縄文時代

縄文時代

 今から約1万年余り前から、地球は氷河時代がようやく終わり寒冷から温暖化が進んだ。名古屋付近で台湾なみの暖かさとなり、海抜は今より5mほど高くなった。温暖化により地表の氷河が解け、水が海に流れ込み海面が上昇したのである。その結果、日本列島もユーラシア大陸と切り離されて、大陸との陸橋が水没し、現在の日本列島が形成され、現在に近い自然環境となった。

 植物も6000年前には現在と同じ樹林となり、東日本にはブナナラ・クリなどの落葉広葉樹林が、西日本にはカシやシイなどの照葉樹林(常葉広葉樹林)が広がった。温暖化によって人々の生活は大きく変わり、森林や湖沼の多い環境のなかで食料が豊かになり、縄文文化が成立した。縄文時代は水稲農耕を特色とする弥生時代がはじまる紀元前4世紀までの約1万年にわたった。

 縄文人は旧石器時代に細石器文化を持つモンゴロイドが北方から日本列島に土着し、これに東南アジア、中国長江下流域からの南方モンゴロイドが少ない頻度で混血した。土着の人たちに少数の移民が混じり縄文人が形成されたのである。

 かつての日本史の授業を思い起こすと、真っ先に縄文時代が出てくる。縄文時代は「縄目の文様のついた土器が用いられた」と教えられ妙に納得したものである。縄文土器は食物の貯蔵に便利で、それまでの火で焼くだけの調理法が、煮炊きなどの料理法が加わることになる。縄文土器は厚手であるが、もろく黒褐色を呈している。その形状も初期から後期にかけて大きく変化するが、土器の使用により人々の食生活は格段に豊かになった。

 マンモスなどの大型動物は新環境に適応できずに姿を消した。マンモスなどの大型動物は体温を維持しやすいので寒さには強いが、温暖化による暑さに弱いことが滅亡の原因とされている。森には下草が繁茂しニホンシカやイノシシなどの生息に適した環境になり、
動きの早い中小動物が多くなった。
 気候の温暖化により海面が上昇したため、日本列島には数多くの入り江ができた。それまでの日本人は、狩猟や植物採取による食生活が主であったが、縄文時代になると入り江を利用して魚や貝を採って食べるようになった。そのため日本各地の貝塚から、タイ、ボラ、マグロ、サケ、イルカ、クジラなどの骨、アサリ、ハマグリなどの貝殻が見つかっている。貝殻は当時のゴミ捨て場だったことから、魚や貝などを食べていたことがわかる。漁撈には大きな木をくり抜いた丸木舟を使っていたが、縄文時代晩期になると気温が2度ほど下がり、海面も低くなり海での漁業活動は打撃を受けることになる。

 旧石器時代と新石器時代(縄文時代)との違いは、打製石器から石を磨いてつくる磨製石器を使用するようになったことである。縄文時代は磨製石器(新石器時代)を使っていた時代で、ちょうど磨製石器を使う時期に農耕や牧畜が始まった。言い換えれば、旧石器時代にはまだ農耕や牧畜は始まっていない。

 縄文時代は磨製石器だけでなく、用途に合わせて石を削った打製石器や、磨いて作った磨製石器、骨や動物の角で作った骨角石器などを使い分けていた。大型動物は身体が大きいため動きが鈍く、石槍などで捕まえることができた。しかしイノシシやニホンシカのような中小動物は動きが早いので、石槍による捕獲は困難で、そこで用いられたのが弓矢の矢じりであった。遠くの獲物を正確に捕まえるために矢じりには石鏃(せきぞく)が用いられ磨製石器が使われた。また落とし穴などの罠を仕掛けて捕まえる方法も用いられた。

 植物も針葉樹林から落葉広葉樹林(ブナ、ナラ)に変わり、栽培も行なわれドングリ、クリ、ひょうたん、まめなどなどが実るようになった。さらに焼畑農耕でソバ、ムギ、アズキ、エゴマなどを栽培して果実酒も製造していた。驚いたことに縄文時代の人々は酒を飲んでいたのである。

 

縄文時代の人々の生活
  縄文文化の特徴は、殺傷力が強化された磨製石器(新石器)、植物性食物を煮るための土器、動きの速い中小動物や鳥類を射とめるための弓矢などの出現である。



