天平文化

 日本に仏教が伝来したのは538年とされているが、6世紀前半にはすでに仏教は進んだ文化として朝鮮の渡来人から日本に伝わっていた。仏教受容派の蘇我氏と否定派の物部氏が対立し、蘇我氏が勝利して仏教が飛鳥文化として開花した。

 飛鳥朝廷から中央集権国家が完成し、大宝律令が制定されて白鳳文化が生まれ、奈良の平城京では天平文化が花開いた。聖武天皇の時代に全国に国分寺、国分尼寺、奈良の大仏が建立され、仏教は国家の手厚い庇護を受け隆盛した。

 

国家仏教

 飛鳥に建てられた大寺院が次々と奈良に移転し、天武天皇の仏教信仰を反映して仏教が日常生活の前面に出てくるようになる。奈良時代の仏教は鎮護国家思想から国家の保護を受け、仏教理論の研究が進められ南都六宗と呼ばれる学派が形成された。

 南都六宗が成立したのは東大寺大仏殿の建立頃とされ、国家の保護のもと各宗を統括する宗務所が置かれ、国家の管理を受けることになった。当初の寺院は官立で自由に研究する場であり、宗派は兼学が推奨され、学派による対立はなかった。当時の宗は学門上の区分を意味し、平安末期からはじまる宗派とは異にしている。

 754年、中国から天台宗の大家である鑑真を唐から平城京に招くと、東大寺、大宰府・観世音寺、下野・薬師寺に戒壇院を置き、国が認めた公的受戒制度を整えた。国立戒壇は「年分度者」と称され、南都六宗から選ばれた優秀な人物が推薦を受け、毎年10数名だけが合格する狭き門であった。官僧以外の僧は国家から公認されていない私度僧とされ、私度僧は国家から禁止されながらも僧の大部分は私度僧であった。

南都六宗
 奈良の大寺院ではインドや中国で生まれた仏教の研究が進められ、三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)の「南都六宗」と呼ばれる学派が生まれた南都六宗は後世の宗派のような信仰を異にする教団ではなく、仏教学を研究する学派のことで、そのため一つの寺院に数派が共存していた。

 南都六宗の中で法相宗は興福寺・薬師寺、華厳宗は東大寺、律宗は唐招提寺が中心になり現在まで存続しているが、三論・成実・倶舎の三宗は廃絶している。

①三論宗 :飛鳥時代に伝来し、三論宗を大成させたのは嘉祥大師・吉蔵である。三論とは中論・十二門論・百論で、吉蔵の著作は26部112巻におよび、大乗仏教全般を広く学んでいた。南都六宗の中でもっとも早く日本に伝来し「三論玄義」が入門書として読まれ、その内容は「諸法は皆な空なりを教理とし、人間や事物の一切は固定的な実体を持たないとした。

②法相宗:白鳳時代に唐に留学した道昭が日本にもたらした。その教理は唯心論的な理論で「一切の存在は自分の心から生まれ、自分の心を離れて存在するものは何もない、一切の万物は自分の心そのものである」という考えである。

 認識するのは六識(目・耳・鼻・舌・身)とその奥にある二識(末那識・阿頼耶識)で、修行によってこれらを「空」にすることにより悟りを得るものである。つまり自己の心身と世界のすべてが、自己の最深層にある阿頼耶識の中に蓄積され、過去の経験の潜在から生ずるということである。この深層心理ともいうべき理論を仏教界にもたらした。「人間の心識の働きを離れては、いかなる実在もない」とする立場から唯識宗という。

 しかし悟り(成仏)について、各人の先天的な資質を認めたため、中国仏教界に大きな衝撃を与え、すべての人に成仏の可能性を認める天台宗との間で激しい論争が引き起こされた。法相宗は中国では衰退したが、その概念が華厳宗に組み込まれ、南都六宗の中で最も有力な宗派として栄えたが、中国と同じ論争が天台宗の最澄とで起きた。

 本拠地は元興寺、興福寺、薬師寺である。鎌倉以降、法相宗は衰退に向かうが、仏教の基礎として学ばれている。
華厳宗:1300年以上の歴史を持ち、供養することによって霊験を求める民俗信仰にはじまる。仏教の最高経典として研究され、天台宗の実相論に対し、華厳経は「時間と空間を超越した全世界は一の中に他の一切を包含し、同時にその一は他の一切の中に入る」という縁起を説いた。この華厳宗の教えは仏教のあらゆる教えを包含する。

