上がって義仲寺・無名庵の前に埋葬された。境内には弟子によって句碑が刻まれている。

「木曾殿と背中合せの寒さかな」。

       義仲寺の左から、木曾義仲の墓、巴御前の墓、松尾芭蕉の墓

平家の都落ち

 平家が安徳天皇とともに都落ちしたことから、京には天皇が不在となった。院政を行っていた後白河法皇は新たな天皇を立てることを決意され、源義仲は以仁王の子である北陸宮を推挙したが、結局、高倉上皇の子の尊成親王(たかひらしんのう)が、第82代の後鳥羽天皇として4歳で即位された。

 後白河法皇は治天の君の権威で後鳥羽天皇を即位させたが、後白河法皇には大きな問題が待っていた。それは天皇であることを証明する三種の神器平家によって持ち去られていたことである。このことが大きな問題を引き起こすことになる。

 後鳥羽天皇が即位され、安徳天皇とお二人の天皇が同時期に存在することになった。すなわち南北朝時代と同じ状態となり、南北ではなく東西朝時代というべき状態になった。

 平家は西国に都落ちしたが、西国では平家まだ力を持っていた。追ってきた源義仲に大勝し、復権を虎視眈々と狙っていた。瀬戸内海では海戦が多いため、強力な水軍を持っている平家にとって、そのことが大きな強みであった。いっぽうの源氏は東国の山育ちが多く、水軍を持たず、平家と源氏との戦いは一進一退を繰り返すと思われていた。ところが平家が都落ちしてから2年足らずで滅亡することになる。

 源頼朝は平家を追討することを決意するが、鎌倉を動かず、代わりに弟の源範頼(のりより)や源義経に戦わせた。範頼は頼朝の指示に忠実な武将であったが、戦は強くなく、いつしか義経が戦いの指揮をとるようになった。

 

一ノ谷の合戦(鵯越の逆落とし)

 平家は1183年5月の倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れ、兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。

 木曾義仲が京都に入ったが、後白河法王はあまりに荒っぽい義仲の言動を嫌い、西海に逃れた平家と戦うように義仲に命じると同時に「打倒義仲の院宣」を源頼朝に出した。

 都落ちした平家は勢力を盛り返すと、源義仲の軍を水島の戦い破り、平家は四国屋島に本拠地を移した。1184年の正月には、平家源氏の内輪もめを好機に、京都を奪回すべく東上して、念願の都奪還のために摂津・福原(神戸)まで戻り、神戸の生田神社周辺の一ノ谷に陣を整え、都を伺うまでになったた。平家都落ちからの失地回復を目指していた。

  当初、平家は後白河院の仲裁和平案を信じ、源氏と戦うことを予想していなかった。しかし、後白河院の案は真っ赤の偽物で、源氏は木曽義仲が滅亡すると平家の一の谷を強襲した。

 平宗盛は福原に本陣をおき、東の生田口には知盛、西の一ノ谷口には忠度、山の手の鵯越口に平盛俊を配備して強固な防御陣を構築した。福原は北に山が迫り南に海が広がる天然の要害であり、東西の守備を固めれば難攻不落と思われた。2月5日、三草山の戦いで資盛が敗退すると宗盛は山の手に増援として平通盛・教経を向かわせて北の守備も固めた。

 源氏は京都を出陣すると、範頼軍勢6万が正面の山陽道から福原に進軍し、義経軍勢1万は裏側の丹波方面から進軍した。平家軍は正面の山陽道からの攻撃に必死で防戦し、一の谷は血で血を洗う激戦地となった。範頼軍は突撃しては矢を浴びて撤退するなど戦局はこう着状態に陥った。

 義経勢は途中で土肥実平に主力の兵を預け、土肥実平を一の谷の東の生田に陣させて平氏を両側面から攻撃させた。さらに義経は平家が両側面に気をとられている間に「70騎の別働隊」を率いて東播磨を南下して、平家を真下に見下ろす鵯越にやってきた。

 地元の猟師・鷲尾三郎義久の道案内で義経軍70騎が、迷路のような山道を切り抜け、眼下に一の谷を見下ろす鵯越の絶壁に到着した。義経がこの絶壁について「馬が下りれるか?」と義久に尋ねると「鹿が下りるのは見た事があるが、馬で下りたことは聞いた事がない」と答えた。義経は「鹿も四つ足、馬も四つ足。これくらいの崖、馬で下りれないことはない」と、10頭の馬を落としてみると、そのうちの何頭かは転げ落ちたが無事下までたどりつた。

 それを見た義経は「乗る者さえしっかりしていれば、大丈夫」と、義経を先頭に立ち崖を下り、残りの軍勢も一斉に続いた。

 断崖絶壁を、鬨(とき)の声とともに馬で降り、村上康国の軍勢が火を放ち、一の谷の館は炎に包まれた。平家はまさか断崖絶壁の一の谷の本陣背後の崖の上から攻めてくるとは思ってもいなかった。背後は切り立つ崖で、まさか源氏の軍勢が降りるとは思っていなかった。義経は山の頂上から、降りれるはずのない急斜面を騎馬ごと一気に下り、平家の背後から奇襲をかけたのである。

 平家は正面から攻めてくる源氏を迎え撃とうとしていたので、思いがけない背後からの攻撃に不意をつかれ大混乱となり西へ敗走せざるを得なかった。海には平家の無数の兵船が並んでいた。家は焼かれ、火に追われた平家の人々は我先に海岸へと急ぎ、船へと乗り込もうとするが、皆が一斉に船に乗ったため何隻は沈んでしまう。まさに一の谷の海岸は修羅場となった。この戦は一ノ谷の戦いと呼ばれ、この奇襲は後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と称された。

 「馬が坂に弱いこと。戦いは武士と武士の1対1であること」、義経はこのような常識にとらわれない発想と瞬時の判断力を持っていた。義経という戦争の天才を得た源氏と、人材不足に悩む平家。この大きな差が戦いの勝敗を分けた。この戦いで平家は平通盛、忠度、敦盛などを失った。

