保元・平治の乱

白河上皇の院政
 白河天皇が即位すると後三条上皇が死去し、白河天皇も上皇の座をねらい、藤原摂関政治の阻止しようとした。さらに2年後には摂関家の藤原頼通・藤原教通・彰子が死去し、藤原摂関政治を支えた実力者がこの世を去ったため、白河天皇の朝廷における影響力は強まり、次に
関白となった藤原師実(もろざね)の存在感は弱まった。

 白河天皇は実仁親王が疱瘡で死去すると、最も寵愛していた死去した中宮賢子(藤原師実の養女)の残した8歳の善仁親王(堀河天皇)に皇位を譲り、上皇として実権を握った。
 摂関政治では藤原摂関家が幼少の天皇を補佐して政治を行ったが、白河上皇が幼少の第73代・堀河天皇を後見する院政では、白河上皇が朝廷での実権を握ることになった。
 白河上皇は藤原摂関家以上の権力を持つことになる。藤原氏の摂政・関白は「天皇の承認」を得て政務を代行するだけであったが、天皇の実の父や祖父である上皇は天皇の承認を得ずに独断で政治を決定することができた。その意味で摂関政治よりも院政の上皇のほうが強い権力を持つことになる。

地方政治
 院政期になると中・下級貴族が力をつけ、貴族の多くは国司となり実際に任国に赴いた。国司には守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官がいて、地方の行政権・徴税権・司法権・軍事権など全ての権限が与えられた。しかし平安時代の後半になると、荘園制が主流となったため国司の役割は税を集め中央政府(朝廷)に納税するだけになった。

 そのため地方の富農に土地を割り当て、納税させる制度が確立し、中央の上級・中級貴族が地方に赴いて政治を行うことがなくなった。京に居住することを望む貴族たちは、国司に任命されても自分が任地に赴くことがなくなり、国司の代理の役人である受領を地方に派遣するようになった。

 受領を派遣して租税収入だけを京で受け取ることになり、受領は一定の租税を収めれば後は自由に私腹を肥やして地方を支配できるようになった。地方の受領は地方の人民を搾取しながら大きな権力を持てたことから、中級以下の貴族たちはこぞって国司・受領に任命されたがった。
 11世紀以降になると、皇族・大貴族・大寺社に地方の国を割り当て、国司の任命権・官物の収得権を与える知行国制ができ、大貴族や大寺社はますます権力と財力が集中することになった。知行国制度は国司を自由に任命して、そこからの納税を獲得できる制度なので、知行国を割り当てられた上級貴族や大寺社は何もしなくても莫大な富がもたらされた。
皇族の内部対立
 堀河天皇が29歳の若さで崩御すると、5歳の東宮・宗仁親王が第74代・鳥羽天皇が即位し、幼帝を後見する白河上皇の発言力は強化された。堀河天皇の関白は藤原師通であったが、鳥羽天皇になると嫡男の藤原忠実が関白となったが、藤原忠実は娘の入内を巡って白河上皇と対立して関白・内覧を罷免された。この罷免によって上皇が政治を執り行う院政となった。

 白河上皇の乳母の家柄に権勢が集まった。後三条天皇・白河天皇の時代に活躍した藤原為房(ためふさ)の妹は堀河天皇・鳥羽天皇の乳母を勤めており、夜の関白と言われるほどの大きな実力を蓄えた。藤原為房の子・藤原顕隆(あきたか)も妻が鳥羽天皇さらに娘が崇徳天皇の乳母となった。
 白河上皇に思い通りにならないことが「賀茂川の水、双六の賽、山法師」の
3つとされた。賀茂川の水というのは大雨によって賀茂川が洪水を起こす自然災害のことであり、双六の賽(さい)は当時流行していた運任せの博打であり、山法師は園城寺(三井寺)の寺法師と比叡山延暦寺の僧兵のことだった。

