飛鳥時代

  飛鳥時代とは「古墳時代と奈良時代」に挟まれた時代で、具体的には聖徳太子(厩戸皇子)から天武天皇までの150年間をいう。奈良県明日香村の「飛鳥」に都が置かれていたことから飛鳥時代というが、この飛鳥時代に倭国から日本への大転換を計り国の基盤を作った。大陸から百済を経由して仏教が伝わり,さらに多くの知識や技術が大陸から入ってきた。朝鮮半島では百済が滅びるが、百済と300年のよしみを深めていた日本は百済と連合して、唐・新羅と対峙する。ヤマト政権は「ヤマト地方の豪族たちで成り立つ連合政権」であるが、やがてヤマト政権は「ヤマト地方の有力豪族と大王による政権」へ,そして天皇を中心とする律令国家へと移っていった。

 

豪族

 飛鳥朝廷には大和の豪族が集まって国を治める仕事をしていた。有力な豪族として、臣(おみ)の姓をもつ葛城氏平群氏巨勢氏蘇我氏などがいて、連(むらじ)の姓をもつ物部氏中臣氏などがいた。連と臣には上下関係はなく、臣は天皇の親戚で昔から天皇を支える有力な豪族であった。連は専門の職業、例えば中臣は祭祀、大伴や物部は軍事という役割を世襲していた。

 臣(おみ)の姓をもつ葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏などはそれぞれが土地の名前である。これは臣(おみ)はもともと天皇の一族だったため、苗字がなかったからである。祖先は天皇と同祖の天照大神で、天皇家から分家して姓をつけるときに、住んでいた土地の名前をつけたのである。連(むらじ)は天皇とは別祖で、物部氏はニギハヤヒノミコトで中臣氏はアマツコヤネノミコトあった。

 この時代は、生まれた家で身分と仕事が決まっていた。物部氏の物は武器のことで、部は人々を意味していたた。物部氏として生まれてくれば軍人になるしかなかった。中臣氏の中臣は神と人の中に入る臣、つまりは神主であった。このような豪族は館・集落や祭礼施設など堀に囲まれた豪族居館に住んでいて、その跡が発掘されている。

 ところで第25代の武烈天皇は異常な性格で、妊婦の腹を割き胎を観たり、爪を抜き芋を掘らしたり、人を木に登らせては木を切り倒し落死させたりした。このような狂気・凶暴なことをやっていたが、この武烈天皇が死去すると、次の天皇が誰にするかが問題になった。問題となったのは継続する天皇がいなかったのである。そこで大伴金村を中心とした大連と大臣の会議で決めることになった。このことは日本書紀に書かれている。

 このように天皇が豪族の会議で決められていたことは、大和朝廷は大王を推戴する豪族、特に大和の中央豪族による連合政権だったのである。この豪族たちは時代とともに、有力な豪族に抑えられ、あるいは戦いに敗れ衰退した。そのため豪族たちは、自分の氏族を優位に立たせるため激しい権力闘争を行っていた。

 大伴金村は5代の天皇に仕え、大伴氏の最盛期をつくった。512年に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済から、任那(みまな)4県の割譲の要請があり、大伴金村はこれを承認した。さらに527年の磐井の乱では物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させている。

 しかし欽明天皇の代に入ると、欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭し大伴金村の勢力は衰え始める。540年に新羅が任那地方を併合すると、先の任那4県の割譲時に百済から賄賂を受け取ったことを、大伴金村は物部尾輿から糾弾され失脚する。この失脚以後大伴氏は衰退していく。

 

 

仏教伝来(蘇我氏と聖徳太子)

 552年、かねてからよしみのある百済の聖王(聖明王)から釈迦仏の金銅像と経論が欽明天皇に献上されると、仏教信仰の可否について朝廷を二つに割る論争が勃発する。欽明天皇は仏教の教えを「これまでの教えの中で最も優れている」と感動するも、朝廷の群臣に問うと、物部尾輿と中臣鎌子(神道勢力)は「日本には昔から伝統の神々をまつっているのに、異国の仏教を信じれば、この国の神々はお怒りになる」と反対するが、蘇我稲目は西の国々(朝鮮・中国)は仏教を信じているのだから日本も信じるべきと主張した。蘇我氏は大陸からの帰化人を多く受け入れていた。戦火を逃れ、あるいは朝鮮王朝から遣わされた帰化人の多くは仏教を信じていたので、仏教は身じかで、仏教支持は帰化人の支持を得た。いっぽうの物部氏は保守的な軍事が専門で、中臣氏は神道の祭り事の職にあったので論争に決着がつくことはなかった。蘇我稲目が仏教に帰依すると宣言したため、天皇は蘇我稲目に百済からの仏像と経論を与えた。