 華厳とは美しく飾ることを示し、これは色とりどりの華によって飾られたものを意味する。空の思想では固定的実体は無いとしたが、華厳の唯識思想は「この世のすべてのものは無限に関係しあって存在とする」としている。 縁来れば生ず,縁去れば滅すという従来の縁起に対し、縁来るも生ぜず、縁去るも滅せずとしている。現象は人が認識しているだけで心の外に事物的存在は無いとし、外界の形ある存在は心が作り出している幻想に過ぎず、あるのはただ意識だけであり、意識が外界の存在を作り出しているとしるのが特徴である。心の作用が仮に存在するものとして、その心の在り方をコントロールし悟りを得ようとした。

 仏になることをゴールと考えるのではなく、最初から仏の立場に自分を置いて考え、行動することを求めるのが華厳思想で、華厳経は聖武天皇によって反体制派と見做され、また藤原氏から危険視されていたが、民衆の支持が高く、僧・行基が大僧正に登用され東大寺・大仏(奈良の大仏)の建立が完成している。

 華厳経は日本では東大寺系の学派を確立し、密教に影響を与え、禅者や念仏者にも影響を与えるなど宗派を超えた影響力がある。華厳教学は時代的にも、地域的にもかなり大きな変容があり一概にまとめることは難しいが、華厳経の特徴は事物・事象が互いに交流・融合する縁起を大切にしている。

その他

成実宗:三論宗に付属して伝来し、大乗仏教の教理を取り入れたが、小乗論書との批判を受け衰退する。

倶舎宗:世親(せしん)の「阿毘達磨倶舎論」を教義として法相宗に付属して学ばれた。倶舎論は非常に難解で、法相宗の道昭が東大寺などで仏教の教理の基礎として研究された。倶舎宗は独立の宗派ではなく、法相宗の付属の宗である。現在もその重要性は仏教研究者から認識されている。

律 宗:律宗は天武天皇の時代に唐の高僧・鑑真が戒律を伝えたのが始まりである。戒律とは僧尼が守るべき一定の規範で、してはいけない規則と、しなければならない規則作(持戒)を実践することが成仏の因とする教えである。

教養としての仏教

 当時の僧侶は仏の教えを説くばかりでなく一流の知識人でもあった。そのため聖武天皇の信頼を得て政界で活躍した玄昉(げんぼう)のような僧もいた。また日本に戒律を伝えた唐僧・鑑真らの活動も、当時の仏教の発展に大きく寄与した。

 仏教の鎮護国家の思想を受けて、聖武天皇による国分寺建立・大仏造立などの大事業が次々進められた。しかし国家による大々的な仏教保護政策は、国家財政の大きな負担になり、政治との癒着という弊害を生むことになった。

 こうした仏教の堕落を嫌った僧たちの中から、平城京の大寺院を離れて山林にこもる者が現れ、山林修行に身を投じた僧たちの行動が、やがて次の時代の平安新仏教を形成していく。

 仏教とは「人間を苦から解放するためのもの」であった。人生の命題を思索するもので、宗教というよりは哲学というべきものである。しかし民衆が仏教に期待したのは、このような高尚なものではなく現実的なものであった。民衆は現世利益(げんぜりやく)や祖先の供養を期待し、この期待のもとで民間でも仏像造立や経典書写がおこなわれた。朝廷は僧侶の民間伝道を禁止したが、次第に民間では仏教を受容するようになった。

 国が認める正式な僧侶となるには修行した後、戒律を受けること(授戒)が必要であった。

754年、鑑真が東大寺大仏殿前に築いた戒壇が日本初であり、授戒の儀式は、土を盛り上げた戒壇で行なわれた。そこで聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇らが鑑真から授戒を受けた。

翌年から常設の戒壇が建立され、これを東大寺戒壇院といった。さらに
遠方の受戒者のために東国の下野薬師寺、九州の筑紫観世音寺にも戒壇が設けられ、これらを「本朝(天下)三戒壇」と称した。

 

社会事業

 

 仏教は政府の保護を受けるが、僧尼令(そうにりょう)によってきびしい統制を受けた。「僧尼を浮遊せしむるかなかれ」と令せられ、民間伝道は禁止され、僧侶の活動は寺院内に限られていた。

しかしなかには民衆への布教活動をおこない、架橋や用水施設の造成、運脚や労役に服する人びとの宿泊施設・布施屋(ふせや)設置などの社会事業をおこない、国家から取締りを受けながらも多くの民衆に支持される僧が現れた。

 それが行基(ぎょうき)である。
最初のうちは行基のことを「小僧行基」とよび、政府は取り締まりの対象としていたが、行基の民衆結集力を無視することができなり、のち行基は大僧正に任ぜられ、民衆を率いて大仏造営に協力した。



