先史時代

1 日本列島の始まり

 日本列島はアジア大陸の北東から南西に弧状に連なる4つの大きな島とその周辺の小さな島々から出来ている。この日本列島が数万年前から同じ形をしていたわけではない。
 かつての日本はユーラシア大陸とは陸続きで、今の日本海は大きな湖になっていた。この陸続きの橋の部分を「陸橋(りくきょう)」というが、この陸橋を渡って北からはマンモスやヘラジカ、南からナウマン象や大角鹿などの大型動物が大陸からやってきた。
 度重なる火山の噴火や地震による地殻変動、さらには氷河期と温暖な間氷河期を繰り返しながら数万年前に大陸から分離して現在の日本列島の形になった。例えば関東ローム層は、3万年前に富士山や浅間山などの火山活動によって火山灰が積もって出来たものである。
 現在、地球上の10%が氷河に覆われているが、氷河期は陸地の30%が氷河に覆われスカンジラビアでは高さ4000メートルの氷で覆われていた。 地球上の水と氷の量は一定なので、氷の量が多ければ海水面は低下し、氷河期と温暖期では、海面の高さが違っている。
 地球が温暖化すれば氷河がとけ、地球を覆っている氷がとけだし、海に流れるので海面は高くなる。氷河期になるとその逆に海面は低くなる。さらに氷河期では海の表面が氷結するので、アジア大陸から氷の上を様々な動物がやって来た。
  氷河期の対馬海峡は、氷河期といえども氷結の期間が短いため、また氷河期は海面が100m低かったとされているが、対馬海峡の海底はその前後の深さなので、氷河期に動物が来たとしても主流ではない。氷河期以降の動物の大陸からの移動は北海道経由が主である。
 実際に四国や九州の動物を調べると、古くからの固有種が多く、新たに動物が入ってきた証拠は少ない。九州と南島の間は陸続きではなかったので、南島と九州の動物相は著しく異なっている。南島の島々は早い段階で島化していて、イリオモテ・ヤマネコやアマミノ・クロウサギなど古い時代の動物が絶滅せずに残存している。
 このことから大陸から動物を求めてやってきた旧石器人は北海道経由とされている。ゾウの歴史は6000万年前とされており、人類よりもはるかに歴史が長い。日本列島は 1500万年前から大陸と陸つなぎになったり離れたりを繰り返していたが、この間、日本には22種のゾウが歩いて来ている。
 マンモスなどの動物群が大陸から陸続きで北海道へ、あるいは氷上の宗谷海峡を渡ってやってきたのだろう。マンモスは北回りで日本に来るが、マンモスの化石は北海道にあるだけで本州では発見されていない。津軽海峡の陸橋は早くに水没したらしい。マンモスには長い体毛が生えていて、耳がアフリカゾウの1/10の大きさしかない。これは熱を逃がさないための工夫とされ、寒い地方の動物の特徴である。こうした大型動物を追って、人類も何回かに分れて日本列島にやってきたものされている。
 マンモスは気候の激変によって、食料の植物が枯れて絶滅した。冷凍づけされたマンモスがシベリアで発見され、胃の解剖によって当時のマンモスの食料のシダ植物が未消化のまま発見されている。そのシダ植物は現在のアフリカには自生しているが、今の日本やシベリアの気候では育たないものであった。またシダ植物が未消化のままだったことから、一瞬の内に急速冷凍された事になる。氷河期が緩やかに来たのではなく、天変地異が突然きた可能性、あるいは流行病にして短期間に死滅した可能性がある。
 いっぽうナウマン象は30万~1万6000年前にアジア南部から渡来し、陸続きだった対馬海峡経由で渡来した。ナウマン象は気候の寒冷化により約1万7000年前に絶滅したが、旧石器時人に食い尽くされた可能性がある。旧石器時人にとってナウマン象は格好な食料だったからである。
 1973(昭和48)年、長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層からナウマン象の骨がまとまって発見された。さらに湖底の同一地層から打製石器とナウマン象の化石が発見されている。このことから2万年前の日本では、人間とナウマン象が共存していたことがわかる。
 ナウマン象は氷河期に絶滅し、マンモスは間氷河期に絶滅したと書くと、同時期でないことに違和感を抱きやすいが、気温の低い氷河期と温暖な間氷河期は数万年の周期があり、これが約10回繰り返えしてきたので、ここに想像を超えた時間の壁があり、混乱しやすい。
 マンモスの絶滅を恐竜の絶滅と重ねがちであるが、恐竜が絶滅したのは6600万年前で、地球上に人類が誕生する年代とは桁が4つほど違う。古代以上のはるか古代のことである。ここに時間の分厚い壁がある。

