保元・平治の乱

 天皇による朝廷政治には3種類あり、ひとつは天皇が実際に政治を行う天皇親政政治であり、ひとつは天皇が幼少・女性の場合に天皇の代わりに側近が政治を行う摂関政治(聖徳太子、藤原良房など)で、関白は天皇が成人になってからも天皇に代わり政治を行うこと(藤原基経、豊臣秀吉など)である。

 さらに3番目は天皇が天皇の座を次に譲り、自らが上皇や法王として政治を行う院政政治である。この3種の政治によって朝廷内の勢力が違ってくる。

 「保元・平治の乱」は皇位継承問題と朝廷内の内紛が絡んで起きたもので、天皇と上皇が分裂し、さらに関白家の分裂が重なり、源氏と平氏の武力が加わった紛争である。この内部紛争によって、貴族たちの飼い犬に等しかった武士の力が台頭することになる

 

白河上皇の院政
 
白河天皇が即位して後三条上皇が死去すると、白河天皇は上皇の座を狙い、藤原氏による摂関政治を阻止しようとした。ちょうどその2年後に摂関家の藤原頼通・藤原教通・彰子が死去し、摂関政治を支えていた藤原氏の実力者がこの世を去ったことから、白河天皇の朝廷内の影響力が強まり、次に関白となった藤原師実(もろざね)の存在感が弱まった。

 摂関政治では藤原氏が幼少の天皇を補佐するかたちで政治を行っていたが、白河天皇は実仁親王が疱瘡で死去すると、寵愛していた中宮賢子(藤原師実の養女)が残した8歳の善仁親王(堀河天皇)に天皇の座を譲り白河上皇となり、藤原摂関家以上の権力を持つことになる。藤原氏の摂政・関白は「天皇の承認」を得て政務を代行することであるが、天皇の父や祖父である上皇は、天皇の承認を得ずに独断で政治を決定することができた。その意味で摂関政治よりも院政のほうが強い権力を持つことになる。

 

地方政治
 院政期になると朝廷での出世が望めない中・下級貴族の多くが国司となり任国に赴いた。国司には守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官がいて、地方の行政権・徴税権・司法権・軍事権など全ての権限が与えられた。

 平安時代の後半になると、荘園制が主流となったため、国司の役割は税を集めて中央政府(朝廷)に納税するだけになり、そのため国司となった中央の貴族は地方に赴かずに、地方の富農たちに土地を割り当てて納税するだけになった。貴族たちは京に居住することを望み、国司に任命されても任地に赴くことはなく、国司の代理人である受領を地方に派遣するだけになった。

 国司は受領を派遣して租税だけを京で受け取ることになり、受領は受領で一定の租税を収めれば後は自由に私腹を肥やして地方を支配できるようになった。地方の受領は農民を搾取して大きな権力を持つことから、中級以下の貴族たちはこぞって国司・受領に任命されたがった。
 11世紀以降になると、皇族・大貴族・大寺社に地方の国を割り当て、国司の任命権・官物の収得権を彼らに与える知行国制ができたため、大貴族や大寺社はますます権力と財力を集中するようになった。この知行国制度では国司を自由に任命でき、そこからの納税を得ることができたので、知行国を割り当てられた上級貴族や大寺社は何もしなくても莫大な富を持つことができた。


皇族の内部対立

 堀河天皇が29歳の若さで崩御すると、5歳の宗仁親王が第74代の鳥羽天皇となって即位し、幼帝を後見する白河法皇の発言力が強化された。

 堀河天皇の関白は藤原師通であったが、鳥羽天皇になると藤原師通の嫡男である藤原忠実が関白になった。

 しかしこの関白・藤原忠実は娘の入内を巡って白河法皇と対立して、関白・内覧を罷免されてしまう。この罷免によって法皇が政治を執り行う院政が完成した。

 白河法皇の乳母の家柄に権勢が集まり、後三条天皇・白河天皇の時代に活躍した藤原為房(ためふさ)の妹が堀河天皇・鳥羽天皇の乳母を勤め、夜の関白と言われるほどの大きな実力を蓄えた。

 その藤原為房の子・藤原顕隆(あきたか)も妻が羽天皇、さらに娘が崇徳天皇の乳母となった。
 白河
法皇には思い通りにならないことが3つあったとされている。それは「賀茂川の水、双六の賽、山法師」である。賀茂川の水は大雨によって賀茂川が洪水を起こす自然災害のことであり、双六の賽(さい)は運任せの博打であり、山法師は園城寺(三井寺)と比叡山延暦寺の僧兵のことだった。このように思い通りにならないことが3つあったということは、それ以外のことはどうにかなったということで、それだけ白河法皇の勢力が強くなったのである。

