駄文プログ

くさい飯

  刑務所に入ったことのある患者に「刑務所はくさい飯でつらかっただろう」と聞いてみました。すると患者は「病院の食事時より刑務所の方がおいしいですよ、麦飯は仕方ないにしても、麦飯は健康には1番ですから、糖尿病などは一発で治りますよ」と妙なことを自慢げに言い出したのです。そこで調べてみると、刑務所一食の材料費は393円から423円で、料理の得意な服役者が作り、配膳も服役者ですから人件費、光熱費はゼロ円です。いっぽう病院の食事は一食640円ですが人件費が含まれているので材料費は250円になります。また学校給食の一食の材料費は292円で人件費は別会計ですから、たしかに食事のおいしさは、刑務所、学校給食、病院の順になるのです。

 

 

 手洗い

 手洗いは医療の基本とされています。ある日、トイレから出ようとする医師が手洗いをしないで出ようとしたので注意しました。するとその医師は「トイレに入る前には手洗いをしますよ。それは自分の一番大切なモノに触るのですですから、でもトイレから出る時には手を洗いません。それは手洗いの蛇口が一番汚いからです。でも心配しないでください、患者さんの診療の前には必ず手洗いをしていますから」たしかに彼の言うとおりかもしれないと悩んでいました。後日、その医師と食事をしたとき、彼はまた妙なことを言いだしたのです。「先生、レストランのおしぼりは使っては行けません、おしぼりが清潔という証拠はありませんからね。このおしぼりが昨日風俗店で使われたものかもしれないんですよ」、さらに彼の話は続いた。「あと、ホテルの洗面所で顔を洗ってはいけませんよ、ホテルの掃除のおばさんがトイレを拭いたタオルで洗面所を拭いていたのをこのまえ見てしまったのです。

 

 

 平均寿命を延ばしたのは

 日本の死因のなかで確実に低下した疾患があります。それは脳梗塞などの脳血管障害です。なぜ脳梗塞による死が激減したのか、学会でお偉方がその原因について真面目そうな議論がなされていました。廊下で議論を聞いていた製薬会社の営業マンは、「脳卒中が激減したのは血圧のクスリが良くなったせいよ」と鼻で笑っていました。それをそばで聞いていた掃除のおばさんは「暖房が良くなったせいだわ」と軽くつぶやいた。

 

 

日本人の3人に1人は癌で死ぬ

 癌死が急増している。そのため禁煙や環境問題に神経質になっています。たしかに癌死が急増しているのは正しいが、同時に間違いとも言えるのです。たとえば年齢を補正して60歳代、70歳代と年齢を区切って過去数十年と現在を比較すると、年齢別による癌死の確率はほとんど変化してないのです。つまり高齢化が進んだために癌死が多くなったのです。長生きすれば癌になるのが人間の仕組みなのです。もしすべての癌が克服されたならば、日本人の寿命はどれだけ延びるでしょうか。癌で死なずに済んでも、他の疾患で死ぬことになるので平均寿命は意外に延びず、男性は4歳、女性は3歳の延長だけになります。いっぽう日本の男女の平均寿命差は6.9歳ですから、寿命の性差がいかに大きいかが分かります。寿命の性差は癌の壁より2倍も厚く、男性の癌がすべて克服されても女性の寿命にはとてもおよばないのです。

 

 

