飛鳥時代

  飛鳥時代とは「古墳時代と奈良時代」に挟まれた時代で、具体的には聖徳太子(厩戸皇子)から天武天皇までの150年間をいう。奈良県明日香村の「飛鳥」に都が置かれていたことから飛鳥時代というが、この飛鳥時代に倭国から日本への大転換を計り国の基盤を作った。大陸から百済を経由して仏教が伝わり,さらに多くの知識や技術が大陸から入ってきた。朝鮮半島では百済が滅びるが、300年のよしみを深めていた日本・百済は、連合して唐・新羅と対峙する。ヤマト地方の豪族たちで成り立っていた連合政権は、有力豪族と大王による政権へ,そして天皇を中心とする律令国家へと移っていった。

 

1 豪族

 飛鳥朝廷には大和の豪族が集まって国を治める仕事をしていた。有力な豪族として、連(むらじ)の姓(かばね)をもつ葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏など、臣(おみ)の姓をもつ物部氏、中臣氏などがいた。臣と連には上下関係はなく、臣は有力な豪族集団、連は専門の職業、例えば中臣は祭祀、大伴や物部は軍事という役割を世襲していた。豪族については館・集落や祭礼施設など堀に囲まれた豪族居館跡が発掘されている。

 ところで第25代の武烈天皇は異常な行為ばかりで、妊婦の腹を割き胎を観たり、爪を抜き芋を掘らしたり、人を木に登らせては木を切り倒し落死させ、このような狂気・凶暴なことばかりしていた。この武烈天皇の死後、次の天皇が誰にするかで大伴金村を中心とした大連や大臣の会議で決めることになった、と日本書紀に書かれてある。

 このように天皇は豪族の会議で決められていた。大和朝廷は大王を推戴する豪族、特に大和の中央豪族たちによる連合政権というべきで、豪族たちは時代とともに勢いを強め、時代とともに有力な豪族に抑えられ、あるいは戦いに敗れ衰退した。そのため氏族たちは自分の氏族を優位に立たせようと激しい権力闘争を行った。

 大伴金村は5代の天皇に仕え、大伴氏の最盛期をつくった人物である。512年に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県の割譲の要請があり、大伴金村はこれを承認した。さらに527年の磐井の乱では物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させている。しかし欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭し大伴金村の権勢は衰え始める。さらに540年に新羅が任那地方を併合すると、先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことを物部尾輿から糾弾され失脚する。これ以後大伴氏は衰退していく。

 

2 蘇我氏と聖徳太子

 552年、百済の聖王(聖明王)から釈迦仏の金銅像と経論が欽明天皇に献上されると、仏教信仰の可否について朝廷を二つに割る論争が勃発する。欽明天皇が群臣に問うと、物部尾輿と中臣鎌子(神道勢力)は異国の仏教の信仰に反対するが、蘇我稲目は西の国々(先進国)は仏教を信じているのだから日本も信じるべきと主張した。さらに蘇我稲目は仏教に帰依すること宣言したため、天皇は蘇我稲目に仏像と経論を与えた。

 蘇我稲目は私邸を寺として仏像を拝んだが、その後、疫病が流行すると、物部尾輿らは異国の神(仏)を拝んだので、国神の怒りを買ったと不快感をあらわにし、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。

 神道を信奉する物部氏と仏教に帰依した蘇我氏の対立は、彼らの息子(物部守屋と蘇我馬子)の代まで持ち越された。聖徳太子は蘇我氏の血を引いていることもあって、若い頃から仏教を深く信仰していた。父親の用明天皇も仏教を信仰していたが、587年に用明天皇が崩御すると、反対派の物部守屋と賛成派の蘇我馬子との間で大きな争いが起きた。

 聖徳太子はこのとき14歳の少年であったが戦闘に参加した。戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続いたが、聖徳太子は四天王に勝利を祈願し「戦闘に勝てば四天王のお寺をつくる」と誓いを立てた。すると味方の放った矢が物部守屋に命中し、大将を失った物部軍は総崩れとなり物部氏は滅亡するに至った。蘇我氏が勝利し、仏教は広く国に受け入れられることになった。

  593年、弱冠20歳で推古天皇(初の女性天皇)の摂政となった聖徳太子は、約束どおり摂津(現在の大阪府)の地に四天王をまつる寺の造営を始めた。これが現在も大阪市天王寺区に残る四天王寺である。大阪の街で「梅田」「難波」と並んで有名な「天王寺」は、四天王寺の略称がそのまま地名になった。
 聖徳太子の仏教信仰は摂政後も深まり、多くの寺院が建てられた。中でも607年 に斑鳩の地に建てられた法隆寺は、聖徳太子が建立したことで有名である。法隆寺は7世紀後半に火事で消失したが、その後再建され世界最古の木造建築として世界遺産に登録されている。法隆寺は建てられた地名から、「斑鳩寺」ともいわれている。ちなみにJRの線路(=関西本線)によって天王寺駅と法隆寺駅はつながっている。両駅間は直通の快速で約21~24分で行ける。
 聖徳太子は仏教信仰のために、高句麗の高僧であった恵慈に仏教を学び、後に仏教の法典の注釈書である三経義疏を著している。聖徳太子が恵慈から仏教だけではなく、恵慈の出身国である高句麗などの朝鮮半島の情勢や、高句麗と敵対関係にあった中国の隋の情報を学んだ。東アジアの国際情勢に関する理解を深めた聖徳太子は、その胸に「重大な決意」を秘めていた。

 最大のライバルを打倒した蘇我氏は、朝廷の実権を独占することになる。新しい国をつくる巨大プロジェクトには強力な独裁体制が有利になるので、蘇我独裁体制が必ずしもは悪いわけではない。蘇我馬子とその親族である聖徳太子は、天皇家の政治的権威を高めため、冠位十二階や十七条憲法を定め、中国と同じ法治国家へと大改造をおこなった。

 仏教は国家統一の武器として神道より有利だった。仏教は釈迦という絶対的存在を前に、人々の優劣を明確にしていた。そのため天皇をあがめる中央集権国家に都合が良かった。神道は神と人の間の序列については何も述べていないので、中央集権的統治を肯定する根拠にはなりにくかった。

  その後、蘇我氏は政争の末に聖徳太子の子孫(山背大兄王)を皆殺しにして、崇俊天皇まで暗殺している。天皇の外交特権を独占し、巨大な墳墓を作らせ、さまざまな横暴が目立ってきた。かつてのヤマト朝廷では、持ち回りで指導者が豪族から選出されていた。その指導者が蘇我氏に独占されたのである。そのため独裁権力を握った蘇我氏が皇位を変えても、自らが即位しても問題視されなかった。 蘇我氏が天皇位に就いてもヤマト朝廷時代ならおかしなことはなかった。次期天皇の有力候補の山背大兄王の暗殺、自分を軽視した崇俊天皇の暗殺も「蘇我天皇」として彼らの反乱を未然に鎮圧したのに過ぎなかった。

 記紀(古事記、日本書紀)で蘇我入鹿の横暴を書いたのは、そのように書かないと万世一系の神話が成立しなかったからである。

 大化の改新は横暴な家来を征伐ではなく、宮廷クーデターだった。

 

3 聖徳太子は存在したのか

 飛鳥朝廷による冠位十二階や十七条憲法などの政治改革は聖徳太子が立役者になっている。聖徳太子は中国の隋王朝に使者を派遣し(遣隋使)、大陸の進んだ文化や技術を導入し、同時に「日出るところの天子、日沈む国の天子に書する」との国書を隋の皇帝に送くり、国の威信を高めた偉人になっている。