 

平敦盛と熊谷直実

 平敦盛は清盛の弟経盛の末っ子で、まれにみる笛の名手で美男であった。平敦盛は平家一門が官職につく中一人無官であり、それゆえに無官大夫と呼ばれていた。平敦盛は平家一門と苦楽をともにし、平家が再起をかける一の谷に出陣していた。

  一ノ谷の合戦で敗れた平家一門は海上へと敗走したが、味方の船は混乱に襲われ多くの平家軍が取り残された。平家の残党狩りが始まろうとしていた。源氏の武将は何とか功名を立てようと、死に物狂いで名だたる平家の武将を探していた。平家の武将たちは岸から少し沖にはなれた船へと向かい、平敦盛もただ一騎で馬を海に入れて沖の船を目指していた。

 その時、敵将を探していた熊谷直実が背後から呼び止めた。熊谷は「敵に後ろを見せるのは卑怯である、お戻りなされ」と呼び止めた。熊谷直実は歴戦の猛将で、平敦盛は16歳の公達である。勝敗の行方は最初からわかっていたが、敦盛は勇敢にも取って返すと、あっという間に熊谷直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと兜を上げた。

 兜のあげると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者で動揺してしまう。その美しさから首をとることができなくなった。熊谷はこの若者を逃しても、戦局には関係ない。この公達の父の悲しさもわかるから逃がそうとした。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答えた。まさにその時、土肥・梶原の軍勢が来てしまった。

 もはやこれまでと直実は涙ながらに敦盛の首を切った。敦盛は死を受け入れる天晴れな武将であった。だからこそ熊谷も心動かされたのである。首をとった熊谷だがこの公達が誰かわからなかった。首を包もうとしたとき一本の笛を見つけた。

 平家軍は戦場にあっても風流を忘れず、決戦前日の夜も平家の陣屋からは管絃の音色が聞こえていた。戦いで血眼になっている源氏の卑しい面々と違い、平家は心にゆとりを持ちつづけていた。熊谷はそのことを思い出し、昨夜の笛の音はこの公達であったかと感心する。

 熊谷は本陣に戻ってこの首を見せると、居合わせた人々はこれは平敦盛であるとその笛から判明して涙ぐんだ。平敦盛は悲劇の公達として平家物語で最も有名な人物である。その敦盛の最期を歌った「敦盛最期」は涙を誘う曲である。おそらく平敦盛は戦場よりも色恋の似合う花の公達であったのだろう。満開の桜の花の元、花が散るように死んでいった敦盛であった。熊谷直実は自分の息子と同じ年頃の平敦盛を討ったことから、世の無常を感じて出家し法然の仏門に入り敦盛を弔った。
 平家物語はこの場面を哀切に描いている。織田信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞「敦盛」の一節である。

 

一ノ谷の合戦後

 一ノ谷の戦いは平氏軍の一方的敗戦に終わり、源氏軍は平家の主だった武将の8割近くを討ち取り、大戦果を挙げて義経は京都に、範頼は鎌倉に凱旋した。頼朝は義経の縁談をまとめて「郷(さと)御前」(河越重頼の娘)と結婚させた。ここが頼朝・義経の蜜月の頂点だった。これ以後はボタンの掛け違いの連続であった。

 頼朝は朝廷から支配を受けない武家政権を目指していた。つまり頼朝の許可がなければ官位を貰わないように命じ、無許可で朝廷から官位を得ることを禁じていた。しかし義経は自分が官位を授かれば源氏全体の名声に繋がるとして、兄の許可を受けずに任官したのである。しかも役職が検非違使(判官)であった。

 検非違使になることは鎌倉の政治に反することを意味していた。頼朝の構想を身内の義経が壊したのである。頼朝は弟の官位習得を売名行為と見なし、朝廷権力を凌駕する武家政権を目指している矢先に、官位を貰って喜んでいる義経の振る舞いに腹を立てた。

 頼朝は義経を平氏討伐軍から外すと、総大将を範頼にして指揮を一任した。だが追い詰められた平氏の抵抗は凄まじく、関東より遠征してきた源氏軍は食料も乏しく、軍勢が崩壊寸前になった。瀬戸内海の制海権も依然として平氏にあり、また範頼では士気が下が上がらず、頼朝はやむなく義経に平家追討の総大将を命じることになる。

 

屋島の合戦

 一ノ谷を放棄した平家は讃岐屋島(高松市)に本拠をかまえて四国に勢力を確保した。その間、源氏は中国地方を抑え九州へ乗り込み、四国の河野水軍を味方にすると屋島を攻める準備をしていた。義経は嵐の中、梶原景時の静止を振り切って海路阿波に上陸し陸路屋島に迫り、背後から平家を急襲した。驚いた平家軍は、船に乗って海へ逃げたが、源氏軍が案外少数と知って応戦し激しい攻防が繰り返された。

梶原景時との対立

 屋島への攻撃に義経は張り切ったが、頼朝の重臣・梶原景時と次の2点で喧嘩になった。東国源氏軍が集まり「そもそも、われらは船いくさには慣れていない。どうしたものか」と評定した。すると梶原景時が進み出て、今度の船には、逆櫓(さかろ)をつけたいと思います」と進言した。義経が「逆櫓とは何だ」と問うと、景時は、「馬は駆けると思えば駆けさせ、引こうと思えば引かせ、右にも左にも回しやすいのですが、同じような時に船ではきっと推し回すことがたいへんだと思えますので、船の先にも櫓をつけ、側面にも舵を入れ、どの方向へも回しやすいようにしたい」と答えた。しかし義経は「まず、縁起でもない。いくさは一歩も引かない心意気が大切。不利になれば引くことは常の習いだが、そのような逃げ支度のために逆櫓をつけることなどできない。梶原の船には逆櫓でも、逃げ櫓でもつけよ。義経はこのままの櫓で進む」
 梶原景時は重ねて進言した。「よき大将軍というものは、駆けるべきときに駆け、引くべきときに引くもの。そのうえで、身をかけて、敵を滅ぼしてこそ大将といえる。そのように融通の利かぬことを言うのは、猪武者といって良将とはいえない」
 源義経は「猪や、鹿のことは知らぬが、いくさは、ただ正面から攻めて、それで勝ってこそ、心地よい
逃げることを考える臆病者め」と一蹴した。居並ぶ東国の大名・小名は梶原景時を恐れて高笑いこそしなかったが、目鼻で知らせ合って景時をあざけり合いました。義経と景時は、刀を抜き合いそうになったが、さすがにそこまではいかなかった。