 コーギー

 子供の情操教育をかねて犬を飼うことにした。都内の犬屋を数軒訪ね、ケージに入った犬を見てまわってみた。かつて捨て犬を飼っていたことがあったので、犬には慣れていたが、その値段の高さには驚いてしまった。数十万円の犬ばかりでした。店内でどの犬を買おうかと迷っているうるうちに、値段の高い犬が良いだろうと思うようになっていました。物の価値は値段に比例するとわが脳ミソは毒されていたのです。しかし妻はこの犬でなければいやだと一匹の犬を指さした。それは貧相な顔をしたコーギーでした。コーギーはエリザベス女王が飼っていることで有名になった犬種で30万円前後が相場の犬です。しかしその上目遣いで見つめるコーギーはなぜか2万円でした。値段の安いものには欠陥があると小声で文句を言ったが、妻は耳を貸さずレジで2万円を払ってしまったのです。そして帰りの自動車の中で「この犬はあと数日の命だったのよ」と犬を抱きしめながら妻がいったのです。つまり売れ残った犬は値段が下げられ、それでも売れなければ安楽死にするのがこの業界の常識であることを教えてくれたのです。妻がこの犬を買ったのはこの犬の命を助けたい気持ちからだったのです。この日だけは妻を尊敬してしまった。そして医師としての基本的姿勢を教えられた気持ちになった。2万円のコーギーは、最近、飼い主に似て凛々しい顔つきになってきている。

 

 

八百万の神

日本には八百万の神がいて、草木、山、動物などの自然や尊敬する人物が神となり、天照大神、天皇陛下とともに平和共存している。

 この日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代で、蘇我稲目が仏教を支持し、物部尾輿と中臣鎌子が反対した。蘇我稲目は寺を建立して仏像を拝んだが、物部尾輿らは寺を焼き、仏像を捨てた。

 この神仏闘争は次世代に持ち越され、仏教派の聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして仏教が国教となった。

 聖徳太子は摂津に四天王寺を、蘇我馬子は法興寺を、天武天皇は大官大寺(大安寺)を、持統天皇は薬師寺を建立し、このように天皇家が寺を建てるようになった。

 京都東山に泉涌寺がある。この泉涌寺には天智天皇から昭和天皇までの歴代天皇の位牌が置いてある。つまり天皇、皇族は約1200年にわたって仏教徒だったのである。かつての天皇は、崩御すると「院」となるが、この院は戒名である。

 江戸時代最後の天皇である孝明天皇(明治天皇の父親)の葬儀は僧侶によって行なわれ、泉湧寺に埋葬された。明治4年 まで宮中には「仏壇」があり、仏像が安置され、位牌が祭られていた。それを外国に追いつこうとする明治政府が、日本人の精神的統一として天皇を現人神にし て、神道国家にしたのである。「神仏分離」と「廃仏毀釈」によって、宮中の「仏壇」は泉湧寺に移され、泉湧寺の天皇陵や皇族の墓所が宮内省に移管された。

 ちなみに出雲大社は天皇と対立していた地方豪族の神社で、伊勢神宮は明治政府の都合によって天皇家の祖先を祭った神社と創作されたのである。歴代天皇のなかで初めて伊勢神宮へ参拝したのが明治天皇であったことからも納得できる事実である。

 天皇、皇族は天照大神から現在に至るまで神道と思い込んでいる歴史家が多いが、日本人と仏教、天皇と仏教の歴史的経緯を知ることは大切である。私たちがブータン国王に親しみを感じるのも、多分、同じ仏教国だからであろう。

 

 

 

情と法律

  妻が腹痛を起こし、胆石の診断で大学病院に入院となった。もちろん私の誤診であったが、妻はもともと私の診断能力を信じていないことが幸いした。近医で超音波検査を受け、手術のため神奈川県の某大学病院に入院、手術は無事に終わった。

  手術翌日のことである。見舞いの帰り、その日は冷たい雨が降っていた。タクシー乗り場にはすでに3人の老婆が闇夜に立っていて、私は4番目だった。そしてやっとタクシーが来たと思ったら、後ろにいた集団がタクシーに割り込んできた。彼らは携帯電話でタクシーを呼び出していたのである。多分、病院の職員なのであろう。このタクシー乗り場での「呼び出しタクシー割り込み」が3回続き、ついに私の脳ミソはブチ切れた。