 しかし聖徳太子を偉人とする日本書記」は奈良時代に編集されたことに注目すべきである。日本書記」は藤原不比等(中臣鎌足の子孫)が編集したので、当時の政局に都合よく書かれた可能性がある。しかも日本書記」には「厩戸皇子」の記載はあるが、聖徳太子の名前はどこにも記載されていない。聖徳太子はかつての一万円札に描かれ、誰もが知っている人物であるが、最近の学校では「厩戸皇子」と書かれ聖徳太子はカッコつきで教えられている。

 聖徳太子には多くの言い伝えが残されている。母が散歩をしていて馬屋の前に来たときに太子が生まれたので「厩戸皇子」と呼ばれるようになった。この逸話はイエス・キリストの誕生と似ている。さらに生まれてすぐに言葉を話したり、数十人の言葉を同時に聞き分けたのも、釈迦の逸話に似ている。また生まれたときから左手を握りしめていて、その左手の中には仏舎利(仏の骨)があった。2歳のとき両手を合わせお経を唱え、7歳のとき百済から献上された本をすべて読みつくした。このように聖徳太子が実在したとしても偉大さを誇張しすぎた言い伝えである。そのため聖徳太子の実在を疑う者がいるが、それも無理からぬことでる。天皇の権威を高めるため、聖徳太子という天皇家の偉人を後世に作り上げた可能性がある。

 律令国家を目指した8世紀初頭、律令国家の確立には、天皇を絶対的存在にする必要があった。そのような意図から聖徳太子の功績が誇張されたのだろう。さらに「日本書記」の執筆者(藤原不比等)が、天皇に逆らった蘇我馬子を貶めるため、聖徳太子に全ての功績を押し付けた可能性がある。

4 聖徳太子の内政
 593年に聖徳太子が推古天皇(日本初の女帝)の皇太子になり、天皇の代わりに摂政として政治を行うことになる。この頃は飛鳥に都が置かれていたので飛鳥時代と呼ばれているが、この当時は朝廷が屯倉(みやけ)、豪族が田荘(たどころ)と呼ばれる土地を所有し、同じく朝廷が田部(たべ)や名代(なしろ)・子代(こしろ)、豪族が部曲(かきべ)と呼ばれる人たちを所有していた。
 この制度がうまく機能していた時代は良かったが、聖徳太子が摂政になった頃は、蘇我氏の支配地が朝廷をおびやかすほど巨大化し、政治上のバランスが不安定になっていた。このまま蘇我氏の勢力が朝廷を上回れば、両者に争いが起こり、国内が混乱し動乱が隋などの諸外国からの介入を招き亡国の危機になりかねた。聖徳太子は政治情勢の不安を打開するためには、朝廷がすべての土地や人民を所有する「公地公民制」の導入が必要と考えていた。
 聖徳太子は公地公民制の改革を決意をするが、急激な改革は蘇我氏などの豪族からの猛反発は必至で、国内の大混乱を招くのは明らかだった。そこで聖徳太子は公地公民制の実現のために、長い時間をかけて豪族や人民の立場から意識を改革させる作戦をたてた。603年に制定された冠位十二階がその例である。

 冠位十二階は、朝廷に仕える人々(役人)に対する新しい身分制度であった。階級として徳・仁・礼・信・義・智の6つを定め、さらに大と小とに分割し、12段階の区別をつけた。次にそれぞれの階級で冠(かんむり)の色を次のように区分した。
 大徳(濃い紫)・小徳(薄い紫)・大仁(濃い青)・小仁(薄い青)・大礼(濃い赤)・小礼(薄い赤)・大信(濃い黄)・小信(薄い黄)・大義(濃い白)・小義(薄い白)・大智(濃い黒)・小智(薄い黒)である。
 603年に定められた冠位十二階は、それまでの世襲制ではなく、個人の才能や功績によって、昇進が可能になる画期的な身分制度であった。身分の上下に関わらず、能力がある人や実績のある者が役人として活躍できるようにする制度であった。それまでの世襲制では能力がなくても豪族の地位は世襲され、無能な者、民衆を理不尽にいじめる者も世襲されていた。この冠位十二階はこの世襲制の欠点を排除する制度であった。

 蘇我氏は大臣として冠位を授ける立場とし、冠位十二階の例外とした。聖徳太子も蘇我氏の立場にまで踏み込んで改革することはできなかったが、曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力は向上し、相対的に蘇我氏の権力が後退することになった。

 冠位十二階によって大礼(濃い赤の冠)の地位にいた者が、活躍によって最高位の大徳(濃い紫の冠)にまで出世した事例がある。その代表が遣隋使で活躍した小野妹子であった。
 聖徳太子は冠位十二階で、朝廷が豪族に冠位を与える立場であることを明確に示した。次は朝廷と豪族の立場を明らかにする規則をつくろうした。こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法である憲法十七条である。憲法十七条は、現在の憲法とは違い、宮廷に使える役人の心得のようなものである。

 604年に制定された憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれているが、最も有名なのは、第1条の「和を以って貴」である。これは「和の尊重が我が国にとって何よりも大事で、みだりに争ってはいけない」という意味である。最後の第17条はこれと似ており、「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説いている。
 この「和」や「話し合い」を重要視するのは、現代の我々にもつながっている。憲法十七条では、第1条と第17条で示した「和の尊重」の他にも、さまざまな規範を示している。例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いている。三宝とは仏・法理・僧侶のことで、仏教の三つの宝物とされている。また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説き、儒教の道徳思想に基づく心がまえを示している。中には第8条のように「役人は朝早くから出てき、遅くなってから退出しなさい」という細かいものまである。
 憲法十七条は、役人として政務をとる者は和の尊重だけでなく、仏教への信仰や天皇への忠誠など様々な心がまえと自覚をうながす内容となっている。国内での無益な争いを避け、天皇や朝廷に忠誠を誓わせ、さらに仏教や儒教によって朝廷に従順である意識を持たせることであった。「天皇の下で役人として働くからにはこの憲法に従いなさい」と聖徳太子が約束事を決めたわけです。

 これらは聖徳太子が蘇我氏などの豪族に対し、天皇中心の国家を巧妙に仕向けるためのものであった。役人の中には有力豪族にへつらい、豪族に有利に働く者がいた。このような役人を排除したのである。「蘇我氏の思うままにはさせない」という聖徳太子の執念が隠れている。

 


5 聖徳太子の外交
 聖徳太子は隋の建国に伴い、約130年ぶりに中国大陸との交流を再開した。まずは様子を見るために600年に初めて遣隋使を送ったが、隋の大国ぶりを知った聖徳太子は、朝鮮半島の高句麗の高僧の恵慈などから学んだ国際情勢をもとに、隋との正式な国交を開く準備を始めた。
 まずは隋に対抗するために、高句麗や百済と同盟を結んだ。かつて任那(みまな)を滅ぼした新羅(しらぎ)とは険悪な関係が続いていたので同盟からはずした。このような事前の準備を終えた聖徳太子は、満を持して607年に小野妹子を使者として、二度目の遣隋使を送ったのである。隋の皇帝は二代目の煬帝が務めていた。
「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝は宮殿に現れると、手にした我が国からの国書を読み始めた。すると煬帝の表情は厳しくなり、顔を真っ赤にして叫びだした。
「何だ、この失礼な物言いは」、あまりの怒りに隋の外交官たちが震え上がったが、我が国の使者・小野妹子は涼しい顔をしていた。「こんな無礼な蕃夷の書は、今後は自分に見せるな」煬帝の怒りは収まらず、周囲にこう言い放つと、その場を立ち去る勢いだった。煬帝をここまで激怒させた国書とは、どのような内容だったのか。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや(つつがなきや=お元気ですか)」。
 隋の煬帝を激怒させた日本の国書は、この文章で始まっていた。一見すると「日出ずる」と「日没する」に問題があるように思える。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅ぶ」という意味に取れる。しかし書かれた「日の出」と「日没」は、単なる方角として使用されただけで、「日の出」が東、「日没」が西という意味である。 
 煬帝が激怒したのは「天子」という言葉だった。天子とは中国では皇帝、我が国では天皇を意味する君主の称号であるが、この言葉を隋に対して属国の我が国が用いることは、予想もしていなかった。中国では「皇帝」は世界で一人のみの存在だったからである。

