飛鳥時代2

10 壬申の乱

 壬申の乱は古代日本最大の内乱であり、皇位継承に関わるクーデターだった。

 天智天皇は自分の跡取りを誰にするかで悩んでいた、まわりは自分の同母弟の大海人皇子が適切だと思い、大海人皇子も自分が皇位を継ぐものと思い込んでいる。しかし何としても自分の子の大友皇子に皇位を継がせたい。天智天皇は新たな人事を発表した。それによると大友皇子が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣連金が右大臣だった。天智天皇は大友皇子に実績を持たせ、大友皇子を後継とする意思を見せ、大海人皇子は天皇の弟というだけにした。

 さらに天智天皇と大海人皇子は額田王をめぐっての女性関係で心情的不和にあった。額田王は大海人皇子と恋仲にあったが、その額田王を天智天皇が奪ったのである。このことは額田王と大海人皇子の歌のやりとりでわかっている

 天智天皇が病に臥せると、皇位継承が心配になった。671年10月17日、天智天皇は弟の大海人皇子を枕元にくるようにいいつけた。天皇の命令を皇子に伝えたのは、皇子と親しい蘇我臣安麻呂であった。安麻呂は天皇の命令を伝えた後、「言葉に注意してください」といった。大海人皇子は兄の天智天皇を警戒していた。天智天皇に睨まれると古人大兄皇子も、蘇我倉山田石川麻呂も、有馬皇子も不幸な死を遂げたことをみてきた。政敵には情け容赦のない非情な兄を知っていた。

 大海人皇子は安麻呂の言葉を噛み締めながら、不安な気持ちで天皇の居間へ急ぐと、病床の天皇は、

 「大海人皇子よ、わしの病気は重い、おまえの皇位を譲る」と伝えた。大海人皇子は意外な天皇の言葉に戸惑った、大海人皇子に次期天皇の座を譲る」この天智天皇の言葉は本心ではなかった。天智天皇は大友皇子を次の天皇にすることを決めていたのだった。

 安麻呂の言葉を思い出し、自分を試している罠と直感した大海人皇子はも,返答によっては命すら危ないと感じた。もしこのとき大海人皇子が素直に譲渡を受け入れていたら、謀反の心ありで殺されていた。

「わたしはもともと病気がちで、次期天皇には大友皇子がふさわしい。わたしは天皇のために出家し修行したいと思っています」と、次期天皇に大友皇子を推挙すると、自分には天皇になる意志がないことを伝え,すぐに髪を切って出家修道を申し出た。天智天皇の内心を見抜きやわらかく辞退したのである。

 2日後、大海人皇子は武器を朝廷に返上すると,わずかな従者を連れて大津宮を去り奈良の吉野へ向かった。宇治橋まで見送った舎人(とねり)は,去っていく大海人皇子を見て「翼のある虎を野に放すようなものだ」と云った。

 671年12月3日、天智天皇が近江宮で46歳で崩御すると、近江宮(大津宮)で実権を握った24歳の大友皇子は、危険な大海人皇子を滅ぼそうと兵を集めた。672年5月、吉野に緊急の事態が知らされた。近江朝廷が天智天皇の陵を造ると云って美濃と尾張の農民を集め,武器を持たせているという情報だった。また大津から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,吉野への道を塞ぐ動きが伝わってきた。

 大海人皇子は自分に危険が迫っており,決断の時と考えていた。彼は吉野では武力を持たなかった、そのためには安全な地へ身を移さなければいけない。大海人皇子は自分の私領地のある美濃への脱出を決意し、東国の豪族たちが味方につくように準備を進めた。大友皇子の軍勢より、より多くの兵を集めることが勝敗を決するとしていた。大海人皇子はただちに村国連男依ら3人の使者を皇子の領地美濃へおくった。美濃の国司と連絡をとって軍勢を集めるためだった。

 6月24日、大海人皇子は吉野を出て美濃へ向かう。妻子従者20数人と昼夜を歩き伊賀(三重県)の名張へ着いた。名張に着いて兵を集めようとするが名張郡司は出兵を拒否した。伊賀の東部は大友皇子の母の出身地(現大山田村)であった。いつ敵に襲われても不思議ではなかった。この状況を不利と見た大海人皇子は伊勢国に滞在し伊勢神宮に参拝した。

 空には不気味な黒雲が漂い、雷が鳴り響いていた。

 「これから天下が二つに分かれようとしているが、自分が最後には天下を得るだろう」大海人皇子がこのように呟いた直後、伊賀の長が500の兵を引き連れて大海人皇子の下に馳せ参じた。さらに美濃、伊勢、熊野などの豪族が参戦し、積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で息子の高市皇子の軍と合流することができた。さらに伊勢国でも兵を得て美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けていた多臣品治がすでに兵を興し、不破の道を封鎖し、朝廷軍の援軍補給路を絶っていた。東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日に軍勢を二手にわけ、大和と近江の二方面に送り出した。

