日本の美しい祭り

 日本には30万もの祭りがあり、それぞれの祭りにはそれぞれの伝統がある。日本の庶民が祭りの伝統を守り、伝統美の中に楽しみを見いだしている。支配者ではなく、庶民が主役の日本の祭り、日本人の心を引き継いだ日本の祭りを選んでみた。

 そもそも「まつり」という言葉は大和言葉で、祭という漢字は「まつり」に当てはめたものであった「まつり」の本来の意味は「たてまつる」と同じだった。古くは神に食べ物を献上することで、国王が天皇になれば租税を払う意味にもなった。そのため政治も「まつりごと」と言われるようになった。

 太陽神アマテラスが天の岩戸の中に隠れた時、アメノウズメ女神が裸をさらして踊ったところ、他の神々が大いに盛りあがり、その騒ぎが気になってアマテラスが顔を出し、国に光が戻ったと日本の神話にあるように、古来より祭りは日本人には欠かせないものであった。

 これが日本の祭りや踊りの原点で、庶民たちの願いや信仰、さらには娯楽として定着したのである。飛鳥時代に仏教が伝来しても、明治時代に国家神道が掲げられ、終戦後にGHQが国家神道を解体しても、祭りは伝統を引き継いだ庶民によって守られてきた。宗派に関係なく、お寺や神社に人が集まり、踊りも、着物も、笛や太鼓も、すべては日本の伝統、日本の伝統美そのものである。日本の祭りに日本の美を伝承した祭りの主役は常に庶民であることが素晴らしい。もちろん農作物の収穫の感謝、祖先を祀るための盆の迎え火、正月の門松なども日常生活のなかのまつりである。


さんさ祭り(盛岡)

 夕刻、茜色の夏空にのろしが轟くと、さんさ踊りのパレードが始まる。ミスさんさ踊りの華麗な演舞のあとにさんさ踊りの団体が続く。「サッコラ チョイワヤッセ」という掛け声を上げて、通りを練り歩く。さらに50人以上の女性が和太鼓を打ち鳴らしながら踊るこの太鼓パレードは世界一とされている。

 男性は力強く、女性は優雅に踊りを披露する。目玉である1週間前には三ツ石神社で奉納演舞が行われる。祭りの成功と安全が祈願される。

 江戸時代から受け継がれてきた「さんさ踊り」は三ツ石伝説に由来している。南部盛岡城下に羅刹鬼(らせつき)という鬼が現れ暴れていた。里人たちは三ツ石神社の神様に悪鬼の退治を祈願、その願いを聞いた神様は悪鬼たちをとらえ、二度と悪さをしないよう誓いの証として、境内の高さ6メートルもある大きな三ツ石に鬼の手形を押させた。(岩に手形:これが「岩手」の由来)鬼の退散を喜んだ里人たちは、三ツ石のまわりを「さんささんさ」と踊ったのが「さんさ踊り」の始まりとされている。盛岡市とその周辺地域に踊り継がれてきたさんさは、各地区によって振り付けや衣装が異なり、それぞれ魅力的である。



西馬音内盆踊り(秋田県)

 秋田県羽後町に古くから続く盆踊りが「西馬音内の盆踊り」である。踊りの特徴は、野性的なお囃子に上方風の優美な踊りから「亡者踊り」という別名がある。未成年女性の踊り子は黒頭巾をかぶり、誰が踊っているのかわからない。成年女性は優雅な編み笠をかぶるが、笠を深くかぶり同じように顔を隠すのが特徴である。未成年女性は手絞り藍染め浴衣を着て、成人女性は「端縫い」と呼ばれる衣装を着る。端縫い」は絹の切れ端を何代にもわ たって縫い合わせたもので、古いものは安土桃山時代にまでさかのぼる。絹の切れ端は必ず「左右対称に縫い合わせる」という原則があり、長い年月を経ても洗練されたデザ インになっている。

 祭の起源については、鎌倉時代の正応年間に修験僧が豊年祈願として踊らせたという説がある。人口約2万の町に10万人を越す人が押し寄せる。




おわら風の盆

(富山県富山市八尾)

 哀切に満ちた越中おわら節の旋律にのって、坂が多い町を、目深に編笠をかぶった無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露する。その踊りは艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、それらが哀調ある音色を奏でる胡弓の調べに調和し来訪者を魅了する。

 風の盆は、この山間の土地に秋のはじめに吹く強い風を意味していて、この風をしずめるための祈りの舞いがおわら踊りである。おわら風の盆が行なわれるのは、3日間で25万人の見物客が八尾を訪れる。他の祭りとの違いは哀愁である。他の祭り、つまりきらびやかで、力強い太鼓のリズムあり、歓声を上げる観客いる。おわら風の盆はこのような祭りとは逆である

