皇妃テオドラ

 ラヴェンナはモザイク芸術の町として知られているが、歴史は古く、史実としてはジュリアス・シーザーが「さいは投げられた」という言葉とともにルビ コン川を渡ってた町で、火あぶりの刑から逃れたダンテはラヴェンナの領主に優遇され死ぬまでこの地に住み「神曲」をこの地で書き上げた。

 1819年に情熱の詩人バイロンもこの地を訪れている。またラヴェンナから南に120キロほど行った山の上の町ウルビーノは天才画家ラファエロが生まれた地である。
 ラヴェンナ最大の見所は六世紀に建てられたサン・ヴィターレ聖堂のモザイクであろう。5世紀か ら6世紀にかけてがビザンティン・モザイクのの確立期といわれているが、サン・ヴィターレ聖堂の壁画は、空間構成が平明で浅く、人物たちは強い輪郭線で明快に表され、力強さにあふれている。

 モザイクとは、いろいろな色彩の石やガラスなどの断片を平面に並べ図柄を表したものである。紀元前三千年から伝わってきた技法で、発達したのが古代ロー マだった。ローマの遺跡には、必ずモザイクを施した床がある。モザイクはキリスト教時代に入って一段と発達し、色ガラスや金を使って天井や壁画を飾るよう になった。ガラスで描かれたモザイクなどは、熱にも光線にも変色しないので「永遠の絵画」と呼ばれている。
 モザイクの断片の大きさは小さいものだと3~4ミリとされ、これらを切断するときは鉄製の小槌などを使い、敢えて不規則な形にする。機械などで几帳面に 切ったものでは、独特の味わいが出ないのである。これを壁や天井に描かれた下絵の上に貼り付けていくのだが、その時に平面状にぴったりと貼り付けてもいけ ない。いくらか角度を変えると、一片一片がさまざまな方向から光を受け、一日のなかでも、異なる方向に光を反射させることができる。例えばモザイクを見な がら右から左へと動かすと、モザイクで描かれた人物の目が、ある一定の場所できらりと光ったり、身に着けた衣装がふわりと揺れたように見えることがある。 そうしたモザイクの繊細な技術が、壁画に、他の絵画にはない生命を与えることができるのでる。

皇妃テオドラ

ラヴェンナ サン・ヴィターレ聖堂

 モザイクの中でもひときわ美しさを放っているのが、「皇妃テオドラ」である。ユスティニアヌス帝の妃テオドラが聖杯を差 し出している図であるが、その様子はまるで展開図を見るように二次元的である。人物は大きくわかりやすく、儀式のように厳かで、バランスの良 い壮麗さに満ちている。テオドラの髪飾り、ネックレス、イヤリング、ブレスレットはもちろんのこと、衣のドレープが濃淡の美しい色彩で表現されている。その鮮やかなテクニックと、当時の職人たちの腕の良さを実感させられる。皇妃の表情はやや冷酷と言われていますが、これは典型的な「ビザンティ ン」の顔でもある。
 皇妃テオドラはサーカスの熊使いの娘で、踊り子だった。その美しさに、皇帝の片腕として帝国の実権を握っていたユスティニアヌスが魅せられて愛人とし、 後に皇帝ユスティニアヌスが正式な皇后とした。皇妃となってからのテオドラは、若い女性の売買を禁じたり、女の権利を認めたり、女性に多大な恩恵を与え た。西欧の歴史や伝説のなかでも、著名な四人の女性の一人とされている。有名なニケの乱の折にも、「帝衣は最高の死に装束である」と言ってユスティニアヌ ス帝をいさめている。つまり「逃げるくらいなら死んだほうがましです」というテオドラの強い意志がユスティニアヌス帝を踏みとどまらせ、乱を鎮圧させた。 彼女の堂々とした姿からは、そのエピソードもごく自然に伝わってくる。
 サン・ヴィターレ聖堂には、、壁いっぱいに聖書のエピソードや自然の景観、羊などが描かれている。素晴らしいものばかりで、見上げていると首が痛くなっ てしまう。そんな中、「皇妃テオドラ」と向かい合うかたちで「皇帝ユスティニアヌス」が描かれている。こちらも聖体皿を持ち、十字架を手にしたラヴェンナ の主教マクシミアヌスや従者を従えて、動きを排除したことによる精神的、超越的な存在を見せている。(製作者不明)