 

 

2 大陸から渡った旧石器人

 私たちの住んでいるこの日本列島に人間が住み着いたのはいつ頃なのか?。このことは誰もが持つ疑問であり、多くの学者たちによって研究がなされてきた。多くの説の中で最も多くの支持を受けているのが「氷河期に大陸から宗谷経由でマンモスなどの動物が到来したが、その際に動物を追って旧石器人も大陸からやってきた」という説である。

 日本列島に私たちの祖先が住んでいたのは縄文時代になってからである。縄文時代以前の石器が日本各地で発見されていて、石器が発見されていることは人間が住んでいた証拠であるが、どんな人種だったのか分かっていない。現在の日本人や縄文時代の人々の体つきと違っているので、石器時代の人々が私たちの祖先なのか、別の人種なのか分からないのである。

  いずれにしても人間には他の動物と違い知恵があった。その知恵によって狩りの道具が徐々に作られた。ところで舟なしでは往来できない伊豆諸島・神津島の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡から発見されている。このことから「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」との説もあるが、船の遺物が発見されていないのであくまでも推測である。想像を絶する太古のことなので、例外はあるだろうが、例外は例外であって、本筋は本筋である。

 数万年前までの日本海は大きな湖であった。浅海がユーラシア大陸と陸続きだったことは事実で、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡は陸橋となった。

  数万年前にナウマン象・オオツノジカ等の動物群がアジア大陸から渡来したことは間違いのない事実である。しかし数千年前から日本と大陸の陸続きは終わっているので、対馬海峡から動物群がやってきたのは数万年前までのことであり、数千年前は氷河期に凍結する宗谷海峡を経由して北海道にマンモスなどが南下したのである。

 大きな湖であった日本海に、対馬海流が流れ込むことによって、日本列島は太平洋側の日本海流(黒潮)と日本海側の対馬海流の二つの暖流に包まれることになる。日本海側は太平洋側(岩手県・宮城県・福島県)や、同緯度の対岸にある朝鮮半島やロシアに比べて気温が高いがこれは対馬暖流の影響である。山口県でも萩市沖の離島の見島が県内で最も平均気温が高い。対馬海流は、日本海側に積雪による豊富な水資源と、夏の高温・多照をもたらし、結果的に稲作に適した穀倉地帯と風土を作り出している。

富士山

 富士山は今から数100万前から火山活動をしているが、約1万年前からその姿をほとんど変えていない。つまり富士山の火山活動が活発だったのは、日本列島にヒトが住むはるか以前のことである。

 つまり縄文人は現在の富士山と同じ姿をの見ていた。縄文人も富士山の美しさに感動したことであろう。

 東京周辺には富士山、赤城山、箱根、浅間山などの火山灰が積もった関東ローム層がある。この関東ローム層はが厚いところは30~40m積もっているのである。火山が活発に活動していたのがこの時代で、これでは人類は生存できるはずはない。

 ところで現在、富士山の噴火を心配するヒトが多いが、貞観噴火 (864年)と宝永大噴火(1707年)に小規模の噴火があっただけで、関東ローム層を成すほどの噴火は太古のことである。また桜島の噴火で鹿児島では数ミリの灰が降っただけで大騒ぎをするが、桜島が太古に大爆発した時は、関東地方でも灰が20センチ積もったとされている。

野尻湖遺跡の発見

 1948年(昭和23年)野尻湖畔の旅館の主人加藤松之助氏が、野尻湖底でナウマンゾウの臼歯(きゅうし)を発見した。「湯たんぼ」にしては変だと思い、地元の野尻湖小学校の日野武彦校長に相談すると「ゾウの歯ではないか」といわれた。このことが遺跡発見の発端となった。