 多くの子を為した白河法皇の伝説として、平清盛が白河法皇の落胤(子)であるとされているが、それは平清盛の異例の出世による推測で、清盛落胤説の信憑性はかなり低いと思われる。

崇徳天皇

 第74代・鳥羽天皇は祖父の白河法皇を深く恨んでいた。

 それは祖父・白河上皇が妊娠させた藤原璋子(しょうし)を鳥羽天皇の妃にして、しかも白河法皇璋子が産んだ顕仁親王(あきひと=崇徳天皇)を5歳で皇太子(次期天皇)にしたからである。
 鳥羽天皇にしてみれば祖父(白河上皇)の子を宿っている女性(璋子)を強引に妻にさせられ、祖父の子である顕仁親王(崇徳天皇)を次の天皇に指名されたのだから、鳥羽天皇が白河上皇を憎悪するのも当然である。

 また待賢門院と呼ばれた祖父のお下がりの妻・璋子は、朝廷で権謀術数を駆使して源頼朝と九条兼実などの権力者の権利獲得を妨害し、また第77代の後白河天皇の母でもあった。
 このように圧倒的な権力を振るう白河
法皇の存命中は、鳥羽天皇は文句を言うことが出来きなかった。しかし3代43年に及ぶ白河法皇の院政が終焉すると、鳥羽上皇の白河法皇に対する憎悪は第75代・崇徳天皇に向けられた。

 崇徳天皇を産んだ待賢門院(中宮璋子)は鳥羽上皇の寵愛を完全に失い、45歳の人生を終えるが、鳥羽上皇は自分よりも14歳も若い得子を深く愛し、得子との間にできた子(近衛天皇)を崇徳天皇に代えて天皇にした。
 鳥羽上皇は
璋子と崇徳天皇を遠ざけ、自分が寵愛する得子(美福門院)と体仁親王を優遇し、わずか2歳の体仁親王を第76代・近衛天皇として即位させたのである。これによって崇徳天皇は上皇となり、天皇の座には近衛天皇が座ることになった。

 しかし近衛天皇は17歳で夭折してしまう。ここで次に天皇の座についたのは崇徳上皇の子ではなく、鳥羽上皇の四男・雅仁親王(まさひと)が第77代・後白河天皇として即位した。

 後白河天皇は鳥羽上皇が嫌っていた璋子の子なので、鳥羽上皇は後白河天皇を推薦しなかったが、後白河天皇は守仁親王(二条天皇=後白河天皇の子)までの後継ぎという形で天皇になったのである。

 崇徳上皇にとって後白河天皇は弟なので、将来、崇徳上皇の院政は不可能であった。崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。崇徳上皇は院政が敷けず、実子を天皇にも即位できず権力は衰退することになる。

摂関家の内部対立

 摂関家内部では父・藤原忠実と長男・藤原忠通の対立が深まった。それは父・藤原忠実が白河法皇の不興をかって、天皇に奏上される文書を見る職務(内覧)を罷免されたことによる。

 父・藤原忠実は娘・勲子(やすこ)を鳥羽天皇に入内させようとして白河上皇の怒りを受けて失脚したが、白河上皇が崩御すると勲子を鳥羽上皇の妃にすることに成功した。
 
父・藤原忠実は失脚中に次男・頼長が生まれ、父・藤原忠実次男の頼長を寵愛し、摂政・関白の位を継がせようとした。父・忠実は嫡男のいなかった長男の忠通に次男の頼長を養子にすることを承知させたが、その後、長男の忠通に嫡男が生まれると、長男・忠通は次男・頼長との養子関係を破棄してしまった。

 父・忠実と長男・忠通の親子関係は悪化し、1150年、次男の頼長は源為義・源頼賢の軍勢を率いて、長男の邸宅を取り囲み、氏長者の証である朱器台盤を実力で奪い取り、父の忠実はこれを容認した。

 忠実の娘・泰子も次男の藤原頼長を優遇し、長男の忠通を嫌っていたため、次男の頼長は鳥羽上皇からも厚遇された。しかし生来短気な次男の頼長は鳥羽上皇の寵臣である藤原家成の邸宅を武力で襲ったために鳥羽上皇から遠ざけられてしまった。
 鳥羽天皇が最も愛した美福門院・藤原得子(とくし)は、計算高い頼長・
忠実親子よりも、温厚で常識的な長男・藤原忠通を好んでおり、第76代・近衛天皇が若くして崩御すると、得子と長男・忠通は雅仁親王を推薦して第77代・後白河天皇とした。そのため父の忠実と次男の頼長は不利な立場へ追い込まれた。