 第74代・鳥羽天皇は白河上皇を深く恨んでいた。その原因は白河上皇の子を妊娠した藤原璋子を鳥羽天皇の妃にしたからで、璋子が産んだ顕仁親王(あきひと)を白河上皇は5歳で皇太子(次期天皇)にしたからである。
 鳥羽天皇にしてみれば祖父(白河上皇)の子を妊娠している女性(璋子)を強引に中宮にさせられ、祖父の子である顕仁親王(崇徳天皇)を次の天皇に指名されたのだから、鳥羽天皇が白河上皇に不快な憎悪の念を抱いても仕方ないことである。また待賢門院と呼ばれる璋子(しょうし)は、朝廷で権謀術数を駆使して源頼朝と九条兼実の権力獲得を妨害した第77代の後白河天皇の母でもあった。

 多くの子を為した白河上皇の伝説として、平清盛が白河上皇の落胤(子)であるともされているが、平清盛の落胤説の信憑性はかなり低いとされている。
 圧倒的な権力を有する白河上皇が存命中は鳥羽天皇も文句を言うことが出来きなかったが、3代43年にも及ぶ白河上皇の院政が終焉すると、鳥羽上皇の白河上皇に対する憎悪の情念は第75代・崇徳天皇(顕仁親王)に向けられた。崇徳天皇を産んだ待賢門院(中宮璋子)は鳥羽上皇の寵愛を完全に失い45歳の人生を終えるが、鳥羽上皇は自分よりも14歳も若い得子を深く愛し、得子との間にできた崇徳天皇に代えて天皇にしようとした。
 鳥羽上皇は白河上皇が厚遇した璋子と崇徳天皇を遠ざけ、自分が寵愛する得子(美福門院)と体仁親王を優遇し、わずか2歳の体仁親王を第76代・近衛天皇として即位させた。しかし近衛天皇は17歳で夭折してしまい、その後に鳥羽上皇の四男・雅仁親王(まさひと)が立てられ、第77代・後白河天皇として即位する。

 後白河天皇は鳥羽上皇が嫌っていた璋子の子なので、鳥羽上皇は後白河天皇を推薦しなかったが、後白河帝の守仁親王(二条天皇=後白河帝の子)の後継ぎという形で天皇にした。
摂関家の内部対立

 摂関家内部の藤原忠実と藤原忠通の父子の対立が深まった。それは藤原忠実が白河上皇の不興を買って、藤原忠実が天皇に奏上される文書を見る職務(内覧)を罷免されたことに始まる。藤原忠実は娘・勲子(やすこ)を鳥羽天皇に入内させようとして白河上皇の怒りを受けて失脚するが、白河上皇が崩御すると勲子を鳥羽上皇の妃とすることに成功した。
 藤原忠実は失脚中に、長男・忠通に続く次男・頼長が生まれ、この
次男の藤原頼長に摂政・関白の位を継がせようとした。父・藤原忠実は、男子のいなかった長男の藤原忠通に次男の藤原頼長を養子にすることを承知させるのが、その後、忠通に長男・近衛基実が生まれ忠通は頼長との養子関係を破棄する。

 藤原忠実と忠通の親子関係は悪くなっていき、1149年には、次男の頼長を摂関にしたい忠実が忠通から藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)」の資格を取り上げ頼長に与えた。このようにして藤原忠通と藤原頼長の兄弟は険悪な仲になる。
 1150年、次男の藤原頼長は源為義・源頼賢らの軍勢を率いて、長男の藤原忠通の邸宅を取り囲み、氏長者の証である朱器台盤を実力行使で奪い取った。父の藤原忠実はこれを容認した。藤原忠実の娘・泰子も藤原頼長を優遇し凡庸な忠通を嫌っていたので、藤原頼長は鳥羽上皇からも厚遇されるが、生来の短気から鳥羽上皇の寵臣である藤原家成の邸宅を武力で襲ったために鳥羽上皇から遠ざけられた。
 また鳥羽天皇が最も愛した美福門院・藤原得子(とくし)は、計算高い藤原忠実・頼長よりも温厚で常識的な藤原忠通を好んでおり、第76代・近衛天皇が若くして崩御すると、得子と関白・藤原忠通が推薦する雅仁親王が第77代・後白河天皇となったため、忠実・頼長親子は不利な立場へと追い込まれた。