 大友皇子は大海人皇子が吉野を脱したことを知ると、家臣が「ただちに騎馬兵を差し向けて大海人皇子を殺すべし」と忠告するが「大海人皇子を殺すより、これを機に大海人皇子に味方する勢力を一掃すべき」と考え、東国、吉備、筑紫(九州)に兵の動員を命じた。しかし東国の使者は大海人皇子の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では総領の気持ちを動かすことができず、筑紫では外国に備えることを理由に出兵を断ってきた。それでも近江朝廷は諸国から兵力を集めることができた。

 大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が兵を集めたが、大伴吹負が挙兵して朝廷部隊の指揮権をうばった。大伴吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝軍と激戦を繰り広げたが、近江朝の方が優勢で吹負の軍はたびたび敗走した。しかし吹負は繰り返し軍を再結集すると朝廷と戦い敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮地を救った。

 近江朝軍は美濃にも向かったが、副将蘇我果安(はたやす)が総大将・山部王を殺害したため指揮が混乱し前進が停滞した。蘇我果安は、大海人皇子が大津から吉野へ向かうとき「翼のある虎を野に放したようなものだ」と云った人物で、近江朝廷に忠誠心の強い重臣だった。大海人皇子に内通していた総大将・山部王が大軍を率いて大海人皇子軍に降伏しようとしたを蘇我果安は必死に諌止し、遂に殺害したとされている。大軍の統率を失い戦線を崩壊させた責任を取る形で、蘇我果安は山部王を殺害後自ら自刃して果てた。

 村国男依に率いられて直進してきた大海人皇子の部隊は連戦連勝で進撃を続けた。大海人皇子は総大将を高市皇子にすると「不破」より軍を二手に分け、一隊は琵琶湖の西岸より大津近江へ、もう一隊は琵琶湖東岸を下り瀬田へ向わせた。

 7月22日、最後の決戦が瀬田橋で起きた(瀬田の唐橋の戦い、滋賀県大津市唐橋町)。唐橋を挟んで東側に村国男依の軍,西に大友皇子率いる朝廷軍が構えた。朝廷軍は後方も見えないほどの大軍であった。朝廷軍が村国男依の軍を待ちかまえ、弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち,矢が雨のように落ちてきた。朝廷軍は橋の中程の板をはずして敵を川へ落とす仕掛けをつくっていた。しかし大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)はこのワナを見破り、弓矢の中を突撃してきた。大分君稚臣は抜刀し切り込み、そこへ大海人皇子軍がなだれ込んだ。さらに村国男依の軍が一気に対岸を目指してつっこんできたそのため朝廷軍は総崩れとなり、村国男依軍が朝廷軍を破り朝廷軍は敗走した。その日のうちに大津宮は戦火に燃え落ち、大友皇子はあやうく逃れ、長等山から大津京を眼下に見て首を吊った。

 この壬申の乱には大きな謎が潜んでいる。それは吉野を出た大海人皇子は数人の付き人だけだったのに、なぜ朝廷軍に勝つほどの軍勢が集まったのかである。軍勢のない大海人皇子が吉野から東国に逃れたのだから、東国に親大海人皇子の豪族がいたのは間違いないだろう。大海人皇子に加勢した豪族は、尾張氏、蘇我氏、大伴氏で、彼らは東国と強いつながりを持っていた。特に尾張氏は大海氏と同族であり2万の軍勢と最大の軍資金を提供している。しかし日本書紀には尾張氏を意識的に無視しているように記載がない。さらに蘇我氏や大伴氏は東国に縁があり、天智天皇(中大兄皇子)の強引な独裁に恨みを持っていた。本来ならば天皇になるはずだった不遇な大海人皇子側につくのは心情的に当然であった

 当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位が重視され、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これを背景に、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。さらに大海人皇子の行動が機敏で、大友皇子は全てが後手に回ったこと、決戦を控え内部混乱が生じたことによる。

 673年2月、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位した。近江朝廷が滅び、都は再び飛鳥に移された。大海人皇子は即位して天武天皇となる。天皇の名称は歴史上始めて用いられた。神話の時代から続く歴代大王はすべて天皇と新たに呼ぶことになった。