 今から2200年以上前に中国大陸を初めて統一した秦の始皇帝は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号を初めて使用した。これが慣例となって中国の支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命する構図が完成した。この構図は中国周辺の諸外国への「強制」であった。

 例えば、57年に奴国が後漢に使者を送った際には「漢委奴国王」という金印を与え、邪馬台国の女王卑弥呼は、魏から「親魏倭王」の称号が与えられている。5世紀の「倭の五王」も、中国の歴史書には「倭王」と書かれている。
 これは我が国の支配者が中国皇帝の臣下となって、皇帝をバックに地域を支配する、いわゆる朝貢外交を意味している。独立国である我が国の朝廷にとって、このような屈辱的な話はなかった。
 聖徳太子は中国の支配者が替わったのを機会に、天皇を皇帝と同じ立場に立たせようとした。対等な外交姿勢を「天子」という言葉で示したのである。聖徳太子は東アジアの宗主国である隋に対して、これまでの服属ではなく、対等な立場での外交を国書で示したのである。この大胆な作戦は、下我が国にとって命取りになりかねない危険な賭けであった。
 隋は中国統一後に、朝鮮半島の高句麗と激しく戦った。高句麗は一度は隋の猛攻を跳ね返したが、高句麗は隋に敗ける前に低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて朝貢外交をはじめた。高句麗でさえ卑屈な態度になのに、日本が対等な関係を求めることは、日本に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねなかった。それほど危険な国書を送りつけた聖徳太子に勝算があったのか、それとも無謀な行為だったのか。

 聖徳太子の外交戦術の是非は別として、隋には日本を攻める余裕は全くなかったのである。隋は高句麗との戦いで国力が低下し、さらに煬帝の圧政による政情不安があり、隋は決して安定した状態ではなかった。さらに日本は島国のために、攻めるとすれば多数の船が必要になり、多額の出費が予測された。そのような状況の中で、無理をして日本へ攻め込んで、もし失敗すれば国家の存亡にかかわることになる。そのため煬帝はためらっていたのである。
 日本は高句麗や百済と同盟関係にあり、そのことが煬帝の足かせになっていた。隋が日本を攻めれば、高句麗や百済は黙っていない。逆に三国が連合して隋に攻め入る可能性があった。そうなれば隋といえども、苦しい戦いになることは目に見えていた。つまり隋が日本を攻めようにもリスクが高すぎたので、国書を拒否して日本と敵対関係になるという選択はなかった。
 隋は日本からの国書を黙って受け取るしか方法はなかったが、その行為は日本が隋と対等外交を結ぶことを意味していた。聖徳太子は遣隋使を送る前から、朝鮮半島情勢や隋の現状を調べ、東アジアの国際情勢をつかんでいた。その結果、隋が日本を攻める可能性はゼロに等しいと考え、対等外交を一方的に宣言した国書を送りつけたのである。聖徳太子の完全な作戦勝ちであった。
 煬帝も聖徳太子の作戦が理解でき、対等外交の選択しか残されていないことから、より激怒したのである。煬帝は遣隋使の翌年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である斐世清(はいせいせい)を同行させて帰国させた。しかしここで大きな事件が起こった。小野妹子が隋から頂いた正式な返書を紛失したのだった。
 外交官が国書を紛失する失態に朝廷は大あわてとなった。本来なら小野妹子は死罪でもおかしくなかったが、軽い罪に問われただけであった。多分、隋からの返書が「我が国を臣下にする」など、とても受け入れられないものだったのだろう。それゆえに「失くした」ことにしたのである。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を軽くしたのも、妹子の苦悩を察したからである。
 さて煬帝からの返書とは別に、斐世清が日本からの歓待を受けた際に送った国書が「日本書紀」にのこされている。その内容は、従来の中国の諸外国に対する態度とは全く異なるものであった。斐世清からの国書は「皇帝から倭皇に挨拶を送る」という文章で始まっている。「倭王」ではなく「倭皇」であるが、これは隋が日本を臣下扱いしていないことを示している。文章はさらに続く、
「皇(=天皇)は海の彼方にいながらも良く人民を治め、国内は安楽で、深い至誠の心が見られる」斐世清の国書には朝貢外交にありがちな高圧的な文言が見られず、丁寧な文面で日本をほめる内容になっている。つまり聖徳太子のように終始ぶれることなく対等外交を進め、国の支配者が主張することを主張すれば、たとえ世界の超大国隋であっても、応じてくれることを示している。

 隋からの激しい攻撃をはね返し、朝貢外交を続けた高句麗に対して、隋は「いつでもお前の首をすげかえられる」と一方的に突き放した内容の国書を送っている。聖徳太子が見せた気概は、隋の日本に対する態度を明らかに変えた。国内においては「和の尊重」や「話し合いの重視」という平和的な姿勢を示しながら、外交では毅然とした態度で一歩も引かない厳しい姿勢で臨んだ、聖徳太子の隠れた功績があった。聖徳太子の対等外交の精神は、それまでの中国による冊封体制から抜け出し、我が国が自主独立の精神と独自の文化を生み出すことになった。
 608年に聖徳太子は3回目の遣隋使を送り出した。このとき、聖徳太子を悩ませたのは国書の内容だった。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは出来ない。しかし再び朝貢外交の道をたどることも許されない。考え抜いた末に作られた国書の文面は以下のように書かれていた。
「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。
 我が国が皇帝の文字を避けることで隋の立場に配慮し、それでいて皇帝にも勝るに劣らない称号「天皇」を使用することで、両国が対等な立場である方針に変更ないことを明確にした。ちなみにこの国書が「天皇」という称号が使われた始まりである。

 遣隋使について小野妹子の功績を忘れてはならない。日本からの危険な国書を持参し、命がけの仕事を完全に果たしただけでなく、隋からの返書に問題があると判断すると、日本の名誉のために「失くした」と平気で言い切る度量があった。その功績から小野妹子は冠位十二階で5番目の地位に過ぎなかったが、後には最高位である大徳にまで昇進した。

 遣隋使には「文化の交流」という側面も見逃せない。608年の3回の遣隋使の際に、隋への留学生として高向玄理(たかむこのくろまろ)や南淵請安、僧旻(みん)らが同行している。彼らは大陸の優れた政治制度や仏教文化を学び、帰国すると日本に文化面から大きな貢献を果たすのである。ところで遣隋使は朝鮮半島の政治情勢を動かすことになる。
 任那を滅ぼした新羅の日本に対する態度が一変するのである。遣隋使の成功は新羅にとっては困った事態をもたらした。新羅の立場は、朝鮮半島の高句麗や百済は日本と同盟を結んでいる。遣隋使の成功によって隋と日本は対等の立場の関係ができていた。新羅にすれば取り残された不安を抱いていた。任那を滅ぼしたことで日本とは険悪な関係であるうえに、日本が隋と対等な関係にあるのだから、いつ攻められてもおかしくはなかった。
 そうなれば半島の他の国は日本と同盟しているうえに隋にも期待できないので、新羅は孤立してしまう。そこで新羅は攻められないように自分から我が国に接近した。聖徳太子は遣隋使の前に新羅と同盟しなかったのは、この事態を見抜いていたからである。まさに先見の明であるが、その聖徳太子ですら読めなかった時代の大きな流れがあった。周囲からの圧迫を受け追いつめられた新羅は、常識では考えられない行動に出る。それが新羅にとっては起死回生となり、日本にとっては不幸を招くことになる。

 

