平安時代2

1 武士団の形成と地方の反乱 

 日常生活を安心して暮らすせることが何よりも大切であり、生命の危険と隣り合わせで生きているのは辛いことである。過去の日本では治安が大いに乱れた時代が少なくとも2回はあった。一つは云うまでもなく戦国時代で、身分の上下とは関係なく力があれば出世ができた時代で、多くの人々の血が流れた。ではもう一つの「治安が乱れた時代」は、意外にも「平安時代」だった。

 桓武天皇が「我が国の平安」を願って名付けられた平安京なのに、その実態は「平安」とは名ばかりで治安は悪く、一般の庶民にとっては地獄のような過酷な有様だった。

 それは桓武天皇によって軍隊が廃止され、嵯峨天皇によって死刑が廃止されたからである。桓武天皇が軍隊の廃止に踏み切ったのは、東北地方の蝦夷の征討が一段落したことで、国内の争乱がほとんどなくなり、滅多に起こらない戦争に備えて軍隊を常時持つことが不経済だったからである。

 軍隊廃止の替わりに置かれた警察組織・検非違使によって、朝廷周辺では文字どおりに平和が続いたが、それでも血を流すことが避けられず、また死と常に隣り合わせであった。軍事自体が血を流すことから「ケガレ」として嫌われ、嵯峨天皇が死の象徴でもあった死刑の廃止を決断した。

 検非違使が存在した朝廷周辺では曲がりなりにも治安が保たれたが、地方での治安は荒れていた。本来は地方の行政官として置かれた国司には警察としての能力を期待されたが、事実上警察力が存在しなかった。当時の国司は、自らの私腹を肥やすことが中心だったので、地方の警察としての役割をはたしていなかった。仮に警察組織が存在したとしても、荘園が劇的に増加し、国の収入が著しく減った現状では警察組織を維持するのも不可能であった。

 警察力や防衛力が存在しない世の中は、結局は力の強い者の天下となる。弱者は強者によって常にひどい目にあわされ、地獄の日々を送ることになる。加えて「中央権力によって殺されない」という死刑の廃止は、治安が乱れた世の中ではかえって犯罪の増加を生み、強盗や殺人事件などが多発した。

 このような乱れた世の中で、弱者は強者のなすがままにやられていた。誰の助けも期待できなず、泣き寝入りに終わっていた。

 桓武平氏の一族は早くから東国に土着していたが、その一人である平将門は下総国千葉県北部)を根拠地に武力を蓄えていた。将門は一族と争いを繰り返すうちに、やがて国司に反抗するようになり、939年には常陸国(茨城県)の国府を攻め落として反乱を起こした。この戦いを「平将門の乱」という。

 将門はその後も下野国(栃木県)や上野国(こうずけのくに、群馬県)の国府も攻略して関東の大半を占領し、自身が桓武天皇の子孫であることから新皇と自称した。しかし、翌940年に同じ東国の武士である平貞盛や藤原秀郷によって将門は滅ぼされた。

 同じ頃、西国でも伊予国(愛媛県)の国司であった藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国の国府や大宰府を攻め落とした。こちらの戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれている。藤原純友の乱は941年に清和源氏の始祖である源経基や小野好古によって鎮圧された。ちなみに小野好古は遣隋使で有名な小野妹子の子孫である。

 同じ時期に東西で起きた二つの反乱は、乱自体は制圧したものの、軍事力の低下が明らかとなった朝廷に衝撃を与え、地方武士が一層強化されるきっかけにななった。この二つの乱は当時の年号から承平・天慶の乱(じょうへいのらん)とも呼ばれている。

 地方武士の実力を知った朝廷は、彼らを侍として奉仕させ、9世紀末に設けられた滝口の武士(たきぐちのぶし)として宮中の警備に用いた。つまり武士たちをガードマンとして雇うようになった。「さむらい」という言葉は、身分の高い人のそばで仕えることを意味する「さぶらふ(さぶらう)」が由来である。

 地方の国司も盗賊などを捕まえる追捕使(ついぶし)や、内乱が起きた際に兵士を統率する押領使(おうりょうし)として武士を使用するようになった。平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は押領使として、藤原純友の乱を鎮圧した小野好古は追捕使としてそれぞれ任命され戦っている。

 このように軍隊を持たなかった朝廷や国司は、治安の維持のために武士を積極的に利用するようになる。武士は朝廷の求めに応じて各地の反乱を鎮圧するのが主な役目で、朝廷を脅やかすほどの実力には至っていない。承平・天慶の乱から約100年後に藤原道長や藤原頼通らが栄華の頂点を極めたのが何よりの証拠である。武士団の更なる成長は、藤原氏の栄華が終わった時代にやってくる。