 義経は船に兵糧米、武具を積み込み、馬を載せ「すぐに船を出せ」と命じました。しかし船頭水夫が「風は強く、沖はもっと強い風が吹いていることでしょう」と渋った。暴風雨を理由に「嵐が去ってから出航すべき」と景時は言うと、「平家はこの天候の中を攻撃して来るとは思うまい。その油断をつくのだ」と義経は譲らなかった。弁慶らは「早く船を出さないと、おのれら残らず殺すぞ」と駆けまわったので、船頭水夫たちも、「ここで殺されるも、沖で死ぬのも同じこと」とばかりに、200艘あった船の中から5艘が出発した。残りの船は梶原景時を恐れてか、風におじけづくかして船を出さなかった。

 義経は食糧が不足し、兵士たちが自分たちの鎧を売るほど窮しており、これ以上戦を先延ばしにできぬと考えていたが、それ以上に前進することしか頭にない義経の性格が表れていた。屋島の合戦

 屋島と五剣山半島の間は深い入り江になっていて、屋島の北側には瀬戸内の海が広がっていた。平家は源氏が海を渡ってやって来ると思い、待ち伏せて全滅させようとしていた。平家は入り江の入り口に兵船を停泊させ、源氏の海からの攻撃に備えていた。陸からの攻撃があったとしても五剣山の東から上陸すると思い込んでいた。
 1185年2月、義経は嵐の中を5隻の船で150騎の騎馬武者とともに馬ごと大阪の摂津から船出すると、通常なら難破してもおかしくない荒海に乗り出した。義経は「どの船にも、かがり火をつけるな。火がたくさん見えれば敵が用心してしまう。義経の船を本船として、船先のかがり火に従え」と命じた。ここでも歴史の神は義経に味方する。嵐を追い風にして、通常3日かかる行程をわずか4時間で瀬戸内海を渡りきると四国徳島の小松島に上陸したのである。

 義経は地元の武士を味方にすると、阿波の住人の先導で香川・高松に進撃し、義経は僅か150騎を率いて海岸ぞいに馬を進め、最短距離を進んで屋島内裏の対岸に到着した。大軍に見せかけるため農家を焼き払い、屋島の背後から浅瀬を渡って奇襲攻撃をかけ、安徳天皇がおられる御所を急襲した。平家方はまたしても不意をつかれ、源氏の大軍が攻めてきたと思い込んだ。

 平家は安徳天皇を守るため、軍船で逃げる以外に選択肢がなくなり屋島を放棄した。海上で我に返った平家は、敵が少人数だと分かり引き返そうとしたが、梶原景時の主力部隊が彼方から接近してくるのが見えたため西の海へ退却していった(2月19日)。この屋島の合戦、梶原景時が大船団とともに屋島に着いたときには、平家は逃げ去った後であった。義経の兵は梶原景時らを「今ごろ来ても遅いわ」と嘲笑し、景時のメンツが潰された。この戦を屋島の戦いと呼ぶ。

佐藤継信の死

 平教経は平家一の猛将で強弓で知られ、平教経の矢先にまわる者で射落とされないものはなかった。その教経の弓が源氏の大将・義経を捕らえた。弓がうなりをあげて放たれたその時、義経の前に一人の武将が真っ先に進みが楯となった。佐藤継信(つぐのぶ)であった。佐藤嗣信は義経の矢面に立ち、その盾となって倒れたのである。佐藤継信は肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬し、義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下りて手を取り「この世に思い置くことはないか」と尋ねると、継信は「別に何事も思い置くべきことはない。しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬのは元より期するところで、奥州の佐藤三継信という者が、屋島の磯で主君の身代わりになって討たれたと末代まで語られてこそ武士の名誉」と答えて亡くなった。義経は涙を流し、これを見た他の家来たちは、義経のためなら命を失うことは露塵ほどにも惜しくないと感激して泣いた。
 佐藤継信の遺体は州崎寺に運ばれ、この屋島の地に葬られた。

 扇の的

 当時の戦いは、戦の時間が決まっていて、夕刻になると「今日の戦はこれまで」と双方が休戦に入った。

 日が暮れ、両軍が兵を引きかけている時、沖の平家軍から年若い美女を乗せた小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。美女は紅地に金の日輪が描かれた扇を竿の先にはさんで船べりに立て、陸の源氏に向かって手招きをした。それは「竿の先の、日の丸が描かれた扇の的を射てみよ」との挑発であった。外せば源氏の名折れになる。これを見た義経は弓の手・那須与一に扇を射抜くよう命令した。那須与一は海に馬を海に乗り入れたが、扇の的までは、まだ70メートルもあり、しかも北風が激しく吹いて扇の的は小舟と共に揺れている。弓を構え「南無八幡大菩薩、願わくばあの扇を射させよ」と神仏の加護を念じ、もし射損じれば自害せんと覚悟して渾身の力で鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、扇は空を舞い上がり海に落ちた。

 この様子を固唾を飲んで見守っていた源平両軍からどっと歓声が上がり、与一を褒め讃え平家の兵は船の腹を叩いて敵の与一を称賛した。

 戦の中にも武士としての信頼する心があり、馬を射るなどの卑怯な手は恥とされた。正面から戦って打ち勝ってこそが真の勝利であった。

壇ノ浦の戦い

 屋島から敗走した氏は、山陽道も九州の大宰府も源氏に押さえられ、本州と九州とを結ぶ関門海峡ぞいの壇ノ浦(下関市)に追いつめられた。しかし壇ノ浦の戦いは完全な海戦で、平家は無敵といえる艦隊を持っており、平家には勝利の希望が残されていた。平家は、海戦経験の少ない源氏を潮流の変化の激しい長門沖におびき寄せたのである。