11 律令体制
 壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位され、第40代の天武天皇となった。天武天皇は大臣を置かずに自らが先頭に立ち政治を行った。豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には皇族出身者を中心とした新たな身分制度・八色の姓(やくさのかばね)を定めた。その他にも中国にならった律令や我が国の国史の編纂を始め、日本初の銭貨となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行った。
 外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を何度も派遣して、唐との国交を一時的に断絶した。日本は新羅をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができた。遣唐使の復活は8世紀まで待つことになる。
 天武天皇は天皇中心の強い国家体制の確立を目指していた。中国にならい本格的な都である藤原京の造営を開始したが、その完成を見ることなく686年に崩御さた。天武天皇が崩御なされると、皇后である持統天皇が即位する。持統天皇は天武天皇の皇后であり、天智天皇の娘でもある。持統天皇は天武天皇との子である草壁皇子(くさかべのおうじ)の成長を待って、称制(天皇代行)によって政治を行った。このとき草壁皇子のライバルである大津皇子を謀反の疑いで殺害している。大津皇子は僧行心らにそそのかされて謀反を企てとされているが、逮捕された三十余人のうち僧行心を除き赦免になっていることから、計画が事実無根ではなかったとしても、草壁皇子擁立のために大津皇子を抹殺したと考えられている。しかし草壁皇子が自分より先に死去したため、690年に自らが即位された。

 持統天皇は天武天皇の諸政策を引き継ぎ、689年には法典である飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍(こういんねんじゃく、戸籍)がつくられた。694年、天武天皇の時代に造営が始められた藤原京が完成し飛鳥浄御原宮から遷都された。それまでは天皇が変わるたびに都を変えていたが、藤原京は都城制といって、ひとつの城のように整備されていた。代々の天皇が使えるようにした都で、事実、文武天皇、元明天皇の初期までは藤原京である。

 大化の改新以来、我が国が目指していた律令国家の大事業はほぼ完成に近づいた。697年、持統天皇は草壁皇子の子で、自身の孫にあたる第42代の文武天皇に譲位され、703年に崩御された。持統天皇は天皇として初めて火葬にされた。

 

大宝律令

 文武天皇の治世の701年、日本初の本格的な法令である大宝律令が、天武天皇の子である刑部親王や藤原鎌足の子である藤原不比等によって完成した。律とは刑罰の規定で、令とは行政法や民法などの法規のことである。唐にならって作られた大宝律令は、その後長く我が国の基本となった。

 大宝律令とは対馬の国から金が献上されたことから「大宝」という元号を用いており、これ以降、日本は独自の元号を持つことになる。独自の元号と独自の律令は冊封体制から離れ、独自の帝国になったことを意味している。
 当時の朝廷は、神々の祭りをつかさどる神祇官と、行政全般を担当する太政官に大別され、太政官の下で大蔵省などの八省が政務を分担していた。また行政は太政大臣などの太政官の合議で進められた。
 地方の組織は、畿内と東海道などの七道に区分され、その下に地方行政区である国や、郡、里があり、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。国の要地である京や難波には左・右京職や摂津職が置かれ、九州には大宰府が置かれた。国司は中央の貴族が6年の任期で派遣され、郡司や里長は在地の有力者が任命された。
 中央・地方の役人は、正一位などの位階に応じて官職に任じられた。これを官位相当制という。位階や官職に応じて、封戸(ふこ)・田地(でんち)・禄(ろく)などの給与が与えられ、上流貴族は一族の地位を維持させるため子は父の位階に応じた位階を与えられる蔭位の制(おんいのせい)があった。
 律令制における身分制度としては、良民と賤民に大別され、賤民は五種類の区別があり、官有の陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)と、私有の家人(けにん)・私奴婢(しぬひ)に分けられ、これらを五色の賤(ごしきのせん)という。
 さらに刑罰は、五刑と八虐がり、五刑は苔(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死のことで、それぞれ苔は細いムチで打つ刑、杖は太いムチで打つ刑で、徒は現在の懲役刑で、流は流罪に相当し、死は文字どおり死罪のことである。八虐は天皇や国家、尊属(自分より上の親族のこと)に対する罪のことで、これらは有位者でも減刑されずに重罪となった。
 民衆は6年に1度作成される戸籍、あるいは課税の台帳に毎年登録されて口分田が支給された。口分田は売買が禁じられ、死亡した場合は6年毎の調査によって国に取り上げられた。この制度を班田収授法という。
 税負担は租(そ)、庸(よう)、調(ちょう)、雑徭(ぞうよう)があった。租は口分田からの収穫の3%を税として負担することで、庸は都で10日働くか布を納める制度で、調は各地の特産品を納めるものであった。庸や調による納税品は自費で都まで運ぶ義務があり、これを運脚といった。また雑徭は一年に60日間(のち30日間)国司の命令で働く労役制度だった。
 この他、春に稲を貸し付け、収穫時に高い利息とともに徴収する公出挙(くすいこ)があり、国の重要な財源となった。しかし公出挙は年5割~3割という重い負担で民衆を苦しめることになった。私的に行われた私出挙(しすいこ)は、年率が10割という厳しいものであった。

