ベラスケス

ディエゴ・ベラスケス(1599年1660年)

 ベラスケスは17世紀バロック期のスペインで最も活躍した宮廷の画家である。マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である。
 スペイン南部の都市セビリアに生まれ、11歳頃に当地の有力な画家であるフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。6年後の18歳のときに独立し、翌年には師匠であるパチェーコの娘であるフアナと結婚する。17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されたが、宮廷画家になる前のベラスケスもこの厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。「卵を料理する老婆と少年」(1618年)などがその代表作である。1622年には首都マドリードへと旅行した。
 1623年、マドリードに2回目の旅行に行く。このときスペインの首席大臣であったオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンの紹介を受け、国王フェリペ4世の肖像画を描き、国王に気に入られてフェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。以後、生涯の大半を宮廷画家として首都マドリッドで過ごすことになる。
 美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケスを厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りしていた。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えた。
 ベラスケスの作品は、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないが、少し離れて眺めると、写実的な衣服のひだに見える。このような近代の印象派にも通じる油彩画の卓越した技法が、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価したゆえんである。
 1628年には、スペイン領ネーデルラント総督から外交官として派遣されてきたルーベンスと出会い親交を結んだ。この年から翌年にかけて、「バッカスの勝利」を描いている。
 1629年から1631年、美術品収集や絵画の修業のためにイタリアへの旅行が許される。イタリアへ向かう船の中でオランダ独立戦争の英雄であったアンブロジオ・スピノラと同乗し親交を結んだ。イタリアではヴェネツィアやフェラーラ、ローマに滞在した。
 帰国後、1634年から1635年にかけて、新しく建設されたブエン・レティーロ離宮の「諸王国の間」に飾る絵の制作を依頼され、すでに故人となっていたスピノラ将軍をしのんで「ブレダの開城」を制作。1637年には「バリェーカスの少年」、1644年には「エル・プリーモ」や「セバスティアン・デ・モーラ」など多くの作品を制作し、役人としても順調に昇進していった。
 1648年には2回目のイタリア旅行に出発し、1651年まで同地に滞在した。各地で王の代理として美術品の収集を行うかたわら、「ヴィラ・メディチの庭園」、「鏡のヴィーナス」や「教皇インノケンティウス10世」などの傑作を制作している。このイタリア旅行は画家の作品形成に大きく影響し、それまでの無骨な写実描写と厳しい明暗対比に古典主義と空間表現を取り入れ、 視覚効果を重要視したスペイン絵画独自の写実主義的陰影法を発展させた。
 帰国すると、1652年には王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長という重職につき役人としても多忙となる。1656年には「ラス・メニーナス(女官たち)」を制作し、国王一家を始め、多くの宮廷人、知識人を描いた。1657年には「織女たち」、1659年には絶筆となる「マルガリータ王女」など、この時期においても実力は衰えず、大作を完成させていった。1660年にはフェリペの娘であるマリー・テレーズ・ドートリッシュとフランス国王ルイ14世との婚儀の準備をとりしきるが、帰国後病に倒れ、1660年8月6日にマドリードで61歳で死亡した。
 ベラスケスは寡作で、2度のイタリア旅行や公務での国内出張を除いてはほとんど王宮内ですごした上、画家としてのほとんどの期間を宮廷画家として過ごしたためにその作品のほとんどが門外不出とされ、21世紀の現在でも半分がマドリードにあるプラド美術館の所蔵となっている。没後、一時期、その評価は落ちていたが、19世紀の写実主義の台頭により再評価され作品数は約120点が残されている。

アラクネの寓話(織女たち)
1657年頃 127×107cm | 油彩・画布 |
プラド美術館(マドリッド)

 この絵は1940年代までマドリッドの綴繊工場を描いたものとされ、別名「織女たち」と呼ばれていた。最初に目を引くのは、強い光を当てられた右側の白いブラウスの女性で、体を大きく動かしながら、絶え間なく糸をくり続けている。画面左手の白いベールで頭を覆った年配の女性は、糸車を回して糸を紡いでいる。絵の舞台は織物工場のようである。しかし、奇妙なのはその背景で、画面の奥には舞台のような空間が広がり、大きな壁紙のような飾りがあって、その前に着飾った貴婦人たちがいる。さらにその側にはチェロのような弦楽器が置かれていて、貴婦人たちに混じって鉄の甲冑姿の人物も描かれている。この一つの画面の中に混在する、異なる二つの空間。果たしてベラスケスは何を描きたかったのだろうか。

