平安時代初期

「平安」という時代

 平安京に遷都を行ったのは桓武天皇で、建議を持ちかけたのが和気清麻呂であった。桓武天皇は増大する寺社や貴族の権勢に危機感を覚えていた。特に道鏡が天皇位を譲り受けようとしたこともあり、堕落した仏教勢力を政治の場から遠ざけたかった。仏教を嫌ったのではなく、僧侶が政治にロだしするのを嫌ったのである。

 そのために京都に遷都を試みたのである。紆余曲折を経て平安京ができ上がり、これからが平安時代になる。語呂合わせに「泣くよ(794)うぐいす平安京」とあるように、794年を機に奈良から京都に都は移ることになった。京都は以後1000年以上にわたり日本の都となる。

 桓武天皇は皇室の威信を高めるため、東北に蝦夷討伐軍を派遣し、征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍により一定の成果を挙げた。天皇家の勢力は岩手県北部にまで及んだが、遷都や蝦夷討伐で国家財政が危機的状態から破綻をきたしそうになった。

 そのため桓武天皇は首都警備隊と九州防衛隊(防人)を残して軍隊を廃止した。軍の廃止が可能だったのは、日本が荒波に守られた島国だったからであるが、軍は警察も兼ねていたため地方は無法地帯となった。荘園を持つ豪族は、自衛のために武装し、京都で部屋住みの皇族や下層貴族は身を立てるために武芸を磨いて地方へ移住した。清和天皇の子孫は源氏となり、桓武天皇の子孫は平氏となった。これが「武士」の起こりである。

 平安時代の不思議なところは、支配階級の朝廷が軍事力を持たないのに、地方の豪族たちが強大な軍事力を保有していたことである。このことは世界的に見ると極めて奇妙な現象といえる。通常、支配層は支配のための軍事力を持ち、支配される者は軍事的に劣るため支配されるのが一般的である。ところが日本の朝廷や貴族たちは、軍事力を持たずに税金を集め安穏としていた。政治は地方の豪族たちに任せ、自分たちは政治に加わらず、和歌を詠む毎日であった。庶民や豪族はこのような状況に甘んじ、各地で国司や代官に対する訴えは頻発するが、朝廷を打倒する発想は生じない。

  平安時代は寒冷期で貧しかったが、それでも他国に比べれば恵まれていた。庶民は貴族によって搾取されてもまだ食える飯があった。飯が食えているうちは、権力に目をつぶるのが庶民の習性である。

  天皇は神の子孫であり、朝廷は神々と人間を結ぶ重要な宗教機関である。神道である庶民は、税金が重くても、貴族が和歌を詠んいても、甘んじて受け入れていた。このおかしな実情に気づいたのが平将門であった。常陸(茨城県)で挙兵して新皇を名乗ったのは単なる野心からではなく、民衆のために国を変えようとしたのである。その壮途は道半ばにして破れたが発想は革命的であった。(天慶の乱939年)。

 

薬子の変
 806年に桓武天皇が崩御すると、次に息子の平城天皇(安殿親王)が即位した。平城天皇と藤原薬子との関係がものすごいものであった。平城天皇は皇太子(安殿親王)のときに藤原の娘を妃にしていたが、その娘はまだ幼かったので、付き添いとして母親(藤原薬子)が一緒についてきた。ここでなんと「親王安殿親王)と妃の母親(藤原薬子)」が男女の関係になったのである。嫁に連れて来た娘よりも、連れてきた母親と恋仲になったのである。

 母親といえども、薬子はまだ30歳である。皇太子が娘と恋仲で結婚したわけではないのだから、妃の母親に惚れ込んでも不思議ではない。薬子は中納言・藤原縄主との間に3男2女の5人の子を産んでいた。相当に魅力にあふれた、すばらしい女性だったのだろう。それだけ薬子には女性的魅力があった。

 しかし安殿親王と薬子の不倫に激怒した桓武天皇は、薬子を朝廷から追放した。ところが桓武天皇が崩御すると、平城天皇は薬子を再び宮廷に呼び戻し二人の関係はさらに深まった。さすがに妃には出来ないので、薬子は平城天皇の女官として迎えられた。夫の藤原縄主は大宰帥として九州へ遠ざけられた。

 薬子は天皇の寵愛から傍若無人の振る舞いをおこなう。薬子の兄・藤原仲成出世を重ね、朝廷では藤原仲成・薬子の兄妹による政治の専横が続いた。二人の勝手な行動は周囲のひんしゅくを買った。

 平城天皇は桓武天皇が都の造営や蝦夷征討にる国家財政の逼迫を改善させるため、財政の緊縮と公民の負担減に取り組んだ。また官司の整理統合や官僚組織の改革に先鞭をつけ、さらに藤原氏の内部の抗争に翻弄された。この間、何度か転地療養を試みたが、その効なく在位3年という短い期間で退位し、病気のために皇位を賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り奈良に隠棲した。