  磨製石器を使用した時代を新石器時代という。西アジアや中国などでは新石器時代に農耕・牧畜が行われたのに対し、日本の縄文文化の基本は食料採取である。もちろん縄文時代は1万年も継続されているので、前期、中期、後期ではその内容に違いがある。

 縄文時代は温暖な気候が続き、氷が溶けて海面は現在よりも2~3m高い状態で、日本列島は大陸から完全にはなれ島国が形成された。海という天然の防壁が、日本独自の歴史と文化を生み出し、また大陸の政治や軍事情勢に巻き込まれずに他民族からの侵入をも守ってくれた。しかし大陸や朝鮮半島とは近い距離にあるので、縄文後期には大陸と人的・文化的交流が行われ文化を吸収していった。

 平均寿命は短かく、幼児死亡率が高かった。15歳まで生き残れば40歳までは生きた。しかし平均寿命は戦後よくなったにすぎず、大正時代までは縄文時代とほとんど差はなかったと考えられる。縄文人の足首には距骨滑車があることから、長時間しゃがむクセがあったことが分かっている。

 縄文時代の人骨を調べると、多くの儀式や儀礼が行われた跡が見られる。例えば縄文時代後期から晩期にかけて盛んになった抜歯は、大人への通過儀礼とされている。また手足を折り曲げて埋葬する屈葬は、死者の霊が災いを及ぼす死霊活動を防ぐためとされている。縄文文化は狩猟・漁労・採取を中心とした文化であるが、呪術用具を使用して精神面を支え、弓矢などの道具の発達、黒曜石の分布に見られる活発な交易活動、さらには優れた航海術など高度な発達をとげた文化だった。

 縄文時代の住居

 竪穴住居は穴を掘ってワラの屋根をかけた住まいである。穴の深さは50cm、家の直径は5~10メートルになる。真ん中に炉があり、土の中の暮らしは床を作るよりも暖かく快適であった。

 集落は日当りがよく、飲料水の確保に便利な水辺に近い台地、またはわき水のある台地で営まれた。これは生活用水が確保でき、外部からの攻撃に都合が良かったからからである。広場を囲んで数軒の竪穴住居が環状に並ぶ環状住居をとる場合が多い。約1万年の長い期間の間に、住居の建て替えが行われるので、ムラの跡から数10世代、100軒以上の建物跡が出てくる。竪穴住居はそれまでの移動生活から定住生活に変わったことを意味しており、住居だけではなく食料を保存するための貯蔵穴群や墓地があった。

 三内丸山遺跡(青森県)のように大型の竪穴住居をともなう場合があり、大型竪穴住居は集会場だった。
能代市杉沢台遺跡からは長さ31メートル、幅9メートル、炉が10、164畳敷きの竪穴建物の跡が見つかっている。

 このことから縄文時代の社会構成する基本的な単位は4~6軒程度の世帯からなる20~30人の集団であったとされている。この竪穴式住居は平安時代初期まで庶民の住まいとしてもちいられ、住居の近くにはゴミ捨て場である貝塚があった。

 縄文時代には食料が豊富になったが余剰はなかった。食料の蓄積には食料の保存が必要であったが、縄文時代はまだ保存法がなかった。人びとは集団で力をあわせて働き、彼らの生活を守った。男性は狩猟や石器づくり、女性は木の実とりや土器づくりにはげみ、集団には統率者はいても身分の上下関係や貧富の差はなかった。それは竪穴住居に大きさの差が見られず、当時の墓はどれも一様に共同墓地で、葬られた人々にほとんど副葬品を伴わないことから推測される。富や権力、階級や身分はなかったのである。

交 易

  集団は近隣の集団と通婚し、さまざまな情報を交換しあい、縄文時代にはすでに遠方との交易がおこなわれていた。それは黒曜石(和田峠、白滝)、ひすい(姫川)、サヌカイト(二上山)などが、原産地からはるか遠くで発掘されていることからわかる。

 ひすいは緑色をした装飾用玉石として現在でも宝石として貴重であるが、このひすいは新潟県西部の姫川流域でしか産出されない。このひすいが遠くの青森県の三内丸山遺跡から出土している。