 社会事業は、積善の行為が福徳を生むとする仏教思想にもとづいている。光明皇后が悲田院を設けて孤児や貧窮者を救済し、施薬院を設けて病人の医療にあたらせた。和気広虫が恵美押勝(えみのおしかつ)の乱後の孤児たちを養育したのも仏教信仰と関係している。





神仏習合思想



 神仏習合思想とは「最初から日本にいらっしゃる八百万の神さまと、のちの時代に外国からきた仏さまとを同時に敬い信仰すること」を意味している。仏教思想が浸透してくると、従来の神祇思想と融和する神仏習合思想がおきた。

 日本の神々は仏法を聞くことを喜び、そして仏教の守護神になったとする考えである。

神々も人間と同じく煩悩をもつ衆生の一員でとされた。

 若狭(福井県)国の比古神(ひこしん)は「吾、神身を受けて苦悩はなはだ深し。仏法に帰依して神道をまぬがれんことを思ふ」という神身離脱を望む神託を下したとされている。「神様に生まれてしまったから、悩みが多くて大変。仏法に帰依して、神様なんかやめたい」という意味である。

そして仏の教えの素晴らしさに触れた神々は、仏法を守護することを決意し、これを護法善神(ごほうぜんしん))という。

 このように神と仏の区別は長らくゆるやかで、この神仏習合は奈良時代から現在に至るまで続いている。皇室においても江戸時代までは皇位をお継ぎにならない親王や王は仏門に入ることが決まっていた。これも現在の感覚では非常に違和感があるが、当時の人々はそれが当たり前だった。

さらに神社に付属した寺(神宮寺)が建立され、神前で祝詞(のりと)でなく経を読む神前読経がおこなわれ仏と神が同一視されることことがあった。

 

天平美術
 奈良時代に律令体制が完成し、平城京の貴族や寺院には各地から莫大な富が集まった。国家による仏教保護政策を背景に多くの美術作品がつくられ、技法的にも完成の域に達した優品が数多くみられる。
 美術においても唐の様式を取り入れられ、彫刻では表情豊かで調和のとれた、それでいて写実的でありながら宗教的雰囲気をかもし出す作品が多く造られた。造像の技術も発達し、従来の金銅像や木像のほかに、木を芯として粘土で塗り固めた塑像や原型の上に麻布を漆で塗り固め、そのあとで原型を抜き取る技法で乾漆像がつくられた。
 塑像には東大寺法華堂の日光・月光菩薩像が、乾漆像には興福寺の阿修羅像や唐招提寺の鑑真和上像があり、中でも鑑真和上像は我が国最初の肖像彫刻として有名である。
 絵画も唐の影響を強く受け、聖武天皇の時代の宝物が寄進された正倉院に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょびょうぶ)や、薬師寺の吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)が有名である。また正倉院には多数の宝物が完全な状態で伝えられ、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)などの工芸品には、ペルシアやローマなどの文化がシルクロードによって唐へもたらされ、さらに遣唐使を通じて日本にやってき作品が多い。

 

建 築

 聖武天皇によって諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)が建てられ、それぞれに七重の塔が建てられ、金光明最勝王経と妙法蓮華経が置かれた。総本山と位置づけられるのが東大寺法華寺で、東大寺の大仏は鎮護国家の象徴として建立された。建築面では寺院や宮殿に礎石や瓦が用いられ、東大寺法華堂や唐招提寺金堂などの壮大な建物が建てられた。

 寺院や宮殿に礎石・瓦を用いられ、法隆寺伝法堂、唐招提寺講堂、東大寺法華堂・唐招提寺金堂・正倉院宝庫などが代表的な寺院で、いずれも均整がとれた堂々とした建物である。この時代の寺院建築は中国をお手本にしていたので、当時は靴を履いたまま参観するものがほとんどであった。靴を脱いで中に入るのは文化の国風化が進んでからである。

法隆寺伝法堂

 法隆寺伝法堂は、床板張りの建造物としては現存最古のものである。当時の貴族邸宅を移築したもので、聖武天皇の夫人・橘古那可智(こなかち)の邸宅とされている。現在は瓦葺(かわらぶき)であるが、移築前は檜皮葺(ひわだぶき)だったとされている。

法隆寺夢殿

 法隆寺夢殿は、花崗岩の二重基壇の上に立つ八角円堂である。厩戸王(聖徳太子)の斑鳩宮跡に、僧行信が739年に創建した。堂内には秘仏である救世観音像(くせ)が安置され、明治期にアメリカ人の美術研究家フェノロサ、岡倉天心(おかくらてんしん)らによって発見されたという話は有名である。

