天平文化

天平文化

  平城京の時代、奈良の都を中心に高度な貴族文化が花開いた。聖武天皇の天平年間にもっとも繁栄したので「天平文化」という。皇族や貴族たちは、遣唐使がもたらした唐の文化を積極的に取り入れた。

 遣唐使たちがおもむいた唐の都長安は、シルク・ロードを通して、世界各地から人やモノが集まる文明の十字路であった。そのため遣唐使たちが日本にもたらした知識・文物は、期せずして世界性を持つことになった。これによって国際色豊かな文化が我が国に入り込み、正倉院にはその影響を受けた宝物が多数収められている。

 この時代はまた、聖武天皇の仏教政策の影響を受け、国家仏教の色合いが濃いことも特徴のひとつである。

 奈良の都は唐の都長安をモデルに、碁盤の目状に道路が敷かれ、多くの官衙が立てられた。貴族や庶民の家が建ち並び、柱には丹(に)を塗ることが奨励され、きらびやかな都になった。このようにして「咲く花のにおうが如く今盛りなり」と歌われた平城京が出来上がった。

国史の編纂(記紀)

 日本は中央集権国家を目指したが、このことは自ずと国家意識を高めることになった。この国家意識の高まりを反映して、日本国の由来を明らかにするため、国の成り立ちやその発展・経過を示すための国史の編纂がおこなわれた。記紀が書かれたのは天武天皇の即位前の内乱「壬申の乱」等により、それまでの歴史書「天皇記」などが焼失してしまったからである。各有力な豪族達はそれぞれの家の歴史書があったが、天皇家の歴史書は焼失してしまったからである。これを憂いた天武天皇が正統な歴史書として古事記を、その後に日本書紀の制作を命じたのである。

 古事記
と日本書紀は両方ともに天武天皇の命によって着手され、712年に「古事記」が、720年には「日本書紀」が完成している。完成までに8年の間があるが、この二つの歴史書には明確な違いがある。古事記は国内向けであり、日本書紀は外国向けだという事である。日本書紀は日本という国名が入っていることから、外国向けであることがわかる。
 よく見ると「古事記」と「日本書紀」の「キ」字が違っているのがわかる。両者をあわせて「記紀」(きき)とよぶ。

古事記

 古事記は最も古い歴史書で、神話伝承の時代から推古天皇までの歴史(物語)で、古くから朝廷に伝えられてきた「帝紀」や「旧辞」をもとに、天武天皇が稗田阿礼に暗記させていた内容を太安万侶(おおのやすまろ)が筆録したものである。

 天皇家による支配を正当化するために書かれ、平仮名やカタカナがなく漢文しかなかった当時、編集者の大安万侶は日本語の響きで、日本語のままで読めるように古事記を表そうと苦心している。記述方は一つの出来事を中心として記述する形式(紀伝体)で、人物や国ごとの業績を中心に記述していく方法で、古事記や中国の「史記」などがこの方法をとっている。

 「古事記」は当事者としてその場にいるかのように、ありのままを書いた感じが強く物語としても面白い。人々の悲哀や復讐を歌を織り交ぜて書かれ文学的要素が強い。また日本という言葉は登場せず、倭とか大和という言葉で日本を表している。上巻、中巻、下巻の三巻で構成され、上巻は日本誕生からアマテラスの孫であるニギギが地上に降りる天孫降臨を、さらのイワレヒコ(神武天皇)の誕生までの日本神話が書かれている。中巻は初代神武天皇から15代応神天皇まで、ここにヤマトタケルの話が出てくる。下巻は応神天皇から31代推古天皇で終わりである。推古天皇までの歴代の天皇の業績が描かれているが、推古天皇が崩御したのが623年で、天武天皇が誕生が631年ごろなので、古事記といえどもそれほど古いという感覚はなかったのだろう。