  黒曜石は「黒く光り輝く石」という意味をもつが、二酸化珪素を多く含む火山岩質マグマが急冷されて出来た天然のガラス状の石である。打ち欠くと鋭利な切り口となるため石器の原材料として使用されたが、黒曜石は北海道の白滝や十勝岳、長野県の和田峠、大分県の姫島、熊本県の阿蘇山など特定の地域でしか産出されない。

長野県の和田峠が最も有名で国内最大級であるが、和田峠を中心に半径200キロメートル以上も広範囲に和田峠の黒曜石の石器が分布している。活発な交易のあったことが想像できる。

 縄文人は歯並びがよく八重歯は見られない。下顎が発達し、現代人の親知らずは36%に過ぎないが、縄文人は全て生えている。これは硬いものを食べていたので、そのために歯はすり減っていて、現代人の摩滅率は7割であるが縄文人は10割である。先進国ほど虫歯が多い傾向があり、農業をおこなうようになると増えてゆく。狩猟・採 集民のエスキモーの虫歯保有率は4%以下であるが、現代人は80%を超えている。粟などの原始的な農耕をしていたアイヌの虫歯保有率は10%以下だが、本州人と交流が始まると増え、大正の末には60%を超えていた。米を食べるようになったためである。縄文人の虫歯は9.5%で、米を食べるようになった弥生人は20%である。

抜歯

 現在では見られない風習として歯を抜く抜歯がある。抜歯の形態には年齢、出身地などにより差がみられる。発掘された頭蓋骨の歯をみると、縄文人の歯は意図的に抜かれており、縄文晩期の成人はほぼ100%抜歯されている。このことから成人式や婚姻などの節目に歯を抜く呪術的風習だったのであろう。

 糸切り歯から門歯の順に抜いてゆくが、抜歯には石で叩くなど痛みを伴うことから、痛みに耐えることが一人前の社会人として認められる条件だったと想像される。

 鹿児島から愛知県までの人骨を見ると、抜き方には2つの系列あることがわかる。それは下の門歯を抜く場合と下の糸切り歯を抜く場合で、抜歯は結婚の時に行われたと考えられている。渥美半島の伊川津、吉胡貝塚では、門歯を抜いた人と犬歯を抜 いた人は合葬されず、門歯の人は墓地の中央、犬歯の人は周辺に埋葬されている。また装飾品を付けているのも、門歯を抜いたグループである。このことから門歯抜歯の人たちの方が優遇されている、あるいは地位が高かったことがわかる。

 この優遇の差は出身地の違いと説明されている。犬歯の人は集団の外から来た人たちで、門歯の人は集団内の出身者とされ、このように区別すると集団外から来たのが妻なのか夫なのかがわかる。縄文晩期の東日本では妻が夫に嫁いで来るが、西日本では夫が嫁いで来る習慣だったとされている。

 また縄文晩期に特有の抜歯として叉状研歯(さじょうけんし)がある。叉状研歯とは聞きなれない言葉であるが、上の前歯四本をフォークのように加工することで、東海から近畿地方にかけて分布している。集団中の一部の人にしか見られないので、呪術師か種族の有力者、もしくは集団の代表者・指導者などに標識のため行おなわれていたとされている。

 

縄文時代の信仰

 食物としての狩猟、漁撈、採取は自然環境に左右されるため、当時の人々は自然物に霊威が存在すると畏れていた。いわゆる精霊信仰(アニミズム)呪術によって災いを避け、豊かな収穫のため祈りをささげた。人々は病気からの回復や子孫の繁栄、豊かな生活、あるいは魔除けとして自然を崇拝する信仰を持っていた。自然の恵みに依存する受動的な生活をしていたので、自然界の霊威を意識せざるを得なかった。あらゆる自然物や自然現象に精霊の存在を信じていたのである。つい最近まで、日本人は病気になったり家に不幸が訪れると、山の神、動物の神に酒をそなえ陳謝していた。このようなことは日本各地で行われており、多くの話が残されている。蛇の「たたり」など、ある種の生き物に霊魂を認めそれを畏怖して信仰していた。

 なおアニミズムはラテン語のanima(息、魂)が語源で、animalは息をするので動物の意味になった。またアニメはあたかも生き物のように動く絵(動画)という意味である。