 次男・藤原頼長は鳥羽上皇の信任を失い宇治へ隠遁するが、この時に鳥羽上皇から天皇退位を強制された崇徳上皇に接近した。

 崇徳上皇と後白河天皇の対立は、自分の愛人・璋子を鳥羽天皇に嫁がせた白河上皇の暴挙から始まるが、この皇族の対立が藤原忠通と藤原頼長とのの対立に結びつき保元の乱になった。白河上皇への怨みから崇徳上皇を冷遇した鳥羽上皇は「私が死ねば乱世になるだろう」と不吉な予言をしたが、正にこの予言が当たったのである。

 

保元の乱

 1156年、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が皇位継承をめぐって対立し、それに藤原氏の家督争いから藤原氏の兄弟が二つに別れて武力衝突が起きた。この保元の乱で注目すべきは、数百年も平和だった京都において、それまで公家の飼い犬のように扱われていた武士が台頭したことである。

 天皇は天皇の座を退くと上皇になり、出家して仏門に入ると法皇になる。上皇(法皇)になれば藤原氏などの摂関家の影響を受けずに、上皇(法皇)が政治の実権を握り、しかも上皇(法皇)は元天皇として、あるいは天皇の父として、その権力は天皇以上であった。天皇は飾り物にすぎず、上皇(法皇)は独裁的な手法を持つことになる。このことが大きな騒乱を招いたのである。

 繰り返しになるが、保元の乱の原因はとんでもないことから始まったのである。1107年に堀河天皇が29歳で崩御すると、堀河天皇の子で15歳の鳥羽天皇が即位したが、祖父の白河法皇は朝廷の実権を持ち続け、さらに孫の16歳の鳥羽天皇に、白河法皇は自分の愛人・藤原璋子(しょうし)を鳥羽天皇に押し付けたのである。年老いた白河法皇はこの若い藤原璋子に手をつけており、白河法皇の子(崇徳天皇)を妊娠させたまま孫の鳥羽天皇と結婚させたのである。

 つまり白河法皇が孫の鳥羽天皇に嫁がせた藤原璋子が生んだ子は、系列からは鳥羽天皇の嫡男になるが、実際には祖父の白河法皇の子だった。鳥羽天皇は当時幼かったが、そのことが分からないはずはなかった。

 鳥羽天皇と璋子との間に顕仁親王(崇徳天皇)が誕生すると、白河法皇は自分の子である顕仁親王(崇徳天皇)を可愛がり、顕仁親王が5歳になると白河法皇は鳥羽天皇を退位させ、顕仁親王を崇徳天皇として即位させた。崇徳天皇は藤原璋子と白河法皇との子だったので、可愛がるのは当然であるが、とんでもないことだった。

 鳥羽天皇にとっては迷惑以上の怒り心頭であったが、天皇を退位させられた上、白河法皇がいる限りは上皇になっても何の権限もなかった。鳥羽上皇は不満であったが辛抱するしかなかった。ひとまずは平和なひと時を過ごしたが、鳥羽上皇は自分の息子とされる白河法皇の子・崇徳天皇をひどく憎んでいた。

 しかし、1129年に白河法皇が43年間の長きにわたる院政の後に崩御すると、鳥羽上皇はやっと権力を握ることになった。ここから鳥羽上皇の巻き返しが始まるが、鳥羽上皇は白河法皇と全く同じことをした。

  鳥羽上皇は崇徳天皇(白河法皇の子)を生んだ藤原璋子よりも、同じ美女の藤原得子(なりこ)を寵愛し、得子が産んだ躰仁親王(なりひと)を次の天皇にしようとしたのである。

 1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇(当時22歳)を強引に退位させて上皇にすると、まだ3歳の実子・躰仁親王を近衛天皇として即位させた。しかしこの近衛天皇が17歳で崩御したことから鳥羽法皇は璋子との間に生まれた崇徳上皇の弟・雅仁親王(まさひとしんのう)を皇位につけ第77代の後白河天皇とした。つまり崇徳上皇とは母違いの弟が天皇に即位したのである。

 このことを知った崇徳上皇はひどく激怒した。崇徳上皇は自分の子・重仁親王(しげひと)を皇位を継がせようと思っていたからであるが、父・鳥羽法皇の冷たい仕打ちに耐えるしかなかった。崇徳上皇の不満は溜まりに溜まってしまう。