 源氏側には元々水軍がなかったため海戦は苦手だった。しかし勝利の気運に乗って一気に平氏を殲滅すべく、平家の独壇場とされる海戦にあえて挑んでった。

 源頼朝らが平家打倒の挙兵から5年、屋島合戦から1カ月後の3月24日、平家最期の本拠地である下関(彦島)の「壇ノ浦の戦い」で源平が雌雄を決することになる。

 周防灘と玄海灘を結ぶ水路は670メートルと狭く、潮の干満による内海と外洋との潮位の差は最大で1.6メートルになる。1日2回の潮流の速さは最大時速15キロになった。
 1185年3月24日未明、平家と源氏の両水軍は、その距離500メートルまで接近して対峙した。平家は瀬戸内、四国、九州の豪族を集結させ1000余艘、源氏は伊予・河野氏や紀伊・熊野の水軍を合わせて3000余艘であった。数の上では源氏の軍勢が勝っていたが、追い詰められていた平家の士気は高かった。まさに背水の陣、窮鼠猫を噛む勢いがあった。源氏は山育ちで本格的な海戦の経験がなかったことから義経も苦戦するかと思われた。

 開戦直前、またしても義経と梶原景時が衝突した。ことの起こりは景時が義経の前に進み出て「先陣は私が引き受けます。義経殿は大将なので後方に控えて下さい」と申し出たことであった。義経は「義経がいなければそうするが」と答えると、景時は「それはとんでもない。殿は大将軍でありますぞ」と告げた。義経は「それは思ってもいないこと。頼朝殿こそ大将軍。義経はいくさ奉行を承っている身なので、格は貴殿たちと同じだ。私が先陣を切る」と返事をした。

 そう言われれば重ねて先陣を所望するわけにはいかず、梶原景時は聞こえよがしに独り言を呟く「生れつきこの殿は侍を率いる器ではないわ」。それを聞いて、頭に血が昇った義経が「そなたこそ日本一の愚か者よ」と太刀の柄に手を掛けた。景時も「鎌倉殿より外に主を持たない」と、景時も同じく太刀の柄に手を掛けた。景時の態度を見た従人が鞘を解き、義経の様子を見いた武蔵坊弁慶などの一騎当千の強者どもも景時を討ち取ろうとした。しかし三浦義澄が義経に取りすがり、土肥実平が景時に組み付き「これほどの大事を前にこれ以上争えば、平家につけ入る隙を与えますぞ、鎌倉公(頼朝)がこの騒ぎを聞いたら何と嘆きになるか」。頼朝の名を聞いて両者とも我に返り、義経は鉾を収め、景時もそれ以上には及ばなかった。このことがあって梶原景時は源義経を憎しみ始め、やがて讒言して死に至らしめたと言われている。義経は望み通りに先陣を切ったが、「部下に手柄を与えないリーダー」として東国武士の気持が離れていく。

 潮流の早い壇ノ浦に源平の大船団が姿をあらわし、紅白の旗が入り乱れ、大海戦が始まろうとしていた。1185年3月24日、平知盛は扇を海中に投げ込んで、この時の潮流が外洋から内海に流れているのを確認すると有利な潮流から、午前6時(卯刻)に平家の大将・平時盛が次の大号令かけ壇ノ浦の戦いが始まった。

「戦は今日限り、者ども少しも退く心あるべからず。東国の者どもに弱気見せるな」

 壇ノ浦は潮の流れが凄まじく、潮の流れは複雑に変化した。この潮の流れを熟知していた平家は、その流れを利用して有利に戦いを展開していった。戦力は平氏軍800隻、源氏軍300隻で圧倒的に平氏が有利であった。しかし義経の政治工作が効いて紀伊・熊野水軍、伊予・河野水軍、阿波・田口水軍が源氏に寝返り、船数はほぼ互角になった。

 とはいえ、戦闘が始まると海戦に手馴れた平家が巧みに潮流を利用して戦いを有利に進めていった。平家軍は潮に乗ると猛攻撃をかけ、源氏軍は追い立てられた。戦いは海戦に慣れた平家が押していたが、昼頃になり潮が遅くなると、平家と源氏の船がいたるところで接触戦になった。

 壇ノ浦の複雑な潮流が安定する正午頃、それまで劣勢だった義経は、挽回の為に弓部隊に平家の船を操る漕ぎ手を徹底して狙い射殺するように命じた。当時の船の操縦者はまったく防御整備のない船外で舵を操作していた。この漕ぎ手に矢を浴びることは、馬を狙うのと同じで武士にとってあるまじき卑劣な行為とされていた。当時、非戦闘員は殺してはいけないという不文律があったが、義経はそのタブーを破り、禁じ手により平家は漕ぎ手を失い船の自由をも失った。

 午後になると潮の流れが変わり、戦局は1時間ほどで逆転して義経軍が優位になった。潮の流れが逆になり平氏の船は押し流され、漕ぎ手を失った平氏軍は身動きがとれなくなった。九州へ逃げようにも既に源範頼の大軍が制圧しており、この状況を受けて平氏軍から裏切り者が続出し、夕刻には勝敗が決定的になった。

 平家の武将は奮戦し義経を追いつめた。鬼武者と呼ばれた平教経(のりつね)と知盛が最後まで奮戦し、教経は手持ちの矢が尽きると、両手に刀を握りしめて源氏の船に乗り込み、四方八方で斬りまくった。これを見た平知盛は使者を教経に送り「もう勝敗は期したのだから、あまり罪作りな事をなさるな。それとも良い敵でも見つけられたか」と伝えた。