唐招提寺金堂 

 唐招提寺の塀の軒瓦(のきがわら)には唐律招提(とうりつしょうだい)の4文字が刻まれている。唐律は鑑真が唐からもたらした戒律をあらわし、招提は招闘提奢の略で、もともとは衆僧の住む客房をあらわしていた。のちに寺院や道場の意味になるが、唐招提寺は「唐から伝わった律宗の寺院」という意味になる。招提(寺)と「寺」が重なっているが、同様の例は他にも見られる。

 唐招提寺金堂は天平期金堂の唯一の遺構である。寄棟造の屋根の両端には、防火のまじないで鴟尾(しび)が飾られている。鎌倉時代、屋根の勾配をやや急にするなどの改修が行われ、最近では平成21年まで解体修理が行われた。

  前面の1間通りには壁がなく、吹き放しの柱廊(ちゅうろう)になっている。円柱は胴部にわずかにふくらみ(エンタシス)が見られ、8本の円柱の間隔は中央が最も広く、両端が狭くなっている。これは安定感を感じさせるとともにギリシア建築のようなおもむきをもった空間を演出している。

  おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ

                                    會津八一

唐招提寺講堂

 講堂は平城宮の宮殿建築の唯一の遺構である。平城宮の東朝集殿を移築したもので、移築の際に各部材に付けた番号が現在も残っている。朝集殿は儀式の際に高級官人が待機する建物で、平城宮には東西二棟の朝集殿があった。現在は入母屋造(いりもやづくり)となっているが、もともとは切妻造(きりづまづくり)だった。13世紀の改築によって、当時の外観は失われている。

 東大寺法華堂(三月堂)

 東大寺建築のなかでは最も古く、東大寺創建以前にあった金鐘寺(こんしゅじ)の遺構とされている。奈良時代の史料に「羂索堂(けんざくどう)」とあるので、不空羂索観音をまつるための建物だったことがわかる。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われたため、法華堂は三月堂とよばれるようになった。

 本来は諸仏を安置する正堂(しょうどう)と安置した仏像を礼拝する礼堂(らいどう)が軒を接して別々に建っていたが、鎌倉時代の改築で1棟になった。このように二つの堂が一つにつながって大きな空間を形づくっている建物を双堂(ならびどう)という。寄棟造の正堂(和様)は天平初期のもので、切妻造の礼堂(大仏様)は鎌倉期の再建である。時代を隔てた2棟が合体しているすが違和感を感じさせない。均整がとれた美しい建物である。

東大寺転害門

 転害門(てがいもん)は八脚門(やつあしもん)の形式をもつ、東大寺創建当時の門としては唯一のものである。源平争乱、戦国時代の戦火をかいくぐり、現在まで残っている。鎌倉時代の修理による改変はあるが、基本的には天平時代の建造物である。

 

正倉院宝庫

  正倉院宝庫は聖武天皇の遺品を納めた檜造(ひのきづくり)・単層・寄棟造(よせむねづくり)の高床式倉庫(あぜくら)造で内部は北倉・中倉・南倉の3室にわかれている。東大寺大仏殿裏の塀でかこまれた一角にあり、間口が約33m、奥行約9.4m、総高約14mの巨大倉庫で、床下の高さが約2.7mもあり大人でも立って歩くことがでる。

 倉は北倉・中倉・南倉の三倉に仕切られ、北倉と南倉は三角形の断面の木材(校木(あぜぎ))を井桁(いげた)に重ねた校倉造(あぜくらづくり)で造られている(中倉は板倉造)。正倉院宝庫は、現存する最大・最古の校倉造である。普段は厳重に施錠され、天皇が派遣する勅使(ちょくし)によって開閉される。現在は宮内庁の所管に属し、正倉院宝物は、空調設備を供えた鉄骨鉄筋コンクリート造の西宝庫(1962年建造)・東宝庫(1953年建造)に分納・保存されている。西宝庫は整理済みの宝物を収蔵している勅封倉で、東宝庫には整理中の宝物が収蔵されている。

工 芸
 工芸品としては正倉院宝物が有名である。聖武太上天皇の死後、光明皇太后が遺愛の品々を東大寺に寄進したものが中心で、服飾から調度品、楽器、武具など、約1万点に及ぶ多種多様な品々が含まれている。
 螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)など、きわめてよく保存された優品が多いのも特徴で、それらの中には唐ばかりでなく西アジア・南アジアとの交流を示すものがみられ、当時の宮廷生活の文化的水準の高さと国際性をうかがい知ることができる。