 この流れは、白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)となる。

 崇徳上皇は政治の実権を握るために、関白の座を争って敗れた藤原頼長を味方に引き入れ、武士の平忠正や源為義らを味方にした。

 鳥羽法皇も崇徳上皇のクーデターを予測し、後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備し、源為義の子の源義朝(源頼朝の父)や平忠盛の子で平忠正の甥でもある平清盛らを参集させた。

 1156年7月2日、鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇は鳥羽法皇の崩御の知らせにすぐに鳥羽殿へ輿を走らせた。鳥羽法皇は生涯自分のことを実の子ではないと忌み嫌っていたが、崇徳上皇にとって鳥羽法皇は父親であった。

 ところが鳥羽殿についた崇徳上皇の牛車は藤原惟方らに遮られ、中に入ることを許されなかった。鳥羽上皇は「崇徳上皇に自分の死に顔を見せるな」と遺言していたのである。押し合い問答が続くが、結局、崇徳上皇は父の死に目に会えず、死後の見舞いも許されなかった。

 崇徳上皇は院政を始めようとするが、弟の後白河天皇はそうはさせまいとした。この実権争いが保元の乱となるが、それは同時に後白河と崇徳という鳥羽の子の母違いの兄弟による「壮大な兄弟喧嘩」であった。崇徳上皇VS後白河天皇の「保元の乱」は各陣に味方する兄弟、親子、叔父や甥という血族同士が相争うことになった。崇徳上皇には藤原頼長・源為義・平忠正 が味方し、 後白河天皇には藤原忠通・源義朝・平清盛がついた。

 

 

              皇室                    摂関家                 平家                 源氏

天皇方 後白河天皇(弟)     藤原忠通(兄)   平清盛(甥)     源義朝(兄)

               VS                       VS       VS         VS

上皇型 崇徳上皇(兄)    藤原頼長(弟)        平忠正(叔父)   源為義(父)

                               源為朝(弟)

                                                                          
崇徳上皇側
 崇徳上皇側の平忠正・源為義・源為朝らは白河北殿に集まっていた。17歳の源為朝は弓の名手で身長2mの大男である。強弓を引くために左腕が右腕よりも12cmも長かったと伝えられ、あまりに乱暴が過ぎるため、父為義より勘当されて九州に流されていた。しかし強弓をもって九州各地を制圧し、鎮西八郎為朝の名で恐れられていた。
 作戦会議の中で源為朝は「勝利するには、夜討ちをすべき」と発言するが、藤原頼長は「これは帝同士の争いである。夜討ちなどもっての他、正々堂々と戦うべきである。朝になれば大和や吉野から援軍が来るので、それまで動くべきではない」と退けられてしまった。

 この夜討ちを退けた藤原頼長は37歳で、父・藤原忠実の寵愛を受け、兄・忠通を押し退けて左大臣になっていた。古今の学問に通じ「日本一の大学生(だいがくしょう)」と異名をとるほど優秀だった。しかし職務には容赦なく、遅刻した職員の家を焼き討ちにするなど極端な行ないが目立っていた。宇治に別荘があったことから「宇治の悪左府」と呼ばれていた。「左府」とは左大臣の中国風の言い方である。

 藤原頼長に夜討ち案を蹴られた為朝は大声で「後白河方についた兄義朝は、今夜必ず夜襲をしかけてくる、味方は逃げまどうことになるぞ」と述べ、7月11日未明、戦いの火ぶたが切られ、事実その通りになった。


後白河天皇側
 後白河天皇のもとには平清盛・源義朝・摂津源氏の源頼政らがつき、高松殿に陣を取っていた。7月10日夜、高松殿で作戦会議が開かれ、指揮を執るのは少納言・入道信西であった。信西は出家前の俗名を藤原通憲(みちのり)といい、姓は藤原であったが摂関家ではなく、不比等の長男を祖とする藤原南家の出身である。歴史ある家柄ではあったが、この時代にはすっかり中流貴族に落ちぶれていた。しかし藤原通憲は頭脳明晰で「諸道に達せる才人なり」と評されていたが、家柄のせいで出世できずにいた。失望した通憲は39歳で出家し信西と名乗り、その後、後白河天皇に重用されていた。
 信西の前に召し出された源義朝が「戦には先制攻撃しかありません。夜討ちをかけるベき」と述べると、信西は「なるほど夜討ちか、私は詩歌管弦であれば多少の心得があるが、戦となると全くの素人。その点義朝殿は東国育ち。数々の修羅場をくぐってきたツワモノである。私は戦いに慣れた義朝殿の意見を採用する。すぐに夜討ちの準備にかかってくれ」と命じた。


