保元・平治の乱

保元の乱

 天皇が天皇の座を退くと上皇になり、上皇が出家して仏門に入ると法皇になる。上皇(法皇)による院政は、藤原氏などの摂関家からの影響を受けず、皇室が政治の実権を取り戻すことになった。上皇(法皇)は天皇の父親として、その権力は天皇以上であった。天皇は飾り物の人形にすぎなかったが、上皇(法皇)の独裁的な手法が混乱を招くことにもなりかねなかった。

 1107年、堀河天皇が29歳で崩御すると、白河法皇は堀河天皇の子で5歳の鳥羽天皇を即位させ院政を続けた。さらに鳥羽天皇が16歳になると、白河法皇は絶世の美女とされた藤原璋子(しょうし)を鳥羽天皇の后にした。これが史上最大のとんでもない混乱を引き起こした。白河は年老いた法皇でありながら藤原璋子に手をつけ、自分の子(崇徳天皇)を身篭らせたまま孫(鳥羽天皇)と結婚させたのである。つまり白河法皇が息子の鳥羽天皇に嫁がせた嫁さんとの間の子(鳥羽天皇)が、おじいちゃん(白河法皇)が自分の嫁さんを孕ませた子だったのである。

 鳥羽天皇と璋子との間に顕仁親王崇徳天皇)が誕生すると、白河法皇は自分の息子である顕仁親王を可愛がり、顕仁親王が5歳になると白河法皇は鳥羽天皇を退位させ、顕仁親王を崇徳天皇として即位させた。崇徳天皇は藤原璋子と白河法皇との子だったので、可愛がるのは当然であるが、とんでもないことである。

 鳥羽天皇にとってはいい迷惑である。天皇を退位させられた上、白河法皇がいる限りはたとえ上皇になっても何の実権もなかった。鳥羽上皇は不満であったが辛抱するしかなかった。ひとまずは平和なひと時を過ごしていたが、鳥羽上皇は息子とされる白河法皇の子・崇徳天皇を憎んでいた。1129年に白河法皇が43年間の院政の後に崩御すると、鳥羽上皇がやっと権力を握ることになった。白河法皇が崩御すると事態は急変し、鳥羽上皇の巻き返しが始まる。鳥羽は白河法皇と全く同じことをおこなった。

  鳥羽上皇は崇徳天皇(白河法皇の子)を生んだ藤原璋子よりも、同じ美女の藤原得子(なりこ)を寵愛し、得子が産んだ躰仁親王(なりひと)を次の天皇にしようとした。1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇(当時22歳)を強引に退位させて上皇にすると、まだ3歳の実子・躰仁親王を近衛天皇として即位させした。しかしこの近衛天皇が17歳で崩御されたことから、当然跡継ぎ問題が勃発した。鳥羽法皇は璋子との間に生まれた崇徳上皇の弟・雅仁親王(まさひとしんのう)を皇位につけた。このようにして誕生したのが第77代の後白河天皇で、兄が弟を継承するかたちで天皇に即位した。

 このことを知った崇徳上皇は激怒した。崇徳上皇は自分の子・重仁親王(しげひと)を皇位を継がせようと思っていたからである。父・鳥羽法皇の冷たい仕打ちに耐えるしかなかったが、崇徳上皇の不満は溜まりに溜まっていた。

 この朝廷の流れは、白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)となる。

 崇徳上皇は、政治の実権を握るために関白の座を争って敗れた藤原頼長(よりなが)を味方に引き入れ、自前の軍隊として武士の平忠正源為義らを呼び寄せた。

 鳥羽法皇も崇徳上皇のクーデターを予測し、後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備した。源為義の子の源義朝や、平忠盛の子で平忠正の甥でもある平清盛らも参集した。

 そして1156年7月2日、鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇はようやくの院政を始めようとするが、そうはさせまいとする後白河天皇と多くの輩によって「保元の乱」が起きる。保元の乱は壮大な実権争いであり、また同時に後白河と崇徳という鳥羽チルドレンによる「壮大な兄弟喧嘩」であった。崇徳上皇VS後白河天皇の「保元の乱」は各陣営を味方する兄弟、親子、叔父と甥という血族同士が相争う事態となった。保元の乱は崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正 VS 後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛で、対立するのはそれぞれの親子・肉親であった。

 

              皇室                  摂関家                   平家                 源氏

天皇方 後白河天皇(弟)     藤原忠通(兄)   平清盛(甥)     源義朝(兄)

               VS                       VS       VS         VS

上皇型 崇徳上皇(兄)    藤原頼長(弟)        平忠正(叔父)   源為義(父)

                               源為朝(弟)

                                                                           