 1973年の学術調査で、3万3000年ほど前の地層からナウマンゾウ、オオツノシカ、ニホンシカ、ヒグマ、ウサギなどの骨が見つかり動物が生息していたことがわかった。

 ナウマンゾウは40万年前に中国大陸から日本に渡ってきたアジア象で、約2万年前まで生息していたことが知られている。ナウマンゾウがいたならば、それを食料にしていた人間がいたかもしれない。「その遺跡を発見したい」という調査員の思いは高まると、同一地層からナウマンゾウとナイフ形の打製石器が発掘されたのである。

 つまりナウマンゾウを追い求め、大陸から狩人たちが狩猟のためやってきたのだった。

   父象と子象の模型(忠類ナウマン像記念館)
   父象と子象の模型(忠類ナウマン像記念館)

 野尻湖は長野県の新潟県の近くにある。なぜ野尻湖にナウマンゾウがいたのか、このような疑問を持つヒトが多いだろうが、野尻湖にナウマンゾウがいたのではなく、日本各地にナウマンゾウがいたのである。マンモスの化石は北海道だけであるが、ナウマンゾウの化石は北海道から九州までの各都道府県すべてで発掘されている。1976年(昭和51年)、東京の地下鉄・浜町駅の工事中に3体のナウマンゾウの化石が発見され、東京都内だけでも田端駅、日本銀行本店、明治神宮前駅など20箇所以上で発見されている。なおナウマン象の名前の由来であるが、明治時代初期に、東京大学地質学教室の教授ナウマンが、横須賀でナウマンゾウの化石が初めて発見したことによる。

 

時間の感覚

 終戦後の日本の時間は、日本の歴史全体の0.3%にすぎない。日本人の歴史を1年に例えれば最後の12月31日になる。日本人の歴史のほとんどが先史時代で、文字として記録が残された時代でさえも日本の歴史全体の数%にすぎない。
 古代史を理解するには、脳内の時間の感覚をすべて削除し、時間の概念を根底から変えなければいけない。12月31日のたった1日の経験で、あるいは数時間の経験で、瞬間の思いつきで1年間を評価してはいけない。最近、地球の温暖化が問題になっているが、これも氷河期から間氷期への移行と考えれば、ごく自然な現象と捉えることができる。
 地球は気候の温暖化と寒冷化を数百年単位で繰り返してきた。あの赤穂浪士の討ち入りのときの江戸や2・26事件の東京は雪が積もっていた。そのことから温暖化現象は間違いないだろうが、問題は地球の温暖化に対する人為的関与の度合いである。人為的関与が多いとするならば二酸化炭素の排出を減らしエコを推進させることである。もし関与が少なければ、ただ神に祈るだけである。

2 日本人の起源

   平安時代の鬼の顔と貴族の顔。    支配者(貴族)になった弥生人の北方系の顔は、日本的あるいは人相のよい顔とされ、被支配者として虐げられた縄文人の南方系の顔は、甚だしい場合は鬼の顔にさせられた。
   平安時代の鬼の顔と貴族の顔。    支配者(貴族)になった弥生人の北方系の顔は、日本的あるいは人相のよい顔とされ、被支配者として虐げられた縄文人の南方系の顔は、甚だしい場合は鬼の顔にさせられた。

 日本人の起源はついては「アジア大陸南部由来の縄文人(太眉で二重瞼、厚唇の立体的な顔)が、朝鮮・モンゴル由来の弥生人(細眉で一重瞼、薄唇の平坦な顔)の襲来を受け、弥生人が縄文人を南北に追いやり日本を支配した。南に追いやられたのが琉球人・熊襲(くまそ)で、北に追いやられたのがアイヌ・蝦夷(えみし)である。さらに縄文人と弥生人が混血を繰り返して現在の日本人が形成された」と歴史の授業でならった。この教えは考古学の大家がそう言っただけで科学的根拠は何ない。しかし上左図を見せられば何の疑いもなく信じてしまった。
  この説は、遺伝子解析のなかった時代に、DNAの言葉すらなかった半世紀前の時代に学校で習ったことである。しかし科学の進歩、考古学者の努力により、証拠に基ずく新たな説明がなされるようになった。
  かつての「日本人の起源説」は文学的であったが、現在はより科学的になっている。科学に基づいた証拠が古代史を塗り替えている。しかしこのように日本人の起源を述べるのはロマンであり、文学的教えが間違いだとは断言し難い。それだけ日本人の起源については説明しがたい謎が多いのである。
 