 350年もの間、何が描かれているのか誰にもわからなかった。しかし1948年にある研究者の指摘によって謎が判明する。それは戦いと芸術を司る女神アテネと機織り名人アラクネとの織物勝負の場面を描いていたのだった。この絵画は「アラクネの寓話」というギリシャの神話に基づいて描かれたものだった。

 アラクネという織物の名手が、戦争と芸術と工芸を司る女神アテネに機織りの競争を挑んだが、織り上げた絵柄が女神アテネの怒りを買い、アラクネは姿をクモに姿を変えられてしまったというギリシャ神話である。

 また何らかの理由によって本作は描かれた当初より上と左右にカンヴァスが帯状に継ぎ足されていることも判明している。

無原罪の御宿り
1618年頃 135×102cm | 油彩・画布 |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 初期の代表的な宗教画である。同時期に描かれた「パトモス島の福音書記者聖ヨハネ」との対をなす画である。主題は「聖母マリアが母アンナの胎内に宿った瞬間、神の恩寵により原罪から免れた」で、1854年に法王庁より公認された教理「無原罪の御宿り」である。画家の師であり義父でもあるフランシスコ・パチェーコ(ベラスケスはパチェーコの娘と結婚した為)が執筆したスペイン最初の本格的な美術書である「絵画芸術論」に基づくイコノグラフィー(図像学)的展開が示されている。本主題は聖三位の一位である神の子イエス、その聖器の聖母マリア、聖母マリアを生んだ母アンナの関係性により、スペインでは非常に人気が高かった主題で、「パトモス島の福音書記者聖ヨハネ」と共にセビーリャのカルメル会修道士修道院の祭壇画として手がけられた。聖母マリアの頭上に輝く12の星々、純潔を表す若々しい乙女のような面持ち、胸のあたりで両手を合わせる仕草、偉大なる天上の力を表現した聖母マリアの背後の威光、足許の下弦の月などの図像展開は、厳しい明暗対比を用いた写実性の高いベラスケス独特の描写によって表現されている。

東方三博士の礼拝
1619年頃 203×125cm | 油彩・画布 |
プラド美術館(マドリッド)

 イエスの誕生を確認するためにベツレヘムの厩を訪れた三博士が、神の子に礼拝する場面を描く「東方三博士の礼拝」である。ベラスケスの初期作品の特徴である陰影法に基づく客観的な写実性が示され、三博士には師パチェーコやベラスケスを、聖母マリアには自分の妻であるフアナ・パチェーコを、そして幼子イエスにはベラスケスの近親者が描かれている。ベラスケスは宗教画を描くにあたって、宗教的表現を抑え、自由に現実を描くことに執着している。また本作の違和感の感じる縦長の構図は、何らかの理由によって完成後に、左右のどちらかが切り取られたためである。

セビーリャの水売り
1619-1620年頃 106.7×81cm | 油彩・画布 |
ウェリントン美術館(ロンドン)

 修行時代を過ごしたセビーリャで、師パチェーコから学んだ写実描写と明暗対比が特徴的な作品である。セビーリャで水売りをしている身なりの貧しい初老の男と、水を買いにきた少年、その背後には水を飲む男が画面の中で一定のリズムを保ちながら描かれている。また身なりの貧しい初老の男が持つ二つの水瓶と、少年が手にするグラスの極めて写実的な描写にベラスケスの早熟な才能が発揮されている。本作品は暖かみのある土色をベースとしているが、制作から長い年月が経つため、変色など傷みが厳しかった。1959年に修復され展示されている。

バッコスの勝利(酔っ払いたち)
1628年頃 318×276cm | 油彩・画布 |
プラド美術館(マドリッド)