 余談であるが、平将門は若い頃に藤原忠平に仕え、その縁で滝口の武士として雇われている。朝廷に仕える武士であった将門が、やがては朝廷に対して反乱を起こしたわけで、何とも皮肉な話である。「滝口の武士」と紛らわしいが、11世紀に北面の武士、13世紀の西面の武士である。

 

6 武士団の結成

 平将門の乱から約90年後の1028年、将門の遠縁にあたる平忠常が強大な武力を背景に上総国で反乱を起こした。乱は3年続いたが、清和源氏の血を引く源頼信によって倒された。この戦いを平忠常の乱という。

 清和源氏は10世紀前半の武将で藤原純友の乱の鎮圧に参加して名をあげた源経基を始祖としている。源経基の子である源満仲は摂津国多田(兵庫県川西市多田)に土着していたが、969年に起きた安和の変(あんなのへん)で謀反を密告し源高明を失脚させた功績によって摂関家に接近した。

 源満仲の子の源頼光は各地の国司を歴任し、その際に蓄えた財産を利用して藤原道長の側近として仕えることによって、武家の棟梁としての地位を高めた。

 源頼光の弟にあたるのが、平忠常の乱を鎮圧した源頼信であった。忠常の反乱によって平氏の勢力が衰えた一方で、源氏は頼信の活躍によって東国における勢力を広げることになった。

 平安時代の後半から武士が少しずつ実力を蓄え、東国をはじめとして各地で勢力を広げていくが、これらは突然に起きたのではなく、様々な出来事が重なりあって自然と拡大していった。

 平安時代初期に坂上田村麻呂によって蝦夷が征服されて以来、東北地方は陸奥と呼ばれ、朝廷の支配下に置かれたが、この頃の東北地方は金や銀などの貴金属や、毛皮などの珍しい物産の宝庫であり繁栄を極めていた。

 このような豊富な経済力に支えられて、東北地方では現在の太平洋側を安倍氏が、日本海側を清原氏が支配し、その力は強大していった。

 1051年、安倍氏の棟梁であった安倍頼時が反乱を起こした。朝廷では源頼信の子である源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任じて、頼義の子である源義家とともに鎮圧を命じたが、朝廷側についていた、平将門を滅ぼした藤原秀郷の子孫藤原経清(つねきよ)の寝返りもあって朝廷側は苦戦し戦いは長期化した。

 源頼義は同じ陸奥の豪族である清原氏に協力を求め、清原氏がこれに応じ戦局は一変し、1062年に安倍氏や藤原経清が滅ぼされた。1051年から1062年まで続いた安倍氏による一連の反乱を前九年の役と呼ばれている。

 安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(陸奥)の覇者となった。滅ぼされた安倍氏の中で流罪となった子孫が九州の武士団として活躍したと伝えられ、その血脈は現代にまで残り、内閣総理大臣の安倍晋三衆議院議員が相当する。

 さて前九年の役に朝廷に味方した清原氏は、戦後の恩賞によって陸奥一体の支配権を与えられ、棟梁の清原武則が鎮守府将軍に任ぜられ、前九年の役は清原氏にとって最大の利益をもたらした。また滅ぼされた藤原経清の未亡人が、武則の子の清原武貞(たけさだ)の妻として新たに迎えられた。

武貞には既に嫡子(跡継ぎ)である清原真衡がいたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡を養子とし、また未亡人との間に清原家衡(いえひら)が生まれた。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらした。

 兄弟同士の不仲が清原氏の内紛を引き起こし、ついには兄弟同士での戦乱になってしまった。1083年から1087年まで続いたこの戦いのことを、後三年の役という。さて、この内紛に乗じて源氏による陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して後三年の役に積極的にかかわった。

 戦いは1087年に藤原経清の遺児である清原清衡が勝利して終わるが、言わば清原氏の私闘に参加しただけの源義家には朝廷から何の恩賞も与えられず、陸奥守の官職も1088年に辞めさせられた。

 途方に暮れた義家は、自腹を切って部下に恩賞を与えたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰ぐ深い信頼関係が生まれました。前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのになぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては、様々な説が挙げられている。

 後三年の役の勝者となった清原清衡は源義家が東北を去った後に藤原氏に復姓し、豊富な資金力で、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらいました。

 藤原清衡は奥州の平泉を本拠地として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(もとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏が全盛を極める礎を築きました。