 狩猟・漁撈・採集の生活は、自然条件に左右されて不安定で、多くは成人前に死亡し、15歳以上に達した人の平均年齢は31歳で、当時の日本の人口は30万人と推定されている。神奈川県の平板貝塚では、壮年男子の骨の成長が数度にわたって停止しているのが発掘されている。これは飢餓が原因とされている。
 人事を尽くした後、自然の威力をおそれながら、自然を敬ったのである。

 

土偶

 土偶は完全なものが少ないので自然に壊れた可能性があるが「身代わり損傷説」もある。乳房を持ち妊娠線が刻まれることが多いので、多産の呪術と関係するしているのであろう。埋葬されたものもあるが、たいていはゴミと一緒に出されている。

屈 葬

 死者の多くは共同墓地に屈葬という形で埋葬されている。屈葬とは死者の手足を折りたたんだ状態で埋葬するもので、屈葬は悪い霊の復活を防ぐためと説明されている。抱石葬は遺体の上に石のせて埋蔵する方法で被甕葬は甕(かめ)をかぶせる方法である。この抱石葬や被甕葬は霊魂復活を阻むものとされている。つまり化けて悪さをしないようにしたのである。

 一方、屈葬の姿勢は母体中の姿勢であるため蘇りを期待したという説、自然にかえすという説もある。また埋めるための穴が小さいため、埋葬の際に埋める労力を節約したという説も出されており、なぜ屈葬なのかその理由はわかっていない。縄文後期には伸展葬が登場する。四肢を折り曲げない埋葬であるが、縄文人の生活に変化がおきたせいなのかは不明である。

ストーンサークル(大湯遺跡)

 秋田県鹿角市の縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡に大湯環状列石がある。「日時計」とされたり、天体観測用との説があったが、実際には埋葬跡に石を置いただけのものとされている。環状に埋葬したため環状になったとされているが、大湯環状列石では合計5000個、最大180キロの石を6~9キロの遠くから運んできている。なぜこのような墓を作ったのかは分からない。

石棒

 石棒男 根(ペニス)をかたどった石棒で、北海道から関西地方で見られる。大きさは2メートルから10センチまで様々であるが、一番多いのが50センチ前後である。有名なのは秋田県鹿角市、山形県高畠町、長野県佐久市、滋賀県伊吹長などから出土している。男女和合の石像もあり子孫繁栄を祈願したと思われる。縄文初期・中期に見られ、その後は姿を消すが一部では民間信仰として存在している。子孫繁栄を願うことは性生活が前提なので重要な問題であった。テレビなどでは石棒を現代の奇祭のように取り上げるが、奇祭ではなく切実な願いだったと思われる。

大森貝塚(東京)の発見

 貝塚は人びとが食べた貝の貝殻などを捨てたものが堆積して層をなした遺跡のことである。土器・石器・骨角器などが出土するほか、貝殻にふくまれるカルシウム分によって保護された人骨や獣・魚などの骨が出土し、その時代の人びとの生活や自然環境を知るうえで重要な資料となっている。

 明治時代に東京大学が創立すると、外国人学者を雇い、日本人学生に近代的な学問を教えることになった。その外国人学者の中に動物学専門のエドワード・シルベスター・モースがいた。大森貝塚を発見したのがこのモースである。

 1877(明治10)年6月に船で横浜に着いたアメリカ人モースは、翌日に横浜から新橋に汽車で向かった。車窓から大森駅付近の切り通しに貝殻が堆積しているのを見つけ、これが貝塚と確信して、すぐに発掘調査をおこなった。

 モースは大森貝塚を発掘調査すると、その調査報告書(英文)を刊行した。これが日本初の科学的発掘調査とされている。さらにモースは、大森貝塚から発見された土器に縄目模様があることから「cord marked pottery」と名付けた。これが後に「縄紋」と日本語に訳された。(「縄文」と書く研究者と「縄紋」と書く研究者の両方がいる)。

 モースは日本の考古学の生みの親とされ、日本の近代科学としての考古学はモースによって始められた。縄文時代は「縄文土器が使われた時代」と名付けられているが、それは土器に「縄文という紐(よりひも)を土器の表面に転がしてつけられた文様」がついていたからで、このことから縄文土器と呼ぶようになったが、この縄文土器の発見も縄文の名称もモースによってなされた。