6 聖徳太子の死後

 聖徳太子は推古天皇の摂政になると、内政・外交ともに大活躍を見せた。晩年は政治から遠ざかり仏教に重きを置くようになっていた。蘇我氏と対抗できなくなったためとも言われる。生前「世間虚仮、唯仏是真」と語っていた。その聖徳太子が622年に49歳で死去すると、聖徳太子の死去を待っていたかのように、蘇我氏の横暴が再び始まった。

 蘇我馬子は推古天皇に対し、蘇我氏がかつて所有していた推古天皇の所有地・葛城(奈良県)の返還を迫った。推古天皇は馬子の要求に次のように拒否する。

「私は蘇我の血を引き、馬子は私の叔父でもある。しかし公の土地を私人に過ぎない馬子に譲っては、後世の人に私が愚かな天皇と言われるのみならず、馬子も不忠な人物と後ろ指を指されてしまうう」。

 このような高い見識を持った推古天皇も628年に75歳で崩御された。馬子は推古天皇の崩御2年前に亡くなっており、このように620年代に聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇が相次いで亡くなっている。政治の実権は馬子の子である蘇我蝦夷が握っていた。

 推古天皇が崩御すると、後継について朝廷内の意見が分かれた。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声があったが、蘇我蝦夷は田村皇子(たむらのみこ)を推していた。田村皇子は馬子の娘を妻としていたため、義兄弟に当たる蝦夷は田村を支持した。蘇我蝦夷は田村皇子の子で蘇我氏の血を引く古人大兄皇子への中継ぎという思惑があった。一方の山背大兄は聖徳太子の子のため煙たがられ、結局は田村が即位して舒明天皇になった。

 

7 大化の改新

乙巳の変前

 641年に舒明天皇が崩御されると、また後継ぎの問題となった。皇位継承者は山背大兄皇子(聖徳太子の子)、古人大兄皇子(舒明天皇の子)、あるいは中大兄皇子の3人であった。古人大兄は蝦夷の姉妹の子であり甥に当たるため、蝦夷は古人大兄を支持した。しかし、一方では山背大兄を推す勢力もあった。

 ここで一時しのぎに舒明の后であった宝皇女を即位させることになった。舒明天皇の皇后である皇極天皇として即位された。二人目の女性天皇の誕生であった。蘇我蝦夷はこの女帝に横暴に振舞っていた。天皇にしかできない農耕儀礼に口を出し、天皇に替わって雨乞いをしたり、蝦夷は天皇に無断で入鹿に 大臣の位を譲ったりした。政治の実権は蝦夷の子の蘇我入鹿に移り、蘇我氏の勢力は皇室をしのぐほどになっていた。

 皇極天皇を後継にしたのは蘇我入鹿で、蘇我入鹿は自分の意のままになる天皇を選び、政治の実権を握ろうとした。蘇我入鹿にとって優秀な山背大兄王の存在が邪魔だった。

  643年、父親の蘇我蝦夷から大臣の地位を独断で譲りうけた蘇我入鹿は、後継者として邪魔な山背大兄王を斑鳩で攻め立て、追いつめられた山背大兄王は妃や 子供達と一族全員が首をくくって最期をとげた。ここに聖徳太子の血は途絶え、山背大兄王の死が大化の改新へとつながっていった。

 蘇我蝦夷 は入鹿が山背大兄王を殺害したことにに激怒するが、入鹿には通じなかった。新しく建てた自分の家を「宮門」(みかど)と名付け、自分の息子を「皇子」と呼 ばせ、まるで自分が天皇でもあるかのようにやりたい放題であった。蘇我氏が専制を強めることに氏族らも反発するようになった。当時の納税は、地方の豪族 が税(米)を徴集し、その一部を朝廷に納めていた。しかし一豪族である蘇我入鹿は朝廷をしのぐ勢いで、そのため天皇側は危機感をつのらせていた。

 その頃、か つて聖徳太子が派遣した留学生らが続々と帰国。隋や唐の政治制度を学んだ留学生らは「一部の豪族や皇族がそれぞれに土地や人民を支配している今 の制度では日本はダメになる。天皇を中心とした国家を作るべき」と動き出した。この天皇中心の政治は聖徳太子が理想として掲げていた政治体制で、 そのような国家を作るには蘇我氏を倒さねばならない。このような蘇我氏に対して「何とかしなければ」と思いをめぐらす人物がいた。動き出したのが中臣鎌足 31歳であった。

 中臣鎌足は蹴鞠(けまり)の会で中大兄皇子19歳に接近、ふたりは打毬の際に飛んだ中大兄の靴を鎌足が渡したことで話しかけたとされている。蹴鞠(けまり)は7世紀前半までに中国から我が国に伝わったとされており、貴族から武士、一般民衆に至るまで幅広く親しまれました。蹴鞠は優雅な遊びと見られていますが、鞠(まり)を高く蹴り上げるなど技術と体力を必要とする競技である。
 ある日のこと、飛鳥の法興寺の広場で、蹴鞠の会が盛大に行われていました。そんな中、一人の若い男性の皇子が高く鞠を蹴り上げたとき、勢いあまって履が脱げて鞠とともに宙を舞いました。履はある一人の男性の目の前に落ちました。男はすぐに履を拾い上げると、両手でささげるようにして持ちました。皇子の前まで行くと男はひざまずき、うやうやしく履を差し出すと、皇子も男の前でひざまずき、互いに目を見合わせ、笑みをかわしました。
これが、我が国の歴史の大きな転換点となった「大化の改新」を成しとげた二人の男、中大兄皇子と中臣鎌足との記念すべき出会いでした。

 中大兄皇子は、第34代・舒明天皇を父に、第35代・皇極天皇を母に持ち、次期天皇の有力候補者と見られていましたが、蘇我入鹿は自分の言いなりだった古人大兄皇子を立てるつもりでいました。幼少時から優秀かつ果敢な性格を称えられていた中大兄皇子にとっては、自分も将来は山背大兄王のような目にあうかもしれないという思いと、何よりも蘇我氏による専横をこれ以上黙って見ていられないという強い危機感を持っていました。
 中臣鎌足は、代々神事を担当した中臣氏の一族でしたが、我が国で仏教を受け入れるかどうかの問題で蘇我氏と対立し、以後は勢力が弱まっていました。彼もまた、蘇我氏のやりたい放題をこのまま見過ごしておけないという使命感に燃えていた。密か に心に秘めていた蘇我氏討伐を打ち明けた。
 蹴鞠の会によって出会うべくして出会った二人は、留学生として隋へ渡り、唐から帰国した留学生南淵請安(みなぶちのしょうあん)から教えを請うという形で何度も密会し、蘇我氏を打倒し唐に手本にした国作りを目指し、蘇我氏打倒の作戦を練り続けていました。二人は、蘇我氏の分家筋でありながら入鹿の専横を憎んでいた蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れることに成功し、石川麻呂の娘を中大兄皇子の妃とした。

乙巳の変

 「日本書紀」にこの時の様子が詳しく記してある。

 蘇我氏打倒の機会を虎視眈々とうかがっていた中大兄皇子と中臣鎌足に、絶好の機会が訪れました。朝鮮半島からの使者が貢物を届けるために来日し、天皇に面会する儀式が行われることになった。朝廷にとって重要な行事ですから、大臣の蘇我入鹿も必ず出席するはずである。これを好機と見た二人は、儀式の途中で入鹿を暗殺することとし、当日までに刺客を二人準備して、儀式が行われる大極殿の物陰に隠れていた。