 ベラスケス中期の作品で、国王フェリペ4世の画家となり、巨匠ルーベンスとの交流中に描かれた。ルーベンスの神話的絵画様式とリベラによるピカレスク(騎士道小説の理想主義への反動で辛辣に社会を風刺する悪漢小説)的様式の融合によって生み出された。また表現手法にはカラヴァッジョの影響を受けていたことがうかがえる。

ウルカヌスの鍛冶場
1630年頃 223×290cm | 油彩・画布 |
プラド美術館(マドリッド)

 ベラスケスの古典主義の研究と、秩序に基づく空間構成の特徴がよく示される。1629年から1631年までの第一期イタリア滞在中に描かれた本作の主題は、火と鍛冶の神で、ウェヌス(ヴィーナス)の夫でもあるウルカヌスの代表的な神話「ウルカヌスの鍛冶場」を描いたもので、ベラスケスらしい写実描写性の中にも、イタリアで学んだ視覚効果を重要視した明暗法や、古典主義の研究に基づく画面構成によって、神話画というより、むしろ風俗画に近い表現をおこなっている。

キリストの磔刑
1631-1632年頃
248×169cm | 油彩・画布 |
プラド美術館(マドリッド)

 マドリッドのベネディクト会サン・プラシド修道院の依頼により制作されたため、「サン・プラシドのキリスト」とも呼ばれている。主題はこれまで幾多の画家によって最も多く描かれてきた、ゴルゴダの丘で磔刑に処されるイエスを描いた「磔刑」で、セビーリャの伝統的な図像学に基づき、イエスの両足は重ねられることなく平行にされるほか、両手と合わせると合計四本の杭で打ちつけられている。暗中に輝きを放つイエスの表現は、鮮やかに描かれながらも、超自然的な存在感によって、全てを超越した神の子であることを示している。またイエスの姿が同時代に活躍した彫刻家ファン・マルティーネス・モンタニェースに酷似している点も興味深い。

ブレダの開城(槍)
1634-1635年頃 307×367cm | 油彩・画布 |
プラド美術館(マドリッド)

 歴史画「ブレダの開城(槍)」は、ブレン・レティーロ宮内の「諸王国の間」を飾るために、戦争におけるスペインの勝利を描いた12作品の内のひとつである。1625年のオランダの要塞都市ブレダを陥落させた後、オランダ軍総督ナッサウがスペイン軍司令官スピノラに城門の鍵を渡す場面で、ベラスケスの巧みな構図と優れた表現力によって感情豊かに描かれている。またこの歴史画12作品は、セビーリャ派の巨匠スルバランなど当時を代表した画家が参加し描かれた。感情豊かに描かれる本作は、大胆で洗練されたベラスケスの作風が最も良く示されている。また画面右部のスペイン軍兵士たちは、エル・グレコの代表作「聖衣剥奪」と類似が指摘されている。

フェリペ4世の肖像
1635年頃 199.5×113cm | 油彩・画布 |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 ベラスケスが王のために描き続けた、王のための肖像画である。その身に纏う衣装から「シルバー・フィリップ」とも呼ばれる。本作はベラスケスが一度目のイタリア訪問より帰国した頃に描かれた作品で、スペイン国王フェリペ4世の国王としての気品と威厳を保ちながらも、軽やかで自由に動く生き生きとした筆跡によって、それまでの公式的な肖像画の概念から逸脱を示している。また画家初期の名作「セビーリャの水売り」が認められ、遂には王の画家として首席画家の地位についたベラスケスは、国王一家の肖像画を描く際にかなり美化して描いていたことがプラド美術館所蔵の「国王フェリペ4世の肖像」のX線撮影から判明している。なお本作には珍しくベラスケス自身による署名が残っている。

聖母戴冠
1640年頃 176×124cm | 油彩・画布 |
プラド美術館(マドリッド)

 アルカーサル(旧王宮)内のイザベル王妃用礼拝堂(祈祷所)のために制作された、ベラスケスの宗教画作品。本作の主題は復活した聖母が再び昇天し、父なる神と神の子イエスから戴冠を受ける場面を描いている。本作は伝統的な構図を用いながらも、ベラスケス特有の写実性と豊かな色彩によって、心地よく充実感をもった感動を与えている。また本作は長い間、巨匠アルブレヒト・デューラーの木版画「聖母の被昇天」から影響を受けていたとされるが、近年、エル・グレコによる「聖母被昇天」からの影響の可能性も指摘されている。