 貝塚の存在は、かつての日本人も知っていた。奈良時代の「常陸国風土記」では、海から遠く離れたところに大量の貝殻が堆積していると書かれている(茨城県大串貝塚)。もちろん大量の貝殻がなぜ堆積しているのかは知らなかった。

 貝がとれるのは遠浅の海で、貝塚も浅海部に面したところに多い。東京湾では70キロ奥の栃木県まで貝塚がある。貝塚はゴミ捨て場でもあったが、千葉県加曽利貝塚は幅30メートル、直径 150メートルの大規模の貝塚が2つ並んでいる。

 貝塚には死者や犬の遺体も埋葬されていて、ゴミ捨て場だけでなく、死を祈る場所でもあった。カルシウム分を多く富む貝殻は、骨のカルシウムを長く保存するため、江戸時代の人骨より縄文時代の人骨の方が出土数が多い。貝塚は縄文人のゴミ捨て場であったため、貝塚を調べると縄文人の生活がわかる。縄文人の生活の中心は採集と漁撈で、狩猟はそれほど盛んではなかったことがわかる。貝塚は当時の人の暮らしを再現するタイムカプセルと云われている。

食生活

 縄文時代人は季節に応じてバラエティに富んだ食生活をしている。春は野山でフキ・カタクリ・ゼンマイ・ノビルなどを取る。潮干狩りをし、捕った貝を煮て 乾し、1年分の保存食や交易用品に加工した。夏は植物が堅くなるため魚捕りが中心。海ではカツオ・マグロなどの大型魚類、川や池ではコイ・フナ・ウナギをとっている。秋は採集活動が活発となる。クリ・クルミ・トチ・ドングリなど、冬の保存食として大量に集めている。ドングリ加工品には、カリントウ状・ひねり餅状・ハ ンバ-グ状・ボ-ル状・クッキ-状などがあり、それぞれ味が違い、名前がついていたはずだという。山形県押出遺跡出土の模様入り加工品は、クリやマツの 実、動物の 肉などが混入し、塩で味付けしている。ハンバ-グのようなものである。東日本の川にはサケ・マスが大量に遡上したので、乾したり薫製で保存している。冬は狩猟がメインで、イノシシ・シカなどが食料となっていた。狩猟シーズンは今でも秋から春である。木の葉が落ちて見つけやすく、恋の季節で警戒心も緩 んでい る。また、脂肪も多いし毛皮も冬毛になっているので利用価値が高い

ドングリ食

 縄文人が採集したのは山菜、貝、ドングリなどであったが、アサリは1キロのう ち可食分 は150グラムで94キロカロリーしかない。そのため貝は効率が悪いため主食にはなれない。ドングリは高カロリーで、トチだと1キロあたり650グラムが食べられ、2430キロカロリーになる。普通のドングリでも1日に1.5キロ食べると1800キロカロ リーになる。ドングリだけで必要最低限のカロリーが摂取でき、拾えるのは年間100日間として1日に2.5キロ拾えば250キロは貯められるので半年分の食料は ドングリでよいことになる。ドングリ食ではアク抜きが必要である。普通は煮てから水にさらすが、このために土器が必要となる。水にさらした後、石皿と石棒によって粉にされてダンゴにする。

石鏃(弓矢)の登場

 温暖化によりオオツノシカなどの大型動物は減少し小型動物に変わる。寒いところの動物は大きく、暖かいところの動物は小さくなる傾向がある。これをベルクマンの法則というが、大型化すことで体積の割に表面積を小さくすることができ体の熱が奪われないのである。小動物はすばしっこく走るため槍よりも弓矢が便利である。

 石槍はマンモスや野牛などの大型獣をねらうのにはよいが、大型獣が絶滅してシカやイノシシなどの中型獣が主流になると動きが早いので適さなくなる。そのため弓矢が石槍に取って代わることになる。尖頭器の重さは40グラム近いのに対し、石鏃は1グラムに満たない。貫徹力は槍だが、速度と飛距離は弓矢が上である。槍投げの世界記録は104メートルだが、弓矢は1850メートル という記録がある。

骨角器・石錘(漁具)