 収蔵された宝物は1200年間埋蔵されることなくつたえられ、世界でもめずらしい逸品である。また数だけでなく、金工・漆工など技法の豊かさにおいてもきわだっている。

螺鈿紫檀五絃琵琶 
 琵琶は通常は四絃で、唐式五絃琵琶としては現存する世界で唯一の遺品である。紫檀材の琵琶に螺鈿(夜光貝やオウム貝などの光沢のある部分を薄く切り取ったもの)細工が施されている。捍撥面(ばち受けの部分)には鼈甲(べっこう)を貼り付け、熱帯樹を背景にフタコブラクダに乗って琵琶を奏でる胡人(西域の人物)が螺鈿細工で表現されいる。背面には宝相華文(8世紀に東アジアで流行した花唐草文様)と2羽の咋鳥文(嘴にリボンや草花をくわえる文様)が螺鈿細工で施されている。
 使われている材料(紫檀はインドシナ半島から、玳瑁はアフリカ東海岸から、夜光貝は沖縄など)や施された文様、唐式五絃琵琶などの形態などから天平文化の国際性がわかる名品である。全長1.081m、最大胴幅0.307m。

白瑠璃碗(上段左中):白いカットグラスの半球形の食器である。カスピ海周辺で製作されたものが、シルクロードを経てわが国まで伝来したと考えられる。高さ8.5cm。

銀燻炉(上段右銀を鍛造(たんぞう)で球形にうちだした高さ20cmあまりの香炉で、切鏨(きりがね)により、宝相華唐草(ほうそうげからくさ)に各1対の獅子(しし)と鳳凰(ほうおう)が透かし彫りされている。球の中央で上下、身と蓋(ふた)にわかれ、身の内側にとりつけられた火皿は、香炉がころがっても水平をたもつような仕掛けがほどこされている。8世紀。正倉院北倉。

漆金薄絵盤下段左)仏前で香をたく炉盤の台座で、8枚の蓮弁(れんべん)4層重ねられ、中央に半球形の蓮実がおかれている。蓮弁は、黒漆地の上に金箔(きんぱく)、全面または一部金箔がはられ、宝相華(ほうそうげ)、鴛鴦(おしどり)、花喰鳥(はなくいどり)、獅子(しし)、迦陵頻伽(かりょうびんが)などが、細密な文様がのびやかに描かれている。径56cm8世紀。正倉院南倉。

密陀彩絵(下段右)は、漆地に膠絵(にかわえ)を描いた上に油をひいたもの。この密陀彩絵箱は、丁香(ちょうこう)などをいれた箱で、空想上の動物である鳳凰(ほうおう)とパルメット唐草(忍冬唐草)が躍動的に描かれている。8世紀。正倉院中倉。

彫 刻
 美術においても唐の様式を取り入れ多くの美術作品が作られ、彫刻では表情豊かで調和のとれた、それでいて写実的でありながら宗教的雰囲気をかもし出す作品が多く造られた。彫刻は表情豊かで調和のとれた仏像が多く、従来の金銅像や木像のほかに、塑像(そぞう)や乾漆像(かんしつぞう)の技法が生まれた。

 塑像は木を心として木に縄を巻き、粘土をつきやすくした上で、粗い土からだんだん細かな土に代えて成形していく技法でつくった仏像である。粘土なので扱いやすく、失敗しても作り直すことができ値段も安かった。ただし粘土のために重く、水や振動に弱いので、雨漏りや地震が大敵だった。塑像の作例には、東大寺法華堂の日光・月光(がっこう)菩薩像、同執金剛神像(しつこんごうしんぞう)、東大寺戒壇院四天王像などがある。

 彫 刻(1)- 乾漆像 

東大寺法華堂日光・月光菩薩像

 下記の本尊である不空羂索観音像(ふくうけんざく)の向かって右に立つのが日光菩薩、左が月光菩薩である。本来は梵天・帝釈天との説がある。不空羂索観音像の脇侍としては、本尊が乾漆像に対してこちらは塑像で、本尊が大きいのに、こちらは小さくバランスの悪さが印象づけられる。おそらくこの三尊の組み合わせは本来のものではなく日光・月光菩薩像は別の場所からもってきたからであろう。また日光・月光両菩薩像、戒壇院の四天王像、法華堂の執金剛神像は不空羂索観音像の護法神だったという意見が多い。
 日光は法衣、月光は唐服をつけ、どちらも目を半眼に開いて静かに合掌している。現在はほとんど白色であるが、袖口や裾などに製作の彩色がわずかに残っている。像高は日光2.072m、月光2.048mである。

東大寺法華堂執金剛神像

  執金剛神像とは金剛杵を執って仏法を守護する神のことで、金剛力士(仁王)はこの神将が発展して生まれた。仁王像は金剛力士像のことで、1尊で表すと執金剛神となり2尊だと金剛力士(仁王像)と呼ばれる。
 本来はお釈迦さまを守護するための単一の仏様であったが、寺院の境内を守護するために門の両脇に配されることが多くなり、2尊で1尊セットと見られるようになった。寺院の境内では門の入口を挟み込む形で左右に立ちはばかり立ち入る者を見ている。まさに寺院の守り神といえる。