 平教経は「狙うは大将・義経のみ」としており、血まなこになり義経を探し回った。その時、運良く義経を見つけると鬼神の形相で迫ったが、教経が義経を討とうとすると、腕力では勝てないと知った源義経は、卑怯にも船の間を飛んで逃げてしまった(義経の八艘跳び)。一騎打ちが主流の戦いの中で逃げた源義経、追いつけないと悟った教経は大声で叫び、自分と組もうという人物を求めた。三人の武将が教経にかかっていくと、最初の一人は海へ蹴落とし、残った二人を教経は両脇にはさんで締め上げ「死での旅の供をせよ」といって海に飛び込んだ。

 あれほどの栄華を誇った平家も、朝の6時頃から始まった合戦で夕方には海の藻屑と消えていった。義経は世界の海戦史上例を見ない完勝で戦いを終えた。

 夕方になると平家の者たちは敗戦を認め、源氏の手にとらえられる前に死を選んだ。負けを悟った平家一門は次々に入水し自決した。

 教経は武器も兜も全部海へ捨て「見ての通り武器はない、勇気のある者は俺を生け捕りにしてみろ」、するとみな怖気ついてしばらく近づかなかったが、力自慢の3人組が刀を振り上げて襲い掛かった。教経は一人目を海へ蹴落とし、あとの2人を両脇に挟んで締め上げ「いざ汝等、死出の旅路の供をせよ」と海中へ道連れにした(享年25)。
 平教盛・経盛兄弟は互いの手をとり、鎧の上に碇を背負い、腕を組み合って海中に身を投じた。資盛、有盛、行盛の3人も手と手を組み碇を背負って海に跳び込んだ。

 清盛の妻時子は、安徳天皇と草薙の剣(三種の神器)を抱いて身を投げ、女御たちも入水していった。至る所で平家一門が沈んでいった。
 智勇兼備の平知盛は、舟の舳先に立ってその一部始終を見届けた後、「もはや、見るべきものは全て見た」と呟くと、鎧を二重に着込んで波頭に消えた(享年33)。重石を付けたのは浮き上がって捕虜になることを恥じとしたからである。

 平家一門が自決しているのに、総大将の平宗盛は入水する気配もなく、船から四方を見渡し右往左往するばかりだった。これを見た家来たちはあまりに情けなく思い、宗盛のそばを走り抜ける振りをして背中を押して海へ突き落とした。しかし手ぶらの宗盛は沈まず、泳ぎも達者なので結局は源氏の熊手に引っかかり生け捕りにされた。平宗盛父子は源義経に嘆願するが、頼朝の命で殺害さ父子の願は果たされなかった。父平宗盛は39歳、息子平清宗は17歳で、その首は京都で晒された。

 御座船では二位尼(平清盛の妻で安徳天皇の祖母時子)が神璽と宝剣を持ち、按察局が8歳の安徳天皇を抱いて中に身を投じた神鏡は大納言の局(平重衡の妾)が抱いて海に身を投げようとしたが、袴の裾を船げたに射られて倒れ、神鏡は無事取り上げられた。しかし三種の神器の1つ宝剣は安徳天皇と共に浮かび上がることはなかった。

 建礼門院(安徳天皇の母で清盛と時子の娘、徳子)もわが子の最期を見届けてから海に飛び込んだが、源氏の武将が熊手を徳子の黒髪にかけて引き上げた。「子の菩提を誰が弔う」と徳子はさとされ、徳子(31)は京都大原の寂光院で余生を過ごすことになる。

 義経は「女性は救うべし」と命令を出していたので、数人が入水後に引き上げられた。平宗盛や平時忠など捕えられた者がいたが、この戦いで平家は滅亡した。

 この戦いの目的であった三種神器の返還は、二種だけとなり、残りの一種は見つからなかった。源氏は安徳天皇がいるにも関わらず、後白河法王との合議により京都で擁立させた新天皇(後鳥羽天皇)の地位の正統性を示すため、三種の神器の捜索を必死でおこなった。しかし勾玉と鏡は見つかったが草薙剣は発見できなかった。そのため以後草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用することになる。

 壇ノ浦ではその後、漁師は正座して釣りをするようになった。それは、その海下に安徳天皇が眠っているからであった。 

建礼門院徳子

 建礼門院徳子は平清盛の娘で、高倉天皇の皇后である。8歳で入水した安徳天皇の母親であった。母の二位の尼も安徳天皇ともに入水したが、徳子は生き残り京へ送還された。29歳の若さだったが尼になり、京都の大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔い59歳で余生を終えた。

 父の清盛は保元の乱、平治の乱で勝利すると朝廷内で大きな力を持ち、清盛は藤原氏と同様に天皇の外戚となるため、17歳の徳子を11歳の高倉天皇に嫁がせた。清盛は徳子のほかに8人の娘があったが、いずれも権門勢家に嫁がせ勢力を強めていた。結婚から7年後の24歳になった徳子は安徳天皇を産み国母と称された。

 清盛は皇子の誕生を心待ちにして、誕生すると早く即位させようと躍起になった。一方、後白河院は退位後、二条天皇、六条天皇を立て強大な力で院政を敷いていた。しかしこの院政も次第に平家の台頭により制約を受けることになった。

 1179年、清盛は高倉天皇の父・後白河法皇の院政を抑え込むと、高倉天皇を上皇にさせ、わずか3歳の安徳天皇を即位させた。高倉上皇は実父の後白河法皇と清盛との確執、福原への遷都、平家による東大寺焼き討ちなどが続き、心労から病床に伏し21歳の若さでこの世を去った。

 平家滅亡後、建礼門院徳子は捕われの身となり、髪を落として京都大原にある寂光院に隠棲した。1186年、後白河法皇の大原御幸があり、法皇と親しく対面した。それまでの波乱万丈の生涯とはうって変わって、ひたすら平家一門の菩提を弔う静かな生活を続けていた。