 藤原頼長は鳥羽上皇の信任を失い宇治へ隠遁するが、この時に鳥羽上皇から退位を強制された崇徳上皇に接近した。
 崇徳上皇と後白河天皇の対立は、自分の愛人である璋子を鳥羽天皇に嫁がせた白河上皇の暴挙から始まるが、この皇族の対立が藤原忠通と藤原頼長の対立と結びつくことによって1156年の保元の乱(ほうげんのらん)とになった。
 白河上皇への怨みによって崇徳上皇に酷薄な対応を取り続けた鳥羽上皇は、私が死ねば乱世になるだろうと不吉な予言をしたが、正にこの予言が保元の乱・平治の乱という騒乱になった。

 

保元の乱

 1156年、後白河天皇と崇徳上皇の親子が皇位継承をめぐって対立し、それに藤原氏の家督争いから藤原氏の兄弟が二つに別れて争った武力衝突である。この保元の乱で注目すべきは、数百年も平和だった京都で、それまで公家の飼い犬のように扱われていた武士が台頭したことである。

 天皇は天皇の座を退くと上皇になり、出家して仏門に入ると法皇になる。上皇(法皇)になれば藤原氏などの摂関家の影響を受けずに、上皇(法皇)が政治の実権を取り戻すことになり、しかも上皇(法皇)は元天皇として、あるいは天皇の父として、その権力は天皇以上であった。天皇は飾り物にすぎないが、上皇(法皇)は独裁的な手法を持つが、そのことが大きな混乱を招いたのである。

 保元の乱の原因はとんでもないことから始まる。1107年に堀河天皇が29歳で崩御すると、堀河天皇の子で5歳の鳥羽天皇が即位し、祖父の白河法皇は朝廷の実権を持つ院政を続けた。さらに孫の鳥羽天皇が16歳になると、白河法皇は絶世の美女とされた藤原璋子(しょうし)を鳥羽天皇の后にしたが、これが史上最大のとんでもない混乱を引き起こした。

 年老いた白河法皇は若い藤原璋子に手をつけており、白河法皇の子(崇徳天皇)を妊娠させたまま、孫の鳥羽天皇と結婚させたのである。つまり白河法皇が孫の鳥羽天皇に嫁がせた藤原璋子が生んだ子が、形式上は鳥羽天皇の息子になるが、実際には白河法皇の子だったのである。

 鳥羽天皇と璋子との間に顕仁親王崇徳天皇)が誕生すると、白河法皇は自分の子供である顕仁親王(崇徳天皇)を可愛がり、顕仁親王が5歳になると白河法皇は鳥羽天皇を退位させ、顕仁親王を崇徳天皇として即位させた。崇徳天皇は藤原璋子と白河法皇との子だったので、可愛がるのは当然であるが、とんでもないことだった。

 鳥羽天皇にとっては迷惑以上の怒り心頭であったが、天皇を退位させられた上、白河法皇がいる限りはたとえ上皇になっても何の実権もなかった。鳥羽上皇は不満であったが辛抱するしかなかった。ひとまずは平和なひと時を過ごしていたが、鳥羽上皇は自分の息子とされる白河法皇の子・崇徳天皇を内心ひどく憎んでいた。

 しかし、1129年に白河法皇が43年間の長きにわたる院政の後に崩御すると、鳥羽上皇がやっと権力を握ることになった。鳥羽上皇の巻き返しが始まったが、鳥羽上皇は白河法皇と全く同じことをおこなった。

  鳥羽上皇は崇徳天皇(白河法皇の子)を生んだ藤原璋子よりも、同じ美女の藤原得子(なりこ)を寵愛し、得子が産んだ躰仁親王(なりひと)を次の天皇にしようとしたのである。

 1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇(当時22歳)を強引に退位させて上皇にすると、まだ3歳の実子・躰仁親王を近衛天皇として即位させた。しかしこの近衛天皇が17歳で崩御したことから跡継ぎ問題が勃発した。鳥羽法皇は璋子との間に生まれた崇徳上皇の弟・雅仁親王(まさひとしんのう)を皇位につけることにした。このようにして誕生したのが第77代の後白河天皇で、母違いの弟兄を継承するかたちで天皇に即位した。

