奈良時代1

天武天皇から平城京へ

 天智天皇(大化の改新の中大兄皇子)が近江宮で没すると、天智天皇の長男の大友皇子と弟の大海人皇子の間で政権争いが起きた。これが「壬申の乱」である(672年)。この戦いは大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。

 現代人の感覚では子供が親の相続権を持つことに何の疑問もないだろうが、この当時の天皇家は「兄から弟」に相続するのが普通だった。日本書紀では天武天皇を天智の弟としているが、「日本書記」は天皇家の万世一系を示すことを目的に書かれているので、日本書紀の記載、つまり「天武天皇と天智は兄弟」が真実かどうかは分からない。

 大海人皇子と天智天皇は血縁関係のないライバルだったとしても何ら不思議ではない。自分の娘を人質として天智天皇に差し出し、天皇になる意志がないことを示し、また自分の命が狙われていると直感すると、髪を切り出家を偽装して吉野に隠棲するのである。大海人皇子は天智天皇の生前は恭順を装い、死後に牙を剥いた。このすざましい権力闘争は宮廷クーデターと呼ぶにふさわしい。

 天智天皇の崩御から壬申の乱で大友皇子が首をつって死ぬまでの半年間、即位に関する儀式がなかったため、大友皇子は歴代天皇とみなされていなかった。明治3年(1870年)になって大友皇子は弘文天皇と追号された。

 天武天皇は中央集権を一気に推し進め、中国と同じ律令国家としての日本を完成させた。大臣を置かずに、天武天皇自らが先頭に立って政治を行った。天武天皇の即位により「天皇の権威が高まった」が、それは壬申の乱で天皇に対抗できる大豪族は、負けた大友皇子側についたからである。その結果天皇の力が圧倒的に強くなった。

 この権威を背景に、崩れかけていた公地公民制を復活させ、豪族の私有地と私有民の廃止を徹底した。684年には天皇・皇族を中心とする身分秩序である八色の姓(やくさのかばね)を定めた。外交的には新羅や唐と和睦を結び、内政面では富本銭という初の通貨を流通させた。天武天皇は天皇中心の強い国家体制を目指して、本格的な宮都である藤原京の造営を開始したが、その完成を見られることなく686年に崩御された。それまでの都は天皇が変わるたびに移っていたが、藤原京は代々使える都であった。事実、持統天皇、文武天皇、元明天皇が藤原京であった。

 天武天皇が崩御すると、天武天皇の皇后が即位し持統天皇(女帝)となった。694年に藤原京が完成し、飛鳥浄御原宮から遷都した。697年、持統天皇は本当は自分の子の草壁皇子を天皇にしたかった。そのためライバルの大津皇子を殺害するが、肝心の草壁皇子が先に死んだので、草壁皇子の子、自分の孫に文武天皇(もんむ)に譲位した後、703年に崩御され天皇としては初めて火葬された。

 文武天皇の治世の701年、我が国初の本格的な法令である大宝律令が、天武天皇の子である刑部親王(おさかべしんのう)と藤原鎌足の子である藤原不比等らによって完成した。大宝律令は「律」は刑法、「令」は国家統治のための行政法や民法で、大宝律令によって律令国家の基盤が整った。

 文武天皇が25歳で崩御すると、文武天皇の母親で、天智天皇の娘である元明天皇が第43代天皇として即位された。

 

奈良時代

 710年、元明天皇は都を藤原京から奈良の平城京へうつされた(710:納豆食べて平城京)。この後、平安京に遷都されるまでの80余年間を奈良時代という。平城京は唐の首都である長安にならい、碁盤の目状に走る道路で区画されていた。貴族などの邸宅のほか、飛鳥から移された大安寺や薬師寺などの寺院、官営の市が設けられ大いににぎわった。市は左京(さきょう)と右京(うきょ う)に分かれ、それぞれ東市・西市と呼ばれ、地方から運ばれた特産物や官吏たちに現物給与された布や糸などが交換された。なおこのころから天皇が代わるたびに遷都する習慣はなくなった。壬申の乱以降、天皇の血統が一本化されたからである。天武の子孫が絶えた後は、血縁関係にある天智の子孫が平和的に後を継ぐことになる。