日本書紀

 日本書紀は天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編纂し、中国の歴史書にならった漢文の編年体で、神代から持統天皇までの歴史を客観的に書いている。編年体とは年毎に出来事を表す方法で、歴史の流れがつかみやすい歴史書で、日本という言葉もここで初めて登場している。外国向けに漢文で書かれ、日本は歴史を持つ正統な国として遣唐使によって献上されている。現在使われている天皇という号は、編集を命じた天武天皇の時に作られ、初代神武天皇の神武という名も死後に贈られた尊号で、当時は神武とは呼ばれていなかった。漢文風なのは中国を意識ししていたからである。
 日本書紀以降、朝廷による歴史の編纂事業は10世紀まで継続され、漢文・編年体を特徴とする六つの正史が編纂されている。これらを総称して「六国史(りっこくし)」という。

 さらに歴史書だけでなく、713年には各地の地名の由来や伝承、産物などを記した「風土記」の編纂が命じられている。日本諸国で風土記が作られたが、その多くは散逸してしまい、まとまったものとしては、常陸国(茨城県)、播磨国(兵庫県南西部)、豊後国(大分県)、肥前国(佐賀県・長崎県)の4ヶ国の風土記の一部が伝えられている。さらに出雲国(島根県東部)の風土記は完全なかたちで残されている。

 

国家仏教

 飛鳥に建てられた大寺院が次々と奈良に移転し、天武天皇の仏教信仰を反映して仏教が日常生活の前面に出てきている。奈良時代の仏教は鎮護国家思想から国家の保護を受け、仏教理論の研究が進められ、南都六宗と呼ばれる学派が形成された。

 奈良の大寺院では、インドや中国で生まれたさまざまな仏教の研究が進められ、三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)の「南都六宗」と呼ばれる学派が生まれた南都六宗は後世の宗派のような信仰を異にする教団ではなく、仏教学を研究する学派のことで、そのため一つの寺院に数派が共存することもあった。宗に通じていることを六宗兼学(のち真言・天台両宗が伝来すると「八宗兼学」)という。

 南都六宗の中で法相宗は興福寺・薬師寺、華厳宗は東大寺、律宗は唐招提寺という形で現在まで存続しているが、三論・成実・倶舎の三宗はすでに廃絶している。

三論宗 :飛鳥時代に伝来し、大安寺の道慈(どうじ)が深めたもので、竜樹(りゅうじゅ)の「中論」「十二門論」、提婆(だいば)の「百論」の三論にもとづいている。 

成実宗:三論宗に付属して伝来し、訶梨跋摩(はりばるまん)の「成実論」を研究した。

法相宗:人間の心識の働きを離れてはいかなる実在もないとする立場で、唯識宗(ゆいしきしゅう)ともいう。義淵(ぎえん)や玄昉らによって奈良時代には大いに栄えました。

倶舎宗:世親(せしん)の「阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)」を教義とし、法相宗に付属して学ばれた。

華厳宗:「華厳経」によって立宗したもので、全世界は一即一切、一切即一の無限の関係において成立し円融無礙(えんゆうむげ)を説く。東大寺初代別当の良弁(ろうべん)が唱え、東大寺が華厳宗の中心となった。東大寺大仏殿の盧舎那大仏は華厳経の教主である。

律 宗:律宗は天武天皇の時代に唐の高僧・鑑真が戒律を伝えたのが始まりである。戒律とは僧尼が守るべき一定の規範で、してはいけない規則(止持戒)と、しなければならない規則作(持戒)を実践躬行(じっせんきゅうこう)することが成仏の因とする教えである。

 

 当時の僧侶は仏の教えを説くばかりでなく一流の知識人でもあった。そのため聖武天皇の信頼を得て政界で活躍した玄昉(げんぼう)のような僧もいた。また、わが国に戒律を伝えた唐僧鑑真らの活動も、当時の仏教の発展に大きく寄与した。

 仏教の鎮護国家の思想を受けて、聖武天皇による国分寺建立・大仏造立などの大事業が次々進められた。しかし国家による大々的な仏教保護政策は、国家財政の大きな負担になり、仏教の政治化・政治との癒着という弊害を生むことになった。

 こうした仏教の堕落を嫌った僧たちの中から、平城京の大寺院を離れて山林にこもる者が現れ、山林修行に身を投じた僧たちの行動が、やがて次の時代の平安新仏教を形成していく。