  後白河天皇の高松殿に集まった武士たちが、7月11日の未明に崇徳上皇と藤原頼長が立てこもる御所を襲撃し、戦いは後白河天皇側が1日で勝利を収めた。崇徳上皇は出家し讃岐国(香川)に流刑となった。藤原頼長は戦いで亡くなり、源為義や平忠正らは処刑された。

 保元の乱で敗れた源為義や平忠正らは斬首となったが、朝廷は斬首の執行を勝利した身内の源義朝や平清盛に行わせうという非情な決定を下した。平清盛は叔父を斬ることになり、源義朝は父親の首をはねることになった。なお弟の源為朝は伊豆大島に流刑となった。

 この保元の乱で、それまで東夷と卑しめられていた武士が初めて都を舞台に大規模な合戦を展開し、この戦いは武士の世を予感させるものだった。

 

崇徳天皇の呪い

 讃岐国に流された崇徳上皇は、讃岐の山奥で仏教を熱心に学び、大人しく膨大な写経を行った。乱で亡くなった人たちへの供養として熱心に写経を行い、「戦いで命を落としてしまった人々への供養と、自分の過ちの証に京の寺に写経を納めてほしい」と朝廷へ使者を送った。ところが写本を見た後白河上皇は「写経に呪いが込められている」としてはねつけ送り返してきた。

 送り返された写経、この朝廷の冷たい仕打ちに崇徳上皇は激怒し、自分の指を噛み切ると、流れた血で経典のすべてに「大魔王となって天下を悩乱し、皇室を没落させ、平民をこの国の王にする」と呪いの言葉を書いた。

 その後、崇徳は別人のようになり、髪やヒゲを伸ばし放題にして、鬼のような姿のまま呪い続け、1164年に46歳で崩御した。その遺骨は四国の白峰山に埋葬されたが、ご遺体を火葬する際、激しい風雨が襲い、雷鳴も轟き、棺から真っ赤な血が流れ出し、その煙が都の方角へ向かったとされている。崇徳天皇は酒呑童子、九尾の狐の玉藻前と共に日本三大悪妖怪とも呼ばれている。

 崇徳上皇の崩御からわずか数年後、平清盛が太政大臣となり、30年後には鎌倉幕府が誕生し崇徳上皇の「呪い」は現実のものとなった。崇徳の怨念は有名な怨霊伝説になり、明治天皇が四国の墓の崇徳上皇の魂を、京の白峯神宮に帰還させるまでその怨念は700年以上も続いたとされている。

 小倉百人一首にも崇徳上皇の次の美しく、心に響く一首がある。

 瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ
(岩に当たって別れてしまった水の流れも、またいつかは一つになる)

平治の乱

  保元の乱の後、政治の実権を握った後白河天皇は、1158年に天皇の地位を子の二条天皇に譲られ、上皇として院政をはじめるが、後白河上皇の近臣で権力を持った信西(しんぜい=藤原通憲)と藤原信頼(のぶより)との対立が激しくなった。

 信西は博学で野心家だった。さまざまな有力者に取り入れて出世しようとあがいていたが、中流貴族出身のため中納言までしかなれなかった。そのため藤原通憲は将来を悲観して出家して信西と名を変えていた。

 しかし後白河天皇が即位すると、後白河天皇の乳母・紀伊局が信西の妻だったため、後白河天皇に信西は取り立てられ、信西は最高権力者になった。もちろん藤原信頼は面白くなかった。藤原信頼は信西と同じ近臣であったが、藤原信頼の台頭を嫌う信西が、ことごとく妨害してきたからである。

 いっぽう保元の乱の戦功によって、清盛は北九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、宋との貿易で経済力を高めた。しかし清盛以上に活躍した源義朝には十分な恩賞が与えられなかった。父源為義を自らの手で処刑したことから「父親殺し」とさげすまれ不満が高まっていた。源義朝は冷遇の黒幕が信西であることを知ると、信西に不満を持つ藤原信頼と結びついた。

 1159年12月9日、平清盛が熊野詣に出かけた。これを絶好の機会ととらえた源義朝と藤原信頼はクーデターを起こした。後白河上皇や二条天皇を軟禁し信西を探した。信西は事前にクーデターを察知すると、南方に逃げ山中の洞穴に身を隠していた。しかし不運にも隠れているのを見つかり殺害された。

 清盛は紀伊国で京都の異変を知った。動転した清盛は九州へ落ち延びることを考えるが、紀伊の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の協力により17日帰京する。帰京までに伊藤景綱・館貞保などの伊賀・伊勢の郎等が合流した。清盛はいそいで京へ戻ると、藤原信に服従する振りをして油断させると、内裏に監禁されていた後白河上皇と二条天皇を女装させ清盛の六波羅邸に脱出させた。