 645年6月12日、大雨が降る中で儀式が始まった。朝鮮からの使者が朝廷に来ており、予定通りに現れた蘇我入鹿が現れた、普段から警戒心の強い入鹿は腰につけた刀をはずそうとしない。そこで鎌足は何とか言いくるめ入鹿に刀をはずさせることに成功し、入鹿の剣は宮中の道化に外させておいた。宮中の門を閉じさせて刺客2人を立て、石川麻呂が上表文を読むのを合図に斬りかかる手はずとなっていた。また中大兄は長槍をとり、鎌足は弓矢を持って待ちかまえていた。蘇我石川麻呂が上表文を読み始めた。計画では上表文を読んでいる途中で刺客が飛び出し入鹿を暗殺する手はずだった。しかし2人の若者は極度の緊張と入鹿の尊大さに怖じ気づいて斬りかからない。上表文に残された文字はあと数行分しか残されていない。「あと少しで読み終わってしまう」。焦った蘇我倉山田石川麻呂の声が乱れ、両手もガタガタ震え出すなど動揺していました。その様子を不審に思った蘇我入鹿が 「なぜ震えるのか」と聞くと、石川麻呂はしどろもどろに「天皇のお前なので、不覚にも緊張しまして」と答えるのが精一杯だった。「だめだ。もはやこれまでか」、中臣鎌足が観念したその瞬間、中大兄皇子凄まじい気合とともに飛び出して切り込んだ。 皇子が入鹿に向かって突進すると刺客たちも駆け出した。入鹿は皇子を含んだ三人がかりで攻められ、激しく斬りつけられ
入鹿は頭と肩を切られ、その場に倒れこんだ。「なぜ俺がこんな目に、何の罪があるというのだ」瀕死の重傷を負った入鹿は皇極天皇に向かって命乞(いのちご)をした。自己の目の前で繰り広げられた大惨事に、皇極天皇は思わず大声を上げられました。
「何事か、これは」、天皇の息子でもある中大兄皇子は、母でもある皇極天皇の前へ進み出ると、きっぱりと理由を述べました。「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして自分が皇位につこうとした大悪人ですから、誅殺したまでのこと」。理由を聞かれた皇極天皇は黙って席を立たれました。その間に刺客たちが入鹿に止めを刺し、ついに入鹿は暗殺された。
外は土砂降りの雨。入鹿の亡骸は、その雨の中で外に放置された。

 入鹿の死は、直ちに父親の蘇我蝦夷にも伝えられました。部下は逆賊になるのを恐れて次々と朝廷に投降していく。蝦夷は抵抗をあきらめ、翌日、「もはや、これまで」と屋敷に火を放ち自害した。こうして栄華を極めた蘇我氏の本家は、わずか一昼夜で滅亡した。

 朝廷内で絶大な権力をもっていた蘇我氏の栄光がわずか1日で崩れ去った。これがいわゆる蘇我氏打倒のクーデター乙巳の変である(645年)。間違いやすいのは蘇我氏を滅ぼしたこの事件を、かつては大化の改新と学校で教えていた。しかし現在では「大化の改新は蘇我氏を滅ぼしたあとに行った政策を指し、蘇我氏を滅ぼした事件は乙巳の変」と学校では教えているのでそれに従った

大化の改新

 乙巳の変が起きた直後に皇極天皇は第36代となる孝徳天皇に譲位されました。生前での天皇の譲位は初めてのことであった。中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となり、政治の全般を担当することになった。

 実権をにぎった中大兄皇子が行った改革を「大化の改新」とよぶ。天皇に即位したのは軽皇子で、50歳になる皇族の長老だった。中大兄皇子らは軽皇子を孝徳天皇に擁立し朝廷の改革に乗り出す。中大兄が天皇にならなかったのは儀礼の多い天皇よりが動きやすかったからである。また20歳の中大兄が天皇になれば、皇位を望んでのクーデターと後ろ指を指されることになる。孝徳天皇は皇極天皇の兄で中大兄皇子にとっては伯父であった。

 続いて朝廷内の役職の改革に着手した中大兄皇子は、従来の大臣・大連の制度を廃止し、代わりに左大臣・右大臣・内臣の制度を設けた。左大臣には阿部内麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、内臣には中臣鎌足をそれぞれ任じた。鎌足は内臣となったが、これは百済の政治制度を真似たもので天 皇・皇太子の補佐役である。これらの役職はもちろん皇太子より下位である。

 また隋から唐の留学生として新知識を身につけ、帰国した高向玄理(たかむこのくろまろ)と僧旻(みん)とを政治顧問の国博士に任じた。唐の政治制度は彼らが紹介したもので、同じ留学生で中大兄皇子と中臣鎌足に教えた南淵請安は国博士に任じられていないがが、亡くなっていたものと思われる。
改新の詔

 646年正月に中大兄皇子は「改新の詔」を公布し、新政府としての今後の方針を明らかにした。

【年号を定める】
 新しい政治を始めるため大化の年号を定めた。現在でいう平成、昭和、大正といったものである。大化が日本初の年号になるが法的根拠はなく実際には干支が使われていたらしい。年号が制度として確定するのは大宝律令が定められてからになる。

【公地公民の制】
 すべての土地は天皇に帰属するとして私有地の所持を禁止し、豪族が所有していた土地や民衆をすべて国家の所有とした。これによって天皇中心であることを世の中に知らしめた。豪族には代わりに食封(じきふ、給与)を与えることにした。ここに聖徳太子以来の悲願がついに達成されることになった。

【班田収授の法】

 公地公民の制で集めた土地を、農民に均等に貸し出した。農民はただで土地を貸して貰える一方で、土地の広さに乗じて年貢を治めなければいけなかった。与えられた土地を口分田といい、6歳以上の男子には二反、女子にはその3分の2が貸し与えられた。農民が年貢を治めるという概念は、今後江戸時代まで続く基になりました。

【租庸調制】
 戸籍や計帳をつくって民衆の状態をつかんだうえで税を課した。租(米)とは別に、庸(労働)、調(地方の特産品)を税として治めさせた。
【国郡里制】
 地方を国、群、里にわけてそれぞれに管理をする役人を任命して派遣しました。中央集権型国家の誕生であった。中央並びに地方の行政区画を明確にし、地方の行政組織や交通の制度を整えた。

 上記に示すように、中大兄皇子らは戸籍調査などを行い、日本を中国風の法治国家に大改造した。さらに税は全て朝廷に納められ、朝廷が地方の豪族へ分配する方法を取った。これにより朝廷の支配力が確固たるものになった。「改新の詔」は、それまでに実現しなかった強固な中央集権体制における国家をつくるための大原則をうたったものであり、以後はこれらの実現に向けて政治を行うことになりました。こうした一連の国政の改革を「大化の改新」という。

後記

 中大兄皇子改革は必ずしも順調に行われたとは言いがたい。理想に燃えた性急な改革は現実とかけ離れることが多く、伝統を重んじる他の有力者との間にはすきま風が吹き始めていた。例えば中大兄皇子が新たな冠位制度を導入した際に、左大臣の阿部内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が新しい冠の着用を拒否している。この影響なのか、649年に阿部内麻呂が病死すると、直後に石川麻呂が朝廷への謀反を疑われて自殺している。

 百済を支援するために、663年、天皇の権威を見せるため、朝鮮半島へ2万人の大軍を派遣した。これは13万人の唐・新羅の連合軍が百済に侵攻したためであった。しかし白村江の戦いで日本は大敗した。中大兄皇子が始めて挫折する戦いであった。「日 本書紀」を読む上で注意すべきは、日本書紀は大化の改新を行った側の視点で書いたということである。それゆえに大化の改新に関する記述をそのまま信じるのは危険である。例えば大化の改新が日本を中央集権の法治国家に進化させたとしているが、日本はそれ以前から法治国家への改造が進んでいて、中大兄皇子はその成果に便乗したに過ぎない。また大化の改新に対する民衆の評判が頗る悪く、各地で反乱が恒常化している。

 「日本書記」に登場する蘇我氏の実力者は、馬子、入鹿、蝦夷など、みな酷い名前である。これは、中大兄が彼らをわざと汚い名前で冒涜した可能性がある。当時の日本人は「言霊(ことだま)」を強く信じ、犯罪者に汚い名前をつける習慣があった。政敵を貶め、本名ではなく蔑称を記述するのが「日本書紀」の目的だった可能性が高い。