 昭和60年、高橋治が小説「風の盆恋歌」を発表、石川さゆりが「風の盆恋歌」を歌い、「風の盆」は全国的に有名になった。



よさこい祭(高知)

 毎年8月9日~8月12日の4日間に開催される。「鳴子(なるこ)」を持った踊り子たちがよさこい節に合わせて市内各地を踊り歩く。各チームがアレンジした楽曲や振付が披露され、華やかで個性的な祭りである。戦後の不景気を吹き飛ばそうと、昭和29年にはじまった。鳴子を手にしていれば、衣装や振り付けは踊り子次第。また地元民でなくても参加できることから、よさこい熱は全国に拡大している。踊りは8月10日、11日の2日間であるが、踊り手によっては、後夜祭が本命となる。後夜祭ではよさこい踊りの全国大会が開催される。



阿波おどり(徳島)
 阿波おどりは徳島の夏を盛り上げる四国の祭で、「踊る阿呆」か「見る阿呆」の文句で有名である。「踊る阿呆」になるには、初めてなら 「にわか連」としての参加がお勧められる。服装自由、参加費も無料で衣装のレンタルもある。観光客なのに観光客の前で踊れることができる。関東にも高円寺や南越谷や神楽坂など各地でも阿波おどりが開催される。



祇園祭(京都府)

 京都の夏を代表する祇園祭は、1000年以上の歴史がある八坂神社のお祭りである。疫病が蔓延することの多かった時代、疫神を慰めるために行われた「祇園御霊会」が原型である。7月1日の吉符入りから31日の夏越祭まで、1ヶ月間にわたってさまざまな神事が行われる。見どころ は、宵山、山鉾巡行と神輿渡御である。
祇園祭の宵山(月鉾にて)
 宵山になると鉾町では山や鉾が建ち、夜店が出て1日30万人もの見物客でにぎわう。鉾町ごとに普段非公開の屏風や宝物などが展示される「屏風祭」もあり、京都の風情が味わえる。
月鉾や船鉾や鶏鉾などは誰でも登れる鉾もあるので、観光客向けの浴衣レンタルがある。
 山鉾巡行
 山鉾巡行は四条烏丸交差点付近を8時頃に出発し、四条河原町、河原町御池、御池新町へとまわり各山鉾町へ戻るコースがある。鉾が少しずつ交差点を曲がる「辻回し」の技に観客の拍手がわき起こります。また祇園祭には神輿もあり、17日夕方(神幸祭)、24日夕方(還幸祭)、八坂神社を出発し、夜中 まで市内中心部を神輿が駆けめぐる。



ねぶた祭(青森)

 青森のねぶた祭は、旧歴7月7日の夜に、ケガレを海や川に流す「七夕の灯籠流し」の行事が起源である。戦後に規模を拡大し、今では東北夏祭りとして、年350万人以上もの観客を集める。奈良時代から始まり、戦国時代には「津軽の大灯籠」の記述が残っており、さらに江戸時代には、巨大な「ねぶた(灯籠)」の人形を山車で曳き、踊り騒いでいたと書かれている。
 8月2日~6日、19時頃から青森市内の大通りを「ラッセラー、ラッセラー」のかけ声を響かせ、何千人もの跳ね人(ハネト)たちが、ねぶたの前に後ろに勇壮な姿で乱舞する。大型のねぶたは最大で幅9m、高さ5m、奥行き8mもの大きさになる。7 日の夜は受賞したねぶたが船に載り青森港を出港する。海上に光るねぶたと花火との幻想的な光景になる。この祭りの魅力は誰でも衣装を身につけ「跳ね人」として参加できる。商店で衣装の販売や貸し出しがされている。
開催期日:毎年8月2日~7日



秋田竿燈祭

 秋田竿燈祭は提灯を吊した竿燈(かんとう)を稲穂に見立てて練り歩き、五穀豊穣などを願う祭である。竿燈は大きなもので、長さ 12m、提灯の数は46個。それを一人で支え、掌から額、肩、腰などに移動させる。絶妙なバランスと力による技も、伝統として磨き続けられている。江戸時代の宝暦年間(18世紀)には原型ができていたと考えられている。七夕の笹竹に短冊を飾って練り歩く風俗に、お盆の高灯籠が組み合わされたものと考えられている。



黒石寺蘇民祭(岩手県)