 仏教とは本来「人間を苦から解放するための方法論」であった。人生の命題を思索するもので、宗教というよりは哲学というべきものであった。しかし、民衆が仏教に期待したのは、このような高尚なものではなくより現実的なものであった。現世利益(げんぜりやく)や祖先の供養といった役割を期待した。この期待のもとで、民間でも仏像造立や経典書写などがおこなわれるようになった。政府は僧侶の民間伝道を禁止したが、次第に民間の仏教受容が進んだ。

 国が認める正式な僧侶となるには得度(とくど)して修行した後、戒律を授かること(授戒)が必要であった。

授戒の儀式は、土を盛り上げた戒壇で行なわれた。754年、鑑真が東大寺大仏殿前に築いた戒壇が日本初であり、そこで聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇らが鑑真から授戒を受けた。

翌年から常設の戒壇が建立され、これを東大寺戒壇院という。
遠方の受戒者のために東国の下野薬師寺、九州の筑紫観世音寺にも戒壇が設けられ、これらを「本朝(天下)三戒壇」と称した。

社会事業

 

 仏教は政府の保護を受けるが、僧尼令(そうにりょう)によってきびしい統制された。「僧尼を浮遊せしむるかなかれ」と令せられ、民間伝道は禁止され、僧侶の活動は寺院内に限られていた。

しかしなかには民衆への布教活動をおこない、架橋や用水施設の造成、運脚や労役に服する人びとの宿泊施設・布施屋(ふせや)設置などの社会事業をおこない、国家から取締りを受けながらも多くの民衆に支持される僧が現れた。それが行基(ぎょうき)である。
最初のうちは行基のことを「小僧行基」とよび、政府は取り締まりの対象としていた。しかし行基の民衆結集力を無視することができなり、のち行基は大僧正に任ぜられ、民衆を率いて大仏造営に協力した。



 社会事業は、積善の行為が福徳を生むとする仏教思想にもとづいている。光明皇后が悲田院を設けて孤児や貧窮者を救済し、施薬院を設けて病人の医療にあたらせた。和気広虫が恵美押勝(えみのおしかつ)の乱後の孤児たちを養育したのも仏教信仰と関係している。





神仏習合思想



 仏教思想が浸透してくると、在来の神祇思想と融和する神仏習合思想がおきた。日本の神々は仏法を聞くことを喜び、そして仏教の守護神になったとする考えである。

神々もわれわれ人間と同じく煩悩をもつ衆生(しゅじょう)の一員であると考えられたのである。若狭(福井県)国の比古神(ひこしん)は「吾、神身を受けて苦悩はなはだ深し。仏法に帰依して神道をまぬがれんことを思ふ」という神身離脱を望む神託を下したといわれている。神様に生まれてしまったから、悩みが多くて大変。仏法に帰依して、神様なんかやめたい」という意味である。

そして仏の教えの素晴らしさに触れた神々は、仏法を守護することを決意する。これを「護法善神(ごほうぜんしん))」という。「続日本紀」765年の条に見られる「仏の御法を守り祭り、貴み祭るは諸々の神」というのがこれに相当する。

このようにして神社に付属した寺(神宮寺)が建立され、神前で祝詞(のりと)でなく経を読む神前読経がおこなわれ仏と神が同一視されることになる。

建 築

 聖武天皇によって諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)が建てられ、それぞれに七重の塔が建てられ、金光明最勝王経と妙法蓮華経が置かれた。総本山と位置づけられる総国分寺・総国分尼寺が東大寺法華寺で、東大寺の大仏は鎮護国家の象徴として建立された。建築面では寺院や宮殿に礎石や瓦が用いられ、東大寺法華堂や唐招提寺金堂などの壮大な建物が建てられている。

 寺院や宮殿に礎石・瓦を用いた壮大な建物が建てられた。貴族の邸宅であった法隆寺伝法堂、平城宮の宮殿建築であった唐招提寺講堂のほか、東大寺法華堂・唐招提寺金堂・正倉院宝庫などが代表的なもので、いずれも均整がとれた堂々とした建物である。