 蘇我稲目は私邸に寺を建て仏像を拝んだが、その後、疫病が流行すると、物部尾輿らは「異国の神(仏)を拝んだので、国神の怒りを買った」と不快感をあらわにして、天皇の許しを得て蘇我の寺を焼き仏像を難波の掘江に捨ててしまった。神道を信奉する物部氏と仏教に帰依した蘇我氏の対立は、彼らの子(物部守屋と蘇我馬子)の代まで持ち越された。

 聖徳太子は蘇我氏の血を引いていることもあり、若い頃から仏教を深く信仰していた。父親の用明天皇も仏教を信仰していたが、587年に用明天皇が崩御すると、反対派の物部守屋と賛成派の蘇我馬子との間でついに戦いの火がついた。

 大臣の蘇我馬子は多くの皇子や豪族をひきつれて、大連の物部の屋敷に攻め込んだ。聖徳太子はこのとき14歳の少年であったが、蘇我馬子について戦闘に参加した。戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続いたが、聖徳太子は四天王に勝利を祈願し「戦闘に勝てば四天王のお寺をつくる」と誓いを立てた。

 物部氏の味方をする豪族は少なかったが、物部氏は軍事が専門なので戦いは強かった。物部守屋は木の上の櫓で指揮を取っていたが、馬子は帰化人の弓の名手に物部守屋を狙わせると、放った矢が物部守屋に命中して戦死した。大将を失った物部軍は総崩れとなり、物部氏は滅亡するに至った。

 蘇我氏が勝利し、仏教は広く国に受け入れられることになった。また最大の敵をほうむった馬子は朝廷で一番の実力者となった。さらに蘇我の血を引く聖徳太子とむすんで、30年にわたる独裁政治を行うことになる。

 物部氏を滅亡させ朝廷の中で一番の実力者となった蘇我の馬子は、自分の甥の崇峻天皇を即位させた。しかし崇俊天皇は蘇我氏の血すじを引いてるが、最高位の天皇に口ばさむ馬子を憎く思っていた。592年、崇俊天皇は献上されたイノシシを前に「いつかイノシシの首を切るように憎いと思っている者を切ってしまいたい」と云った。これを伝え聞いた馬子は先手を打ち、東国から貢物が来ていると嘘をつき、人々を集めその場で天皇を崇峻殺害した(592年)。

 

聖徳太子

  崇俊天皇を殺したあと、蘇我馬子は自分の姪にあたる推古天皇(初の女性天皇)を即位させる。さらに593年、自分の甥の聖徳太子を弱冠20歳で推古天皇の摂政とした。摂政とは天皇が女性だったり、子供だったりした場合、天皇の代理を務めることであった。摂政となった聖徳太子は、約束どおり摂津(現在の大阪府)の地に四天王をまつる寺の造営を始めた。これが現在も大阪市天王寺区に残る四天王寺である。大阪の街で「梅田」「難波」と並んで有名な「天王寺」は、四天王寺の略称がそのまま地名になった。

 聖徳太子の仏教信仰は摂政後も深まり、多くの寺院が建てられた。中でも607年 に斑鳩の地に建てられた法隆寺は、聖徳太子が建立したことで有名である。法隆寺は7世紀後半(天智天皇時代)に火事で消失したが、その後再建され、それでも世界最古の木造建築として世界遺産に登録されている。法隆寺は建てられた地名から「斑鳩寺」ともいわれている。ちなみにJRの線路(=関西本線)によって天王寺駅と法隆寺駅はつながっている。両駅間は直通の快速で約21~24分で行ける距離である。
 聖徳太子は仏教信仰のために、高句麗の高僧であった恵慈に仏教を学び、後に仏教の法典の注釈書である三経義疏を著している。聖徳太子が恵慈から仏教だけではなく、恵慈の出身国である高句麗などの朝鮮半島の情勢や、高句麗と敵対関係にあった中国の隋の情報を学んだ。東アジアの国際情勢に関する理解を深めた聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていた。

 最大のライバルを打倒した蘇我氏は、朝廷の実権を独占することになる。新しい国をつくる場合、巨大プロジェクトには強力な独裁体制が有利になるので、蘇我独裁体制が必ずしもは悪いわけではない。蘇我馬子とその親族である聖徳太子は、天皇家の政治的権威を高め、冠位十二階や十七条憲法を定め、中国と同じ法治国家へと大改造をおこなった。

 仏教は国家統一の武器として神道より有利だった。仏教は釈迦という絶対的存在を前に、人々の優劣を明確にしていた。そのため天皇をあがめる中央集権国家に都合が良かった。神道は神と人の間の序列については何も述べていないので、中央集権的統治を肯定する根拠にはなりにくかった。