夜討ち決行
 7月11日未明、後白河天皇方の600騎は三隊に分かれ、崇徳上皇と藤原頼長がたてこもる白河北殿を目指した。二条大路からは平清盛の300騎が、大炊御門大路からは源義朝率いる200騎が、近衛大路からは源義康率いる100騎がそれぞれ御所を襲撃した。この間、後白河天皇は高松殿に隣接する三条殿でひたすら勝利を祈っていた。

 戦闘そのものは4時間で終わり、戦いは後白河天皇側がすぐに勝利を収めた。しかし保元の乱が苛烈だったのはむしろ戦後の処理であった。

 

戦後処理

 平安時代初期の「薬子の変」以来、350年間、死刑は行われていなかったが、ここで死刑が復活する。しかもただの死刑ではなく、朝廷は斬首の執行を勝利した身内の源義朝や平清盛に行わせるという非情な決定を下した。源平に分かれて戦った武士に対し、同族に刑を執行させたのである。清盛は敵対した叔父・忠正を斬らせ、義朝にいたっては実の父・為義と弟五人の首をはねさせた。

 保元の乱で敗れた崇徳上皇は出家して讃岐国(香川)に流刑となり、藤原頼長は戦いで亡くなり、源為義や平忠正らは処刑された。

 この保元の乱は武力を持たない公家の律令政治の限界を印象づけた。公家(貴族)の番犬として蔑視されてきた源氏・平氏の武家が政治の表舞台に躍りでたのである。かつての院庁を護衛する「北面の武士」以来、中央貴族にさぶらう者(仕える者)として流血(軍事)の汚れた事を引き受けてきた武者たちが、遂に平氏・源氏という武家の棟梁を頂いて、実力主義で政権を掌握する時代が近づいてきたのである。

 

崇徳天皇の呪い

 讃岐国に流された崇徳上皇は、讃岐の山奥で仏教を熱心に学び、大人しく膨大な写経を行った。

 乱で亡くなった人たちへの供養として熱心に写経を行い「戦いで命を落とした人々への供養と、自分の過ちの証に京の寺に写経を納めてほしい」と朝廷へ使者を送った。ところが写本を見た後白河上皇は「写経に呪いが込められている」として送り返してきた。

 撥ね付けられた写経、この朝廷の冷たい仕打ちに崇徳上皇は激怒した。自分の指を噛み切ると、流れた血で経典のすべてに「大魔王となって天下を悩乱し、皇室を没落させ、平民をこの国の王にする」と呪いの言葉を血で書いた。

 その後、崇徳は別人のようになり、髪やヒゲを伸ばし放題にして、鬼のような姿のまま呪い続け、1164年に46歳で崩御した。

 その遺骨は四国の白峰山に埋葬されたが、ご遺体を火葬する際、激しい風雨が襲い、雷鳴が轟き、棺から真っ赤な血が流れ出し、その煙が都の方角へ向かったとされている。崇徳天皇は酒呑童子、九尾の狐の玉藻前と共に日本三大悪妖怪と呼ばれている。

 崇徳上皇の崩御からわずか数年後、平清盛が太政大臣となり、30年後には鎌倉幕府が誕生し崇徳上皇の「呪い」は現実のものとなった。崇徳の怨念は有名な怨霊伝説になり、明治天皇が四国の崇徳上皇の墓を、京の白峯神宮に帰還させるまで、その怨念は700年以上も続いた。

 次の小倉百人一首に、崇徳上皇の美しく心に響く一首がある。

 瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ
(岩に当たって別れてしまった水の流れも、またいつかは一つになる)

(上左 讃岐に流された崇徳上皇、下 崇徳天皇白峰御陵)

その後の保元の乱

 保元の乱で勝利した後白河天皇は朝廷における権力基盤を固め、全国の荘園整理を実行するが、自分の子である守仁親王に譲位すると院政を始めた。

 国政改革を精力的に進めたのは藤原通憲(信西)で、信西は記録荘園券契所を復活させ、不正な荘園を公領へ組み込んでいった。後白河天皇は二条天皇への中継ぎの天皇とされていたが、後白河天皇は中継ぎの天皇として大人しくしている人物ではなかった。
 後白河法皇(後白河上皇)は、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代にわたって長期の院政を敷いた。後白河法皇が比類なき暗君とされたのは、政治能力ではなく今様(いまよう)などの遊興へ熱中し、上皇(法皇)という気楽な立場を利用して公卿・殿上人と共に華やかな宴を楽しんだからである。
 今様とは中級・下級貴族に人気が高かった「現代風の歌曲」で、流行歌のようなものであるが、天皇や上皇といった身分の高い人が歌うようなものではなかった。後白河法皇は「今様狂い」といわれるほど今様を好んだ