 大化の改新は宮廷クーデターで、中大兄皇子は蘇我氏暗殺以外に皇位を望めない人物だった可能性がある。そのために革命成功後もなかなか即位することができなかった。彼の重臣の子孫は「日本書紀」を書いて中大兄皇子の正当化を宣伝したのであろう。

 大化改新の後、政治の中心は中大兄皇子であった。653年、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すことを孝徳天皇に申し出るが、飾りにすぎない孝徳天皇は遷都に反対した。そのため中大兄皇子は母の皇極上皇、大海人皇子、間人皇后(孝徳天皇の皇后)や有力な家臣を連れて飛鳥に戻ってしまう。孝徳天皇は難波の都に取り残されて、翌年、難波にて寂しく崩御された。

8 大化改新の後

  655年、母親の皇極天皇に再び皇位についた。第37代の斉明天皇の誕生である。一度退位された天皇が再び即位されることを重祚(ちょうそ)という。斉明天皇は北の蝦夷(えみし)を抑えその権力を内外に示そうとした。さらに都の整備を行い、溝造りに3万人、石垣造りに7万人を使い、659年に石と水の都を建設した。

  しかしこの土木工事は豪族たちの反感を招き、孝徳天皇の皇子で次期天皇の有力候補有間皇子のもとに政治の不信・不満を持った豪族たちが集まった。658年10 月、斉明天皇は中大兄皇子らと温泉に出かけ、蘇我赤兄(そがのあかえ)が留守を預かっていた。この時、蘇我赤兄は有間皇子に斉明天皇の悪政を語り、11月5日、 今度は有間皇子が赤兄宅を訪問して謀反の相談をする。するとその夜、赤兄は有間皇子を捕らえ、行幸先の温泉に連行した。19歳の有間皇子は謀反の企てにより処刑 された。(有間皇子の変)

 中大兄皇子は己の威信を高めるために外交戦略を強行した。すなわち唐と新羅の連合軍に攻められている同盟国百済を助けるため大軍を派兵したのである。しかし唐・新羅と正面からぶつかった日本軍は白村江の戦いで壊滅的な大敗を喫し(663年)、百済と任那は新羅に 滅ぼされた。ここに日本は建国以来最大の危機を迎えた。唐と新羅の連合軍が日本に攻めてくる可能性があった。中大兄皇子は百済からの亡 命者を大量に受け入れ、北九州沿岸に朝鮮式の城塞を築かせ、これが今でも博多郊外に残る水城や大野城である。

 大陸からの唐と新羅の侵攻は起こらな かった。これは唐と新羅が仲たがいして抗争状態に入ったからである。しかし中大兄皇子の政治的威信は地に落ち、豪族たちが朝廷から離反しそうになった。このとき大 海人皇子が奔走して豪族たちの心をつなぎとめた。これにより大化の改新は挫折することなく中大兄皇子は政策を進めることができた。

 668年5月、中大兄皇子は即位し天智天皇(大王)となる。天智天皇は即位すると都を琵琶湖のほとりの大津に移す。天皇(大王)の権力を確固たるものにするために、唐から様々な制度を導入した。

 670年、日本で初めて戸籍を導入し、盗賊と浮浪の取り締まりをおこなった。大津は琵琶湖を渡り日本海へ抜けて唐へ行くことができて地理的に有利であった。また大津一帯は、渡来人・大友氏の地盤であった。天智天皇は自分の長男(大友皇子)を大友氏に預け、その庇護を受けさせた。長男の大友皇子の名前は大友氏の名から付けられた。大友皇子が成長するにつれ、天智天皇は次期天皇を息子に継がせようとした。それまでの天皇は、一族の皇子のなかから経験や実績を考慮して決められていた。しかし天智天皇は皇位継承の条件を従来の実績ではなく、唐にならった嫡子相続制、すなわち血統を優先しようとした。それまでの慣例だった兄弟の皇位継承から父子直系相続に変えることにする。もちろん自分の息子が可愛かったからであった。太政大臣の職を新たに作り、左大臣に蘇我赤兄、右大臣に中臣金を任命し、長男大友皇子を優遇するための準備を始めた。

 天智天皇の弟・大海人皇子はこの人事に不満だった。自分こそが次期天皇(大王)を自負していたからである。それまで次期天皇としての役割を担い、天智天皇を補佐して政治の中心にいた。しかも当時の皇位継承は母親の血統や后妃の位が重視されていたが、大友皇子は身分の低い側室の子であった。絶大な権力を誇った天智天皇への反動から、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成されていた。 

 

9 百済と倭国 

 6世紀、大陸の文化は百済を経由して倭国(日本)に伝わってきた。韓国には前方後円墳があり、古墳からの出土品が日本のと似ていることから、日本からも高官が百済に渡っていたと推測されている。当時の飛鳥政権は百済重視の外交をしており、百済の王子・豊璋(ほうしょう)が飛鳥の朝廷で重用されていた。

 隋が618年に滅んだ後の唐は、朝鮮半島全体を支配下に置くため陸続きだった高句麗を攻めた。高句麗は唐の猛攻をはね返すと、百済と結んで新羅を攻め立てた。新羅の武烈(ぶれつ)王は高句麗と百済の両方から攻められた上に日本から支援も得られず、唐との軍事同盟を選択した。これで新羅は高句麗や百済と戦いやすくなるが、高句麗や百済が滅んだ後は、唐は新羅のみを滅ぼすことが可能となった。唐にとって遠く(新羅)の相手と結んで、近く(高句麗・百済)の敵を倒す(遠交近攻)であった。

 新羅は滅亡を免れるため唐と同盟を結び、唐の属国をアピールするために自国の文化を捨て唐のマネを始めた。民族の風俗や服装、官制や年号まで中国風に改めた。まさになりふりかまわぬ究極の政策だった。655年、朝鮮半島北部で唐と高句麗が戦いが始まり、南部では百済が新羅へ侵攻した。そのため新羅は唐に援軍を求めた。

 唐は新羅の軍とともに百済の都であった扶余(ふよ)に攻め入り、百済の義慈王(ぎじおう)は降伏し百済は滅亡する。百済の滅亡は日本にとって大きな衝撃であった。唐は百済を統治するが、百済の有力貴族等は反乱軍を結成し、その中心人物が鬼室福信(きしつふくしん)だった。

 660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるため「倭国にいる王子(豊璋)を国王につかせたいので挑戦に送還してほしい。倭国から百済の復興のための援軍を送ってほしい」と訴えてきた。百済とは300年に及ぶよしみがある上、唐の圧力は日本にまで及びかねなかった。このことから斉明天皇は百済王朝再建のための要請を受けると、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにする。各地から武器を調達し、兵を集めながら筑紫へ向かった。同行者は中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中臣鎌足など多数の従者がいた。飛鳥から筑紫への大移動となったが、斉明天皇は病のためその年の夏に68歳で崩御された。斉明天皇の崩御後は中大兄皇子が即位しないまま政治を行い、1年近い準備を重ね兵27000人の大軍を百済に送り込んだ。

白村江の戦い

 朝鮮半島南西にある白村江(はくそんこう)は、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺で、663年、この白村江日本・旧百済の連合軍VS唐・新羅の連合軍が2日間にわたって壮絶な戦いが行われた。

 倭国・百済連合軍は、百済軍が立て籠もる周留城を救援するために大船団をくみ向かったが、白村江で大型の戦船170艘で待ち伏せる唐の水軍に行く手を阻まれた。倭国・百済連合軍は軍隊を上陸させるために唐水軍の封鎖線を突破する以外に道はなかった。白村江河口の唐・新羅軍に対して中央突破となった。倭の水軍は船の数は唐の水軍より勝っていたが、小舟で構成された船団にすぎなかった。海流に逆らい、風に逆らい、4回突入を試みたが、唐の水軍は倭の船団を挟み撃ちにすると火玉や火矢を射かけてきた。倭の船団は火玉や火矢を受け、風にあおられてつぎつぎに炎上していった。突破口を開くどころか400艘を焼かれ、兵士たちは争って海に飛び込んだ。