さて、平忠常による反乱以来ふるわなかった平氏でしたが、桓武平氏の流れをくむ伊勢平氏が次第に頭角を現しました。源義家の子である源義親(よしちか)が1107年に出雲(島根県東部)で反乱を起こした際に、義親を滅ぼした平正盛は、白河法皇の厚い信頼を受けて北面の武士として登用され、正盛の子の平忠盛も瀬戸内海の海賊を討ったことで鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿(しょうでん、朝廷の内部深く入ること)を許されました。

忠盛が主として西国を中心に多くの武士を従えて、平氏が繁栄する基礎をつくった一方で、源義親の乱が起きてからの源氏の勢力は衰えを見せ始めていました。こうした背景の中で、二つの大きな事件が起きたことによって、昇殿を許されるまで成長した武士の実力が天下に示されることになるのでした。

 

7 平氏政権

 保元の乱や平治の乱は、皇室や貴族内部の争いに武士が本格的に関わったことで、その後も武士が積極的に政治に介入するようになった。また平治の乱で後白河上皇は近臣だった信西と藤原信頼を失い院政の影響力が薄れ、平清盛の実力が高まることになる。

 1160年、清盛は正三位に昇進して武士でありながら公家の身分を得ることになった。それまで貴族から見下されていた武士が、初めて貴族の仲間入りをしたのである。12世紀終盤の政治は平氏一門に握られていたが、そのリーダーである平清盛はなかなかの人物である。

 清盛は朝廷内に入り込んで、自分の娘を天皇に嫁がせる方法で政権を掌握し、平氏一門を朝廷の要職につかせた。これは従来の藤原氏と同じ方法である。

 1161年、清盛の妻の妹で後白河上皇に嫁いでいた平滋子が憲仁親王(のりひと)を産んだことで、後白河上皇との縁が近くなり朝廷での信頼を得た清盛は出世街道を歩むことになる。

 1167年には清盛は太政大臣に昇進し、翌年、憲仁親王を即位させて高倉天皇にすると、自分の娘である平徳子と結婚をさせて二人の間に言仁親王(ときひと)が誕生する、この言仁親王が3歳の時に第81代の安徳天皇として即位させ、清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)となった。

 平氏の下には全国から500ヶ所以上の荘園が集まると同時に、平氏が支配を任された知行国も全国の半数近い30数ヶ国にまで拡大して経済的な基盤が強化された。このような政治的・経済的な背景によって、武士(平氏)が朝廷にかわって初めて政治の実権を握ることになる。 平氏政権は武士による政権であったが、平清盛が安徳天皇の外祖父となり、平家一門が次々と朝廷の要職に就き、貴族的な摂関家の性格をもつようになった。

 ただ清盛が藤原氏と違うのは、海外交易で日本の国富を増そうとしたことである。日本の外交政策は外国との窓の閉開のを繰り返すだけであった。古代は開きっ放しであったが、白村口の戦いで朝鮮半島の拠点を失ってからは朝鮮との扉は閉めたままであった。それでも奈良時代に「遣唐使」という形で中国に連絡船を派遣し、世界的先進国であった唐帝国からの文物の導入に努めた。科挙に合格して中国の官僚になった阿部仲麻呂や、密教の摂取に勤めた空海や、渡来僧の鑑真などが活躍した。

 しかし唐が「安史の乱」で混乱状態になると、朝廷は菅原道真の建議を受けて「遣唐使」を廃止した。その後はすでに受け入れていた外国文化を日本流にアレンジする日々であった。日本は四方を荒波に囲まれ、自分の都合に合わせて閉じたり開けたりすることが出来た。

 我が国と宋とは正式な外交を持っていなかったが、以前から民間の交易は盛んに行われていた。清盛は摂津国の大輪田泊(神戸港)を修築したり、音戸の瀬戸(呉市)の海峡を開き、瀬戸内海の航路を整備して貿易の拡大に努めた。 平清盛は海外との交流を、文化ではなく経済交流という形で開こうとしていた。宋に貿易船を送るとともに、都を京都から福原(神戸)に遷すことまで行った。清盛は日宋貿易という大きな経済的基盤を十分に活用した。

 貿易の輸出品は金や水銀、硫黄などの鉱物、刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭や陶磁器、香料や薬品、書籍などであった。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大な利益は、そのまま平氏の財源となった。

 このように平氏による政治的・経済的体制の独占は周囲の反発を招いた。平氏政権に反発する勢力には後白河法皇もいた。後白河法皇は自分の院政強化のために武士を雇ったはずが、その武士に政権を奪われたことを不満に思っていた。

