アルフレッド・シスレー

アルフレッド・シスレー

 アルフレッド・シスレー(1839年- 1899年)はフランス生まれのイギリス人の画家。

 シスレーは裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子だった。1857年、18歳のときにロンドンに移り叔父のもとでビジネスを学ぶが、商業よりも美術に関心を持ちターナーやコンスタンブル等の作品に触れた。4年後、家業は継がずに画家を目指してパリに戻りシャルル・グレールのアトリエで学び、モネ、ルノワールらと出会う。

 彼らはスタジオで絵を描くことより、戸外で風景画を描くことを選んだ。このため、彼らの作品は当時の人々が見慣れていたものより色彩豊かで大胆であった。伝統にとらわれない技法に魅せられたこともなり、そのため展示されたり売れることはあまりなく、彼らの作品は当時のサロンの審査員からは受け入れられなかった。

 1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場あった。そのため貧しい印象派の仲間たちを経済的に援助することも多かった。ルノワールを自分のアパートに同居させ、慎ましく穏やかで上品なシスレーに、ルノワールは好感を抱いていたようである。ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品している。

 1866年、シスレーはパリに住むブレトン人ウジェニー・レクーゼク (1834年-1898年)と交際を始める。二人の間には息子ピエール (1867年生) と娘ジャンヌ (1869年)が生まれた。当時シスレーはアヴニュー・ド・クリシー近くに住んでおり、パリ在住の画家の多くが集まるカフェ・ゲルボワの常連になっていた。

  1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、あまり評価されなかった。

 1870年、 普仏戦争勃発し、ブージヴァルに住んでいたシスレーは敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産、経済的必要を満たすために作品を売るしかなくなるが、シスレーの作品はなかなか売れず、以後死ぬまで困窮した生活をすることになる。1871年、パリ・コミューンを避けルーヴシエンヌにほど近いヴォワザンへ移住。その後、アルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポール=マルリにも移住する。

 印象派の父と言われたピサロは、典型的な印象派の画家が誰かと問われたとき、迷うことなくシスレーの名を挙げたとされている。それほどにシスレーは、ひたすら自然を描き続けた画家だった。シスレーの画面には、いつも雲が悠然と渡り、木々がさざめき、光がきらめいていた。カンヴァスに下絵を描かず、直接絵の具を置いた。自然光のもとで、目に映ったままの景色を描いていた。それはシスレーの求めた理想だった。印象派の画家たちがそれぞれ独自の道を歩むようになっても、シスレーだけは迷うことなく目の前の自然を、柔らかな光の中に描き続けた。自然そのものを前面に出すことは、まさしく典型的な印象派の画家だった。下描きをほとんどせず、カンバスに直接絵の具をのせていく手法で描き続けたというシスレーは皮膚感覚を一番大切にした画家だった。モネやルノワールのようなインパクトは残していないが、最も印象派の画家らしい存在だったと言える。

 経済的困難もあったが、後援者の助けもあり何度かイギリスに旅をしている。最初の機会は1874年で、第一回印象派展の後に熱心な収集家で著名なオペラ歌手であったジャン=バティスト・フォールの招きによりイギリスに滞在している。シスレーはロンドン滞在中、テムズ川上流のモレジーで20近くの作品を制作した。翌年にはモネ、ルノワール、ベルト・モリゾとともに水彩画、油彩画の即売会を開催する。

 1880年代に、パリの東南方、セーヌ川の支流のひとつであるロワン川沿いに活動の拠点を移し、1881年には再びイギリスを訪れている。1889年にはモレ=シュル=ロワンに移住。1893年よりモレ=シュル=ロワンのノートルダム教会を連作で14点描いた。

 1897年にはウジェニーと共に再びイギリスを訪れ婚姻届を提出した。二人はカーディフ近郊のペナースに滞在し、シスレーは6枚の油彩画を制作した。8月中旬にはガウワー半島のホテルに移り、11枚の油彩画を制作した。10月にフランスに戻り、この旅が祖国を訪れた最後になった。

 カーディフ国立美術館にはこの時の作品が所蔵されている。その後、シスレーはフランスの市民権を得ようと申請するが却下された。2度目の申請時には病気が原因で却下されたという。シスレーは1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンにて喉頭癌のため死去した。妻が癌で亡くなった数か月後のことで二人はモレ=シュル=ロワンの墓地に埋葬された。

 生前にはほとんど絵が売れず、貧窮のうちに病を得て世を去ったが、その作品には穏やかで優しい画家の眼差しが注がれている。

ポール・マルリーの洪水

1876年

パリ、 オルセー美術館

 

 1875年、シスレーはルーヴシエンヌからほど近いマルリー・ル・ロワに引っ越すが、翌年3月、春の雪解けで増水した上流の水がセーヌ川に一斉に集まり洪水を起こした。これは雑誌にも紹介されるほど有名な災害で、多くの人々がこの災害に直面し、この絵を描くには船に乗るか水の中に立ったまま描く必要があった。しかし画面からは人々の混乱が伝わってこない。のんびりと穏やかな風情で、シスレーは災害のさなかでも洪水によって生まれた風景を感情を混じえず淡々と描写していた。画家の目には非日常も人々の生活の1コマで、いつも穏やかなシスレーらしい画風で、のどかな水辺の風景に見える。

 美しい青の色遣いが印象的で、穏健な人柄の画家、シスレーならではの画面である。シスレーは、ポール・マルリーの洪水の情景を計6点制作しているが、この作品は60×81cmと最も大きく、詩情豊かなシスレー作品の中でも印象深いものとなっている。

 流れていく雲、船で移動する人々、そしてあたり一面を浸した水には繊細に光が当たり、その微妙なニュアンスはモネとはまた違う優しさがある。穏やかな色彩や抑揚を感じさせる筆触も、画家の人柄を静かに物語るようである。

 この作品は、シスレーの生前には180フランで売買されたが、シスレーの死の翌年に開催されたオークションでは4万3000フランという高値で落札されている。

マシンの道、ルーヴシエンヌ

1873

パリ オルセー美術館

 シスレーの穏やかな人柄そのままのような優しい風景画である。心地よい風が吹き渡り、明るい陽光に満ち、画面すべてが美しい。シスレーの才能を認め、その作品を称賛する画商やコレクターも多かったが、控えめなシスレーは自らを売り込むことはなく、ありのままの自然を抒情豊かに描くことのみに情熱を注いだ。

 シスレーの作品に困窮や苦しみは感じられない。この田舎町ルーヴシエンヌの風景も、光と陰の穏やかなコントラストが見る者の心を優しく包みこむ。手入れの行き届いた樹木がまっすぐに並び、道は地平線の彼方まで続いている。画面の奥行きと広がりはシスレー独特の表現であり、射す陽光の慎ましい美しさが描かれている。

 西洋絵画の場合、雪をテーマに描き続けた画家は珍しいが、シスレーは雪のさまざまな表情に興味を寄せ、異なるタッチで微妙に描き分けた。この作品の中でも木々を包み込む雪、屋根にこんもりと積もった雪、そして人によって踏み固められていく雪と、それぞれに色調や雰囲気を変えて表現している。シスレーが雪に魅せられた理由はわからないが、目の前に広がる風景を静かに見つめ、ありのままの自然をひたすら描いたシスレーらしさを感じる。