 タクシーに乗ろうとする若者を引きずり出すと、「お前ら、何のつもりだ。雨に震えるあの婆さんたちが見えないのか」。多分、血圧は200以上、相当の迫力だったのだろう。おびえた若者はタクシーを譲ってくれた。私は3人の老婆を後部座席に乗せ駅まで送ることになった。

  はたして私の行動は間違っていたのだろうか。法的には間違いであろう。もし訴えられれば、もしケンカになっていたら、私は罪人、病院はクビになっていただろう。しかし法律よりは人情である。もし批判する者がいれば、堂々と責任を取ればよい。法律よりは人間の情、自分の良心に従うべきである。あの3人の老婆もきっと私の行動に小さな声援を送ってくれたことだろう。

 

 

 

食品偽装

 数年前、食品偽装が社会問題となった。ミートホープ社は外国産の牛肉を国産と偽り、さらに鶏肉や豚肉、カモ肉を混入させた牛ミンチを20年以上にわたって販売していた。北海道のお土産の代表格である白い恋人たちは賞味期限の改ざんが発覚。秋田県大館市の食肉加工製造会社「比内鶏」は比内地鶏ではなく廃鶏と呼ばれる雌の鶏を使用していたことが判明、同社の偽装はおでんなど12種類に及び、これらは約20年前から行われていた。伊勢神宮参拝の土産「赤福」は製造年月日を改ざんして、製造後に冷凍して最大14日間凍結保管して出荷していた。この不正は30年以上も前から続いていた。船場吉兆は九州産の佐賀牛を但馬牛と産地を偽り、さらに鶏肉加工品も偽装し、少なくとも10年以上前から行っていたことが判明した。

  これらの食品偽装は5つの問題を提示したが、政府もマスコミもそれらを指摘せず問題を偽装した。

 

 1.     食品偽装は昨年に限ったことではなく、数10年前から行われていたこと。つまり偽装は以前から行われていた日本文化だったこと。

 

2.     発覚はすべて内部告発によるもの。つまり昨年は食品偽装の年ではなく内部チクリの年だったということ。社員の内部チクリは勇気あることであるが、発覚によって社員自身も批判と生活苦を味わうことになる。これは社会保険庁の覗き見職員の末路と似ている。

 

3.     次ぎに数十年前からあった食品偽装に対し、消費者といわれる王様が偽装に気づかなかったこと。つまり日本人の味覚の低下、あるいは味覚を感じる脳機能の低下、ブランドに踊らされる国民のアホさ加減を示している。

 

4.     政府やマスコミは食品の安全性を重視しているが、偽装食品によって誰も犠牲者が出ていないこと。つまり被害者なき犯罪は、道義的責任はあったとしても罪に値するかという疑問。本来、犯罪は被害者がいなければ成立しない。つまり法律が間違っている可能性がある。

 

5.     いずれにしても食品偽装は業者の金儲け主義が根底にあるので、偽装食品で金儲けする商売根性が間違っている。この事件をきっかけに消費者庁をつくったが、マスコミが騒げば政府は対策として、官僚はこれをチャンスとして省益を拡大しようとする。官僚は善なる正義を振りかざし、悪なる役害を広めようとする。誤解のないように追加するが、中国産の食品が問題になったのは、消費者庁構築の後におきた話しである。

 

 