 このことを知った崇徳上皇はひどく激怒した。崇徳上皇は自分の子・重仁親王(しげひと)を皇位を継がせようと思っていたからである。父・鳥羽法皇の冷たい仕打ちに耐えるしかなかったが、崇徳上皇の不満は溜まりに溜まっていた。

 この朝廷の流れは、白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)となる。

 崇徳上皇は政治の実権を握るために、関白の座を争って敗れた藤原頼長を味方に引き入れ武士の平忠正源為義らも味方にした。

 鳥羽法皇も崇徳上皇のクーデターを予測し、後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備した。鳥羽法皇の元には源為義の子の源義朝(源頼朝の父)や、平忠盛の子で平忠正の甥でもある平清盛らが参集した。

 このようにして1156年7月2日、鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇はようやく院政を始めようとするが、そうはさせまいとする後白河天皇と「保元の乱」が起きる。

 保元の乱は壮大な実権争いであり、また同時に後白河と崇徳という鳥羽の子の母違いの兄弟による「壮大な兄弟喧嘩」であった。崇徳上皇VS後白河天皇の「保元の乱」は各陣営を味方する兄弟、親子、叔父と甥という血族同士が相争う事態となった。保元の乱は崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正 VS 後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛で、対立するのはそれぞれが親子・肉親であった。

 

              皇室                    摂関家                 平家                 源氏

天皇方 後白河天皇(弟)     藤原忠通(兄)   平清盛(甥)     源義朝(兄)

               VS                       VS       VS         VS

上皇型 崇徳上皇(兄)    藤原頼長(弟)        平忠正(叔父)   源為義(父)

                               源為朝(弟)

                                                                           

  後白河天皇の高松殿に集まった武士たちが、7月11日の未明に崇徳上皇と藤原頼長が立てこもる御所を襲撃し、戦いは後白河天皇側が1日で勝利を収めた。崇徳上皇は出家して讃岐国(香川)に流刑となった。藤原頼長は戦いで亡くなり、源為義や平忠正らは処刑された。

 保元の乱で敗れた源為義や平忠正らは斬首となったが、朝廷は斬首の執行を勝利した身内の源義朝や平清盛に行わせうという非情な決定を下した。平清盛は叔父を斬ることになり、源義朝は父親の首をはねることになった。なお弟の源為朝は伊豆大島に流刑となった。

 保元の乱は武力を持たない公家の律令政治の限界を印象づけ、公家(貴族)の番犬として蔑視されてきた源氏・平氏の武家が政治の表舞台に躍り出ることになる。かつて院庁を護衛する「北面の武士」以来、中央貴族にさぶらう者(仕える者)として流血(軍事)の汚れ事を引き受けてきた武者たちが、遂に平氏・源氏という武家の棟梁を頂いて実力主義で政権を掌握しようとする時代が近づいてきた。

 

崇徳天皇の呪い

 讃岐国に流された崇徳上皇は、讃岐の山奥で仏教を熱心に学び、大人しく膨大な写経を行った。

 乱で亡くなった人たちへの供養として熱心に写経を行い「戦いで命を落とした人々への供養と、自分の過ちの証に京の寺に写経を納めてほしい」と朝廷へ使者を送った。ところが写本を見た後白河上皇は「写経に呪いが込められている」として送り返してきた。

 撥ね付けられた写経、この朝廷の冷たい仕打ちに崇徳上皇は激怒した。自分の指を噛み切ると、流れた血で経典のすべてに「大魔王となって天下を悩乱し、皇室を没落させ、平民をこの国の王にする」と呪いの言葉を血で書いた。

 その後、崇徳は別人のようになり、髪やヒゲを伸ばし放題にして、鬼のような姿のまま呪い続け、1164年に46歳で崩御した。

 その遺骨は四国の白峰山に埋葬されたが、ご遺体を火葬する際、激しい風雨が襲い、雷鳴が轟き、棺から真っ赤な血が流れ出し、その煙が都の方角へ向かったとされている。崇徳天皇は酒呑童子、九尾の狐の玉藻前と共に日本三大悪妖怪と呼ばれた。