 この時代の寺院建築は中国をお手本にしていたので、靴を履いたまま参観するものがほとんどで、靴を脱いで中に入るのは文化の国風化が進んでからである。

法隆寺伝法堂

 法隆寺伝法堂は、床板張りの建造物としては現存最古のものである。当時の貴族邸宅を移築したもので、聖武天皇の夫人・橘古那可智(こなかち)の邸宅とされている。現在は瓦葺(かわらぶき)であるが、移築前は檜皮葺(ひわだぶき)だったとされている。

法隆寺夢殿

 法隆寺夢殿は、花崗岩の二重基壇の上に立つ八角円堂です。厩戸王(聖徳太子)の斑鳩宮跡に、僧行信が739年に創建した。堂内には、秘仏である救世観音像(くせ)が安置され、明治期にアメリカ人の美術研究家フェノロサ・岡倉天心(おかくらてんしん)らに発見されたという話は有名である。

唐招提寺金堂 

 唐招提寺の塀の軒瓦(のきがわら)には唐律招提(とうりつしょうだい)の4文字が刻まれている。唐律は鑑真が唐からもたらした戒律をあらわしていて、招提は招闘提奢(しょうとうだいしゃ)の略で、もともとは衆僧の住む客房をあらわしました。のちに寺院や道場の意味になるが、唐招提寺は「唐から伝わった律宗の寺院」という意味になる。招提(寺)と「寺」が重なっているが、同様の例は他にも見られます。

さて唐招提寺金堂は、天平期金堂の唯一の遺構である。寄棟造の屋根の両端には、防火のまじないで、鴟尾(しび)が飾られています。鎌倉時代、屋根の勾配をやや急にするなどの改修が行われました。最近では2009(平成21)年まで解体修理が行われました。

  前面の1間通りには壁がなく、吹き放しの柱廊(ちゅうろう)になっています。円柱は胴部にわずかにふくらみ(エンタシス)が見られます。8本の円柱の間隔は中央が最も広く、両端にいくにつれ狭くなっています。安定感を感じさせるとともに、ギリシア建築のようなおもむきをもった空間を演出している。

 

  おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ

                                    會津八一

 

唐招提寺講堂

 講堂は平城宮の宮殿建築の唯一の遺構である。平城宮の東朝集殿を移築したもので、移築の際に各部材に付けた番号が現在も残っている。朝集殿は儀式の際に高級官人が待機する建物で、平城宮には東西二棟の朝集殿があった。現在は入母屋造(いりもやづくり)となっているが、もともとは切妻造(きりづまづくり)だった。13世紀の改築によって、当時の外観は失われている。

 東大寺法華堂(三月堂)

 東大寺建築のなかでは最も古く、東大寺創建以前にあった金鐘寺(こんしゅじ)の遺構とされている。奈良時代の史料に「羂索堂(けんざくどう)」とあるので、不空羂索観音をまつるための建物だったことがわかる。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになったため、法華堂た三月堂とよばれるようになった。

 本来は諸仏を安置する正堂(しょうどう)と安置した仏像を礼拝する礼堂(らいどう)が軒を接し、別々に建っていましたが、鎌倉時代の改築で1棟につないだ。このように、二つの堂が一つにつながって大きな空間を形づくっている建物を双堂(ならびどう)という。寄棟造の正堂(和様)は天平初期のもの、切妻造の礼堂(大仏様)は鎌倉期の再建である。時代を隔てた2棟が合体しているすが違和感を感じさせない。均整がとれた美しい建物です。

東大寺転害門

 転害門(てがいもん)は八脚門(やつあしもん)の形式をもつ、東大寺創建当時の門としては唯一のものである。源平争乱、戦国時代の戦火をくぐって、現在にまで残った。鎌倉時代の修理による改変はあるが、基本的には天平時代の建造物である。

正倉院宝庫

 正倉院宝庫は、聖武天皇の遺品を納めた檜造(ひのきづくり)・単層・寄棟造(よせむねづくり)の高床式倉庫です。間口が約33m、奥行約9.4m、総高約14mの巨大倉庫である。床下の高さが約2.7mもあって、大人でも立って歩くことがでる。