 平安時代、旅をしていた武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来と裕福な巨丹という2人の兄弟に一夜の宿を求めたところ巨丹はこれを拒み、蘇民将来は快く泊め、貧しいながらも精一杯もてなした。数年後、再び武塔の神が現れ「我は蘇民将来の子孫である」と唱えれば無病息災が約束されると告げた。このことが蘇民祭の由来である。
 蘇民祭に参加する男子は祭の1週間前から精進潔斎に務め、肉、魚、ニラ、ニンニクなどを食べることは禁じられる。毎年旧正月、午後10時に梵鐘の音を合図に、凍てつく寒さの中をふんどし姿の男たちが瑠璃川で水を浴び、水垢離をした後「ジャッソー、ジョヤサ」(邪(ジャ)を正(ソ)す)と掛け声を発しながら本堂を三巡し、五穀豊穣を祈願する。午後11時30分より火の粉をあびながら声高らかに「山内節」を歌う。午前2時、本堂で男児2人が扮する鬼子が本堂に入り福物の餅を境内にまきく。鬼子が本堂に再び入った後、「袋出し」の男が「蘇民袋」と呼ばれる麻袋を抱えて現れる。全裸の親方が小刀で蘇民袋を切り裂き、福物の小間木を境内にまく、その一方で、燈木登りに参加した男たちは引き裂かれた蘇民袋を激しく奪い合う。蘇民袋には護符が入っていて、これにつかんだ者の住む方角が、その年の豊穰多福になると伝えられている。
 蘇民祭はかつて全裸で行われていたが、2007年以降、この伝統が途絶えることになった。岩手県警が「宗教行事であってもわいせつ物陳列罪が適用される」と警告したのである。「伝統的な神聖さが失われる」と住民は嘆いたが、2008年、奥州市が作成したポスター(左上の写真)が「セクシャルハラスメントに該当する」と問題となり、この経緯がニュースで取り上げられ蘇民祭が全国的に有名になった。



相馬野馬追

 相馬野馬追(そうまのまおい)は福島県浜通り北部(中村藩)で行われる神事および祭りである。起源は、相馬氏の遠祖である平将門が、領内の下総国相馬郡小金原に野生馬を放し、敵兵に見立てて訓練した事に始まると言われている。鎌倉幕府はこのような軍事訓練を取り締まったが、相馬野馬追はあくまで神事という名目で続けられた。
戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して消滅すると、藩内の馬がすべて獲られてしまい野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り、1878年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。東北地方の夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの1つとして紹介される場合もある。



御柱祭(諏訪)
長野県諏訪地方で行われる祭。諏訪大社における最大の行事である。正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれる祭である。諏訪大社は諏訪湖湖畔に2社4宮あり全国の諏訪神社の総本社となっている。その4宮の「御柱」として樹齢200年の樅の巨木16本を7年目ごとの寅と申の年に曳き建てる神事である。10トン近い巨木を人力で「山出し」、次々と坂を下る「木落し」、川を曳き渡る「川越し」があり、特に「木落とし」は最大斜度35度、長さ100mの急坂を巨大な御柱が氏子達と共に駆け下りる。男達の度胸を試す命がけの 行事で、毎回負傷者が多数発生し、死者が出る年もある。天下の奇祭であるが、その歴史は桓武天皇の時代(9世紀)までさかのぼる。



岸和田だんじり祭り (岸和田)
 大阪府岸和田市は岸和田藩の城下町として発展してきた。大阪で秋祭りの最初を飾るのが、岸和田だんじり祭りである。毎年9月敬老の日直前の土曜日~日曜日(九月祭礼)に開催される。

 1日目は朝6時の「曳き出し」で始まり、午後のパレード、夜の「灯入れ曳行」 と、行事は22時ごろまで続く。灯入れ曳行は、だんじりの前部に提灯がともり幻想的な風景を醸し出す。

 2 日目の朝は、神社へだんじりが入る「宮入り」、昼間のだんじり、そして夜の灯入れ曳行と続く。昼間は城下町を町衆に曳かれた「だんじり」が疾走し、4トンを超えるだんじりが駆け回る様は大迫力で、曳き手たちのチームワークによる腕の見せ所です。またかつては「だんじり」どうしがすれ違う時に喧嘩になることが多かったので「喧嘩祭」の異名がある。高速でだんじりが曲がる「やりまわし」は、転倒や激突などの事故が多いが、うまく曲がれることで評価なる。「やりまわし」が数多く見られるのは海岸付近の通称「カンカン場」と呼ばれる場所である。

 全国的に有名なのは「九月祭礼」であるが、同じ岸和田市内の山側(JR阪和線沿線)で10月上旬に「十月祭礼」もある。十月祭礼は観光客も少なく、以前のだんじり祭りの風情を残していると言われている。


豊川手筒まつり

 愛知県豊川市に古くから伝わる手筒花火が競演するまつりである。市内各連区の神社で奉納されてきた手筒煙火を1ヶ所に集約し、豊川公園の陸上競技場で開催される。約2時間にわたって数百本の手筒煙火が披露され、約2000発の打ち上げ花火も打ち上げられる。会場の陸上競技場には市民などが詰めかけ身動きができないほどになる。三河伝統の手筒煙火と大筒煙火が見られ、火柱から降り注ぐ火の粉が迫力の炎の祭典である。使用した手筒は厄除け・家内安全などの御利益があるとされ、手筒は玄関に飾るのが風習となっている。