 しかし嵯峨朝がスタートしてほどなくすると、平城上皇の健康はにわかに回復へ向かい、再び政治に意欲を持ちはじめた。平城天皇はたった3年で辞めてしまい、薬子にしてみれば平城上皇を再び天皇にしたいと願った。平城上皇は30代という若さも手伝って国政への関心を示した。さらに上皇の命令と称して政令を乱発するようになった

 。当然のことながら、側近の薬子や藤原仲成も政治の舞台への未練を捨てきれず、平城上皇に重祚するよう促した。平城上皇が天皇になる(重祚には、それなりの理由が必要であった。そのため「もう一度、都を平城京に戻すために、上皇を天皇に立ましょう」と理由をつけた。つまり都を平城京に戻したい人たちが賛同してくれると画策したのである。しかし平城京から平安京に都を移したてから既に26年もたっていた。「今更平城京に都を戻すなんて、面倒なことをするの」ということで、賛同を得ることが出来なかった。
 平城上皇と嵯峨天皇は対立し、兄弟喧嘩により「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態になった。嵯峨天皇は、810年3月に天皇の命令を伝える蔵人所を設置すると、藤原冬嗣を長官にした。
 810年9月、薬子と仲成が平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図り、ひそかに兵をあげる準備を進めた。これを事前に察知した嵯峨天皇は、坂上田村麻呂を派遣してこれを武力で阻止した。この事変で平城上皇は失意のうちに出家したが、藤原仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害した。この事件を「薬子の変」という。
 藤原仲成と薬子は、長岡京の造営責任者で暗殺された藤原種継の子だった。この事件の背景には、藤原種継が命がけで造営した長岡京を捨てた桓武天皇に対する恨みがあった。薬子の変で藤原四兄弟の式家は没落し、房前(ふささき)の子孫である藤原冬嗣の北家が力をつけることになる。また薬子の変で嵯峨天皇について勝利の祈祷をしたのが空海であった。はたして藤原薬子が悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、藤原薬子が書き残したものがないので、本当のことは分からない。

 

院政の成立

 約50年に渡って摂関政治の実権を握ってきたのは藤原頼通(よりみち) であったが、妃にした自分の娘が天皇の皇子を産めなかった。そのため1068年、藤原氏の血筋をひいていない第71代の後三条天皇が即位した。摂関家と外戚関係のない天皇の誕生は、第59代の宇多天皇以来、約170年ぶりのことであった。

 後三条天皇は35歳と働き盛りで、学問を好み、個性の強い性格で天皇自らが政治の刷新を行った。後三条天皇は摂関家の勢いを止めるためには、摂関家の荘園を押さえることが近道と考え、1069年に延久の荘園整理令を出し、1045年以降に新たにつくられた荘園を全面的に停止させた。

 また学者の大江匡房(まさふさ)を起用して記録荘園券契所を設置し、すべての荘園の券契(権利書)を調査して、書類上の不備や国政上の妨げとなる荘園を停止処分とし、国衙領(こくがりょう)として国の領有とした。

 この荘園整理令は摂関家や寺社が例外なく適用されたので成果を挙げ、さらに枡(ます)の大きさを同じに定め重さの単位を統一して不正をなくした。その他にも、後三条天皇は物価の公定価格を定め、国司の重任を禁止して、右大臣に摂関家以外の貴族を起用するなど様々な改革を行った。

 1073年に即位された、後三条天皇の子である第72代の白河天皇も天皇による親政を行なったが、1086年、白河天皇は8歳の実子・善仁親王に突然譲位して、即位した第73代の堀河天皇の後見役として白河上皇になり政治の実権を握った。この院政とよばれる政治スタイルを確立したのだった。それまでは長きに渡って藤原氏が摂政、関白という地位について(摂関政治)権力を握っていたが、その藤原氏の血筋が天皇家から途絶え、そこで天皇家による政権奪取となった。

 上皇ならば天皇のようにと縛られずに、私的な身分で武士などと主従関係を結ぶことができた。上皇なら武士を個人的な家臣として職や土地を与えることができた。天皇は天皇の権力を、上皇は新たな立場から権力を作り上げ、それぞれを補いながら政治権力を握っるのが院政であった。

 このように摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が始まった。上皇の住居をと呼ぶことから、この制度を院政という。院政は荘園整理によって摂関家に支配されていた地方豪族、国司(受領)、開発領主らに歓迎された。白河上皇は彼らを支持勢力に取り込むと、荘園減少に不満を持つ摂関家の勢力を抑え込んだ。

 堀河天皇の父として政治の実権を握った白河上皇は、事実上の君主として「治天の君」と称せられ、自らの政務の場所として院庁を開き、実務を院司に担当させた。院政のもとで、上皇からの命令を伝える院宣(いんぜん)や、院庁から発せられる公文書・院庁下文(くだしぶみ)が国政に大きな影響を持つようになった。また白河上皇は直属の警備機関として北面の武士を組織した。