 漁労の道具には骨角器が用いられている。釣り針はシカの角、イノシシの牙で作ったもの が多い。刺突用には離頭銛とヤスがある。網は腐りやすいため、その遺物の出土例はない。石錘や土錘の存在によって網漁のあったことが推測されている。

 狩猟には犬を利用した。犬はネアンデルタール人も飼っていて、獲物を追い出す役割を担っていた。9200年前、縄文早期の夏島貝塚から犬の骨が出土している。柴犬くらいの大きさで、犬が死ぬと埋葬していた。人骨と一緒に埋められている場合もある(名古屋市博物館大曲 遺跡出土人骨)。犬の祖先は狼といわれているが、日本狼は大型なのでこれを飼い慣らした可能性は低く、大陸で家畜化されていた犬がヒトと一緒に入ってきたらしい。狩猟動物はイノシシとシカが双璧であった。イノシシ狩りには犬を使うが、犬も一匹だとやられてしまうので複数で吠えかかる。イノシシが立ち止まればそこを矢で射る。イノシシは手傷を負ってもなかなか死なないので、心臓や動脈を傷つけてとどめを刺す。落とし穴もあった。シカは弱いので初発を命中させたものが功労者になる。

縄文土器

 およそ1万年前、日本列島に住む人々は土器を作り始めた。土器には縄目の模様がついていることから縄文土器と呼ばれ、この土器を使っていた時代を縄文時代という。

 縄文式土器といえば、名前の由来ともなっている縄の文様がついている土器であるが、このような文様は世界的に珍しいのであるが、この文様は装飾のためだけではなく、土器の耐久性を高めることにもなった。土器は粘土で形をつくり熱を加えて完成させるが、その粘土に空気が入っていると焼くときに破裂したり、出来上がってからすぐに割れてしまったりする。そこで焼く前に縄で押し付けて空気を抜くわけである。土器の質とデザインになった。また滑り止めの効果があった。

 縄文土器は口が広く深い形が多い。この形を深鉢形といい、汁を蒸発させないで食べ物を煮るのに都合が良い。深鉢形土器で煮炊きをすることで、ドングリや山菜のアクをぬき、また貝や肉も煮ることでおいしく食べられるようになった。縄文時代には盛りつけ用の浅鉢や保存用の壺は発達しなかった。この時代の土器の主流が深鉢型なのは、土器使用の目的が煮ることにあったからで、事実、各地で発見された深鉢型の土器の表面には煤(すす)が付着している。これは火をおこし、その上に土器を置いて使用した証拠である。

 深鉢形土器は縄文時代の約1万年もの間、土器の基本形として使われてきた。 縄文土器は収穫した食べ物を保存し、料理をするために使われたことから、それまでの移動生活から定住生活への変化を可能にした。 食べ物を加熱して料理ができるようになり食生活が向上した。

 煮ることによって、それまで生では食べることのできなかった植物性食料が、利用できるようになった。
植物によっては煮ることによって、アクを抜き渋みや苦みをとったり、毒を無害にすることができた。アラカシ・トチ・クヌギなどはアクが強くて、そのままでは食用には使えない。しかしこれを土器に入れ、水で晒したり、灰を入れて加熱したりするとアク抜きができる。

 縄文土器は低温で焼かれ、厚手で黒褐色という特徴がある。縄文時代は紀元前1万年ころから紀元前100年ころまで続いたので、長い年月の間には道具の作り方や暮らしの仕方にも少しずつの進歩はあったがその進歩は非常に遅く、大体が狩りや魚とりが人々の生活の中心になっていた。この縄文土器の形の変化から縄文文化の時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。


  このうち草創期の土器は世界でもっとも古い土器とされている。このことは縄文土器は世界最古の土器として、日本列島で独自に生まれたことを物語っている。それまでは世界で最も古い土器は西アジアで生まれたというのが定説だった。

 このように日本列島に住んだ人びとが自然環境の変化に対応する新しい文化を、はやい段階に生み出していた。

 中期になると様々な装飾を凝らしたものが現われた。火焔土器(かえんどき)は、その名の通り燃え盛る炎のような装飾が施された土器で、新潟県の信濃川流域を中心に発見されている。また縄文時代の終わりごろになると、東日本を中心に様々な使い方に応じた小型土器も作られた。特に、東北地方で発掘された亀ヶ岡式土器は、精巧なつくりで知られている。