日本人バイカル湖畔起源説
 現在、日本人の起源について最も有力な説はロシアのバイカル湖周辺説である。血液の免疫グロブリンの遺伝子(Gm遺伝子)が民族ごとに異なっていることから、民族を示すマーカーになることがわかっている。
  このマーカーとなるGm遺伝子の分布によると、モンゴロイドは「南方系」と「北方系」に大別され、日本人のほとんどが「北方系」で南方系との混血率は8%以下である。このGm遺伝子混合率は、北海道のアイヌから沖縄に至るまで同じ頻度で混合されている。
  いっぽう台湾人は南方系パターンで、朝鮮民族は日本人と同じ北方系モンゴロイドであるが、南方遺伝子の混血率が高い。中国では混血率がさらに高くなる。北方Gm遺伝子の分布はバイカル湖周辺がピークになることから、日本民族の源流はバイカ湖付近とする説が登場したのである。さらなる遺伝学の研究により、HLA(白血球の型)の分析、ミトコンドリアDNAの研究、Y染色体の研究においても日本人の北方起源を支持している。

 さらにバイカル湖近辺から細石刃が発掘されている。この細石刃は1万2千年前の東日本の地層からも発掘されている。細石刃は革新的技術で、自然に発生するとは考えにくいことから、バイカル湖近辺にいた人々が、獲物を追って、植物性の食料を求め、日本に移動したとされている。かつての古代人は移動性の生活だったので食料を求め陸続きだった日本に渡ってきてもなんら不思議ではない。このように考古学的にも、遺伝学的にも「ロシアのバイカル湖周辺説」は現在最も有力な説である。もちろん反対意見もある。

 

日本人の起源の謎
 日本人の祖先がどこから来たかを知るには,人類学以外に言語学・考古学・宗教学・神話学・民族学・遺伝学など多くの分野から研究が進められているが、いまだに結論に至っていない。古事記・日本書紀などの神話では神武天皇の東征、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の熊襲・蝦夷征伐などから「天孫民族」が「先住民族」を平定して大和朝廷を成立させたとしており、そのイメージから弥生人が縄文人を征服し、このことから縄文人が「先住民族」だったと考えられているが何の確証はない。

1 人種の問題
 日本人が黄色人種であることは間違いない。また土着の日本人がいたところに、大陸各地から移民が渡ってきて混血したことも異論はない。しかし問題は土着の日本人の祖先のルーツである。日本人の先祖がバイカル湖周辺から来た説が有力であるが、はたして確実なのだろうか。
  周囲の人たちの顔を見れば、彫りが深くて毛深いアイヌ系の人、目が細く釣り上がった蒙古系の人、丸顔で温和な南方系の人というように特定のパターンに気づくであろう。 科学的資料からも、大陸各地から移民が日本に来たことは事実である。渤海地方から日本海を経由して北陸に土着した人々、朝鮮半島から九州に入った人々、東南アジアから沖縄を経由してきた人々などがいる。
  しかし移民がいたとしても、日本人全体に対する数の程度が極めて少ないのである。しかも移民たちは、日本列島を征服するために来たのではなく、何らかの事情で母国を追われた難民だった。日本列島の先住民は寛容であり、また豊かな生活から、彼ら難民を好意的に受け入れたのであろう。たとえば1万人の移民が人口100万人の日本にやってきても、混血率は1%である。有色人種だろうが、無色人種だろうが、数世代経てば、混血率1%では土着人に同化されることになる。
  かつて騎馬民族征服説が世間を騒がせたことがあった。蒙古系の騎馬民族が大陸から九州に侵入し、土着の勢力を征服して日本の王になったとする説である。この騎馬民族説はウケ狙いの風説であって現在では否定されている。まず西日本から馬の骨の出土がきわめて少ないこと、騎馬民族の風習である飲血やズボンの着用が日本の文化に導入されていないことなだから、たとえ騎馬民族が日本に来たとしても、先住日本人に同化して習慣が風化したのであろう。
  日本人は「縄文時代人が直接の祖先で、後にモンゴロイド各人種の混血によって成立した独自の民族」とするのが無難であろう。