 崇徳上皇の崩御からわずか数年後、平清盛が太政大臣となり、30年後には鎌倉幕府が誕生し崇徳上皇の「呪い」は現実のものとなった。崇徳の怨念は有名な怨霊伝説になり、明治天皇が四国の崇徳上皇の墓のを、京の白峯神宮に帰還させるまで、その怨念は700年以上も続いた。

 次の小倉百人一首に崇徳上皇の美しく心に響く一首がある。

 瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ
(岩に当たって別れてしまった水の流れも、またいつかは一つになる)

その後の保元の乱

 保元の乱で勝利した後白河天皇は朝廷における権力基盤を固め、全国の荘園整理を実行するが、自分の子である守仁親王に譲位すると院政を始めた。国政改革を精力的に進めた中心人物は藤原通憲(信西)であり、信西は記録荘園券契所を復活させ不正な荘園を公領へ組み込んでいった。元々、後白河天皇は二条天皇への一時的な中継ぎの天皇とされていたが、しかし後白河天皇は中継ぎの天皇として大人しくしている人物ではなかった。
 後白河法皇(後白河上皇)は、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代にわたって長期の院政を行った。後白河法皇が比類なき暗君とされたのは、政治能力のではなく今様(いまよう)などの遊興へ熱中し、上皇(法皇)という気楽な立場を利用して公卿・殿上人と共に華やかな宴を楽しんだからである。
 今様(いまよう)とは中級・下級貴族に人気が高かった「現代風の歌曲」で、流行歌のようなものであるが、普通は天皇や上皇といった身分の高い人が歌うようなものではなかった。後白河法皇は「今様狂い」といわれるほどに今様を好み、その今様を集めて後白河帝は
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)を編集している。
 第78代・二条天皇に皇位を譲った背景には美福門院・得子の推挙もあったが、即位した二条天皇は後白河上皇の院政に従わず「二条天皇の親政派」と「後白河上皇の院政派」の対立が深まった。

 二条天皇の側に立って親政を支持した人物には、得子の従兄弟である藤原伊通(ふじわらのこれみち)、母親・懿子(いし)の弟の大納言・藤原経宗(つねむね)、二条天皇の乳母の子である藤原惟方(これかた)がいた。
 賢明で誠実な名君であった二条天皇が23歳の若さで崩御すると、二条天皇の子の順仁親王(六条天皇)がわずか2歳で即位することになった。二条天皇の時代に1159年の平治の乱が勃発するが、平治の乱が起こることになった遠因は保元の乱後の不平等な論功行賞、戦争の功績と院近臣(いんのきんしん)たちの内部対立にあった。

 

平治の乱

  1159年、後白河上皇が院政を始めてすぐの時期に平治の乱が起きた。後白河上皇と藤原通憲が保元の乱後に勢力を拡大した平清盛と、なぜか恩恵を受けられなかった源義朝の利害が衝突した戦いでもあった。保元の乱後に権勢を振るった藤原通憲は、保元の乱で敗れて死去した藤原頼長と並ぶ学識豊かな知識人として知られているが、一般的には出家した後の信西(しんぜい)という法名が使われている。
 信西(藤原通憲)は、曽祖父・藤原実範(さねのり)から大学頭(となった祖父・藤原季綱(すえつな)へと続く学者の家系に生まれ博覧強記の英才としてその名を轟かせていた。藤原通憲は学問の道で稀有な才能を発揮し、大学寮で大学頭になることを目指していましたが、その時、通憲は縁戚の高階経敏の養子になっていたので大学寮の役職を世襲する資格を失っていた。学問の道で立身出世を遂げられないことに絶望した少納言・藤原通憲は出家して信西(しんぜい)と名乗り仏教の僧籍の立場から政治に介入した。
 信西(藤原通憲)は鳥羽上皇から重用され後白河天皇の時代に朝廷で権力を蓄えるが、信西が後白河天皇に寵遇された最大の理由は、信西が優秀だったからでもあるが、信西の妻・紀伊局(きいのつぼね)が後白河帝の乳母だったからである。1156年の保元の乱において源義朝が立案した不意討ちの夜襲作戦を認可したのも信西であり、信西は桓武天皇の時代以降長きにわたって停止されていた死刑制度を復興して源為義(ためよし)を斬首した。後白河上皇の院政において権力の頂点を極めんとした信西(藤原通憲)であるが、藤原信頼(ふじわらののぶより)や源義朝など「信西の反対勢力」が起こした平治の乱で捕らえられ斬首される。
 藤原信頼は男色を好んだ後白河上皇から強い寵愛を受けて朝廷での基盤を固めるが、右大臣・右大将を兼任した後白河上皇への嘆願を信西が却下されたために、信西への恨みを募らせ平氏よりも冷遇されていた源義朝を誘って平治の乱を起こした。