 徳子は悲劇のヒロインとして人気があるが、清盛の野望の犠牲者でもあった。ほとんど何も自分で何もせず、自分の意思があったのかどうかも分からない。結婚生活でも高倉天皇は他の女性に子供をつくり、高倉天皇の最初の相手は30歳の乳母で、次が小督局で、この小督を天皇に薦めたのは徳子だとされている。

 自分の夫が他の女性と浮気し、子供をつくっても平気だとは考えにくい。しかしそれは現代人の感覚であり、徳子は徳子なりに正直に生きたのであろう。高倉天皇が亡くなったときも、徳子は嘆き悲しんだ様子がうかがわれない。

治承・寿永の乱

 義経は大勝利を収めたが、皮肉なことに「平家を滅亡させる」という役目を終えた義経には、既に破滅の兆しが見えていた。

 その後、頼朝は弟である義経を討ち、奥州を平定していく。このように源平の歴史は終わり、源頼朝による鎌倉時代が始まっていく。

 1180年の以仁王の挙兵から5年後の平家滅亡までの大規模な戦いは、一般には「源平合戦」あるいは「源平の戦い」と呼ばれるが、学問的には当時の年号から治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)と呼ばれている。源頼朝に味方したのは源氏だけではなく、平家政権側に参加する源氏もあった。後白河上皇をはじめとする貴族達も絡み、このことからこの内乱に「源平」の名を冠するのは、学問的に適当でないとする意見が学問上優勢となっているからである。

 

源平の戦い、義経の終末

 平家政権は清盛一代の政権であった。平家政権が短命で終わったのは、平清盛は武士という階級でありながら貴族と変わらない政治手法をとったからである。平安時代からすでに400年近く経っていたのに、平家一族は政権の中枢を占め、清盛は天皇の祖父となったが、そのような貴族の時代の政治システムは新しい武士の時代に合わなかった。 

 源義経は周知の通り天性の戦上手で、平家との合戦に連戦連勝し壇ノ浦で平家を討ち滅ぼし、源氏の中でも最大級の戦功を挙げた。義経の類まれな戦術による勝利の功績は大きいが、義経は天皇の証明となる三種の神器を取り戻せなかった。このことに頼朝は激怒した。頼朝にとって父の仇を滅亡させた義経の功績を評価しないはずはないが、頼朝は自分の感情よりも武士全体の利益を考えていた。

 義経は生け捕りにした平家の残党を引き連れて京へ凱旋し、平家の没落を間近に見た民衆から喝采を浴びた。このように義経は平家を滅亡させたが、それは戦いの結果であり「武士のための政治」を実現させるものではなかった。頼朝は朝廷を動かして「武士のための政治」を実現させるための切り札として三種の神器を考えていたのである。

 後鳥羽天皇を即位させた「治天の君」の後白河法皇も、三種の神器がないことに後ろめたさがあった。頼朝は三種の神器を自らの手で取り返し、後白河法皇に引き取らせ、それを条件に武士の要求を認めさせようとしていた。そのため頼朝は義経に対し「平家滅亡よりも三種の神器の奪回を優先させ、どんなことがあっても取り戻せ」と厳命していた。しかし義経は軍事的には優れていたが、頼朝の政治的考えを理解していなかった。平家滅亡に気をとられ三種の神器の重要性に気づいていなかった。三種の神器は清盛の未亡人が抱え、安徳天皇とともに海の底に消えたのである。

 頼朝は全国の海女を動員して三種の神器を探させ、勾玉(まがたま)とは取り戻したが、草薙の剣は海の底に沈んだままであった。これでは後白河法皇への切り札にならない。失態を問われれば、頼朝の地位さえも危うくなりかねなかった。

 頼朝は義経ならば三種の神器を取り戻せると期待していたので、義経に対してより一層激怒した。いっぽうの義経は平家を滅亡させることが重要と信じ、頼朝の激怒の意味が分からずにいた。さらに義経は致命的なミスを犯してしまう。頼朝の許可なく後白河法皇から京都の治安維持担当する検非違使の官職を勝手に受けてしまったのである。任官後の義経は「九郎判官」と呼ばれ、これが後に「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を生むことになる。この義経の「頼朝の許可なく朝廷からの任官を受ける」行為は、頼朝のそれまでの努力を逆なでにすることだった。

 頼朝が目指す「武士のための政治」は、朝廷から独立した武士政権を確立することで、武士政権の独立性を確保するには、武士の人事権が頼朝になければいけない。頼朝の承認もなく、朝廷から官位を授かることは、頼朝の権威をつぶすだけでなく「武士のための政治」を壊す行為だった。それを義経があっさりと朝廷から官位を受けたのだから、頼朝の怒りは当然であった。武士が仕えるのは、肩書きを与える主人のためである。義経が検非違使という肩書きを後白河法皇から授かったことは、頼朝の家来であるが、また同時に後白河の家来であることを意味していた。頼朝は「必ず私の許可を得よ」と厳命していたが後白河法皇から官位を受けたたことは、後白河法皇の源氏同士の仲間割れの策略であった。

 この後、多くの頼朝の家臣が「弟の義経様が受け取るのであれば」と朝廷から次々と任官を受けた。このことに対する頼朝の嘆きや怒りは凄まじいものであった。しかし義経は三種の神器と同様、自分の大きなミスに気づいていなかった。

 頼朝に許しを乞うた「腰越状」においても、官立は名誉として受けたと記し、謝罪の意思を示していない。後白河法皇が義経を任官したのは、兄弟の不和をあおることで、頼朝の独占力を排するためだった。後白河法皇の政治的謀略であったが、義経は法皇の意図を理解していなかった。頼朝に送った手紙のなかで「自分が朝廷の任官を受けることは、源氏一族にとって名誉なことではないですか」と書いているくらいである。

 「政治家」の頼朝と「軍人」の義経では考えが異なっていた。この二人の間を取り持つ人材がいなかったことが、お互いの意思の疎通を欠かせて、兄弟対立を生むことになった。さらに義経は平家の一族である平時忠の娘・夕花を本妻(静御前は妾)にしたことが源頼朝をいっそう怒らせた。