 1177年、後白河法皇の近臣たちが京都の鹿ヶ谷(左京区)に集まり、平氏打倒の計略をめぐらした。この事件は事前に発覚して失敗に終わった。(鹿ヶ谷の陰謀)

 この計略の背後に後白河法皇がいたことを知った清盛は激怒して、2年後に軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止し、近臣たちの官職をすべて解くなどをおこなった。この事件を当時の年号から治承三年の政変といい、清盛の孫の安徳天皇が即位したのは翌年(1180年)のことである。

 清盛は後白河法皇と反対勢力を封じ込め、平家と血のつながりのある天皇を立て、官職を一門で固めた。しかし法皇を幽閉する手段は周囲の更なる反発を招いた。後の世で足利尊氏や織田信長が同じように武士の身分でありながら皇室と対決状態にあっても、非難の声が平氏ほどなかったことを考えれば、まさに開拓者ゆえの辛さともいえた。

 さらに平氏政権には清盛自身が気づいていない重大な欠陥があり、それが後の平氏滅亡へとつながっていった。それは武士たちの不満であった。

 平安時代の初期に桓武天皇によって軍隊が廃止され、特に地方では無法状態といえる状態になり治安は極端に悪化した。人々は自分や家族の生命、あるいは財産を守るために武装化するようになり、やがて武士という階級が誕生しました。 そのような武士たちにとって、深刻な問題となったのが土地制度の大きな矛盾であった。公地公民制の原則が崩れ、墾田永年私財法によって新たに開墾した土地の私有が認められたが、その権利があったのは有力貴族や寺社などの限られた勢力のみであった。

 実際に汗水たらして開墾したのは武士たちであった。耕した土地を一所懸命に守り抜くために武士となった人々であった。しかし法律では武士たちには土地の所有が認められず、仕方なく摂関家などに土地の名義を移して、自らは「管理人」の立場をとるしかなかった。つまり武士は実質的には自分たちの土地であっても、正式な所有者にはなり得なかった。こんな不安定な、人を馬鹿にした話はない。「開墾した土地は、自らの手で所有したい」。これが武士たちの切実な願いであった。

 全国の武士は平清盛をはじめとする平氏政権の誕生によって、同じ武士の平氏ならば、自分たちの期待に応じてくれると固く信じていた。ところが平清盛の父である忠盛は、白河法皇や鳥羽法皇の護衛として長年仕え、皇室や貴族と接することの多かった平氏には、「武士のための政治」がどのようなものかが理解できなかった。さらに清盛が、自分の娘を高倉天皇の嫁にして、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、自らは天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)として政治の実権を握るという、摂関家と同じ方法をとったが、これが大失敗だった。

 平清盛の政策は朝廷と貴族側に偏り、武士団を軽視していた。しかしこの時代は「各地の荘園の実質的権力者である武士団が、法的には貴族の奴隷に過ぎない」という武士の軽視の傾向にあった。

 しかし武士たちの不満は、武士のリーダーである清盛がこの問題を解決せずに、自らが貴族社会の一員となっていることにあった。平氏が摂関家の真似をしても、武士たちには全く変化がなかった。平氏は武士たちの不満や望みを叶えるようとしなかった。

 もともと藤原氏の摂関政治の頃は、武士たちの多くが「貴族たちには武士の気持ちなど分かるまい」とあきらめていた。しかし自分たちの代表平氏が政治の実権を握ったことから、それだけ期待が大きかった。それだけに裏切られた思いも強かった。平氏に対して「同じ武士なのに、俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになった。

 それまで政治を行っていた貴族たちは、武士の身分は低いものとしていた。しかも血を流す「ケガレた」仕事をしている平氏が、自分たちの真似をしたことに激しく反発した。このように平氏の政治は武士からも貴族からも拒否された。武士としての初めての政権ゆえに確固たるビジョンを持てなかったのである。

 政治の実権を握った平氏は、武士たちの共感を得ることができず、武力で世の中を支配しても民衆の理解を得られなかった。そのため「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平氏の天下はたちまち崩れ去ってしまった。

 平氏にかわって政治の実権を握った源頼朝は「武士のための政治」を理解していた。

 

源平合戦

 「平治の乱」で敗北して以来、平家の下に置かれた源氏の残党は、源頼朝を中心に東国で蜂起した。平家の政治に不満を持っていた全国の武士団はこの動きに同調した。頼朝を迎え撃つべき平家は西国が大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという大波乱が続いた。その間、源氏には天才的な名将・源義経(九郎判官)が登場し、「一の谷」、「屋島」で平家の拠点を覆滅し、関門海峡の「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡させた(1185年)。このようにして源氏の天下が到来した。