2 言語の問題
 日本語の起源も重要であるが結論が出ていない。日本語の類似語が世界中どこにも存在せず、朝鮮語や中国語とも完全に独立しているのである。かつて日本語は文法上からアルタイ語系、音韻からウラル=アルタイ語の系統に属すると云われていたことがあった。しかし現在ではそれを支持する学者よりも疑問を持つ学者のほうが多い。様々な語学系説があるが、現在では日本語孤立説が最も有力である。
  日本語は世界の言語の孤児と云われている。朝鮮や中国で使われていた古語が日本に伝わり、大陸で古語が消滅して日本列島で生き残ったことも考えられるが、文法の違いを説明できない。もちろん日本の古文も日本独自であり、朝鮮や中国の古文とは違っている。言語上は、日本人はアイヌ人・中国人・南洋の人々とは近接な関係ではないが,風習・神話、農耕儀礼・妻問婚などに南方系の要素が強く認められる。
  日本語は文字を持たない話し言葉として発達し、日本人が文字を必要とした時、都合よく中国から漢字を輸入できた。日本語は中国とは異なる発音と文法を持ちながら、漢字をうまく利用したのである。
  日常的に日本語を用いる私たちは、漢字とひらがなとカタカナを使い分け、ひとつの音を表すのに三種類の文字を持つ。多分気づいていないだろうが、このような言語は世界で日本語だけである。そのため高校生になっても「国語」を学び、大学受験で「漢字の書き取り」が出題されるが、これは他国では無用の苦労である。
 
3 宗教の問題

 日本人の宗教は自然崇拝である。この自然崇拝は神道という形で、今日に至るまで連綿と受け継がれている。仏教やキリスト教、儒教が日本で脚光を浴びる時期があったが、これらの宗教は、あるときは政治に利用され、あるときは他国の利害が絡み、本来の教義を逸脱している。
  日本の仏教は、釈迦が唱えた小乗仏教 ではなく大乗仏教である。本来の小乗仏教の目的は厳しい修行の末に悟りを啓くことで、日本の大乗仏教は、仏の力によって極楽浄土に行くことである。葬式仏教と揶揄されるが、そもそも日本を統制するのに神道より仏教の導入のほうが都合がよかったのである。江戸時代の檀家制度は反キリスト教が目的で、隣組制度、戸籍制度の役割をかねていた。このように仏教本来の教えとズレが生じている。
  キリスト教や儒教も同じで、多くは為政者が政治の道具として利用され、最近では金儲けが目的となっている。結局、日本人の宗教は神道で、日本神道の大祭主が天皇である。天皇制を考える上で、天皇は宗教機関であって政治機関ではないことを認識すべきである。つまり政治論から天皇を論じるのは間違いなのである。
 
4 大陸との関係
 日本には文字がなかったため古代の記録が存在しない。口頭伝承の神話が奈良時代に書かれ、つまり記紀(古事記と日本書紀)」が古代の日本を知る唯一の史料になる。古代朝鮮や中国の記録によると、日本は古代から朝鮮半島の政治に大きな影響を及ぼし、軍隊を派遣して戦火を交えていた。中国とも使節のやり取りをしていて、「後漢書」には倭王からの朝貢の記録がある(紀元2世紀)。ただ史料は質量ともに不十分で、記述の内容がどこまで本当か分からない。また「記紀」には中国の資料に書かれている日本のことが書かれていない。さらに食い違いが多すぎる。「記紀」に書かれた内容を読み取ることが史家にとって重要な研究手段になるが、「記紀」に書いてあることが真実とは限らない。嘘を分析しても、嘘は嘘にすぎず、嘘をついた背景を想像するだけである。
  大陸との関係は、我が国の起源を知る上で重要なテーマである。しかし史料不足によって性急な結論は出せず、推論を述べるにすぎない。
  発足して間もない我が国の王が、積極的に海外に働きかけたのは、日本の王権を握る者が朝鮮半島に大きな利権を持っていたからである。朝鮮半島南部は鉄の産地だったので、鉄資源をめぐっての利権である。
  そのため朝鮮との交流はあったが、日本の王権中枢が、朝鮮半島からの渡来人であったことは否定もできないければ、肯定もできない。資料がないので、独自の解釈を述べるのは可能である。しかも突拍子もない解釈は、新解釈ともてはやされるが、自分勝手な想像、自己満足で終わるのがほとんどである。
  だが、それだから面白いのである。謎だから、本当のことがわからないから、それがロマンであり面白いのである。隣の芝が青くても、枯れていても、想像するのは面白い。