 革製の甲冑に身を固め、右手に長さ78cmの金剛杵を振り上げ、忿怒の相で仏敵を叱咤する塑像である。目をカッと見開き、左腕には血管が浮き上がるほど拳を強く握りしめている。黒目部分は「鉛ガラス材」が使われている。普段は厨子(ずし)の中に安置され、年に1回しか公開されない秘仏だったため、各所に天平時代の華麗な彩色や文様が残されている。平将門の乱の折に、髻(もとどり)が蜂に変身して飛び立ち、将門を刺し殺したとの伝説がある。

像高は1.73m。

東大寺戒壇院四天王像
 四天王は本来はバラモン教の神々であったが、仏教に恭順して仏法を守護する護法善神(ごほうぜんしん)となったものである。帝釈天の部下として守護する方角がそれぞれ決まっており、東から時計回りに東南隅に剣を持つのが持国天、西南隅に槍を携えて立つのが増長天。北西隅に巻物を持つのが広目天、北東隅に宝塔を高く掲げているのが多聞天である。この配置を「地蔵買うた(じ・ぞう・こう・た)」と覚える方法がある。
 いずれも表情はきわめて写実的で、革製の甲冑に身を固め、邪鬼を踏みつける立像である。増長天のみが口を開いて忿怒形をしていて、広目天・多聞天・持国天は口を閉じてはいるが内面に怒りを秘めそれぞれの表情に迫力がある。広目天は眉間に皺を寄せ両眼を細めて遠くを凝視する表情をしており、多聞天の口をへの字に曲げてすぐにでも怒りが爆発しそうな表情がある。邪鬼像が足元で脅えている表情もまた面白い。天平時代に人間の内面の怒りや感情をこれほど高度に描写する天才仏師が日本にいたのである。

 四天王は早くから日本でも信仰されていた。 仏教をめぐっておきた蘇我馬子と物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子が四天王に祈願し、勝利を得たことに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立した。また仏像の置かれる四隅にはたいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像が配置されている。

 東大寺(奈良市)の戒壇院のものが有名で、像高は1.6m~1.7m前後である。この四天王立像は法華堂の日光・月光菩薩像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作で、国中連公麻呂の作と書されている。

彫 刻(2)- 乾漆像 -
 乾漆像には、原型の上に麻布を幾重にも巻いて漆で塗り固め、あとで原型を抜きとる脱活乾漆像と、荒彫りした木彫を原型とした木心乾漆像の2種類がある。脱活乾漆像は中身がない、張り子の人形のようなので、いたって軽い。これに対して木心乾漆像は中身が木ですから、それなりの重さがある。
 高価な漆を大量に使用する上、高度な技術が必要でした。そのため、奈良時代以外に乾漆像がつくられることはほとんどない。
 乾漆像の作例として、東大寺法華堂の不空羂索観音像、興福寺八部衆像(阿修羅像をふくむ)、唐招提寺鑑真像などがあります。


東大寺法華堂不空羂索観音像

 仏教における信仰対象である菩薩像で開蓮華は満開のハスの花を意味し、聖観音の初割蓮華と対をなす。
 尊名の「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のことで、従って不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する。

 像高3.62mに及ぶ脱乾漆の巨像で、法華堂の本尊である。

 頭上に華麗な宝冠をのせた三目。額に縦に第3の目である仏眼がついている。八臂(8本の腕)の姿で、縄の先に環(わ)をつけた「羂索(けんさく。羂は獣を捕らえる網で、索は釣り糸の意)」という古代インドの狩猟道具を持っている。ここでは獲物ではなく、衆生の苦悩を救う「不空羂索」であまねく衆生を救済する決意を表現してる。
 しかしもっぱら鎮護国家を祈願する仏として造立されたことから、一般庶民に親しまれることはなかった。

興福寺八部衆像(阿修羅像をふくむ)
 もと西金堂に安置されていた。八部衆というのは、仏法を守護するインド古来の8種の神々のことである。そのひとつが阿修羅で、闘争の鬼神であるはずの阿修羅ですが、興福寺の阿修羅像は眉根を寄せ、愁いを含んだ少年のような顔つきをしている。三面六臂(さんめんろっぴ。3つの顔と6本の腕)で上半身は裸体。2本の腕が胸元で固く合掌し、残り4本の細く長い腕は空間に大きく開かれている。像高1.53m。