意外な社名
 インターネットのyahooを知らない人はいないだろうが、その社名の由来を知る人は少ないであろう。yahooは「ガリヴァー旅行記」に登場する、人間に似た愚かな野蛮人のことである。Yahooの開発者がならず者と自称してこの名前をつけた。
 Googleは社名を10の100乗を意味する「googol(グーゴル)」にするはずだったが、社名登録時にスペルを間違えたのである。Googleは膨大な情報を扱う検索会社の代名詞になっているが、最初の情報が間違っていたのである。
 日本の会社はマツモトキヨシが典型例であるように、多くは創始者の名前に由来する。その中でも石橋正三郎を英語読みにしたブリッジ(橋)ストーン(石)は有名である。また旧社名に由来するものとして、エーザイ(日本衛材)、コクヨ(国誉)、キッセイ薬品(橘生薬品)、イトーヨーカドー (伊藤羊華堂)、SEIKO(精工舎)などがある。
 日本の社名で面白いのは、飲料水メーカーのサンガリアで、この社名は奥の細道の「国敗れて山河あり」からの引用で、「国破れて サンガリア」「いち に サンガリア」のフレーズが宣伝に使われている。
 キヤノンは観音菩薩のKWANON(カンノン)からCANONになったが、CANONは英語では標準、聖書正典、教会法を意味する言葉である。その他、シャチハタは名古屋城のシャチホコと旗から、シャープはシャープペンシルのヒットから、ロッテは「若きウェルテルの悩み」の主人公の名前からである。ヤクルトはエスペラント語でヨーグルトを意味し、花王は顔の石けんから(顔王)、パイロット(水先案内人)万年筆はセーラー万年筆(水夫)に対抗しての命名である。
 日本は物作りの国で、100年以上続いている企業が10万社以上ある。もちろん100年以上続いている企業はアメリカや韓国ではゼロ、ヨーロッパでさえ30社にすぎない。理系の大学生が、目先の利益から、外資系の金融会社に就職する風潮があるが、そもそも金融商品が富をもたらすはずはない。富をもたらすのは人間の知性と労働だけで、金融商品はただの強欲ゲーム、博打にすぎない。
 日本は技術伝承の国で、多くの画期的製品を作ってきた。伝統ある日本の企業に期待するとともに、歴史の浅い政府にお願いしたいのは、優秀な中小企業の邪魔をしないでほしいこと、伝統ある日本の医療を壊さないでほしいことである。

