フランシス・ベーコン

フランシス・ベーコン(1909 - 1992年)はアイルランド・ダブリン生まれのイギリス人画家。抽象絵画が全盛となった第二次世界大戦後の美術界において具象絵画にこだわり続けた。20世紀最も重要な画家の一人とされているが、作品の大部分が激しく歪曲されており、現代アートに詳しくない者にとって戸惑いがある。激しく大胆な筆致とグロテスクな表現で、鑑賞者に不安感や孤独感を与えることで知られる。「展覧会を開催するのがもっとも難しいアーティスト」である。

 1909年、アイルランドのダブリンに生まれ、父方の家系はニコラス・ベーコン(準男爵、下院議員。哲学者フランシス・ベーコンの異母兄)の直系の子孫とされている。父親のエドワードはボーア戦争に従軍した退役軍人で競走馬の訓練士であった。小児喘息の持病があったベーコンは正規の学校教育を受けずに個人授業を受けていた。美術の専門教育は受けていないが、1926年頃から水彩や素描を描き始め、1927年からベルリン及びパリに滞在し、1929年からロンドンで家具設計、室内装飾などの仕事を始める。

 この頃まで芸術的なキャリアはほぼなかった。絵描きとしての能力に自身が持てなかった若い頃のべーコンは、グルメ趣味、ホモセクシャル、ギャンブル、インテリアデザイン、家具デザイン、カーペットデザイン、浴室タイルデザインなど、さまざまな自身の中にある世界を彷徨っていた。

 1934年、ロンドンで初の個展を行うが、その後、自分の作品の大部分を破棄してしまう。1944年から創作を再開し、翌年にはロンドンで「キリスト磔刑図のための3つの習作」を発表している。1949年には「頭部」シリーズを描きロンドンで個展を開いている。1950年からロイヤル・カレッジ・オブ・アートで後進の指導にあたる。1954年にはヴェネツィア・ビエンナーレのイギリス館で作品を展示し、この頃から評価が定着する。

 制作にあたっては、過去の著名な作品をモチーフにすることが多く、ベラスケスの 「教皇インノケンティウス10世の肖像」や、映画「戦艦ポチョムキン」などを元にして、激しく変形させて描くことで知られている。古典の名画、写真、映画のスチール、レントゲンなどのイメージをテーマに選ぶことが多く、歪んだ人間のイメージを、目をそむけたくなるようなグロテスクで鮮やかな色彩で描くことが多い。戦後の抽象絵画主流の時代に、身体、肉体、内臓という刺激的な素材で、孤独を表現する新しい扉を開いた。

 これまでの絵画鑑賞では、絵画に書き込まれた物の意味を解釈しようとしたが、ベーコンの絵は 「脳細胞に直接働きかけるのが大切で、意味を考えるプロセスはいらない。見た瞬間にどう感じるかで十分ということである」。ベーコンが求めたのは、彼自身の言葉で表現すると「感覚の奥深くに潜んでいるものを解放するイメージ」である。

  ベーコンは「うきうきするような絶望的気分」を描いている。名誉や倫理とは無縁な場所で、人間の本性を隠しているベールを剥がし、人間の本質を冷ややかに見据え、絵描きとして人間を見つめ描こうとする。あるべき人間の姿や理想像を語ったり描こうとはせず、ただありのままの人間を描いている。

 1971年、フランスの美術雑誌が選ぶ「ピカソを除く現存重要作家ベスト10」の1位に選出されている。つまりピカソと並ぶ20世紀の美の巨匠とされている。

 ヴェラスケスの有名な肖像画「教皇イノケンティウスⅩ世の肖像」(左)を描いている。ヴェラスケスの絵画とはまったく異なっているが、この絵画へのこだわりはベーコンの心を離れなかったようである。円筒に閉じ込められたイノケンティウス10世のイメージは、ベーコン自身の苦悩を視覚化するにふさわしい素材だったのだろう。彼は左の「教皇イノケンティウスⅩ世の肖像」の複製図版をもとに、いわゆる教皇シリーズをしつこいほどに描いている。

 ベーコンはヴェラスケスと競っているのではなく、イノケンティウス10世は単なる素材にすぎず、ベーコン自身の輝くように魅惑的な暴力的心象を表現したかったのであろう。虚空の闇の中で泣き叫ぶようで、耐え得るギリギリの緊張を保っている。地の底から悲鳴が響き渡ってきそうである。

 目を離すことなく見つめると、そこに血飛沫のようにはじける黄金の輝きに魅せられているのに気づかされる。縦方向の激しい運筆の中に亡霊のように浮かび上がった苦悶の表情は、今まさに遠い異次元に連れ去ろうとしているようである。次の瞬間、全ては無に帰し、底なしの闇だけが残るのかもしれない。 

人物像習作 Ⅱ

1945-46年
ハダースフィールド美術館

 部屋の中で、傘を差しながら口を開け悲しみの咆哮を上げているようである。ベーコンはこの絵以前に描かれた作品を自ら破棄したので、以前の描き方は知ることはできないが、なんとも不思議で不気味な絵である。