 
後白河天皇は第78代・二条天皇に皇位を譲ったが、即位した二条天皇は後白河上皇の院政に従わず「二条天皇の親政派」と「後白河上皇の院政派」の対立が深まった。

 二条天皇の側に立って親政を支持した人物には、得子の従兄弟である藤原伊通(これみち)、母親・懿子(いし)の弟の大納言・藤原経宗(つねむね)、二条天皇の乳母の子である藤原惟方(これかた)がいた。
 賢明で誠実な名君であった二条天皇が23歳の若さで崩御すると、二条天皇の子の順仁親王(六条天皇)がわずか2歳で即位することになった。二条天皇の時代に「平治の乱」が勃発するが、平治の乱が起きた遠因は保元の乱後の不平等な論功行賞と院近臣たちの内部対立にあった。

 

平治の乱

  1159年、後白河上皇が院政を始めると、すぐに「平治の乱」が起きた。先の「保元の乱」の後に権勢を振るった信西(藤原通憲)は、保元の乱で死去した藤原頼長と並ぶ学識豊かな知識人として知られていた。
 信西(藤原通憲)は、曽祖父・藤原実範(さねのり)からの学者の家系に生まれ、博覧強記の英才とされていた。信西(藤原通憲)は学問の道で稀な才能を発揮し、大学寮で大学頭になることを目指したが、縁戚の高階経敏の養子になったことから大学寮での役職を世襲する資格を失っていた。

 藤原通憲は野心家で、さまざまな有力者に取り入れられ出世しようとあがくが、中流貴族出身のため中納言までしかなれなかった。そのため立身出世できないことに絶望した藤原通憲は出家して信西(しんぜい)と名乗り、仏教の僧籍の立場から政治に介入したのである。

 後白河天皇が即位すると、後白河天皇の乳母・紀伊局が信西の妻だったため、後白河天皇は信西を可愛がり、信西は最高権力者になった。信西(藤原通憲)は鳥羽上皇からも重用され、後白河天皇の時代に朝廷で権力を蓄えた。保元の乱において源義朝の夜襲を認めたのは信西であり、死刑制度を復興して源為義(ためよし)を斬首したのも信西であった。
 保元の乱の後、政治の実権を握った後白河天皇は、1158年に天皇の地位を子の二条天皇に譲り、上皇として院政をはじめるが、後白河上皇の近臣で権力を持った信西と藤原信頼(のぶより)との対立が激しくなった。

 藤原信頼は男色の後白河上皇から強い寵愛を受けて朝廷での基盤を固めるが、後白河上皇への嘆願をことごとく信西が却下したため、信西への恨みを募らせていた。藤原信頼は信西と同じ近臣であったが、藤原信頼の台頭を嫌う信西が妨害してきたのである。面白くない藤原信頼は、冷遇されていた源義朝を誘い「平治の乱」を起こした。

 保元の乱の戦功によって平清盛は九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ宋との貿易で経済力を高めた。しかし清盛以上に活躍した源義朝には十分な恩賞が与えられなかった。父・源為義を自らの手で処刑したことから「父親殺し」とさげすまれ不満が高まっていた。源義朝は冷遇の黒幕が信西であることを知ると、信西に不満を持つ藤原信頼と結びついた。

 1159年12月9日、平清盛が熊野詣に出かけると、これを絶好の機会ととらえた源義朝と藤原信頼は後白河上皇と二条天皇を軟禁し信西を探した。信西はその直前に事態を察知すると、南方に逃げ山中の洞穴に身を隠したが、不運にも隠れているのを見つかり捕らえられて斬首された。 

 清盛は熊野詣の途中で京都の異変を知った。動転した清盛は九州へ落ち延びようとしたが、紀伊の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の協力により17日に帰京した。帰京までに伊賀・伊勢の郎等が合流した。

 清盛は京へ戻ると、藤原信に服従する振りをみせて油断させ、内裏に監禁されていた後白河上皇と二条天皇を女装させて清盛の六波羅邸に脱出させた。このため藤原信頼や源義朝は一転して賊軍となり、清盛軍と戦うことになり敗北する義朝はクーデターが成功と思い込み、少人数の軍勢を集めたに過ぎず合戦を想定していなかった。