 5 民俗学の立場から
 民族のことを調べる学問が民族学で、民俗学を体系化したのが兵庫県福崎町出身の柳田国男である。当時は科学的手法はなかったが、民族学と民俗学から現在の日本人のルーツを調べてみる。
 日本人の特徴のひとつは目が細いということである。これは目が細いのではなくて、瞼の上の脂肪部分が多いことによる。整形美容で目を大きくするにはこの脂肪を取ることになる。瞼の上の脂肪が多いのは、寒さから目を保護するためとされ、寒さ対策から日本人のルーツは寒い北方系(北方ルート)といえる。
 また綺麗な女性が水浴びをして、その女性の衣を男が奪ったため天に帰れないという羽衣伝説は日本各地にあるが、これは大陸系のルーツ(朝鮮ルート・東シナルート)を意味している。次に助けた亀を竜宮へ案内される浦島太郎の話が古事記にも出てくるが、これは南方によくある話である。このことから日本人は南方系(沖縄ルート・南洋ルート)もルーツにしていると言える。
 つまり日本人のルーツは多民族性で混血ということである。日本人は島国で閉鎖的と考えやすいが、その血には多民族性が備わっている国際的な人種なのである。

3 人類の起源

 地球の歴史と人類の歴史を、1年間の尺度で比較してみると、まず地球が1月1日0時に誕生したとすれば、地上に恐竜が出現したのは12月12日朝のことで、恐竜はわずか15日で滅亡している。人類の誕生を500万年前とすれば、人類は12月31日14時に誕生したことになり、人類の誕生から今日までは、1年の中の最後の8時間にすぎない。しかも日本の縄文時代は12月31日午後11時58分52秒となる。

 終戦時に生まれたヒトは70歳になるが、この老人のほとんどは除夜の鐘の最後の鐘の余韻がわずかに残る瞬間に生まれたことになる。我々が知る時間は、時間というよりは瞬時であり瞬間である。このように地球の歴史と人類の歴史を比較すると、地球という星の偉大な存在を知るべきで、なぜか謙虚な気持ちになってしまう。

 さて、地球上に人類が登場したのは、今から約 700万年前といわれている。かつての教科書には100万年前と書かれているが、それが200万年前、300万年前、400万年と、どんどんさかのぼり現在では約700万年前となっている。学問の進歩にしたがい、この数値も将来まだ伸びる可能性がある。

 人類の祖先である猿人が地上に現れたのが700万年前であるが、猿人はチンパンジーと似ていて脳の大きさはほぼ同じである。猿人が人類の祖先とされているのは直立二本足歩行をしていたからで、ヒトとサルの違いは、火を使う、言葉を話す、道具を使うなどいくつかあるが、決定的な違いは直立二足歩行である。

 他の違いは直立二足歩行によってもたらされた付随にすぎない。二足歩行により自由になった手で簡単な道具を使うようになり、二足歩行により頭部が重くても支えられ、脳の容積が増加した。二足歩行によって喉頭のスペースが確保され言葉を発するようになった。このように人間の特徴はいずれも直立二足歩行によって獲得されたものである。

 猿にキャラメルとやると上手に包装紙を取り除いてキャラメルだけを食べるが、よく観察すると猿は指を使わずに掌を使っている。つまり人間と猿の違いは、親指と人差し指の対峙の違いである。つまり人間はどんなに細かい物でもつまむことができ、指を使えば脳が刺激されて大きくなる。脳が大きくなると、指はさらにうまく使えるという好循環が人間を進化させた。これが今西錦司の今西進化論で「ジャングルを追われた猿が、平原で敵を探るために2本の足で立ち上がり、その便利さを知った猿が人間になり、再びジャングルに戻った猿がそのまま猿になったとしている」が、やはり重要なポイントは直立二足歩行である