唐招提寺鑑真像
 日本最古の肖像彫刻である。言い伝えによれば、忍基(にんき)という弟子が、講堂の梁(はり)が折れる夢を見て、これを鑑真の死の予兆と直感し、急ぎ作らせたとされている。それからふた月ほどして鑑真は遷化(せんげ。亡くなること)し、あとにはこの像が残った。視力を失って閉じられた両目に、墨で丁寧に描かれたまつげの一本一本、あごの短く伸びたひげの一本一本から、鑑真の姿をこの世にとどめようとする人びとの執念のようなものを感じられる。像高0.818m。
 貞享5(1688)年の青葉繁れる頃、唐招提寺の開山堂(現在の御影堂(みえいどう)ができるまで鑑真像が安置されていた小堂)を訪れて鑑真像と対面した芭蕉は、幾たびもの苦難の末に来日した鑑真の労苦を偲(しの)び、次の一句を残している。

    青葉して御目(おんめ)の雫(しずく)ぬぐはばや
       (青葉でもって和上の御目からこぼれ落ちる雫をぬぐいたいものだ)

唐招提寺の鑑真和上像                               興福寺の阿修羅像

 絵 画
 絵画の作例は少ないが、正倉院に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょのびょうぶ)の樹下美人図や、薬師寺に伝わる吉祥天像(きちじょうてんぞう)などが代表的なものである。唐の影響を受けた豊満で華麗な表現が見られる。また絵巻物の源流といわれる過去現在絵因果経(かこげんざいえいんがきょう)がある。
鳥毛立女屏風
 「鳥毛立女屏風」は全6扇からなる屏風で、インド・ペルシアに源流をもつ樹下に唐風美女を描く構図(樹下美人図)である。 描かれた女性は、三日月眉、切れ長の目、小さな赤い唇、ふくよかな頬、豊満な肉体が特徴的である。第1~第3扇は立ち姿、第4~6扇は岩に腰掛ける美女が描かれています。現在は落剥しているが、かつては髪や衣服に山鳥の羽根が貼ってあった。

 正倉院御物に納られているが、何度かの修理で下張りの紙から752年作の日本製であることが分かっている。和紙も墨も保存性が高く1300年前の生活を今に伝えてくれる。今は屏風や和額、襖の下張りには古紙は高価で使われない。

薬師寺吉祥天像
 吉祥天は毘沙門天の妃で、福徳豊穣の守護神として信仰されていた。宮中や寺院で毎年正月におこなわれる吉祥悔過会の本尊として、除災求福や五穀豊穣などが祈願された。頭の周囲には円く見えるのは、光背の跡で、左の掌に望み通りに財宝を取り出すことができる赤い玉(如意宝珠)をのせている。鳥毛立女屏風に見られる唐風美女と特徴がよく似ている。日本の絵画は絹や紙に描かれたものが多いが、吉祥天像などの奈良時代の作品には麻布に描かれたものがある。吉祥天像は両手を胸辺の高さに上げ、左手に如意宝珠を持ち、向かって右向きに表される。0.533m×0.32m。

過去現在絵因果経
 唐から輸入された原本を、奈良時代に書写したものである。過去の因(原因)が現在の果(結果)になっているという縁起の法により、釈迦の前世(過去世)での出家から、現世に誕生しての出家・弟子の教化までの仏伝を過去現在因果経という。これに絵を加えたものが、過去現在絵因果経である。
 下段に唐風楷書で1行8文字に経文を写し、上段には経文に対応する絵を描いている。最古の絵巻物といわれますが、こうした形式は過去現在絵因果経だけである。後世の絵巻物は、絵と詞書(ことばがき)を交互に繰り返す形式(交互並立式)が一般的である。縦0.265m、横10.95m。

百万塔と陀羅尼経(だらにきょう)
 恵美押勝の乱の鎮定後、戦没者を慰霊するために、称徳天皇の命令によって作られた。小さな木製三重塔が百万基作られ、南都七大寺(法隆寺を含む)+弘福寺(大和)・崇福寺(近江)・四天王寺(摂津)に十万基ずつ分置された。塔の相輪部分をはずすと、中が空洞になっていて、陀羅尼経が納められている。陀羅尼経の文字は木版印刷が銅版印刷かで意見が分かれるが、製作年代が判明している世界最古の印刷物である。


百万塔と陀羅尼経(だらにきょう)
 恵美押勝の乱の鎮定後、戦没者を慰霊するために、称徳天皇の命令によって作られた。小さな木製三重塔が百万基作られ、南都七大寺(法隆寺を含む)+弘福寺(大和)・崇福寺(近江)・四天王寺(摂津)に十万基ずつ分置された。塔の相輪部分をはずすと、中が空洞になっていて、陀羅尼経が納められている。陀羅尼経の文字は木版印刷が銅版印刷かで意見が分かれるが、製作年代が判明している世界最古の印刷物である。