 治安と国防にも民衆の力が必要だった。そのため成年男子3~4人に1人の割合で徴集され、京の警備には衛士(えじ)が、諸国には軍団が置かれ、九州沿岸の警備は防人(さきもり)が任じられた。兵士たちは食料と武装を自分で調達し、経済的な負担が重かったが、庸や雑徭などの一部の税負担は免除された。

12 白鳳文化
 白鳳文化は大化の改新から平城京遷都までに花開いたおおらかな文化である。法隆寺の建築・仏像などの飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺などの天平文化との中間に位置する。天武天皇・持統天皇の時代の律令国家の気運の中で生まれた若々しい文化である。また20年毎に新殿を造営する伊勢神宮の式年遷宮や、天皇が即位された年の新嘗祭などの儀式が整えられた。
 また仏教の力で国家を鎮護する傾向が強まり、大官大寺(大安寺)や薬師寺などの大寺院が造営された。さらに遣唐使がもたらした唐文化の影響を受けた興福寺の仏頭などの彫刻が見られ、絵画ではインドの影響を受けた法隆寺金堂壁画や、鮮やかな彩色が特徴の高松塚古墳壁画がある。
 文芸では中国的教養を吸収して漢詩が盛んになり、日本古来の歌謡から生まれた和歌も五七調の長歌や短歌の形式が整えられた。額田王、柿本人麻呂らが活躍し奈良時代の「万葉集」に収録されている。
高松塚古墳
 1972年、高松塚古墳(明日香村の円墳)の玄室の壁に彩色壁画があることがわかった。当時の人物の様子がリアルに描かれ、壁画は中国や朝鮮半島の影響が見られ、天井には星宿図、北面に玄武、東面に青竜と人物群、西面に白虎と人物群が描かれていた。しかし壁面が公開されるとカビやダニによって痛みが目立ち始め、古墳を解体して修復・保存が行われている。高松塚古墳の南方約1kmにあるキトラ古墳(亀虎古墳)も同様で、玄室内の四面に四神が揃って描かれ、複数描かれている獣頭人身像は十二支である。壁画の痛みが激しく修復作業が進められている。
法隆寺金堂壁画
 金堂壁画とは金堂の柱間に12面あった仏教絵画で、釈迦・阿弥陀・弥勒・薬師の各如来の4浄土を描いた大壁4面が有名だった。しかし1949(昭和24)年、火災にて焼損した。壁画の模写作業で使用した暖房器具の電源の切り忘れか漏電が原因とされている。なかでも西6号壁の阿弥陀浄土図は有名で、日本史の教科書に掲載されていた。法隆寺金堂壁画といえば思い浮かべるほど有名で作品だった。
月光菩薩の首切り事件
 薬師寺金堂薬師三尊像の月光菩薩像の首の部分に亀裂が走っていた。この亀裂は時を経るにしたがい次第に大きくなり、1952(昭和27)の吉野地震によって亀裂は悪化した。調査した文化財保護委員会(文化庁の前身)の技官は「このままでは首があぶない、頭部をおろした方がよい」と判断、なかごの鉄心を切って頭部をおろしたのだった。しかしこれを知った人たちは「月光菩薩の首が切られた」と大騒ぎになった。

 頭部が落下しないように応急処置を施し、修理方法を慎重に検討しての処置であったならば、これほど騒ぎになることはなかった。文化財保護委員会には専門家をはじめ、人びとの批判が相継いだ。国は専門家を集め協議し、内枠固定法と金属接着剤とを併用する方針をたて月光菩薩の修理を行うことを決めた。月光菩薩像はこのような経過で現在の姿に蘇ったのである。

左上、高松塚古墳。左、高松塚古墳の玄室。上、玄室の彩色壁画
左上、高松塚古墳。左、高松塚古墳の玄室。上、玄室の彩色壁画
上、法隆寺阿弥陀浄土図。左上段、現在の法隆寺。左火災時の現場と新聞
上、法隆寺阿弥陀浄土図。左上段、現在の法隆寺。左火災時の現場と新聞
左、薬師寺。上上段、月光菩薩像。上、月光菩薩の修正前の首の部分
左、薬師寺。上上段、月光菩薩像。上、月光菩薩の修正前の首の部分