 院政時代を築いた白河上皇をはじめとする各上皇は、仏教を厚く信仰しそれぞれが出家して法皇となった。白河法皇は、1076年に建てた法勝寺など造寺・造仏事業を行い、熊野三山への熊野詣や高野山への高野詣を繰り返した。

 白河天皇は堀河天皇が成人してからも院政政治を続け、孫の鳥羽天皇、さらにひ孫の崇徳天皇と3代に渡って院政政治にたずさわり、43年間もの間院政を行った。

 院政が盛んだった頃は、皇族や上級貴族に一国の知行(領地)を任せ、そこから収益を得る知行国の制度や、院自身が知行国を支配する院分国の制度が広まった。国の領地である国衙領は、次第に院や知行国主、あるいは国司の私領となり院政を支える経済的基盤となった。またかつては摂関家に集中していた寄進地荘園が、新たに政治の実権を握った院に集中し、不入の権に警察権の排除も含まれ、それらが強化されて荘園の独立性が強まった。

  荘園の寄進が集中した大寺院では、自衛のために下級僧侶や荘園の農民を僧兵として組織した。大寺院では僧兵を用い国司と争い、また自らの要求を通すために、奈良の興福寺では春日大社の神木を、比叡山の延暦寺では日吉大社の神輿(みこし)を先頭に立てて京都へ乱入し、朝廷へ強訴した。

 朝廷は自前の軍隊を持っていないので、寺院の圧力に対抗するために源氏や平氏などの武士を雇い警護や鎮圧にあたらせたが、このことが武士の中央政界への進出をもたらすことになった。

  院政によって皇室が政治の実権を握り、摂関家の荘園が減少し、院や大寺院の荘園が増加して荘園自身の権限が強化された。しかし土地の支配をめぐる根本的な制度に大きな変化はなく、院に経済的基盤が集中したことから、上皇(または法皇)の権力は飛躍的に高まり、さら に「天皇の父」という立場からも院の権力に歯止めがかからずに、独裁的な色彩を見せるようになった。

 例えば「賀茂川の水と、双六の賽(サイコロ)の目、山法師(延暦寺の僧兵)だけは自分の意にならない」という白河法皇の言葉があるが、逆に云えは、この三つ以外は自分の思いのままに動かせるということである。白河法皇や鳥羽法皇は、やがては皇位の継承についても意見され、結果として政治の混乱を招くことになった。また、土地制度に大きな変化がなかったことが、一部の者の不満を高めることになり、来るべき新しい時代への大きな原動力となった。

 

 権力闘争

 宮廷では公家が和歌を詠んだり、夜這をしているだけでなく、薄暗い権力闘争が行なわれていた。政権を独占したのは貴族の藤原一門で、彼らは娘を天皇家に輿入れすることで「外戚」となり政治を独占した。そのような藤原一門に挑戦した者は、菅原道真(大宰府に左遷)や伴善男(応天門の変)のように、罠に嵌められて失脚する運命にあった。天皇は飾り物で、貴族たちの都合の良いように祭り上げられ、天皇は政治の実権にはタッチしなかった。

 それでも天皇の中には覇気を持つ者がいて、平安末期に「院政」という政治手法を思いついた。すなわち、早めに退位して上皇となり、藤原氏の手の及ばない隠居所を拠点にして政治を行なうことである。また藤原一門といえども、適当な女子に恵まれず、天皇家との縁戚関係を維持できない時期もあった。こうして少しずつ藤原一門の勢力は衰えていった。これらの権力闘争はいわば宮廷の話であって、日本全体にとってはさしたる問題ではなかった。公地公民制が崩壊し、民生を掌るのは荘園領主と武士団だった。

 平安末期になると武士団は源氏と平氏の二大勢力になった。清和天皇の後裔を自認する源氏は東国でその勢力を伸ばした。その契機となったのが、いわゆる「前九年後三年の役」(1051年~)である。陸奥(岩手県)の大豪族阿部頼時の反乱を鎮圧するために出陣した源氏勢力が、九年の歳月をかけてこれを滅ぼし、その後、阿部氏に代わって権勢を誇った清原氏の内部抗争を三年をかけて鎮定した。この功績を立てた源義家(八幡太郎)は源氏の守護神となる。

 いっぽう桓武天皇の後裔を自認する平氏は西国で勢力を伸ばした。その契機となったのが、大海賊・藤原純友の反乱であった(941年)。武力を持たない朝廷は、地方の戦乱を有力な武士団に委ねざるを得なかった。そのため反乱が頻発すれば、朝廷の権力が次第に武士に蚕食されていった。やがて朝廷の皇族や貴族たちは、自分たちの権力争いに源氏と平氏の武力を利用するようになる。こうして起きたのが「保元の乱」と「平治の乱」である。その結果、朝廷の実権を握ったのは平清盛であった(1167年)。朝廷内の権力争いは武士に国の実権を奪われる形で終結した。