 平家との戦いに勝つには、天才的で強引な作戦が必要だった。しかし源義経は戦上手であるが独断専行が目立ち功績をひとりじめにしすぎた。功績をひとりじめにすれば、他の武士たちの功績が少なくなってしまう。武士は功績のために戦うのである。そのため他の武士たちは源義経に反感を抱いていた。

 武士たちは、源頼朝を自分たちの棟梁として厳しい目で見ていた。そのため源義経を特別扱いにするわけにはいかなった。特別扱いをすれば、平家一族だけを大切にした平家と同じになってしまう。武士たちの心が源氏から離反しないためには、身内により厳しくしなければいけなかった。

 朝廷が武士に官職や領地を与えれば、武士のための政治ではなく、朝廷のための政治に逆戻りしてしまう。怒りが収まらない頼朝は義経に「二度と鎌倉には入るな」と一方的に突き放した。

 それだけでなく、頼朝は義経の領地をすべて取り上げ暗殺までしかけ、義経は頼朝と全面対決を決意するようになる。義経は後白河法皇から「頼朝追討」の院宣(法皇からの命令書)をもらうが「頼朝追討」応じる武士は少なく、京での挙兵を諦めた義経は管轄権を与えられた四国・九州へ向かい都を出ることになる。義経は軍事に関しては天才的な才能に恵まれ、数々の戦略で敵を打ち破ってきたが、政治的な才能は皆無で、東国武士たちの関係についてもその重要性を理解していなかった。

 九州で再起を図ろうとして精鋭とともに船出をするが、不運にも嵐にあって難破してしまう屋島の戦いで嵐の中を短時間で四国に上陸を果たしたかつての義経と比べ、何という違いだろうか。義経はこれ以降、それまでの幸運から見放され、苦難の道を歩むことになる。

 忘れてはいけないことは、義経は後白河法皇に「頼朝追討」の院宣を発布させ、兄・頼朝を討とうとしたことである。嵐で船が難破しなければ、兵を集めた義経は再起して鎌倉を攻めたに違いない。私たちが判官贔屓でいかに義経をかばっているかがわかる。

 船は難破し、家来は散り散りになり、残った数名の従者とともに吉野山へ逃走した。頼朝は義経追討に1000騎の軍勢を上洛させたが、搜索は難航して本人を哺らえることはできなかった。義経は近畿周辺に潜伏したが次第に包囲網が狭まり、理不尽にも今度は朝敵とされるに至った。そのためわずかの手勢を率いて、かつて自分をかくまってくれた奥州の藤原秀衡の庇護を求め落ちのびることにした。この逃亡の際、北陸の安宅(あたか)の関における「勧進帳」の伝説が残されていて、現在でも歌舞伎では有名である。

 

兵どどもが夢のあと

 頼朝に追われしばらく近畿周辺に潜伏していた源義経は、包囲網が狭まったことを悟り奥州へと逃亡した。義経を受け入れたのは奥州藤原氏の秀衡である。秀衡は平泉にたどり着いた義経を歓迎し、義経や家来を衣川の河畔に建つ藤原基成の邸宅に住まわせた。藤原秀衡にはしたたかな作戦があった。

 藤原秀衡は清衡、基衡と続いた奥州藤原氏の権力を強固なものにして、奥州の支配体制を確立させていた。源平の争いにおいても、独立勢力として巧妙な外交を展開していた。平宗盛が富士川の合戦の時、奥州藤原氏を関東に進出させ、源氏を挟み撃ちにしようとするが、藤原秀衡は「頼朝討伐のため、今、立つところ」「もう白河を越えた」と京に伝え、実は一歩も平泉を出ていなかった。鎌倉に対しては中立の立場を主張して、頼朝を牽制することで平家への義理をはたす作戦だった。

 義経が平泉に逃げたことは頼朝の元にも届けられた。天才の戦略家・義経が平泉を拠点に鎌倉を攻めてきたらどうなるかわからない。そう考えた頼朝が平泉を攻めてくる可能性があった。それでも秀衡が義経をかくまったのは、奥州藤原氏は鎌倉政権から独立した勢力で、また頼朝と対峙した平家がことごとく潰されているのを知っていたからである。秀衡は遅かれ早かれ、鎌倉が奥州に進出してくることを予想していた。

 奥州藤原氏が義経という当代きっての戦略家を抱えていることは、頼朝の奥州進出の決断をためらわせる効果があった。たとえ頼朝が攻めてきても、義経が味方なら逆に鎌倉を攻めることもできると考えていた。

 秀衡は頼朝の使者の追及をのらりくらりとかわながら、義経と極秘の鎌倉侵攻作戦を計かっていた。その計画とは、まず秀衡が大将軍として第1軍を率いて下野国に入り、那須野に布陣して野戦に挑む。これは鎌倉の主力部隊を那須野に集結させる作戦であった。その間、第2軍は越後に入り、信濃から甲斐に進み相模国南部に鎌倉攻撃の陣を敷く。さらに義経を大将とする第3軍が浜通りから常陸国に入り、主力は迂回して南から那須野に迫り、その間、義経が率いる兵は密かに久慈湊(くじみなと)から船で南下して夷隅湊 (いすみみなと)に上陸して房総半島を横切り鎌倉に向かう。そして少数部隊が守る鎌倉幕府の小御所を襲い頼朝を討つというものであった。

 この綿密な計画は実行されるはずだった。だが計画から間もなく秀衡は病に倒れ、息子の国衡と泰衡に「義経を主君として、協力して頼朝を攻撃しろ」と言い残して亡くなってしまう。このようにして鎌倉侵攻計画は頓挫し、奥州藤原氏は座して滅亡を待つことになる。

  頼朝は再三にわたって泰衡に圧力をかけた。義経さえ除けば全てが解決するかのような圧力をかけた。父・秀衡に比べ政治家としての経験に乏しかった泰衡は、まんまとこれに乘ってしまう。藤原秀衡が死去すると藤原泰衡、藤原基成に源義経追討の宣旨が下り、 藤原泰衡は源義経を衣川館に襲い自害させたのである。