善意の隣人
 預かった子供が二階から落ち死亡した場合、法律はどのように適用されるであろうか。このような事例は刑事事件とは関係がないので、普通ならば善意の隣人はおとがめなしである。しかし世の中そう単純ではない。もし子供を預けた遊び人の親が民事訴訟を起こせば、善意の隣人は裁判で負け巨額の賠償金を払うことになる。隣人を訴える親に周囲の人たちがどれほど反感を持ったとしても、法律は善意の隣人に罪を着せるのである。
 最近、年老いた親の面倒をみない親不孝者が増えている。このことから、老人の世話をするボランティア活動がなされている。そして自分の子供よりもボランティアの若者に気を許す老人が多いのもご時世である。このような社会環境の中で、散歩中に、女の子が車椅子の操作を誤り老人を死亡させたら、どうなるであろうか。親不孝者が女の子を訴えれば、たとえ金銭が目的と分かっていても、善意の女の子は賠償金を払うことになる。
 路上で倒れている人に医師が心臓マッサージを行えば問題は生じない。しかし善意の一般人が行えば違法行為の可能性が生じてくる。このような事例はまだ生じていないが、世間知らずの裁判官がそのような判決を下す可能性が十分にある。
 このような事例に対し、誰もが抱く違和感は、たとえ善意による無償行為であっても、賠償金を払わせようとする法律への違和感である。さらに賠償金そのものが民事訴訟の決着となるため、賠償金が訴訟の目的であるような違和感である。
 現在、医療訴訟が増え、開業医が医事紛争かかわる確率は年間100人中1.5人となっている。これら医療訴訟が起きるたびに、納得出来ない気持ちになるのは、善意の医療行為が罰せられることへの違和感である。これは善意の隣人やボランティアの事例における違和感と同種のものである。
 医療には小さな事故は付きものである。これを一つひとつ取り上げれば医療など成り立たない。ああすれば良かったと思うことが1週間の外来で1例以上はある。こうすれば良かったと後悔する入院患者も1カ月に1例以上はいる。これまで問題が生じなかったのは、ただ運が良かったからで、運が悪ければ何度訴えられても不思議ではない。
 医療においてはミスがあっても、結果が良ければ医療訴訟は生じない。反対に結果が悪ければミスが無くても訴えられる。訴えるのは相手の自由であるから、たとえ善意による医療行為でも結果が悪ければ訴えられる。医療の結果の善し悪しは、医療行為よりも患者の特異反応、病気の勢いに支配される部分が大きいのに、結果が悪かった場合には、たまたま医療側に落ち度があると問題になる。
 本当に悪いのは、患者の病気そのものである。あるいは患者の異常体質であって、悪い病気を治そうとする善人が何故に罰せられるのか理解できない。精神病患者が犯罪を起こした場合、患者に罪を問えないのは患者個人に罪があるのではなく、病気そのものに罪があるからである。
 医療訴訟の大部分も悪いのは病気であって、それを施す医療側ではない。医療機関は非営利のボランティア機関である。このようなボランティア精神に対して民事訴訟はなじまない。医療側の明らかなミスは刑事事件のみで争われるべきであるが、医療訴訟の多くは民事事件である。
 医療訴訟において、医師は常に加害者の立場にある。裁判所は弱者救済の建前から、患者勝訴の事例が多く見られる。このような傾向が、賠償金を目的にした訴訟の急増と言えなくもない。またマスコミの医師に対する悪口が、何でも医師を悪者にする、何でも患者を被害者にする先入観を作っているのかもしれない。医療側にとって不可抗力と思われる事例があまりに目立つのである。
 医療訴訟のさらなる違和感は、死因なりの争点を白か黒かで断定する裁判所の考え方である。人間の病気に対する反応は不可解かつ不明瞭の部分が多く、生死の因果関係さえ分からない場合が多い。このように白でも黒でもない不明瞭な争点に対し、裁判は白か黒かで争われることになる。もともと分からないものを争うのだから、判決が下っても、判決文はこじつけの文章となる。医学的な意味はまるでない。
 医師は瞬間の判断の違いで医師生命を失うが、裁判官は何年間もかけた一審の判決が二審で覆されても罪も罰もなく、逆転判決となっても裁判官は平気な顔をしている。彼らは一審の判決をわびるそぶりもない。医学にせよ裁判にせよ、所詮人間の考えや判断には限界がある。医師は白衣を、裁判官は黒マントをはおり、そのことで威厳で装っているにすぎない。
 世の中は、好意と善意、習慣と道徳、義理と人情、道理と宗教、このような社会常識で成り立つが、法律とこれら社会常識とが相反している場合、この不条理の難問を直視し、人間の知恵でどうにか解決すべきと思う。
 いずれ天国に行ったらヒポクラテスや小石川療養所の赤ひげに、医師のあるべき道を問うてみたい。また人間社会の善意という常識を評価しない裁判の是非を大岡越前守に聞いてみたい。