 ただ平城京では宮廷内抗争が相次ぎ、専制君主としての天皇の権威は揺らぎ、藤原氏(中臣鎌足の子孫)に代表される有力貴族の台頭を許すことになる。聖武天皇による東大寺や国分寺の建立は国威高揚のみならず、天皇に寄生する貴族たちの利権がからんでいる。また称徳天皇と怪僧・道鏡のスキャンダルも、その根底には藤原氏と橘氏(道鏡の出身氏族)の覇権闘争が隠れている。

 また全国で凶作と疫病が流行し、奈良時代は、和歌に謡われるような美しい時代ではなかった。それでも「万葉集」のような優れた詩集が成立したことは特筆すべきであろう。天皇から農民まで、あらゆる階層の人々の暮らしが読み込まれているこの詩集は、世界に誇れる一大文化事業であった。当時の日本人が、いかに「言霊」を大切にしていたかよく分かる。

 

平城京

 平城京は唐の都である長安にならって奈良につくられた。奈良の都は東西南北を碁盤の目状に走る道路で整然と区画され、貴族の邸宅のほか、飛鳥から移された大安寺や薬師寺などの寺院、さらに官営の市(いち)が設けられてにぎわった。市は左京と右京に分かれ、それぞれが東市・西市と呼ばれ、地方からの特産物や官吏に給与された布や糸などが交換された。
 遷都直前の708年、武蔵国の秩父から良質の銅が朝廷に献上され、これを記念して年号が「和銅」と改められた。これをきっかけに富本銭が全国への普及を目指して鋳造され、ついで和同開珎が造られた。
 朝廷では銭貨の流通を目指し、712年に蓄銭叙位令を出した。蓄銭叙位令は貯蓄した額に応じて位階を与える施策であるが、銭貨は都や畿内などで流通したが、地方では相変わらず稲や布などの物品によって交易が行われた。和同開珎の後も、958年発行の乾元大宝(けんげんたいほう)まで12回にわたって銅銭の鋳造が続けられ、これらを皇朝十二銭、または本朝十二銭という。

 中央と地方とを結ぶ交通制度は、都を中心に幹線道路(官道、駅路)が整備され、駅家(うまや)が設けられた。駅家には駅馬(えきば)が置かれ、公用旅行のパスポートである駅鈴(えきれい)をたずさえた役人が利用した。
 地方の国府には様々な設備が設けられ、政治や経済の中心地となった。また国府の近くには国分寺が建立され文化的な中心となった。
 鉱山の開発や農具の改良、それに伴う農地の拡大や織物技術の向上による生産性増大などで国力を充実させた。政府は次に奥羽地方の経営と蝦夷(えみし)の平定を進めた。7世紀には日本海側に渟足柵(ぬたりのさく)や磐舟柵(いわふねさく)を設け、阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣した。712年には日本海側に出羽国が置かれ、733年には秋田城が築かれた。また724年には太平洋側に陸奥国の国府となる多賀城が築かれ、秋田城とともに政治や軍事の拠点となった。九州南部では隼人(はやと)と呼ばれた人々を服属させ、713年には大隅国を設置し、種子島や屋久島などの南西諸島も服属させた。

 

奈良時代の生活

 「あおによし、奈良の都は咲く花の におうがごとく 今 さかりなり」これは万葉集で小野老(おゆ)が平城京の見事さを詠んだ歌である。このように素晴らしい都とは裏腹に、奈良時代の平民は貧しい生活であった。平民は良民と賎民にわけられ、賎民には自由がなく、その中でも奴婢とよばれた人々は売買の対象になった。

 奈良時代の都の住む人々はそれまでの竪穴住居に代わって平地式の掘立柱住居になったが、東国の農民たちは竪穴住居のままであった。当時の結婚は男性が女性の家に通う妻問婚に始まり、その後、自らの家を持つ形式になった。