 人類の誕生1924年に南アフリ カで発見されたアウストラロピテクス・アフリカヌスが有名で400万年〜80万年前に生きていた。その後、1990年代にエチオピアで発見された500万年前の化石人骨はアウストラロピテクスミダスラミダス猿人)と名づけられた。ラミダス猿人の下肢骨は発見されていないが、頭蓋骨の底部に脊髄が通る後頭孔がみられることから直立二足歩行をしていたとされ、現在、最古の人類とされている。

 100万年前に猿人から原人に進化し、原人は100万年~15万年前まで生活していた。猿人と原人の違いは、猿人に比べ原人は複雑な石器を使用していたこと、火を使用したことや言語を用いたことである。

 化石人骨としては、1891年にインドネシアのジャワ島で発見されたジャワ原人や北京郊外で発見された北京原人が有名である。北京原人はたき火のあとがあることから火を使っていたとされている。北京原人の知脳は現在の3歳児程度で,言語を使っていたとされている。

 続いて人類は旧人へと進化する。旧人は15万年~3万年前まで生活していて、原人との違いは石器製作狩猟技術の進歩埋葬呪術など信仰心が生まれたことである。化石人骨としては、1856年にドイツで発見されたネアンデルタール人が有名である。彼らは葬送の儀礼をおこない、埋葬には花を供えていていた。そのため遺骨の上にたくさんの花粉が残されている。仲間の死を悼むことは高度な精神文化を持っていたことを示している。旧人はホモサピ エンス(智の人)と呼ばれるが、旧人は現在の我々とは頭の形が違い、ゴリラのようである。

 このネアンデルタール人は3万年前に、新たに出現した新人(クロマニヨン人)によって絶滅したとされている。1868年、南フランスでクロマニヨン人が発見され、ホモサピエンスよりも賢いので、ホモサピエンス・サピエンスとよばれている。

 クロマニヨン人は現代人に近い骨格をもつ現生人類で、現代人と同じ種に属する。クロマニヨン人の特徴は、非常に精巧な石器や骨器を製作し、スペインのアルタミ、フランスのララスコーの洞窟にみられる優れた壁画や女性像・動物の彫刻を残すなど、豊かな文化を持っていた。文化を持つ動物は人間だけである。逆に言えば、文化を持つ動物が人間である。

 化石人骨としては南フランスで発見されたクロマニヨン人が有名で、3万年前に生まれたクロマニヨン人が現在の人類の祖先で、つまりは現在の人類に直接つながる祖先である。

 ネアンデルタール人はクロマニヨン人によって絶滅された、と書いたが、ある期間は同じ時代に生きていた。つまり当時の人類は2つのタイプあったことになる。時間を重ねながらネアンデルタール人は絶滅し、クロマニヨン人が生き残ったのである。 

 猿人から新人まで、人類は進化したが、この進化には連続性はない。人類は子孫を残さずに何度も絶滅しては、別種が新たに誕生しているのである。つまり進化の過程でヒト科の様々な種が生まれたが、その中で現存しているのはホモ・サピエンスのみで、それ以外はすべて絶滅している。

 ネアンデルタール人とクロマニヨン人は生存時期が一部重なっているが、ネアンデルタール人は絶滅し、クロマニヨン人が現代につながっている。

 生存時期が重ねていることから、クロマニヨン人がネアンデルタール人を滅ぼしたとされているが、本当のとことはわからない。その証拠がないからである。

 不思議なことに、これまでの様々な人類はアフリカで誕生して、世界中に散らばっている。なぜアフリカが新しい人類発祥の地なのかはわからない。ジャワ原人・北京原人はジャワや北京で発生したのではなく、両者ともアフリカに起源を持ち、アジアに進出してきて絶滅したのである。彼らが現在のインドネシア人、中国人の祖先ではない。現在の人間とはまったくの別種である。

 日本にも原人や旧人がいて、それが新人(縄文人)になったのではない。現代人の祖先をたどると「すべての人間の祖先は20万年前ごろのアフリカに辿り着く」のである。つまりアフリカで20万年前に旧人から進化した新人が世界中に散らばったのである。