人間集団のポアソン分布
 人間は生まれながらに平等で、かつ尊い存在である。人間の価値を金銭で表現することは馬鹿げたことで、かつての奴隷制度を除けば、人間の価値を金銭で測ることはできない。
 この、耳に心地良い文章は、あまりに当然すぎることなので、疑問を感じる者は少ないであろう。しかしこの文章は、「人間社会の現実と人間感情の本質に目を閉ざした虚構の表現」なのである。つまり人間特有の、思い込みによる幻想、あるいは実現不可能な理想を表した文章にすぎない。
 過言を承知で言うならば、まず人間は生まれながらに平等ではない。才能の有無、頭の回転の速さ、身体の大きさ、美人と不美人、親の財産の程度、これらによって人間は誕生した日から、差が生じている。
 この生まれながらの不公平は、誰も口に出さないが、人間の真実として誰もが認めざるをえない。
 青春時代を振り返えれば、学校の成績や自分の容貌に悩み、後塵を走る屈辱や貧困に心を痛めた記憶をもつであろう。そしてこれらの多くは、生まれながらの不公平による苦悩といえる。努力が足りないと言われても、努力で身長が伸びないように、努力で補える部分には限度がある。先天的な形質を後天的な努力で変更できると考えるのは、白鳥を夢見るアヒルのおとぎ話、根性ものの漫画の世界と同じ次元の話である。
 もちろん努力や偶然によって人生は大きく変わりえる。しかし先天的形質や能力の違いはどうにもならないので、多くの人たちは見ないようにしているだけである。また差別的言動との批判を恐れ話題に上ることもない。
 たとえば、弱者であっても、労働者は集団の力で資本家と対立が可能である。低所得者であっても票の力で政治家を動かすことができる。社会的弱者であれば人権侵害と訴えることもできる。しかし才能がない者、頭が悪い者、背の低い者、病弱な者、器量の悪い者、このような正常ポアソン分布の左側にいる大多数の人たちは団体を形成できず、行き場のない悩みをもつ。彼らの悩みは大きい。また弱者とは認知されないので世間からの同情はない。たとえ同情があったとしても彼らのキズを癒すことはできない。
 このように人間は存在において平等であるが、個々においては平等とはいえない。他人との相違を感じなければ悩みは生じないが、他人より良くありたいと願う欲求が悩みの原因になる。たとえポアソン分布の右側に位置していても、さらに右側に他人がいる限り満足は得られない。それは絶対的位置関係に加え、相対的位置関係も悩みの種となるからである。自分の価値判断で自分と他人を比較するからで、試験で2番の者が1番になれなかったと悔し涙を流すのがその典型例である。
 商品に値段があるように、資本主義社会は人間にも商品としての価値を定めている。自分は他人からの評価は受けないと言ってはみても、給料という金銭で評価されている。
 金銭でシビヤに評価を受けているのはプロのスポーツ選手たちである。彼らの評価のすべては成績であり、成績が良ければ数億の大金を得、悪ければクビとなる。歩合制のサラリーマンもこれに近い。人間を容貌で評価しているのは、芸能界、コンパニオンなどの職業である。
 このように実力の世界ほど、また多くの人たちが憧れる職業ほど人間を金銭によって評価している。男女雇用機会均等法はあっても、容貌や能力雇用均等法は実力社会には存在しない。
 戦前の日本はこの資本主義の考えに忠実であった。官僚や教授の給料は今の数倍以上だった。資本家は富を独占し、裕福な家庭には使用人が働いていた。そして政治家の別荘は、旅館として名前を残すほど豪邸であった。
 表面的平等主義の戦後は、給料による適切な評価が崩れている。特に学校の先生など、それまで聖職と呼ばれていた職業ほど戦前との落差が大きい。医師の給料が高いといわれても、生涯給与は他の職業とそれほどの違いはない。官僚が天下りに執着するのは、事務次官といえども月30万円以下の年金では生活ができないからである。世間では官僚の悪口を言うが、この年金では志があっても、やる気を削がれるであろう。それだけの評価だから、それだけの仕事となる。
 資本主義社会は、欲望を満たすための競争で成り立っている。そしてこの社会の長所は競争による活力である。逆に短所は、無意味な競争による殺伐とした人間関係である。
 現在の日本を健全な資本主義社会にするためには、健全な競争ルールとその適切な金銭的評価を行うことである。さらに身の程を知り、無意味な競争を避けることも重要と考える。