 藤原信頼と源義朝は東国へ落ち延びようとするが、後白河上皇と二条天皇をむざむざと奪われた不手際に、武家にすぎぬ義朝から藤原信頼は「日本一の不覚人」と罵倒され同行を拒否された。藤原信頼は仁和寺にいた後白河院にすがり助命を願うが、朝廷は藤原信頼を謀反の張本人として許さず、公卿でありながら六条河原で斬首された。享年27。この戦いを平治の乱という。

 源義朝は尾張国まで逃れ、家来の家に身を寄せた。家来が歓迎して義朝に風呂を勧め、誘いに応じた義朝は入浴中に家来たちに襲われた。入浴のために義朝は刀を持っていなかった。「我に小太刀ひとつあれば」が、義朝の最期の言葉となった。源義朝の死去により清盛に対抗する勢力は消え去り平家の天下となった。

 源義朝には多くの子がいたが、平治の乱で戦死し、あるいは捕らえられ壊滅状態になっていた。長男の源義平は、父の最期を知ると平清盛を暗殺しようとするが捕らえられて処刑された。三男で当時14歳だった源頼朝や、九男で赤ん坊だった源義経も捕らえられ清盛の前に引き出された。

 政敵とされた人物は、本人のみならず一族もろとも処刑するのが常であった。それは子供であっても、大人になれば復讐のために仇の命を奪おうとするからである。この原則からすれば、頼朝や義経らは処刑されるのが常であったが、清盛は彼らを処刑しなかった。それは平清盛の継母(けいぼ)の池禅尼(いけのぜんに)が、捕らえられた源頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子によく似ている」と清盛に頼朝の助命をしつこく懇願したからである。頼朝を生かしておくことは危険であるが、清盛が頼朝を処刑しようとすると、池禅尼は「平忠盛(清盛の父)が生きていれば、こんなことはしなかった」と泣き叫び、断食まで行い抗議したのである。

 そのため清盛は頼朝を伊豆国へ流罪とした。赤ん坊だった源義経も、兄の頼朝を流罪にしているので、それ以上の罪を与えることはできなかった。

 また源義経の母・常盤御前(ときわごぜん)が絶世の美女であったため、常盤御前が清盛の愛人となることを条件に義経は助命された。いずれにせよ頼朝・義経兄弟を清盛が生かしてしまったことが平家滅亡への道につながる。日の出の勢いであった清盛は、この原則を曲げたことが、大きな後悔を招くことになる。

平家政権
 保元の乱や平治の乱は、皇室や貴族内部の争いに武士が本格的に関わったことで、乱以後も武士が積極的に政治に介入することになった。また平治の乱で、後白河上皇は近臣だった信西と藤原信頼を失い、院政の影響力が薄れ相対的に平清盛の権力が高まった。
 1160年、清盛は正三位に昇進して、武士でありながら公家の身分を得ることになる。それまで貴族から見下されていた武士が公家(貴族)の仲間入りをして、清盛は貴族と肩を並べるようになった。翌年には清盛の妹で後白河上皇に嫁いでいた平滋子(しげこ)が憲仁親王(のりひと)を産んだことで、後白河上皇とつながり、朝廷から信頼を得た清盛は出世街道を歩み続けることになる。
 1167年、清盛は太政大臣に昇進する。また憲仁親王が即位して第80代の高倉天皇になると、自分の娘・平徳子と従兄妹同士の結婚をさせ、二人の間に言仁親王(ときひと)が生まれると、3歳の言仁親王を第81代の安徳天皇として即位させ、清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)となった。
 平家の下には全国500ヶ所以上の荘園が集まり、平家が支配した知行国(ちぎょうこく)も全国の半数近い30数ヶ国に拡大した。このような政治的・経済的な立場を背景に、武士(平家)が朝廷にかわって本格的に政治の実権を握ることになる。
 平家政権は武士による政権であるが、平清盛が安徳天皇の外祖父となり、平家一門が次々と朝廷の要職に就いたことから、摂関家のような貴族的性格をもつようになった。さらに平家は荘園や知行国の他にも、日宋貿易という大きな経済的基盤をもっていた。