 倉は北倉・中倉・南倉の三倉に仕切られ、北倉と南倉は三角形の断面の木材(校木(あぜぎ))を井桁(いげた)に重ねた校倉造(あぜくらづくり)という建築技法で造られている(中倉は板倉造)。正倉院宝庫は、現存する最大・最古の校倉造である。普段は厳重に施錠され、天皇が派遣する勅使(ちょくし)によって開閉される勅封蔵(ちょくふうぞう)として管理されてきた。現在は宮内庁の所管に属し、正倉院宝物は、空調設備を供えた鉄骨鉄筋コンクリート造の西宝庫(1962年建造)・東宝庫(1953年建造)に分納・保存されている。西宝庫は整理済みの宝物を収蔵している勅封倉で、東宝庫には整理中の宝物が収蔵されている。

儒教

 仏教とともに儒教の経典も重んじられ、官吏の養成のために用いられた。中央に大学、地方には国学が置かれ、入学者には経書(中国の古代の教えを記 した書物)や律令、書道、算術などが教授された。奈良時代の貴族や官人には、漢詩文の教養が必須とされ、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や天智天皇の子 孫である淡海三船(おうみのみふね)などが著名な漢詩文人として知られている。751年には現存最古の漢詩集である「懐風藻」が成立している。

和歌

 和歌は幅広い身分・階層の人びとによってよまれ、上は天皇・貴族から、下は農民に至るまで作者が「万葉集」に名を連ねている。柿本人麻呂や山上憶良、山部赤人や大伴家持らの宮廷の歌人のほか、東国の民衆が詠んだ東歌(あずまうた)、九州沿岸の守りについた防人(さきもり)が詠んだ防人歌が収録されている。天皇から一般民衆まで、身分に関係なく納められた。また平仮名・片仮名が生まれる以前なので、漢字の音・訓を巧みに用いて日本語を表現している。このような表記法を万葉仮名という。
 万葉集の歌は心の動きを素直に表現したものが多く、我が国の民族の心情がよく表されている。

 万葉集」には短歌(5・7・5・7・7の句形)・長歌(5・7調を反復し、最後を5・7・7で締めくくる句形。反歌を伴うのが普通)など、多様な詩形の和歌が約4500首収録されている。その9割は短歌で、恋愛を詠んだ相聞歌(そうもんか)、死者を哀悼する挽歌など、内容は多岐にわたる。率直に心情を吐露する素朴で力強い歌いぶりは、「万葉調」とか「ますらおぶり」と呼ばれる。

 編者は大伴家持(やかもち)とされている。万葉集に家持の歌は479首収録されているが、これは歌数全体の1割を占める多さになる。
 収録された和歌は4期に分かれ、各時期の代表的歌人は、次のような人びとである。

    第1期(~壬申の乱)   有間皇子、天武天皇、額田王
    第2期(~平城遷都)   持統天皇、柿本人麻呂
    第3期(~天平初め)   山上憶良、山部赤人、大伴旅人
    第4期(~淳仁天皇時代) 大伴家持、大伴坂上郎女(いらつめ)
 和歌の道を山柿(さんし)の門と表現することがある。代表的歌人の山部赤人と柿本人麻呂から一文字ずつとった言い方である。二人は歌聖と称揚されている。
 人麻呂は民衆の人気が高く、 柿本神社や人丸神社など、人麻呂を主祭神としてまつる神社は全国各所に見られる。ただ和歌から連想しての学問の神として崇拝されているよりも、人丸を「火止まる」の語呂から防火の神、また「人、生まる」の語呂からで安産の神として信仰している場合が多い。
 「万葉集」は万葉仮名で書かれていて、万葉仮名は難解なため、ひらがな・カタカナが発明されると、万葉仮名はたちまちに廃れてしまった。その結果、万葉仮名を正しく読める者がいない暗号になっている。

 

 