 このため藤原信頼や源義朝は一転して賊軍となり清盛軍と戦うことになり敗北する。義朝はクーデターのために少人数の軍勢を集めたに過ぎず合戦を想定していなかったのである。藤原信頼は源義朝と東国へ落ち延びようとするが、二条天皇をむざむざと奪われた不手際に、武家にすぎぬ義朝から信頼は「日本一の不覚人」と罵倒され拒否された。藤原信頼は仁和寺にいた後白河院にすがり助命を嘆願するが、朝廷は信頼を謀反の張本人として許さず、公卿でありながら六条河原で斬首された。享年27。この戦いを年号から平治の乱という。

 平治の乱に敗れた源義朝は、尾張国まで逃れ家来の家に身を寄せた。家来が歓迎して義朝に風呂を勧め、誘いに応じた義朝は入浴中に家来たちに襲われた。入浴のために、義朝は刀を持っていなかった。「我に小太刀ひとつあれば」が義朝の最期の言葉とされている。これにより清盛に対抗する勢力は消え去り平家の天下となる。

 源義朝には多くの子がいたが、平治の乱で戦死し、あるいは捕らえられ壊滅状態になっていた。長男の源義平は、父の最期を知ると平清盛を暗殺しようとするが捕らえられて処刑された。その他にも三男で当時14歳だった源頼朝や、九男で赤ん坊だった源義経らも捕らえられて清盛の前に引き出された。

 政敵とされた人物は、本人のみならず一族もろとも処刑するのが常であった。それは子供であっても、大人になれば復讐のために仇の命を奪おうとするからである。この原則からすれば、頼朝や義経らは処刑されるのが通常であったが、清盛は彼らを処刑しなかった。それは平清盛の継母(けいぼ)の池禅尼(いけのぜんに)が、捕らえられた源頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子に似ている」と清盛に頼朝の助命を懇願した。

 頼朝を生かすことは危険であるが、清盛が頼朝を処刑しようとすると、池禅尼は「平忠盛(清盛の父)が生きていれば、こんなことはしなかった」と泣き叫び、断食まで行い抗議した。

 そのため清盛は頼朝を伊豆国へ流罪とした。赤ん坊だった源義経も、母の常盤御前(ときわごぜん)が絶世の美女であったため、常盤御前が清盛の愛人となることを条件に助命された。いずれにせよ頼朝・義経兄弟を清盛が生かしてしまったことが平家滅亡への道につながる。日の出の勢いであった清盛は、この原則を曲げたことが、将来大きな後悔を招くことに気づくはずもなかった。またこの乱により活躍した武士たちが、力を付けていくことになった。

 

平家政権
 保元の乱や平治の乱は、皇室や貴族内部の争いに武士が本格的に関わったことで、乱以後も武士が積極的に政治に介入するようになった。また平治の乱で、後白河上皇は近臣だった信西(しんぜい)と藤原信頼を失い、院政の影響力が薄れ、相対的に平清盛の実力が高まった。
 1160年、清盛は正三位に昇進して武士でありながら公家の身分を得ることになる。それまで貴族から見下されていた武士が公家(貴族)の仲間入りをして、貴族と肩を並べることになった。1161年には清盛の妻の妹で、後白河上皇に嫁いでいた平滋子(しげこ)が憲仁親王(のりひと)を産んだことで、後白河上皇との縁がつながり、朝廷から信頼を得た清盛は出世街道を歩み続けることになる。
 1167年、清盛は太政大臣に昇進する。また清盛は、憲仁親王が即位して第80代の高倉天皇になると、自分の娘・平徳子と従兄妹同士の結婚をさせ、二人の間に言仁親王(ときひと)が生まれると、3歳の親王を第81代の安徳天皇として即位させ、清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)となった。
 隆盛を極めた平家の下には全国500ヶ所以上の荘園が集まり、平家が支配した知行国(ちぎょうこく)も全国の半数近くの30数ヶ国に拡大し、経済的基盤が強化された。このような政治的・経済的な立場を背景に、武士(平家)が朝廷にかわって本格的に政治の実権を握ることになる。平家による政治のことを平家政権という。
 平家政権は武士による政権であるが、平清盛が安徳天皇の外祖父となり、平家一門が次々と朝廷の要職に就いたことから、摂関家のような貴族的性格をもつようになった。さらに平家は荘園や知行国の他にも、日宋貿易という大きな経済的基盤をもっていた。日本と宋は正式な外交はなかったが、民間の商船による交易は盛んに行われていた。清盛は摂津国の大輪田泊(神戸港)を修築し、音戸の瀬戸(おんどのせと、広島県呉市)の海峡を開き、瀬戸内海の航路を整備して貿易の拡大に努めた。
 貿易の主な輸出品は金や水銀、硫黄などの鉱物、刀剣や工芸品あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭や陶磁器、香料や薬品、書籍などであった。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大な利益はそのまま平家の貴重な財源となった。
 このようにして政治的・経済的に磐石の体制を築いた平家政権であったが、平家による権力の独占は、やがて周囲の反発を招いた。平家政権に反発する勢力には後白河法皇もいた。自分の院政の強化のために武士を使ったはずが、いつの間にか、武士に政権を奪われたことを不満に思われていた。1177年、後白河法皇の近臣たちが鹿ヶ谷(京都市左京区)に集まって、平家打倒の計略をめぐらした。しかし事前に計画が発覚して失敗してしまう。この事件を鹿ヶ谷の陰謀という。
 鹿ヶ谷の陰謀に後白河法皇の存在があることを知った清盛は激怒し、2年後の1179年には軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止しさせ、法皇の近臣たちの官職をすべて解くなどした。この事件を当時の年号から治承三年の政変という。清盛の孫の安徳天皇が即位したのはこの翌年(1180年)のことであった。
 清盛にすれば平家政権を危うくしたのは後白河法皇であり、法皇のかわりに平家と血縁のある天皇を立て反平家勢力を封じ込め、平家一門で官職を固めるのは当然の手段であった。しかし法皇を幽閉するという強硬な手段が、周囲の更なる反発を招いた。同じように武士の身分でありながら、後の世に足利尊氏や織田信長が皇室と対決しても、非難を受けなかったのは、まさに先駆者清盛の悲劇といえた。さらに平家政権には自が気づかなかった重大な欠陥があった。それは武士たちの不満であった。これこそが平家滅亡へとつながっていった。