 保元の乱の後、政治の実権を握った後白河天皇は、1158年に天皇の地位を子の二条天皇に譲られ、上皇として院政をはじめるが、後白河上皇の近臣で権力を持った信西(しんぜい=藤原通憲)と藤原信頼(のぶより)との対立が激しくなった。

 信西は博学で野心家だった。さまざまな有力者に取り入れられて出世しようとあがくが、中流貴族出身のため中納言までしかなれなかった。そのため藤原通憲は将来を悲観して出家すると信西と名を変えた。

 しかし後白河天皇が即位すると、後白河天皇の乳母・紀伊局が信西の妻だったため、後白河天皇は信西を可愛がり、信西は最高権力者になった。もちろん藤原信頼は面白くなかった。藤原信頼は信西と同じ近臣であったが、藤原信頼の台頭を嫌う信西が、ことごとく妨害してきたのである。

 いっぽう保元の乱の戦功によって、平清盛は九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ宋との貿易で経済力を高めた。しかし清盛以上に活躍した源義朝には十分な恩賞が与えられなかった。

 父源為義を自らの手で処刑したことから「父親殺し」とさげすまれ不満が高まっていた。源義朝は冷遇の黒幕が信西であることを知ると、信西に不満を持つ藤原信頼と結びついた。

 1159年12月9日、平清盛が熊野詣に出かけた。これを絶好の機会ととらえた源義朝と藤原信頼はクーデターを起こした。後白河上皇や二条天皇を軟禁し、信西を探した。信西はクーデターを直前に察知すると、南方に逃げ山中の洞穴に身を隠していた。しかし不運にも隠れているのを見つかり殺害された。

 清盛は紀伊国で京都の異変を知った。動転した清盛は九州へ落ち延びることを考えたが、紀伊の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の協力により17日帰京し、帰京までに伊藤景綱・館貞保などの伊賀・伊勢の郎等が合流した。清盛は京へ戻ると藤原信に服従する振りをみせて油断させると、内裏に監禁されていた後白河上皇と二条天皇を女装させ清盛の六波羅邸に脱出させた。

 このため藤原信頼や源義朝は一転して賊軍となり、清盛軍と戦うことになるが、敗北する。義朝はクーデター成功と思い込み、少人数の軍勢を集めたに過ぎず合戦を想定していなかった。藤原信頼は源義朝と東国へ落ち延びようとするが、二条天皇をむざむざと奪われた不手際に、武家にすぎぬ義朝から信頼は「日本一の不覚人」と罵倒され同行を拒否された。藤原信頼は仁和寺にいた後白河院にすがり助命を嘆願するが、朝廷は藤原信頼を謀反の張本人として許さず、公卿でありながら六条河原で斬首された。享年27。この戦いを年号から平治の乱という。

 平治の乱に敗れた源義朝は、尾張国まで逃れ家来の家に身を寄せた。家来が歓迎して義朝に風呂を勧め、誘いに応じた義朝は入浴中に家来たちに襲われた。入浴のために、義朝は刀を持っていなかったからである。「我に小太刀ひとつあれば」が義朝の最期の言葉である。これにより清盛に対抗する勢力は消え去り平家の天下となる。

 源義朝には多くの子がいたが、平治の乱で戦死し、あるいは捕らえられ壊滅状態になっていた。長男の源義平は、父の最期を知ると平清盛を暗殺しようとするが捕らえられて処刑された。その他にも三男で当時14歳だった源頼朝や、九男で赤ん坊だった源義経らも捕らえられ清盛の前に引き出された。