和歌

 和歌は幅広い身分・階層の人びとによって詠まれ、上は天皇・貴族から、下は農民に至るまでの作品が「万葉集」に名を連ねている。柿本人麻呂や山上憶良、山部赤人や大伴家持らの宮廷の歌人のほか、東国の民衆が詠んだ東歌(あずまうた)、九州沿岸の守りについた防人(さきもり)が詠んだ防人歌が収録されている。

 天皇から一般民衆まで、身分に関係なく納められた。また平仮名・片仮名が生まれる以前なので、漢字の音・訓を巧みに用いて日本語を表現している。このような表記法を万葉仮名という。

万葉集
 万葉集は日本でもっとも古い和歌集で、奈良時代の終わり頃にできた。全部で20巻、およそ4540首あり、平城天皇あるいは大伴家持の私撰ともされているがどのようにして編纂 したかはっきりしない。また万葉集は最初から20巻あったのではなくて、もともと巻1と巻2であったが、これらにいろいろな歌集が増えていった。

 万葉集の歌は、天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を集めたもので、心の動きを素直に表現したものが多い。我が国の民族の心情がよく表されている。また重要なことは、万葉集はどさまざまな身分の人が読んでおり、このことは和歌の前では天皇も庶民も皆平等なことを示している。では多数ある和歌の中で何を基準に採用されたのかであるが、それは言霊である。身分とは関係なく言霊が強いもの、優れているものが採用されたのである。言霊による選択は日本だけのことで、日本がいかに言葉を大切にしてきたかが分かる。

 万葉集には短歌(5・7・5・7・7の句形)・長歌(5・7調を反復し、最後を5・7・7で締めくくる句形。反歌を伴うのが普通)など、多様な詩形の和歌が約4500首収録されている。その9割は短歌で、恋愛を詠んだ相聞歌(そうもんか)、死者を哀悼する挽歌など、内容は多岐にわたる。率直に心情を吐露する素朴で力強い歌いぶりは「万葉調」とか「ますらおぶり」と呼ばれる。

 万葉集に大伴家持の歌が479首収録されているが、これは歌数全体の1割を占める多さになる。収録された和歌は4期に分かれ、各時期の代表的歌人は、次のような人びとである。

第1期(~壬申の乱)   有間皇子、天武天皇、額田
 (各天皇を「天皇」と表記し、万葉集の原型というべ存在)
第2期(~平城遷都)   持統天皇、柿本人麻呂
 (持統天皇を「太上 天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。)
第3期(~天平初め)   山上憶良、山部赤人、大伴旅人
 万葉集は巻1 から巻16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補された、この真意については多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本の存在から、万葉集が巻16を境に分かれるとする考えがある。
第4期(~淳仁天皇時代) 大伴家持、大伴坂上郎女(いらつめ)
 和歌の道を「山柿(さんし)の門」と表現することがある。これは代表的歌人の山部赤人と柿本人麻呂から一文字ずつとった言い方である。二人は歌聖とされている。

 柿本人麻呂は民衆の人気が高く、 柿本神社や人丸神社など、人麻呂をまつる神社は全国各所に見られる。ただし和歌の学問の神として崇拝されているよりも、人丸を「火止まる」の語呂合わせから防火の神、また「人、生まる」の語呂からで安産の神として信仰されていることが多い。
 「万葉集」は万葉仮名で書かれていて、万葉仮名は難解なため、ひらがな・カタカナが導入されると万葉仮名はすぐに廃れてしまった。そのため平安時代には、どのように読んだら良いかわかりにくくなり、万葉仮名は暗号のようになっている。また方言による歌もいくつか収録されており、方言学の資料として重要である。

 この万葉集はすぐに認知されていなかった。それは785年、大伴家持の死後直後に大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり、大伴家持が主犯とされたためである。大伴家持は埋葬を許されず官籍からも除名された。しかし大伴家持は没後20年以上経過した806年に恩赦を受けて従三位に復している。万葉集は恩赦により大伴家持の罪が許されたてから世に出たとされている。そのため万葉集は平安中期より前の文献には登場しない。それは大伴家持の家財が歌集とともに没収されたためで、写本が書かれて有名になったのが平安中期のころからである。

儒教

 仏教とともに儒教の経典も重んじられ、官吏の養成のために用いられた。中央に大学、地方には国学が置かれ、入学者には経書(中国の古代の教えを記した書物)や律令、書道、算術などが教授された。奈良時代の貴族や官人には、漢詩文の教養が必須とされ、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や天智天皇の子 孫である淡海三船(おうみのみふね)などが著名な漢詩文人として知られている。751年には現存最古の漢詩集である「懐風藻」が成立している。