生きる意味
 私たちは何のために生きるのか。このような質問があった場合い「病院のため、患者のため、人々の平和のため」このような模範解答は模範であろうがウソである。「欲望のため」この答えは正直で、そのように思い込めれば、それもよいだろう。しかし好きにはなれない。「愛する人のため」これは正しいが、愛する人が死んだら、何のために生きているのか分 からなくなる。
  これまで哲学者は「人間の生きる意味」を求め、もっともらしく答えてきた。また宗教家は「神を信じなさい」と一方的に洗脳してきた。人間の生きる意味について、作家三島由紀夫は「かつての人たちは、生きるための大義があったから幸せだった。日本のため、天皇陛下のため、家族のために命を捨てられたから幸せ だった。しかし、今の人たちは生きるための大儀がないから不幸である」と述べている。
 この三島由紀夫の言葉を聴いた陶芸家の加藤唐九郎は「それは違う、人間には芸術がある。自己を救ってくれるのは芸術へのひたむきな努力であり、芸術に生きることこそが幸せである」と反論した。
 私は加藤唐九郎のこの言葉こそ、真を得ていると思う。芸術を「絵画や音楽」だけではなく、「研究や分筆、仕事や遊び」に言い換えても、生きるためには一途な気持ちが大切である。恋愛であっても一途ならば、金儲けであってもそれが生き甲斐ならば、加藤唐九郎の言葉と同じ意味になる。つまり「自分が美、真理、目標と思うものに近づこうとする生き方」が人生を豊かにするのではないだろうか。
  振り返って、今の日本を眺めれば、政治家も、経済界も、行政も、すべて醜い保身病に冒されている。日本を救いたいと多くの人たちが願っても、声なき多数の 声は少数のクレイマーにかき消され、「東日本を助けよう」と言いながら、京都の大文字焼きでは震災地の薪を拒否する愚行となった。政治家は美辞麗句を並べ るだけで、茶番劇以下の詐欺師である。産官民の構造は越後屋とお代官様の構図と変わらず、マスコミは私たちの不満や怒りを利益のために利用している。そし て私たちは、愚痴を言いながら、ため息をつき、諦めの気持ちになっている。
 ところで日本初のノーベル賞を受賞したのは湯川秀樹であるが、湯川秀樹を指導したのは東大物理学教授長岡半太郎である。その長岡半太郎は研究に没頭するあまり、日露戦争を知らずにいたことで有名である。
 明治維新の、高杉晋作の辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」、29歳で処刑された吉田松陰は「世俗の意見に惑わされず、人と異なることを恐れず、死んだ後の業苦を思い煩うな」と述べている。
 加藤唐九郎の陶芸美への執着心、長岡半太郎の研究への姿勢、そして勤王の志士たちの気持ち。私たちのも邪念を捨て、しがらみを捨て、携帯を捨て、彼らのような一途な気持ちを持つことが大切であろう。生きる意味など考えなくても、自分に正直な気持ちが自分を救い、心を磨いてくれるであろう。

 

 

 

マスク

 病院では患者と接する医師、看護師、事務員がマスクをするように定められている。しかしマスクによってウイルスを予防できる証拠はあるのだろうか。多分、ないであろう。

 ウイルスの大きさはマスクの目に比べるとはるかに小さく。魚の網でメダカの侵入を予防するようなものである。ウイルス感染は、咳やくしゃみなどの飛沫感染であるから、咳などの症状がある人が使えば、多少の予防効果はあるだろ。

 最近では「エチケットマスク」という言葉も使われるように、マスクはまわりの人にうつさないための気配だけの効果なのだろう。

 たしかにマスク効用はウイルスの吸入を抑えるよりも、汚染された手で鼻や口を触る機会が減らすことになり、それは感染の防止になるのだろう。のど乾燥を抑え効果もあるだろう。

 インフルエンザ感染者は発症の1日前から他人への感染性があります。したがって、流行時期には、症状のあるなしに関係なくマスクを着用することによって、周囲へ感染が広がるのを抑える効果があると考えられる。考えられることは考えられることで、予防の効果の証明はない。いっぽう手洗いの予防効果は証明されている。

(マスクの種類)
 ウイルス対策には、SARSの際にも使用されていたN95マスクが好ましいですが、呼吸がしにくく日常の生活向きではない。飛沫の拡散を防ぐに は、手術用マスクのようなものがよいだろう。どんなにマスクの性能がよくても隙間があると効果は半減するので、マスクは鼻と口にぴったり フィットするものを選ぶことである。