 政敵とされた人物は、本人のみならず一族もろとも処刑するのが常であった。それは子供であっても、大人になれば復讐のために仇の命を奪おうとするからである。この原則からすれば、頼朝や義経らは処刑されるのが通常であったが、清盛は彼らを処刑しなかった。それは平清盛の継母(けいぼ)の池禅尼(いけのぜんに)が、捕らえられた源頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子によく似ている」と清盛に頼朝の助命をしつこく懇願したからである。頼朝を生かしておくことは危険であるが、清盛が頼朝を処刑しようとすると、池禅尼は「平忠盛(清盛の父)が生きていれば、こんなことはしなかった」と泣き叫び、断食まで行い抗議したのである。

 そのため清盛は頼朝を伊豆国へ流罪とした。赤ん坊だった源義経も、兄の頼朝を流罪にしているので、それ以上の罪を与えることはできなかった。

 また母の常盤御前(ときわごぜん)が絶世の美女であったため、常盤御前が清盛の愛人となることを条件に義経は助命された。いずれにせよ頼朝・義経兄弟を清盛が生かしてしまったことが平家滅亡への道につながる。

 日の出の勢いであった清盛は、この原則を曲げたことが、大きな後悔を招くことに気づくはずもなかった。またこの乱により活躍した武士たちが、力を付けていくことになった。

 

平家政権
 保元の乱や平治の乱は、皇室や貴族内部の争いに武士が本格的に関わったことで、乱以後も武士が積極的に政治に介入することになった。また平治の乱で、後白河上皇は近臣だった信西と藤原信頼を失い、院政の影響力が薄れ、相対的に平清盛の実力が高まった。
 1160年、清盛は正三位に昇進して武士でありながら公家の身分を得ることになる。それまで貴族から見下されていた武士が公家(貴族)の仲間入りをして、貴族と肩を並べるようになった。翌年には清盛の妹で後白河上皇に嫁いでいた平滋子(しげこ)が憲仁親王(のりひと)を産んだことで、後白河上皇との縁がつながり、朝廷から信頼を得た清盛は出世街道を歩み続けることになる。
 1167年、清盛は太政大臣に昇進する。また清盛は、憲仁親王が即位して第80代の高倉天皇になると、自分の娘・平徳子と従兄妹同士の結婚をさせ、二人の間に言仁親王(ときひと)が生まれると、3歳の言仁親王を第81代の安徳天皇として即位させ、清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)となった。
 平家の下には全国500ヶ所以上の荘園が集まり、平家が支配した知行国(ちぎょうこく)も全国の半数近くの30数ヶ国に拡大し、経済的基盤が強化された。このような政治的・経済的な立場を背景に、武士(平家)が朝廷にかわって本格的に政治の実権を握ることになる。平家による政治のことを平家政権という。
 平家政権は武士による政権であるが、平清盛が安徳天皇の外祖父となり、平家一門が次々と朝廷の要職に就いたことから、摂関家のような貴族的性格をもつようになった。さらに平家は荘園や知行国の他にも、日宋貿易という大きな経済的基盤をもっていた。

 日本と宋は正式な外交はなかったが、民間の商船による交易は盛んに行われていた。清盛は摂津国の大輪田泊(神戸港)を修築し、音戸の瀬戸(おんどのせと、広島県呉市)の海峡を開き、瀬戸内海の航路を整備して貿易の拡大に努めた。
 貿易の主な輸出品は金や水銀、硫黄などの鉱物、刀剣や工芸品あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭や陶磁器、香料や薬品、書籍などであった。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大な利益はそのまま平家の貴重な財源となった。
 このようにして政治的・経済的に磐石の体制を築いた平家政権であったが、平家による権力の独占は、やがて周囲の反発を招いた。平家政権に反発する勢力には後白河法皇もいた。自分の院政の強化のために武士を使ったはずが、いつの間にか、武士に政権を奪われたことを不満に思っていた。

