誇り高き自由人よ

誇り高き自由人よ
 誰にも迷惑をかけず、誰からも束縛を受けず、常に自由な発想を持ち、他人のために何らかの使命感を持って行動することができれば、それは最高の人生といえるであろう。
 人生をどのように選択するかは人間だけに与えられた特権である。どのような人生を選択しても、どのような職業についても、束縛されない自由な使命感をもつことが出来れば、それは誇り高き自由人の生き方といえる。しかし最近、この人間の自由と使命感がゆらぎはじめている。
  明治維新で多くの若き志士たちが死んでいった。幕末の志士たちは自由な信念を持ち、その信念に命をかけたのである。日本の将来をどうするのか、日本が欧米 の植民地にならないためにはどうすればよいのか。この共通した課題に対し、若き志士たちは自分の信念に殉じたのである。自己の利害ではなく自己の信念に従 い、日本のため、社会のため、民衆のために命をすてた。
  彼らは使命感を持っていた。彼らの使命とは文字どおり命を使い行動することである。幕末、明治の若き志士たちには自分の命を懸けるという気持ちに溢れてい た。この使命感は日露戦争までは正しい方向を向いていた。しかし東洋の小国が世界の大国ロシアに勝ってから、若者の使命感は驕った軍部に操られ利用された といえる。
 敗戦後、日本がどん底から復興できたのは日本人としての誇り、技術立国としての誇り、このような知的な信念と誇り高き上昇思考が日本人に残っていたからである。
 それが経済的に豊かになると礼節を忘れ、責任をともなわない自由という言葉に酔い、精神的堕落の道を転がってしまった。他人のための自己犠牲や使命感は評価されず、責任ある自由な競争は不公平と嫌われ、日本人全体が口やかましい非建設的、醜悪的評論家になってしまった。
  医師にとって最も大切なことは、もちろん患者の健康と生命を守ることである。かつての医師は患者の生命を守るという純粋な信念があった。そしてそれを直感 している人々は医師を尊敬し、医師も自分の職業に誇りをもっていた。医師は正しいと信じる医療を誇りをもって自由に行っていた。まさに医師は誇り高き自由 人であった。
  しかし昭和の終わりことから、行政が医療に口を出すようになり、誇り高き自由人としての医師の体質が次第に変化していった。そしてこの数年の流れは何たる ことであろうか。医師は周囲から評価されず、給料は下降線をたどり、統制医療により医療の包括化が進み、職業としての誇りも治療上の自由も消えようとして いる。官僚主導の統制医療が医師の誇り高き自由人気質を変えてしまったのである。
  毎日が患者の診察だけなら、医師にとってこれほど喜ばしいことはない。しかし毎日が金銭のこと、収益のこと、そして会議の連続である。赤字を黒字にするこ とが至上命令となり、それを為し得た病院経営者は優れた人物と行政から評価をうけるが、職員や患者にとって患者の生命や健康よりも病院経営を優先する人物 の評価は必ずしも高いわけではない。
 医師の使命は患者の全人的幸せを守ることである。しかし日本の医療は官僚のアメとムチに牛耳られ、医師は官僚の使用人になっている。医師の使命感は地に落ち、医師は誇りなき不自由人に成り下がっている。
  統制医療に縛られた病院経営者は目の前のニンジンに目の色を変え、国民医療、国民の幸せを考える余裕すらない。患者よりも病院の収益のためという呪文に縛 られ、日本の病院全体が廃院不安神経症に陥っている。間違いがあればその病巣を取り去るのが医師である。間違を正すのが人間である。この病巣が医療費抑制 政策であるならば、なぜそれを治療しないのだろうか。
 今後、日本の医療が良い方向に向くとは思えない。それは国民や患者の不幸であり、医療従事者や医療周辺産業の不幸である。国民は複雑な医療制度を理解できず、日本の医療が悪化していることに気づいていない。
  平成の若き医師たちよ、聴診器を捨て日本の医療を考えるべきである。国民や患者だけでなく自分の後輩を不幸にさせてはいけない。幕末の志士たちは命をかけ て日本の将来を考え日本人の幸福のため命を使ったのである。平成の若き医師たちよ、考えを放棄することは戦わずして敗戦に甘んじる兵士と同じである。考え よ、暗中模索の中から光が見えてくるはずである。
 平成18年には本格的な医療改革が控えている。何もしなければ日本の医療は沈没するだけである。