② 彫 刻

- 塑 像 -
 彫刻は表情豊かで調和のとれた仏像が多く、以前からの金銅像や木像のほかに、塑像(そぞう)や乾漆像(かんしつぞう)の技法が発達した。塑像は木を心としてそこに縄を巻き、粘土をつきやすくした上で、粗い土からだんだん細かな土に代えて成形していく技法でつくった仏像である。粘土なので扱いやすく、失敗しても作り直すことができ、値段も安い。ただし粘土のためたいへん重く、水や振動に弱いので、雨漏りや地震が大敵だった。塑像の作例には、東大寺法華堂の日光・月光(がっこう)菩薩像、同執金剛神像(しつこんごうしんぞう)、東大寺戒壇院四天王像などがある。
東大寺法華堂日光・月光菩薩像
 本尊の不空羂索観音像(ふくうけんざく)の向かって右に立つのが日光菩薩、左が月光菩薩である。本来は梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)とのいう説もある。不空羂索観音像の脇侍としては、本尊が乾漆像に対してこちらは塑像、本尊が巨大であるのにこちらは小さすぎる、と何となくバランスの悪さが印象づけられる。おそらくこの三尊の組み合わせは本来のものではなく、日光・月光菩薩像は別の場所からもってきた客仏だ考えられている。ただ最近の研究では、日光・月光両菩薩像、戒壇院の四天王像、法華堂の執金剛神像とは、不空羂索観音像の護法神だったという意見が多い。
 日光は法衣、月光は唐服をつけ、どちらも目を半眼に開いて静かに合掌している。現在はほとんど白色であるが、袖口や裾などに製作当時の彩色がわずかに残っている。像高は日光2.072m、月光2.048m。
東大寺法華堂執金剛神像
 革(かわ)製の甲冑(かっちゅう)に身を固め、右手に長さ78cmの金剛杵(こんごうしょ)を振り上げ、忿怒の相で仏敵を叱咤する塑像である。目をカッと見開き、左腕には血管が浮き上がるほど拳を強く握りしめている。普段は厨子(ずし)の中に安置され、年1回しか公開されない秘仏(東大寺初代別当良弁の命日12月16日だけ開扉)だったため、各所に天平時代の華麗な彩色や文様が残されている。執金剛神の発展した形が金剛力士(仁王)である。像高1.73m。
 平将門の乱(939~940)の折に、髻(もとどり)が蜂に変身して飛び立ち、将門を刺し殺したとする伝説がある。
東大寺戒壇院四天王像
 四天王は本来は異教の神々であったが、仏教に帰依して護法善神(ごほうぜんしん)となったものである。それぞれ守護する方角が決まっており、東から時計回りに持国天(じこくてん。東。剣を持つ)、増長天(ぞうちょうてん。南。矛をつく)、広目天(こうもくてん。西。筆と経典を持つ)、多聞天(たもんてん。北。宝塔をささげる)と配置されている。この配置を「地蔵買うた(じ・ぞう・こう・た)」と覚える方法があります。
 いずれも表情はきわめて写実的で、革製の甲冑に身を固め、邪鬼を踏みつける立像である。像高は1.6m~1.7m前後。

彫 刻(2)- 乾漆像 -
 乾漆像には、原型の上に麻布を幾重にも巻いて漆で塗り固め、あとで原型を抜きとる脱活乾漆像と、荒彫りした木彫を原型とした木心乾漆像の2種類がある。脱活乾漆像は中身がない、張り子の人形のようなので、いたって軽い。これに対して木心乾漆像は中身が木ですから、それなりの重さがある。
 高価な漆を大量に使用する上、高度な技術が必要でした。そのため、奈良時代以外に乾漆像がつくられることはほとんどない。
 乾漆像の作例として、東大寺法華堂の不空羂索観音像、興福寺八部衆像(阿修羅像をふくむ)、唐招提寺鑑真像などがあります。
東大寺法華堂不空羂索観音像
像高3.62mに及ぶ脱乾漆の巨像で、法華堂の本尊です。頭上に華麗な宝冠をのせた三目(さんもく。額に縦に第3の目である仏眼(ぶつげん)がついています)八臂(はっぴ。8本の腕)の姿で、縄の先に環(わ)をつけた「羂索(けんさく、けんじゃく。羂は獣を捕らえる網、索は釣り糸の意)」という古代インドの狩猟道具を持っています。ここでは、獲物ではなく、衆生の苦悩を救う象徴になっています。「不空」は空しくないという意味で、助けを求める人びとの願いが空しいものとならないよう、慈悲の「羂索」であまねく衆生を救済する決意を表現しています。