鏡を見るヴィーナス
1648年頃 122.5×175cm | 油彩・画布 |
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

 ベラスケスが残す唯一の裸婦画。ロークビーのヴィーナスとも呼ばれる本作は、厳格なカトリックがスペインを支配していた時代に描かれた裸婦である。本作以外の裸婦では近代絵画の創始者ゴヤの「裸のマハ」しか残されていない。この極めて稀な題材「裸婦」を扱う本作が描かれた時期については、通常1649年から翌年の1650年まで滞在した、二度目となるイタリアの地で描かれたとされていたが、近年、画家の帰国以前にマドリッドにあったことも確認された。ヴィーナスとされる裸婦が背中を向けている理由や、顔しか写っていない鏡の解釈は、慈しみの深さを表すとする説や、裸体を諸悪と考えていた教会からの破門を恐れたとする説など諸説唱えられているが、どれも確証は得ていない。この裸婦についてイタリアで出会った愛人をモデルに描いたとの説がある。また滑らかな曲線を描く裸婦のポーズは、ティツィアーノやティントレットなどヴェネツィア派の影響が指摘されるが、より可能性が大きいのは、友人であり、よき理解者でもあったフランドルを代表する画家ルーベンスの影響によるものとされている。

教皇イノケンティウス十世
1650年 140×120cm | 油彩・画布 |
ドーリア・パンフィーリ美術館

 二度目のイタリア訪問時に描かれた作品である。当時のキリスト教圏内の絶対的な支配者であった「教皇イノケンティウス十世」で、本作を見た教皇が「この絵は現実過ぎる、全てにおいて余りにも正確だ」と言わせたたほどであった。内面まで深く掘り下げられた写実的描写は、肖像画家としてベラスケスの最も優れた作品のひとつと認められている。本作はティツィアーノに代表されるヴェネツィア派の色彩技法の影響が感じられ、背景や教皇の纏う法衣に使用される赤色は、細心の注意を払われている。低俗でけばけばしい表現に陥ることなく、見事な調和をみせている。

ラス・メニーナス(女官たち)
1656-57年 318×276cm | 油彩・画布 |
プラド美術館(マドリッド)

 当時のスペイン国王フェリペ4世の娘であるマルガリータ王女を中心に、数人の女官たちを描いた集団肖像画である。宮廷人の様子をスナップ写真のごとく瞬間的に切り取って描いた。舞台はスペイン・マドリード宮殿の大きな一室である。本作は19世紀頃、描かれる内容から「ラス・メニーナス(女官たち)」と呼ばれているが、描かれた17世紀当時の目録には「家族の肖像」もしくは「王の家族」と記載されていた。

 高さと奥行きのある部屋はベラスケスの宮廷内のアトリエで、画面は上半分の暗い天井の部分と、下半分の光の当たる明るい部分に分かれている。登場人物は9人で、彼らの名前や身分は分かっているが、何をやっているかについては諸説ある。

 画面中央には豪奢な衣服に身を包んだ幼いマルガリータ王女とその女官たちが描かれている。マルガリータ王女を取り囲んでいるのは、お付きの女官、待女、目付役、2人の小人と1匹の犬である。そして奥の背景には鏡があり、国王フェリペ4世と女王マリアーナの上半身が映っていて、この情景を温かく見つめている。さらに画面左側にはベラスケス本人が筆を手にして、大きなカンバスに国王夫妻を描いている。このベラスケスとカンバスが離れすぎていることから、何を描こうとしていたかは不明である。