 藤原泰衡は奥州藤原氏を守るべく、衣川の合戦で義経を討ったが、頼朝にとってこれは奥州制圧の格好の機会を与えることになった。これまで奥州侵攻をためらわせていたのは義経がいたからである。頼朝の父祖も奥州を支配しようとして、野望を果たせなかった。奥州制圧は源氏にとって宿願だった。源氏の全国支配を確立するためにも、絶対に制圧しなければならなかった。

 源頼朝は義経が死ぬと、藤原泰衡に対し罪人をかくまつていたとあげつらい、勅命を得ないまま藤原泰衡追討のために鎌倉を立った。 平泉に入ると藤原泰衡が降伏するのを拒否して、藤原泰衡は従田次郎に討たれ死去し奥州藤原氏は滅亡した。

軽視された平家追討の悲運の大将

 源範頼は、源氏9代目棟梁・源義朝の六男で、母は違っているが源頼朝の弟で源義経の兄であった。源範頼は義朝の子であったが、母は遠江国池田宿の遊女だった。そのせいか生き延び、平治の乱で父・義朝が死去した後、右大臣・九条兼実の家来の養子となっている。

 1180年、頼朝が伊豆で挙兵したが破れて安房に逃れた。頼朝は勢力を巻き返して鎌倉に入るが、その時に頼朝のもとに馳せ参じて武将となった。1183年の野木宮合戦は鎌倉を攻撃する合戦であったが、範頼は鎌倉方の小山朝政の傘下で戦っている。

 1184年、木曽義仲の討伐のため、義経とともに数万騎を率いて京へ向かう。この途路、尾張墨俣渡で先陣争いをして、御家人らと乱闘となり頼朝の怒りを買い、以後慎重に行動するようになる。

 範頼は木曽義仲の討伐大将であったが、琵琶湖岸沿から勢多に至り、大軍同士で戦線は膠着状態となる。その隙をついて搦め手の義経軍が義仲軍を横から突き、範義も少し遅れて防御線を突破した。

 義経はこの木曽義仲との戦いで一躍名を轟かせるが、それは範頼が義仲の主力軍を引き受けていたから勝てたのである。義仲軍を討滅した範義・義経の源氏軍は、そのまま平家追討軍となり攝津に向かう。範頼は大将として、義経は搦め手の大将として軍を率いた。

 義経の鵯越攻めで有名な一の谷の合戦が行われ、範頼は義経の活躍で注目を浴びない。それでも福原を攻め落とし平忠度、平通盛、平経俊などを討ちとっている。鵯越の奇襲作戦も範頼の正面攻撃があってこそ功を奏したといえる。

 鎌倉に戻った源範頼は、西海への出陣に際して、頼朝から酒宴に招かれ、秘蔵の馬・甲一領を賜っている。9月、源範頼は3万騎の騎馬軍団を率いて西国に発つ。

 その頃、一の谷で敗れた平家は讃岐の屋島に本拠地を置いていた。平家は源範頼軍を迎え討つため平資盛は500艘の兵船を率いて、瀬戸内の対岸の児島に軍をおいた。児島は現在は地続きであるが、当時は島だった。範頼はこの備前児島の合戦で平家に勝つと、中国地方を制圧し九州を攻略するため出陣した。しかし瀬戸内海は平家の水軍に押さえられ、兵糧と船は不足していた。

 範頼は鎌倉へ窮状を訴える書状を送り、頼朝は義経を出陣させる。一方、範頼は周防で臼杵惟隆らの助力を得て兵糧と兵船を調達して九州・豊後に渡った。

 葦屋浦において九州最大の平家方・太宰少弐種直らと戦い、範頼軍は九州を押さえた。義経は2月19日から21日にかけて屋島の戦いで勝利し、平家軍は赤間関まで後退するが、九州は範頼が押さえていて退路は絶たれていた。義経軍と範頼軍に挟まれた状況下で、次の戦いは必然的に運命を決する戦いとなった。そして同年3月23日、義経軍は壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた。

 範頼は源平合戦後は九州豊後に留まり、残党狩りと戦後処理に努めて、翌年鎌倉に凱旋した。源氏一族として鎌倉幕府で重きをなしたが、1193年、謀反の疑いをかけられ伊豆修善寺に幽閉される。間もなくして頼朝の命を受けた結城朝光・梶原景時・仁田忠常らに火攻めにされ自害する。あわれな人生であった。

 

連戦連敗の源行家

 平家を減ぼし、天下を取った源氏だが、歴史の裏側で源氏は一族の厄介者に悩まされていた。それは男新宮十郎(源行家)であった。源行家は以仁王の宣旨を頼朝や義仲など全国の源氏に伝えたが、後々、源行家は処刑されることになる。

 墨俣の合戟で敗北した源行家は、鎌倉に出向いて頼朝に恩賞を無心する。しかし墨俣の合戦で弟・義円を戦死させた頼朝はさすがに冷たく「自力で国を取れ」と突き放してしまう。すると行家は甥にあたる木曽義仲のもとに行って行動をともにしたのである。

 しかしここでも行家は義仲と対立する。義仲を助けるというよりも、義仲の上に立とうとしたからだった。義仲の本隊から離れ、別働隊として伊賀から大和へ進撃するが、行家は義仲から恩賞がないことを不満にして、対抗意識から二人の関係は悪化する。京で木曽義仲の評判が落ちると、行家は義仲から離反して、頼朝の代官として木曽義仲追討のために義経に接近する。

 源平の戦いが終わり、義経と頼朝は対立したが、源行家は義経ともに挙兵したため、頼朝から追捕され、北条時定によつて首を切られ鎌倉に送られた。源氏の諸勢力を渡り歩いた源行家は、源平の戦いを巡り連戦連敗の無能を発揮しながら最後は自らの命を落とすことになる。節操のない態度と武士としての無能から同情の声は少ない。