 ダーウィンの進化論が正しいようで、なんとなく納得できない人が多いであろう。それは地球の時間の概念について行けないためなのか、あるいはダーウィンの進化論が間違っているからである。ダーウィンの進化論を支持するかしないか、あるいは「人間ははじめから人間として創造された」と信じるのか、それは個人の自由であり、押し付けでなければ、どちらを信じても良いことである。どうせ100年もすればまた考えが変わるであろうからである。


           人 類 の 進 化

     猿人 →    原人  →       旧人  →    新人

(700〜100年前)  (100〜15年前)    (15〜3年前)     (3万年以降)

  直立歩行       火・道具使用             衣服使用            弓矢発明

             北京原人                    ネアンデルタール人             クロマニヨン人

                                  牛川人(愛知)?   聖岳人(大分)

                         葛生人(栃木)?   港川人(沖縄)


DNA解析による人類の起源
 「われわれ人間とは何か」を突き詰めるのが人類学で、人類学は社会や文化的の側面から研究を行なう「文化人類学」と、人類の進化を生物学的に研究する「自然人類学」にわかれる。
 最近の最先端である「分子人類学」は自然人類学のひとつで、遺伝子から人類の進化やルーツを探る方法である。遺伝子がDNAであると分かったのは、1953年のワトソンとクリックのDNAの二重らせんモデルの発見からで、DNAの歴史はたかだか60年にすぎない。1980年代にDNA解析が飛躍的に進歩し、系統や血縁などの情報がDNAから得られるようになり、遺伝子の本体がDNAなので、DNAから祖先を調べることができるようになった。
 それまでの考古学は、発掘された人骨の形態を調べるのが主流だったが、骨の形態は環境によって変化するため分析が難しいが、いっぽうの遺伝子は親から子へ受け継がれるので、DNAを解析すれば種類や系統などを知ることができるのである。
ミトコンドリアDNA
 ミトコンドリアは、ひとつの細胞に数百個から数千個含まれている。このミトコンドリアは小さく、突然変異を起こしやすいので、DNA解析にはうってつけである。さらに「母親のミトコンドリアDNAだけが子に伝わり、父親のミトコンドリアDNAは子に遺伝しない」という最大の特徴を持つ。
 通常、遺伝子は両親から半分ずつもらうが、ミトコンドリアDNAは精子の尻尾の部分にあるので、卵子と精子の受精の際に卵子に入らない。つまりミトコンドリアDNAを解析すれば母親の系譜のみを知ることができる。母系遺伝子の変異を追跡すれば、人類がどのような経路を辿ったのかがわかることになる。
ミトコンドリア・イヴ 
 現在生きている世界中の民族や人種のミトコンドリアDNAを調べて、DNA配列の似たものをグループ化することができる。人類はDNAの突然変異を繰り返しているので、DNAの突然変異を逆算すると、人類のスタートラインを知ることができる。つまり人類の起源に辿り着くことができるのである。どの位の時間でDNAが変異(突然変異)するかを確率論から計算すると、世界のは民族や人種とは関係なく、すべてが一つのDNA配列から発祥したことがわかる。この「突然変異によるDNA配列の変異」の計算から人類の共通の祖先を探れるのである。
 その結果、人類共通の祖先は、20万年前のアフリカが起源になることがわかった。すべての現代人が、約20万年前のアフリカに住んでいた一人の女性のミトコンドリアDNAを引き継いでいるのである。それが「ミトコンドリア・イヴ」と呼ばれる女性で、現存するすべての人はたった一人の女性「ミトコンドリア・イヴ」の子孫であり、現存する人はすべて遠い親戚同士になる。
 では当時「ミトコンドリア・イヴ以外に女性がいなかったのか?」という当然の疑問が湧いてくる。もちろん「ミトコンドリア・イヴ」が生きていた時代には、他にも女性は多くいた。しかし他の女性たちの子孫は途中で絶滅し、ミトコンドリアDNAが引き継がれなかったのである。
 ミトコンドリアDNAだけでなく、アフリカの20万年前の地層から発掘された化石の骨を調べると、私たちと似た骨の化石が出てくる。これらの骨の化石はアフリカ以外からは見つかっていないので、骨の化石からもアフリカが人類の起源とされている。