 日本と宋は正式な外交はなかったが、民間の商船による交易は盛んに行われていた。清盛は摂津国の大輪田泊(神戸港)を修築し、音戸の瀬戸(おんどのせと、広島県呉市)の海峡を開き、瀬戸内海の航路を整備して貿易の拡大に努めた。
 貿易の主な輸出品は金や水銀、硫黄などの鉱物、刀剣や工芸品あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭や陶磁器、香料や薬品、書籍などであった。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大な利益はそのまま平家の貴重な財源となった。
 このようにして政治的・経済的に磐石の体制を築いた平家政権であったが、平家による権力の独占は、やがて周囲の反発を招いた。平家政権に反発する勢力には後白河法皇もいた。自分の院政の強化のために武士を雇ったはずが、いつの間にか、武士に政権を奪われてしまったからである。

 1177年、後白河法皇の近臣たちが鹿ヶ谷(京都市左京区)に集まり、平家打倒の計略をめぐらした。しかし事前に計画が発覚して失敗してしまう。この事件を鹿ヶ谷の陰謀という。
 鹿ヶ谷の陰謀に後白河法皇の存在があることを知った清盛は激怒し、2年後の1179年には軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止しさせ、法皇の近臣たちの官職をすべて解いた。
 清盛にすれば平家政権を危うくしたのは後白河法皇であり、法皇のかわりに平家と血縁のある天皇を立て反平家勢力を封じ、平家一門で官職を固めるのは当然の手段であった。しかし法皇を幽閉するという強硬な手段が、周囲の更なる反発を招いた。

 同じように武士の身分でありながら、後の世に足利尊氏や織田信長が皇室と対決しても非難されなかったのは、まさに先駆者たる清盛の悲劇といえた。さらに平家政権には自が気づかなかった重大な欠陥があった。それは武士たちの不満であった。

 

武士たちの願い
 平安時代に桓武天皇によって軍隊が廃止され、地方は無法地帯になり、治安は悪化していた。人々は自分や家族の生命、財産を守るために武装化し、やがて武士という階級が誕生した。武士たちにとって最も重要な問題は土地制度であった。

 公地公民制の原則が崩れ、墾田永年私財法によって「新たに開墾した土地の私有」が認められたが、その権利があったのは有力貴族や寺社などに限られていた。
 実際に汗水たらして開墾した者は、耕した土地を一所懸命に守り抜くため武装し武士になった。しかし武士には土地の所有権がなかったため、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を貸し、自分は「管理人」の立場をとった。武士は自分たちの土地であっても、正式な所有者になり得なかった。「自ら開墾した土地は、自らの手で堂々と所有したい」。武士たちのこの願いには切実なものであった。
 時代が流れ、その武士の中から平清盛が政治の実権をにぎった。全国の武士たちは同じ武士である清盛ならば、自分たちの期待に応えてくれると信じていた。しかし清盛の反応はにぶかった。平清盛の父・忠盛が白河法皇や鳥羽法皇の護衛として長年仕えていたため、皇室や貴族の側近である平家には「武士のための政治」が理解できなかった。清盛は自分の娘を高倉天皇に嫁がせ、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、自らは天皇の外戚として政治の実権を握る、いわば摂関家と同じ手法をとったことが逆に反感を買うことになった。

 藤原氏が摂関政治を行っていた頃は、武士たちは「貴族には武士の気持ちなど分かるまい」とあきらめていた。そのようなとき、自分たちの代表である平家が政治の実権を握り、今度こそはという期待が高かっただけに、裏切られた気持ちが強かった。平家に対して「同じ武士なのに、どうして俺たちの思いが分からないのか」と不満を持った。

 貴族たちも、身分が低く血を流す「ケガレた仕事」と武士を見下していた。その武士の平家が貴族の真似をしたことに反発していた。すなわち清盛の政治は武士と貴族の双方から問答無用で拒否されたのである。

 平家は武士として初めて政治の実権を握ったが、武力で支配しても武士たちの共感を得ることができなかった。武士や民衆の理解がなければ政権は長続きできない。それゆえに「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平家の天下はたちまち崩れ去る運命にあった。

 なお 平治の乱で源氏の残党を破った清盛は、平家全盛の時代を築くが、この後、後白河法皇は5人の天皇を30年間背後で操ることになる。また同時に武家の対立を巧みに煽って、源頼朝から「日本一の大天狗」と評された。

 

源平合戦

 「平治の乱」で敗北して以来、平家の下に置かれた源氏の残党は、源頼朝を中心に東国で蜂起した。平家の政治に不満を持っていた全国の武士団はこの動きに 同調し、頼朝を迎え撃つべき平家は、西国が大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという大波乱が続いた。その間、源氏には天才的な名将・源義経(九郎判官)が登場し「一の谷」「屋島」で平家の拠点を覆滅し、関門海峡の「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡させた(1185年)。このように して平家を破った源氏の天下が到来した。