 

武士たちの願い
 平安時代に桓武天皇によって軍隊が廃止され、地方は無法地帯になり治安は悪化していた。人々は自分や家族の生命、財産を守るために武装化し、やがて武士という階級が誕生した。武士たちにとって最も深刻な問題は土地制度であった。公地公民制の原則が崩れ、墾田永年私財法によって「新たに開墾した土地の私有」が認められたが、その権利があったのは有力貴族や寺社などに限られていた。
 実際に汗水たらして開墾した者は、耕した土地を一所懸命に守り抜くため武装し武士になった。しかし武士には土地の所有が認められなかったため、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を貸し、自分は「管理人」の立場をとるしかなかった。武士は自分たちの土地であっても、正式な所有者になり得なかった。「自ら開墾した土地は、自らの手で堂々と所有したい」。武士たちのこの願いには切実なものがあった。
 時代が流れ、武士の中から平清盛が政治の実権をにぎった。全国の武士たちは同じ武士である清盛ならば、自分たちの期待に応えてくれると信じていた。

 しかし清盛の反応はにぶかった。平清盛の父・忠盛が白河法皇や鳥羽法皇の護衛として長年仕えていたため、皇室や貴族の側近である平家には、「武士のための政治」が理解できなかった。清盛は自分の娘を高倉天皇に嫁がせ、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、自らは天皇の外戚として政治の実権を握る、いわば摂関家と同じ方法をとったことが、逆に反感を買うことになった。

 清盛は摂関家の真似をしただけで、武士たちの立場には変化がなかった。藤原氏が摂関政治を行っていた頃には、武士たちは「貴族には武士の気持ちなど分かるまい」とあきらめていた。そのようなとき、自分たちの代表である平家が政治の実権を握り、今度こそはという期待が高かっただけに、裏切られた気持ちが強かった。平家に対して「同じ武士なのに、どうして俺たちの思いが分からないのか」と不満を持った。

 貴族たちも、身分が低く血を流す「ケガレた仕事」と見下していた武士の平家が、貴族の真似をしたことに反発していた。すなわち清盛の政治は武士と貴族の双方から問答無用で拒否されたのである。後の世で、武士による政治が長く継続したことを考えれば、初めてであるがゆえの平家の悲劇であった。

 平家は武士として初めて政治の実権を握ったが、武力で支配しても、武士たちの共感を得ることができなかった。武士や民衆の理解がなければ政権は長続きできない。それゆえに「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平家の天下はたちまち崩れ去る運命にあった。

 なお 平治の乱で源氏の残党を破った清盛は、平家全盛の時代を築くが、この後、後白河法皇は5人の天皇を30年間背後で操ることになる。また同時に武家の対立を煽って巧みに立ち回り、源頼朝から「日本一の大天狗」と評された。

 

源平合戦

 「平治の乱」で敗北して以来、平家の下に置かれた源氏の残党は、源頼朝を中心に東国で蜂起した。平家の政治に不満を持っていた全国の武士団はこの動きに 同調し、頼朝を迎え撃つべき平家は西国が大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという大波乱が続いた。その間、源氏には天才的な名将・源義 経(九郎判官)が登場し、「一の谷」、「屋島」で平家の拠点を覆滅し、関門海峡の「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡させた(1185年)。このように して平家を破った源氏の天下が到来した。