  当時の農民の生活は重い税のため苦しかった。班給された口分田(くぶんでん)を耕作し、口分田以外の公の田である乗田(じょうでん)や、寺社や貴族の土地を借りて耕作した。これを賃租(ちんそ)とう。賃租は原則として1年間土地を借りて、収穫の2割を地子(じし)として持ち主に納めていた。
 農民の生活は庸や調、雑徭の税に加えて兵役の負担があり、疫病の流行や凶作の影響もあって、口分田を捨てて浮浪し、あるいは逃亡する者が後を絶たなかった。
 また人口の増加により口分田が不足し、公地公民制や班田収授の基礎が揺らいだ。このため722年に百万町歩の開墾計画を立てるが失敗に終わる。政策があっても利益がなければ行動に移さないのが人の常である。開墾計画に失敗した政府は、翌723年に三世一身法を施行した。これは新たに未開地を開墾した場合は三世にわたり田地の保有を認めるものであった。しかしこれでも開墾は進まなかった。確かに三世の間は所有を認められるが、いずれは国に返還しなければならない、そのため二の足を踏んでしまうのである。自分が開墾した土地は、自分や子孫に残したいのが当然の願いであった。
 743年、政府は墾田永年私財法を施行し、身分に応じた一定の面積の開墾した田地を無期限に所有できるとした。これによって田地の数は増加したが、私有地の拡大が進み、公地公民制の根本を揺るがすことになった。
 有力な貴族や東大寺などの大寺院は、地方の豪族の協力のもとに広大な山林や原野の開墾を進め、私有地を拡大した。これを初期荘園という。

 

公地公民の崩壊

 中央集権国家としての日本は、まもなく行き詰まることになる。その原因は新田開発を国家事業とせずに、新たな開墾地を開墾者に任せ、開墾者に特典を設けたために、公地公民制は崩れて開墾地の私有化が行われた(墾田永世私財法)。

 公地公民制は「全ての土地は政府のもの」という制度で、中央集権国家を維持するために不可欠な制度であった。公地公民制は「国民は政府から土地を借りて、そこに住ませてもらっている」ということで税金は地代であった。ところが奈良政府は私有地の存在を認めてしまったため、国家の原則を覆すことになった。

 例外的存在であった私有地は爆発的に広がり、やがて貴族や寺社も便乗した。彼らの私有地が「荘園」で、国有地に別荘を造り、その周囲の田地を別荘用地とし、税吏の介入を拒みはじめた。これを最初に行ったのは藤原氏であった。一度認めた例外はやがて恒常化し、上の者がやる事は下の者たちも見習うのである。

遣唐使(630~894)

唐の繁栄

 618年、隋にかわって唐が中国を統一した。唐は律令制度を基盤とする大帝国で、周辺諸地域に多大な影響を及ぼした。またインドやペルシアなどの国々とも交流して、都の長安は国際都市の様相を呈していま。

遣唐使の派遣

 唐の制度や文物を輸入するため、日本から外交使節団が派遣された。630年に第1回の遣唐使として犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が派遣されら、894年に菅原道真(845~903)の建議で停止されるまで、10数回にわたって派遣された。8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。

 遣唐使には留学生・学問僧なども加わり、200名から500名にも及ぶ人びとが、4隻の船に乗って海を渡った。4隻の船に分船したので、遣唐使船は「四つの船」の別称がある。複数の船で渡海したのは、当時の造船・航海の技術が未熟だったため、海上での遭難が多かったからである。4隻で行けば1隻くらいは無事に到達できるだろう、という考えだった。事実、8世紀に新羅との関係が悪化すると、朝鮮半島の西岸沿いを北上して山東半島から入唐する安全な北路を通れず、五島列島から直接東シナ海を突っ切る南路にコース変更され遭難が増加た。

 東シナ海は夏から秋にかけては台風、晩秋から春先にかけては季節風と、1年中海の難所であった。東シナ海の横断は危険で、日本に行くにはびょうまんたる滄海を渡らねばならず、百に一度も辿りつかぬ」と井上靖の「天平の甍」にかかれている。

 

阿倍仲麻呂

 阿倍仲麻呂

のように、帰国がかなわず、異国の土となった人もいた。仲麻呂は、王維・李白らも親交があったため、玄宗皇帝に仕えて政府高官にのぼりました。

 しかし、753年に阿倍仲麻呂(56歳)は日本に戻る遣唐使とともに帰国を試みている。この時、途中暴風にあって船は吹き戻され、ベトナムに漂着しました。一命をとりとめたが、これ以後、帰国を断念した。