 倭国・百済連合軍の作戦は「我先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて精神論的なものであった。中国の歴史書に「倭国の船400艘が燃え上がり、煙は天を覆い、海は赤く血で染まった」と書かれるほど激しい戦いであった。白村江の戦いは中国の歴史書「旧唐書」だけでなく、わが国の「日本書紀」にも韓国の「三国史記」にも詳しく記されている。

 九州の豪族・筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられ、捕虜として8年間唐に抑留され帰国を許されている。白村江で大敗した倭国水軍は、倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われながらやっとのことで帰国した。

 中大兄皇子は唐と新羅が日本に攻めてくることを恐れた。そこで大宰府を守る為に水城(みずぎ)をつくり、瀬戸内海沿いの西日本(長門、屋嶋城、岡山など)に山城の防衛砦を築き、九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに667年に都を難波から内陸の近江京へ移した。

 唐・新羅軍が日本に攻め込んでくることはなかった。唐・新羅軍にすれば百済を倒しても朝鮮半島にはまだ高句麗が残っていた。高句麗を攻略することが先決で、日本を攻めるほどの余力はなかった。高句麗を攻めている間に日本が攻めてきたら面倒と考え、日本に和睦を求めてきた。日本の和睦後に、唐・新羅軍は高句麗を攻め、676年に高句麗は滅芒した。

 もちろん唐は次に新羅と戦うことになるが、新羅は巧みな謝罪外交と小競り合いを繰り返していた。その頃、旧高句麗領の北部に渤海が建国され、唐の内乱もあり、唐は朝鮮半島の支配をあきらめ、新羅が朝鮮半島を統一した。

 日本は新羅と敵対関係にあったが、新羅が唐からの防波堤となった。我が国は朝鮮半島に独立国が存在している限り、中国からの侵略を受けずに済んだのだった。

10 壬申の乱

 壬申の乱は古代日本最大の内乱でありクーデターだった。

 天智天皇が病に臥せると皇位継承が問題となった。671年10月17日、天智天皇は弟の大海人皇子を枕元に呼ぶと、大海人皇子に次期天皇(当時はまだ王位、天皇という言葉はなかった)を譲ると伝えた。

 この天智天皇の言葉は本心ではなかった。この年,天智天皇は太政大臣に大友皇子を指名し,次の天皇にすることを決めていたのだった。自分を試していると受け止めた大海人皇子は「皇位を譲る」と言われても,返答によっては命すら危ないと感じた。次期天皇に大友皇子を推挙し、自分には天皇になる意志がないことを伝えると,髪を切って出家を申し出た。天智天皇の内心を見抜き、やわらかく拒否したのである。

 2日後、大海人皇子は武器を朝廷に返上すると,大津宮を去り奈良の吉野へ隠遁する。宇治橋まで見送った舎人(とねり)たちは,去っていく大海人皇子を見て「翼のある虎を野に放したようなものだ」と言った。671年12月、天智天皇が46歳でご崩御なされると、大津宮で実権を握った24歳の大友皇子は、危険な大海人皇子を滅ぼそうと兵を集めた。

 672年5月、吉野に緊急の事態が知らされた。近江朝廷が天智天皇の陵を造ると言って美濃と尾張の農民を集め,武器を持たせているということだった。また大津から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,吉野への道を塞ぐ動きも伝わってきた。

 大海人皇子は自分に危険が迫っていて,今こそ決断の時と考えていた。そのためには安全な地へ身を移さなければいけない。大海人皇子は自分の私領地のある美濃への脱出を決意する。さらに東国の豪族たちを味方にするように準備を進めた。大友皇子の軍勢より多くの兵を集めることが勝敗を決すると考えていた。

 672年6月24日、大海人皇子は吉野を出て美濃へ向かう。少ない人数で、昼夜を歩き伊賀(三重県)の名張へ着いた。名張に着いて兵を集めようとするが、名張郡司は出兵を拒否した。伊賀の東部は大友皇子の母の出身地(現大山田村)であった。いつ敵に襲われても不思議ではなかった。空には不気味な黒雲が漂い、雷が鳴り響いていた。

 「これから天下が二つに分かれようとしているが、自分が最後には天下を得るだろう」大海人皇子がこのように呟いた直後、伊賀の長が数百の兵を引き連れて大海人皇子の下に馳せ参じた。さらに美濃、伊勢、熊野などの豪族が参戦し、積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で息子の高市皇子の軍と合流することができた。さらに伊勢国でも兵を得て美濃へ向かった。美濃では多品治が既に兵を興し、不破の道を封鎖していた。大海人皇子は7月2日に軍勢を二手にわけ、大和と近江の二方面に送り出した。

 大友皇子は大海人皇子が吉野を脱したことを知ると、家臣が「ただちに騎馬兵を差し向けて大海人皇子を殺すべし」と忠告するも「大海人皇子を殺すより、これを機に大海人皇子に味方する勢力を一掃すべき」と考えていた。

 近江朝廷の大友皇子は、東国、吉備、筑紫(九州)に兵の動員を命じたが、東国の使者は大海人皇子の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では総領の気持ちを動かすことができなかった。筑紫では外国に備えることを理由に出兵を断ってきた。それでも近江朝廷は諸国から兵力を集めることができた。

 大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が兵を集めたが、大伴吹負が挙兵して朝廷部隊の指揮権をうばった。大伴吹負は近江朝の軍と激戦を繰り広げ、近江朝の方が優勢で吹負の軍はたびたび敗走した。しかし吹負は繰り返し軍を再結集して朝廷部隊と戦い、紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。

 近江朝の軍は美濃にも向かったが、指揮の足並みが乱れ前進が停滞した。村国男依に率いられて直進してきた大海人皇子側の部隊は連戦連勝で進撃を続けた。7月22日、最後の決戦が瀬田橋で起きた(瀬田の唐橋の戦い、滋賀県大津市唐橋町)。唐橋を挟んで東側に村国男依の軍,西に大友皇子率いる朝廷軍が構えた。多くの朝廷軍が村国男依の軍を待ちかまえ、弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち,矢が雨のように落ちてきた。朝廷軍は橋の中程の板をはずして敵を落とす仕掛けをつくっていた。しかし大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)がわなを見破り、弓矢の中を突撃してきた。それに続いて村国男依の軍が一気に対岸を目指してつっこんできた。そのため朝廷軍は総崩れとなった。唐橋の決戦は村国男依の軍が朝廷軍を破り、朝廷軍は敗走して大友皇子は長等山から大津京を眼下に見て自害した。

 673年2月、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位した。近江朝廷が滅び、都は再び飛鳥に移された。大海人皇子は即位して天武天皇となった。天皇の名称は歴史上始めて使用された。神話の時代から続く歴代大王はすべて天皇と新たに呼ぶことになった。