 画面の登場人物のうちベラスケスや国王夫妻などの視線は、絵の空間を超えて絵の鑑賞者の立ち位置に向けられている。他の幾人かは互いの視線が交流している。
 この絵画は王室に仕えるベラスケスの自負と自信を、自画像の意味こめて、本作品を観る者へ視線を向けて描いた可能性が高い。スペイン独自の厳しい明暗対比(陰影法)による写実性豊かな描写で、当時の王室の生活を見事に表現している。本作品は多くの批評家や美術愛好家が古典絵画の傑作として認める作品で、今なお人々を魅了し続けている。なお本作とほぼ同時期にベラスケスによって制作された皇女マルガリータの単身肖像画「白い服の王女マルガリータ・テレーサ」が嫁ぎ先であるウィーンの美術史美術館に所蔵されている。

マリバルボラ(侍女)
 当時のスペイン宮廷では奴隷や召使とは別に「矮人」というどの階級に属さない慰み者がいて、異形の者が集められていた。慰み者ではあるが、宮廷では自由に振舞っていたことがわかる。
 そうした「矮人」中に「小人」がいた。マリバルボラは王妃のお気に入りで、身体は小人(背が伸びないこびと)だが辛辣で侮辱されると決して許さなかった。ベラスケスも彼女には一目置いていて、恐れていた。 

 ニコラス(手前の犬を蹴っている少年)をとても可愛がっていて、犬を蹴っているニコラスも小人であったが誇り高くのちに国王の執事となる。未来を透視する能力があったとされている。王朝の人たちに愛され、愛称ニコラシーリョと呼ばれていた。ちなみに犬モーセの飼い主でもある。

薔薇色の衣装のマルガリータ王女
1653-54年頃 128.5×100cm | 油彩・画布 |
ウィーン美術史美術館

 ベラスケスが晩年に手がけた一連の傑作的王族肖像画作品のひとつである。本作に描かれるのはたスペイン皇女「マルガリータ・テレサ」が3歳の頃の姿である。マルガリータ王女は、1651年に当時のスペイン国王フェリペ4世と後妻(2番目の妻)であるマリアーナ・デ・アウストリア(マリアーナは皇帝フェルディナント3世の子供)の間に生まれた最初の娘で、幼い頃から当時スペインにとって脅威となっていたルイ14世が統治するフランスに対抗するために、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世との政略的婚姻(この婚姻によってスペインとオーストリアの同盟が成立した)が定められていた(その後、マルガリータは22歳で没した)。本作はマドリッドの王室からオーストリアのハプスブルク家(王室)へ贈られた贈呈画の最初の作品であり、本作以外にもマルガリータ王女が5歳の時と8歳の時の肖像画もウィーンへと贈られている(現在、ウィーン美術史美術館に所蔵されている)。本作に描かれるマルガリータ王女の姿はベラスケス晩年の描写的特長である闊達で軽快な動きを示す独特の筆触によって表現豊かに描写され、公式性が重要視される王族の肖像画でありながら、画家が晩年に辿り着いた絵画性を存分に示している。また色彩表現においても王族独特の品位と子供の愛らしさを同時に感じさせる。豪華な衣服の薔薇色や輝くような絹地の銀灰色、さらには重厚感に溢れる絨毯やカーテンの色彩対比や、画面左側に配されるガラスの花瓶に入った静物の描写は特に優れていて、観る者の目を奪う。

マルガリータ王女
1659年 | 127×107cm | 油彩・画布 |
ウィーン美術史美術館

 ベラスケスが没する一年前に制作された本作品のマルガリータ王女は、国王フェリペ4世と2番目の妻マリアーナ・デ・アウストリアの第1子として生まれた後、1666年ハプスブルク家のレオポルト1世と結婚したマルガリータ・マリア・テレサ王女の8歳の姿を描いたもので、マネやルノワールなど印象派の画家の技法を思わせる自由闊達に動く筆跡や色彩によって省略される王女の纏う衣服の表現など晩年まで変化していったベラスケスの画風を示している。また本作は一度紛失したとされていたが、1923年に楕円形に切り取られた形で再発見され、1953年の大規模な修復によって元の寸法に戻った。なおベラスケスが描いたマルガリータ王女の肖像画は「ラス・メニーナス」を含め6点現存しており、プラド美術館に残される絶筆作の「マルガリータ王女」は娘婿のマルティネス・デ・マソが顔を描き完成させたとされている。