 しかし、もっぱら鎮護国家を祈願する仏として造立されたものらしく、一般庶民に親しまれることはなかったようです。
興福寺八部衆像(阿修羅像をふくむ)
 もと西金堂に安置されていた。八部衆というのは、仏法を守護するインド古来の8種の神々のことである。そのひとつが阿修羅で、闘争の鬼神であるはずの阿修羅ですが、興福寺の阿修羅像は眉根を寄せ、愁いを含んだ少年のような顔つきをしている。三面六臂(さんめんろっぴ。3つの顔と6本の腕)で上半身は裸体。2本の腕が胸元で固く合掌し、残り4本の細く長い腕は空間に大きく開かれている。像高1.53m。
唐招提寺鑑真像
 日本最古の肖像彫刻である。言い伝えによれば、忍基(にんき)という弟子が、講堂の梁(はり)が折れる夢を見て、これを鑑真の死の予兆と直感し、急ぎ作らせたとされている。それからふた月ほどして鑑真は遷化(せんげ。亡くなること)し、あとにはこの像が残った。視力を失って閉じられた両目に、墨で丁寧に描かれたまつげの一本一本、あごの短く伸びたひげの一本一本から、鑑真の姿をこの世にとどめようとする人びとの執念のようなものを感じられる。像高0.818m。
 貞享5(1688)年の青葉繁れる頃、唐招提寺の開山堂(現在の御影堂(みえいどう)ができるまで鑑真像が安置されていた小堂)を訪れて鑑真像と対面した芭蕉は、幾たびもの苦難の末に来日した鑑真の労苦を偲(しの)び、次の一句を残している。

    青葉して御目(おんめ)の雫(しずく)ぬぐはばや
       (青葉でもって和上の御目からこぼれ落ちる雫をぬぐいたいものだ)
絵 画
 絵画の作例は少ないが、正倉院に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょのびょうぶ)の樹下美人図や、薬師寺に伝わる吉祥天像(きちじょうてんぞう)などが代表的なものである。唐の影響を受けた豊満で華麗な表現が見られる。また絵巻物の源流といわれる過去現在絵因果経(かこげんざいえいんがきょう)がある。
鳥毛立女屏風
 全6扇からなる屏風で、インド・ペルシアに源流をもつ樹下に唐風美女を描く構図(これを「樹下美人図」という)である。 描かれた女性は、三日月眉、切れ長の目、小さな赤い唇、ふくよかな頬、豊満な肉体が特徴的である。第1~第3扇は立ち姿、第4~6扇は岩に腰掛ける美女が描かれています。現在は落剥(らくはく)しているが、かつては髪や衣服に山鳥の羽根が貼ってあった。
薬師寺吉祥天像
 吉祥天は毘沙門天(びしゃもんてん)の妃で、福徳豊穣の守護神として信仰されていた。宮中や寺院で毎年正月におこなわれる吉祥悔過会(きちじょうけかえ)の本尊として、除災求福や五穀豊穣などが祈願された。頭の周囲には円く見えるのは、光背の跡で、左の掌(てのひら)に、如意宝珠(にょいほうじゅ。望み通りに財宝を取り出すことができる赤い玉)をのせている。鳥毛立女屏風に見られる唐風美女と特徴がよく似ている。0.533m×0.32m。
過去現在絵因果経
 唐から輸入された原本を、奈良時代に書写したものである。過去の因(原因)が現在の果(結果)になっているという縁起の法により、釈迦の前世(過去世)での出家から、現世に誕生しての出家・弟子の教化までの仏伝を過去現在因果経という。これに絵を加えたものが、過去現在絵因果経である。
 下段に唐風楷書で1行8文字に経文を写し、上段には経文に対応する絵を描いている。最古の絵巻物といわれますが、こうした形式は過去現在絵因果経だけである。後世の絵巻物は、絵と詞書(ことばがき)を交互に繰り返す形式(交互並立式)が一般的である。縦0.265m、横10.95m。