「古今和歌集」巻9に収められている

 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

 の和歌は、帰国の途につく送別の宴の席上で、30年前の日本での送別の情景を思い出して仲麻呂が詠んだものである。

 このように、東シナ海を横断するのはたいへん危険だったため、中には遣唐使の任命を拒否する人びともいた。たとえば、小野篁(おののたかむら)は病気と称して渡航しなかったため、流罪に処せられている。しかし多くの人びとは先進の制度や技術・国際文化などを学ぼうという気持ちから、航海の危険を冒し東シナ海を往来した。このようにして、遣唐使たちが、唐からもちかえった先進的な制度・技術・文化等は、わが国に大きな影響をあたえた。

 

 帰国した人びとの中には吉備真備(きびのまきび。693?~775)や玄昉(げんぼう。?~746)のように、聖武天皇(701~756)に重用されて、政界で活躍する者もいました。

 

日本人留学生の墓誌

 2004年10月、中国西安市で、日本人留学の墓誌が発見された。西安はかつて唐の都長安があった場所である。

 墓誌は一辺が39cm正方の石で、その表面に171文字が刻まれていた。この墓誌は「井真成」という留学生のもので、「井」は日本の姓を中国風に一文字にしたもので、「真成」は本名だと考えられるが史料がないので推測に過ぎない。墓誌の内容は、井真成が日本の留学生で優秀な人物だったこと、734年に36歳で死去したこと、玄宗皇帝がその死を悼んで、皇帝に衣服を捧げる役職の長「尚衣奉御」の官職を贈ったことなどが書かれていた。

 皇帝が死後に官職を贈るというのはきわめて異例のことで、よほど優秀な人だったのだろう。

新羅・渤海との交渉

 唐と同盟を結んだ新羅は、660年に百済を、668年には高句麗を滅亡させた。さらに唐を追い出し、676年、朝鮮半島を統一した。

 新羅は唐を牽制するために、日本と同盟を結ぼうとし、新羅は日本に臣従の態度をとり、貢調使を派遣した。

 しかし、733年、唐と新羅の関係が改善したため、日本に臣従する必要がなくなり、新羅は日本に対等な国交を要求してきた。しかし、日本はこの要求を認めず、新羅に非礼な態度をとった。たとえば新羅が贈り物の受け取りを拒否し、753年には唐朝の元旦の儀式で、遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅使と席次争いをして、新羅の席次を下位に引きずりおろした。あくまで日本は、新羅の上位に立とうとしたのです。

 そのため新羅との関係は悪化した。一時は、藤原仲麻呂(706~764)が新羅攻撃の計画を立てるほど仲が悪くなっていた。

 8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなったが、民間商人たちの往来はさかんだった。正倉院には「買新羅物解(ばいしらぎもののげ)」(この文書は鳥毛立女屏風の下貼りになっていました)という、新羅からもたらされた物品に対する貴族たちの購入希望書が残っていう。これによると東南アジアやインド等で産出される物品も含まれており、新羅商人の交易活動が広域にわたっていたことがわかる。

 

渤海(ぼっかい)との交渉

 713年に中国東北部に建国された渤海とは頻繁な使節の往来があった。渤海は、698年にツングース系靺鞨族と高句麗遺民によって建てられた国で、建国者の大祚栄(だいそえい)が、713年に唐の玄宗皇帝から渤海郡王に冊封されてから、渤海を国号とするようになった。9世紀には「海東の盛国」と称されるほど繁栄したが、926年に契丹(きったん)に滅ぼされた。 

 渤海は、唐・新羅との対抗関係から 727(神亀4)年にわが国に通交を求めてきた。日本も新羅と対抗関係にあったので、渤海とは友好的に通交した。渤海使の来日は、727年から919年の間に34回に及んだ。渤海使を迎える客院は、加賀国(能登客院)と越前国(松原客院)に置かれました。

 最初は政治的意味合いが強かったのですが、のちには貿易が主になった。渤海からは貂(てん)や大虫(おおむし。虎のこと)の毛皮、薬用人参、蜂蜜、宣明暦、仏典などがもたらされ、日本からは絹、、金、水銀、漆などが輸出された。渤海の宮都跡から和同開珎が出土していが、これも両国の交渉の歴史を裏付けている。