11 律令体制
 壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)で即位され、第40代の天武天皇となった。天武天皇は大臣を置かずに自らが先頭に立ち政治を行った。豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には皇族出身者を中心とした新たな身分制度・八色の姓(やくさのかばね)を定めた。その他にも中国にならった律令や我が国の国史の編纂を始め、日本初の銭貨となる富本銭(ふほんせん)の鋳造を行った。
 外交面では新羅との国交を回復させ、遣新羅使を何度も派遣して、唐との国交を一時的に断絶した。日本は新羅をはさんで、唐との外交関係修復に時間を費やすことができた。遣唐使の復活は8世紀まで待つことになる。
 天武天皇は天皇中心の強い国家体制の確立を目指していた。中国にならい本格的な都である藤原京の造営を開始したが、その完成を見ることなく686年に崩御さた。天武天皇が崩御なされると、皇后であり天智天皇の娘でもある菟野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が、天武天皇と自分の間の子である草壁皇子(くさかべのおうじ)の成長を待って、称制(次期天皇後継者が即位せずに政務を代行すること)によって政治を行った。しかし草壁皇子が先に死去したため、690年に自らが即位され、第41代の持統天皇となった。
 持統天皇は天武天皇の諸政策を引き継ぎ、689年には法典である飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍(こういんねんじゃく)がつくられた。694年、天武天皇の時代に造営が始められた藤原京が完成し飛鳥浄御原宮から遷都された。
 大化の改新以来、我が国が目指していた律令国家の大事業はほぼ完成に近づいた。697年、持統天皇は草壁皇子の子で、自身の孫にあたる第42代の文武天皇に譲位され、703年に崩御された。持統天皇は天皇として初めて火葬にされた。

 文武天皇の治世の701年、我が国初の本格的な法令である大宝律令が、天武天皇の子である刑部親王や藤原鎌足の子である藤原不比等によって完成した。律とは刑罰の規定で、令とは行政法や民法などの法規のことである。唐にならって作られた大宝律令は、その後長く我が国の基本となった。
 当時の中央組織は、神々の祭りをつかさどる神祇官と、行政全般を担当する太政官に大別され、太政官の下で大蔵省などの八省が政務を分担していた。また行政の運営は太政大臣などの太政官の合議で進められた。
 地方の組織は、畿内と東海道などの七道に区分され、その下に地方行政区である国や、郡、里があり、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。国の要地である京や難波には左・右京職や摂津職が置かれ、九州には大宰府が置かれた。国司は中央の貴族が6年の任期で派遣され、郡司や里長は在地の有力者が任命された。
 中央・地方の役人は、正一位などの位階に応じて官職に任じられた。これを官位相当制という。位階や官職に応じて、封戸(ふこ)・田地(でんち)・禄(ろく)などの給与が与えられ、上流貴族は一族の地位を維持させるために五位以上の子は父の位階に応じた位階を与えられる蔭位の制(おんいのせい)があった。
 律令制における身分制度としては、良民と賤民に大別され、賤民は五種類の区別があり、官有の陵戸(りょうこ)・官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)と、私有の家人(けにん)・私奴婢(しぬひ)に分けられ、これらを五色の賤(ごしきのせん)という。
 さらに刑罰は、五刑と八虐がり、五刑は苔(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死のことで、それぞれ苔は細いムチで打つ刑、杖は太いムチで打つ刑で、徒は現在の懲役刑で、流は流罪に相当し、死は文字どおり死罪のことである。八虐は天皇や国家、尊属(自分より上の親族のこと)に対する罪のことで、これらは有位者でも減刑されずに重罪となった。
 民衆は6年に1度作成される戸籍、あるいは課税の台帳に毎年登録されて口分田が支給された。口分田は売買が禁じられ、死亡した場合は6年毎の調査によって国に取り上げられた。この制度を班田収授法という。
 税負担は租(そ)、庸(よう)、調(ちょう)、雑徭(ぞうよう)があった。租は口分田からの収穫の3%を税として負担することで、庸は都で10日働くか布を納める制度で、調は各地の特産品を納めるものであった。庸や調による納税品は自費で都まで運ぶ義務があり、これを運脚といった。また雑徭は一年に60日間(のち30日間)国司の命令で働く労役制度だった。
 この他、春に稲を貸し付け、収穫時に高い利息とともに徴収する公出挙(くすいこ)があり、国の重要な財源となった。しかし公出挙は年5割~3割という重い負担で民衆を苦しめることになった。私的に行われた私出挙(しすいこ)は、年率が10割という厳しいものであった。

 治安と国防にも民衆の力が必要だった。そのため成年男子3~4人に1人の割合で徴集され、京の警備には衛士(えじ)が、諸国には軍団が置かれ、九州沿岸の警備は防人(さきもり)が任じられた。兵士たちは食料と武装を自分で調達し、経済的な負担が重かったが、庸や雑徭などの一部の税負担は免除された。

12 白鳳文化
 白鳳文化は大化の改新から平城京遷都までに花開いたおおらかな文化である。法隆寺の建築・仏像などの飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺などの天平文化との中間に位置する。天武天皇・持統天皇の時代の律令国家の気運の中で生まれた若々しい文化である。また20年毎に新殿を造営する伊勢神宮の式年遷宮や、天皇が即位された年の新嘗祭などの儀式が整えられた。
 また仏教の力で国家を鎮護する傾向が強まり、大官大寺(大安寺)や薬師寺などの大寺院が造営された。さらに遣唐使がもたらした唐文化の影響を受けた興福寺の仏頭などの彫刻が見られ、絵画ではインドの影響を受けた法隆寺金堂壁画や、鮮やかな彩色が特徴の高松塚古墳壁画がある。
 文芸では中国的教養を吸収して漢詩が盛んになり、日本古来の歌謡から生まれた和歌も五七調の長歌や短歌の形式が整えられた。額田王、柿本人麻呂らが活躍し奈良時代の「万葉集」に収録されている。
高松塚古墳
 1972年、高松塚古墳(明日香村の円墳)の玄室の壁に彩色壁画があることがわかった。当時の人物の様子がリアルに描かれ、壁画は中国や朝鮮半島の影響が見られ、天井には星宿図、北面に玄武、東面に青竜と人物群、西面に白虎と人物群が描かれていた。しかし壁面が公開されるとカビやダニによって痛みが目立ち始め、古墳を解体して修復・保存が行われている。高松塚古墳の南方約1kmにあるキトラ古墳(亀虎古墳)も同様で、玄室内の四面に四神が揃って描かれ、複数描かれている獣頭人身像は十二支である。壁画の痛みが激しく修復作業が進められている。
法隆寺金堂壁画
 金堂壁画とは金堂の柱間に12面あった仏教絵画で、釈迦・阿弥陀・弥勒・薬師の各如来の4浄土を描いた大壁4面が有名だった。しかし1949(昭和24)年、火災にて焼損した。壁画の模写作業で使用した暖房器具の電源の切り忘れか漏電が原因とされている。なかでも西6号壁の阿弥陀浄土図は有名で、日本史の教科書に掲載されていた。法隆寺金堂壁画といえば思い浮かべるほど有名で作品だった。
月光菩薩の首切り事件
 薬師寺金堂薬師三尊像の月光菩薩像の首の部分に亀裂が走っていた。この亀裂は時を経るにしたがい次第に大きくなり、1952(昭和27)の吉野地震によって亀裂は悪化した。調査した文化財保護委員会(文化庁の前身)の技官は「このままでは首があぶない、頭部をおろした方がよい」と判断、なかごの鉄心を切って頭部をおろしたのだった。しかしこれを知った人たちは「月光菩薩の首が切られた」と大騒ぎになった。

 頭部が落下しないように応急処置を施し、修理方法を慎重に検討しての処置であったならば、これほど騒ぎになることはなかった。文化財保護委員会には専門家をはじめ、人びとの批判が相継いだ。国は専門家を集め協議し、内枠固定法と金属接着剤とを併用する方針をたて月光菩薩の修理を行うことを決めた。月光菩薩像はこのような経過で現在の姿に蘇ったのである。

左上、高松塚古墳。左、高松塚古墳の玄室。上、玄室の彩色壁画
左上、高松塚古墳。左、高松塚古墳の玄室。上、玄室の彩色壁画
上、法隆寺阿弥陀浄土図。左上段、現在の法隆寺。左火災時の現場と新聞
上、法隆寺阿弥陀浄土図。左上段、現在の法隆寺。左火災時の現場と新聞
左、薬師寺。上上段、月光菩薩像。上、月光菩薩の修正前の首の部分
左、薬師寺。上上段、月光菩薩像。上、月光菩薩の修正前の首の部分