工 芸
 工芸品としては正倉院宝物が有名である。聖武太上天皇の死後、光明皇太后が遺愛の品々を東大寺に寄進したものが中心で、服飾から調度品、楽器、武具など、約1万点に及ぶ多種多様な品々が含まれている。
 螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)など、きわめてよく保存された優品が多いのも特徴で、それらの中には唐ばかりでなく西アジア・南アジアとの交流を示すものがみられ、当時の宮廷生活の文化的水準の高さと国際性をうかがい知ることができる。

螺鈿紫檀五絃琵琶 
 琵琶は通常は四絃で、唐式五絃琵琶としては、現存する世界で唯一の遺品である。紫檀材の琵琶に螺鈿(夜光貝やオウム貝などの光沢のある部分を薄く切り取ったもの)細工が施されている。捍撥面(かんばちめん。ばち受けの部分)には玳瑁(たいまい。鼈甲(べっこう))を貼り付け、熱帯樹を背景にフタコブラクダに乗って琵琶を奏でる胡人(西域の人物)が螺鈿細工で表現されいる。背面には宝相華文(ほうそうげもん。8世紀に東アジアで流行した花唐草文様)と2羽の咋鳥文(さくちょうもん。嘴にリボンや草花をくわえる文様)が螺鈿細工で施されている。
 使われている材料(紫檀はインドシナ半島あたり、玳瑁はアフリカ東海岸~東南アジア、夜光貝は沖縄など中国近海でとれる)や施された文様、唐式五絃琵琶というその形態などから天平文化の国際性がわかる名品である。全長1.081m、最大胴幅0.307m。

白瑠璃碗(はくるりのわん)
 白いカットグラスの半球形の食器である。カスピ海周辺で製作されたものが、シルクロードを経てわが国まで伝来したと考えられる。高さ8.5cm。
百万塔と陀羅尼経(だらにきょう)
 恵美押勝の乱の鎮定後、戦没者を慰霊するために、称徳天皇の命令によって作られた。小さな木製三重塔が百万基作られ、南都七大寺(法隆寺を含む)+弘福寺(大和)・崇福寺(近江)・四天王寺(摂津)に十万基ずつ分置された。塔の相輪部分をはずすと、中が空洞になっていて、陀羅尼経が納められている。陀羅尼経の文字は木版印刷が銅版印刷かで意見が分かれるが、製作年代が判明している世界最古の印刷物である。

 天平美術

 この時代に、律令体制が完成しました。平城京の貴族や寺院には、各地から莫大な富が集まりました。国家による仏教保護政策を背景にして、多くの美術作品がつくられました。技法的にも、古典的完成の域に達した優品が数多いのも特徴です。

 美術においても唐の様式を取り入れ多くの美術作品が作られている。彫刻では表情豊かで調和のとれた、写実的でありながら宗教的雰囲気をかもし出す作品が多く造られた。造像の技術も発達し、従来の金銅像や木像のほかに、木を芯として粘土で塗り固めた塑像や、原型の上に麻布を漆で塗り固め、そのあとで原型を抜き取る技法で乾漆像がつくられた。

 塑像には東大寺法華堂の日光・月光菩薩像が、乾漆像には興福寺の阿修羅像や唐招提寺の鑑真和上像があり、中でも鑑真和上像は我が国最初の肖像彫刻として有名である。

 絵画も唐の影響を強く受け、聖武天皇の時代の宝物が寄進された正倉院に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょびょうぶ)や、薬師寺の吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)が有名である。また正倉院には多数の宝物が完全な状態で伝えられ、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)などの工芸品には、ペルシアやローマなどの文化がシルクロードによって唐へもたらされ、さらに遣唐使を通じて日本にやってき作品が多い。