 1177年、後白河法皇の近臣たちが鹿ヶ谷(京都市左京区)に集まり、平家打倒の計略をめぐらした。しかし事前に計画が発覚して失敗してしまう。この事件を鹿ヶ谷の陰謀という。
 鹿ヶ谷の陰謀に後白河法皇の存在があることを知った清盛は激怒し、2年後の1179年には軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止しさせ、法皇の近臣たちの官職をすべて解いた。この事件を当時の年号から治承三年の政変という。清盛の孫の安徳天皇が即位したのはこの翌年(1180年)のことである。
 清盛にすれば平家政権を危うくしたのは後白河法皇であり、法皇のかわりに平家と血縁のある天皇を立て反平家勢力を封じ込め、平家一門で官職を固めるのは当然の手段であった。しかし法皇を幽閉するという強硬な手段が、周囲の更なる反発を招いた。同じように武士の身分でありながら、後の世に足利尊氏や織田信長が皇室と対決しても非難されなかったのは、まさに先駆者清盛の悲劇といえた。さらに平家政権には自が気づかなかった重大な欠陥があった。それは武士たちの不満であった。これこそが平家滅亡へとつながることになる。

 

武士たちの願い
 平安時代に桓武天皇によって軍隊が廃止され、地方は無法地帯になり、治安は悪化していた。人々は自分や家族の生命、財産を守るために武装化し、やがて武士という階級が誕生した。武士たちにとって最も重要な問題は土地制度であった。公地公民制の原則が崩れ、墾田永年私財法によって「新たに開墾した土地の私有」が認められたが、その権利があったのは有力貴族や寺社などに限られていた。
 実際に汗水たらして開墾した者は、耕した土地を一所懸命に守り抜くため武装し武士になった。しかし武士には土地の所有権がなかったため、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を貸し、自分は「管理人」の立場をとった。武士は自分たちの土地であっても、正式な所有者になり得なかった。「自ら開墾した土地は、自らの手で堂々と所有したい」。武士たちのこの願いには切実なものであった。
 時代が流れ、その武士の中から平清盛が政治の実権をにぎった。全国の武士たちは同じ武士である清盛ならば、自分たちの期待に応えてくれると信じていた。

 しかし清盛の反応はにぶかった。平清盛の父・忠盛が白河法皇や鳥羽法皇の護衛として長年仕えていたため、皇室や貴族の側近である平家には、「武士のための政治」が理解できなかった。清盛は自分の娘を高倉天皇に嫁がせ、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、自らは天皇の外戚として政治の実権を握る、いわば摂関家と同じ手法をとったことが逆に反感を買うことになった。

 清盛は摂関家の真似をしただけで、武士たちの立場には変化がなかった。藤原氏が摂関政治を行っていた頃は、武士たちは「貴族には武士の気持ちなど分かるまい」とあきらめていた。そのようなとき、自分たちの代表である平家が政治の実権を握り、今度こそはという期待が高かっただけに、裏切られた気持ちが強かった。平家に対して「同じ武士なのに、どうして俺たちの思いが分からないのか」と不満を持った。

 貴族たちも、身分が低く血を流す「ケガレた仕事」と武士を見下していた。その武士の平家が貴族の真似をしたことに反発していた。

 すなわち清盛の政治は武士と貴族の双方から問答無用で拒否されたのである。後の世で、武士による政治が長く継続したことを考えれば、初めてであるがゆえの平家の悲劇であった。

 平家は武士として初めて政治の実権を握ったが、武力で支配しても武士たちの共感を得ることができなかった。武士や民衆の理解がなければ政権は長続きできない。それゆえに「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平家の天下はたちまち崩れ去る運命にあった。

 なお 平治の乱で源氏の残党を破った清盛は、平家全盛の時代を築くが、この後、後白河法皇は5人の天皇を30年間背後で操ることになる。また同時に武家の対立を煽って巧みに立ち回り、源頼朝から「日本一の大天狗」と評された。

 

源平合戦

 「平治の乱」で敗北して以来、平家の下に置かれた源氏の残党は、源頼朝を中心に東国で蜂起した。平家の政治に不満を持っていた全国の武士団はこの動きに 同調し、頼朝を迎え撃つべき平家は、西国が大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという大波乱が続いた。その間、源氏には天才的な名将・源義 経(九郎判官)が登場し「一の谷」「屋島」で平家の拠点を覆滅し、関門海峡の「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡させた(1185年)。このように して平家を破った源氏の天下が到来した。