  

鉢形土器(火焔型土器

縄文中期 伝新潟県長岡市関原町馬高遺跡出土

東京国立博物館蔵

 火焔型土器は立体的な装飾に富み、優れた原始造形美を有する土器である。今から約5300年前に信濃川中流域で成立し、同地域において約500年間にわたり継続、発展した。土器にコゲが付着しているため煮炊きに使われたが、祭りなどでも使われたと想像される。

 

稲作の始まり
 2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代(約6000年前)の地層から大量の稲のプラント・オパール(植物特有の細胞壁のガラス質)が見つかり、稲が栽培されていたことが確認されている。稲作は弥生時代からとされているが、縄文時代の後期には稲が栽培されていた。縄文遺跡から炭化米が発掘されていて、縄文時代に稲作が行われていたのは間違いない。ただし日本で稲作が一般に普及したのは弥生時代からである。

 縄文時代の稲作は、私たちが想像する水稲ではなく陸稲(焼畑農業)であった。稲の品種は熱帯ジャポニカ(陸稲)と温帯ジャポニカ(水稲)に分けられるが、2,800年前の縄文時代の稲作は熱帯ジャポニカ(陸稲)で、水稲による温帯ジャポ ニカ(水稲)は弥生時代に水田耕作技術を持った人たちが朝鮮半島から我が国に持ってきた。

 縄文時代の稲作は陸稲で、遺跡からも日本の広い範囲で作られていたことがわかっている。しかし弥生時代に中国の長江北側原産の「温帯ジャポニカ(水稲)」が朝鮮経由で日本に入り、以後日本の稲作の大部分を占めるまでは、稲作だけでなく大麦やヒエ、粟、あずき、大豆なども栽培されていた

 もちろん稲作はそれまでの狩猟による移動生活から、栽培による定住生活へ変化をもたらした。定住生活によりドングリやクリなどの栽培もおこなわれ、貝類や魚類も食糧源になった。

 また稲作は九州から数十年で愛媛県尾張付近まで拡大している。稲作の普及には、稲作の作り方を教える人の交流が必要である。そのため稲作の短期間の拡大はすでに交易ルートがあったことを示唆している

縄文人の家族

 千葉県市川市の姥山貝塚では、縄文中期の竪穴住居跡の床面から、5人の人骨が発見された。人骨は成人男性2体、成人女性1体、未成年者1体が一力所に折り重なっており、ややはなれて老年女性が1体たおれていた。これらの人骨は埋葬されていなかったところから、たとえばフヷの毒のようなもので同時に死亡し、近所の人々も恐ろしさのあまり、手をつけずにおいたものと考えられている。

5体の人骨は、おそらく一つの家族であろう。成年男性のうちの一人と成年女性とは夫婦であり、老年女性はそのいずれかの母親、未成年者は子であろう。これは縳文人が一つの住居に3世代ほどの小家族で同居していたことを示す例といえる。

人口

 縄文時代の遺跡の地域別分布状態を調べ、遺跡当たりの居住人数を 24人と推計して地域別の縄文時代の人口を計算すると。8000年前=2万人、4000年前=26万人、末期には7万人の人口だったとされている。中期の場合、東日本の落葉広葉樹林地帯に人口が集中し、西日本の照葉樹林帯の人口密度の10倍だった。縄文時代の人口は東が優位である。最大の理由はドングリが豊富に実ったこととサケの遡上にある。

 

 

   縄文人

    弥生人

時代

1万年前~2300年前

紀元前3世紀~後3世紀

身体の特徴

平均身長:160cm以下 

顔四画(南方系)

手足が長い、毛深い

平均身長:160cm以上 

面長(北方系)

顔が平坦、胴が太く、長い、眼が細く鼻が低い

食料

ドングリをアク抜きして保存食とした

   水田稲作

人口

早期:2万人

前期:10.6万人

中期:26万人 

後期:16万人

晩期:7万5千人

    60万人

分布

  東日本が中心

西日本が中心

道具

 黒曜石、サヌカイト、

 硬玉、アスファルト

鉄器、青銅器

世の中

     平和

乱世、渡来人の流入