患者憐みの令

患者憐みの令
 日本は法治国家である.法治国家である以上,法を守らなければいけない.しかし,法律が杓子定規に絶対かと言えば,もちろんそうではない.その証拠に法律は次々につくられ,不都合な法律は常に改定されるからである.法律が絶対であれば改定など必要ないはずである.
 法律は社会秩序を守るための単なる手段にすぎず,社会秩序より法律が優先されてはいけない.しかし実際には,法律によって社会秩序が妨げられる場合がある.それは法律を盾に取り,他を支配しようとするお節介な役人によってなされることが多い.
 法定速度が60km/hの道路を61km/hで走れば法律違反である.しかし警察官が1キロオーバーを取り締まればどうなるであろうか.警察官に法の正義があっても,これでは社会秩序は成り立たない.また警察官が厳密に法律を適応すれば,警察ファッショと世間が騒ぎだすことになる.警察はこの道理を知っているので,多少の違反は見逃すことになる.
 急病人を乗せた運転手を警察官が速度違反で逮捕したらどうなるであろうか.運転手に罪があったとしても,世間は警察官を非人間と非難するであろう.速度違反に目をつぶり,病院へ先導するのが人間としての警察官の正しい行為となる.
 このように法律は厳格であっても厳密ではない.人間社会に適するように法律に幅を持たせ,その幅の裁量を役人に持たせているのである.法律の幅をある程度自由にさせ,法律に人情の余地を残した方が世の中うまくゆくからである.これが法律と人間社会との通常の関係である.
 一方,人の生命に関わる医療についてはどうであろうか.厚生省は保険医療を盾に医療への言いがかりを強めている.保険医療を厳密に適応させることが正義と思っているらしい.日本の医療は保険医療だから,保険医療に反する治療は法律違反との理屈である.しかし,医療そのものが法律で縛れるほど単純なものではない.また保険診療が現在の医療に適していないことは誰もが認めていることである.医学の進歩に行政が追いつけない怠慢を医療側に責任転化しているのである.厚生省はこの現実を知っているのに,知らんぷりの悪代官ぶりである.
 厚生省は疾患の治療指針を出しているが,難病に対する治療のほとんどは保険医療に違反している.学会で発表される治療や検査のほとんどは法律違反である.このように矛盾に満ちた保険医療をなぜ厳密に守らせようとするのだろうか.医療は規則で縛れるほど単純ではない.医療行為のひとつひとつを規定している保険医療が現実にそぐわないことを知っているのに,厚生省は保険医療を守らせようとする.
 保険医療を杓子定規に取り締まる行為は,急病人を乗せた運転手を厳密に罰する警察官と同じ行為である.急病人を病院へ先導する警察官は人情をもつが,厚生省は生命の重さを知らず,さらに人情をも理解していない.法律が人の命より優先すると思っている.もちろん法定速度60km/hの道路を100km/hで走る不埒な者がいれば逮捕は当然であるが,医療においては1キロオーバーや急病人を乗せた自動車を取り締まっているのが実状である.
 ここで非難すべきは厚生省の非人情的行為ばかりではない.これは法律を武器とする役人の本性からくる行為であって,国民の監視がないので当然の成り行きといえる.むしろそれよりは医療側の正義を国民に訴えない医師の怠慢さが問題になる.国民は医療側の人情や正義を知らないから,また自分たちの医療が問題になっていると実感していないので,法律を犯した医療側が悪いと素直に思い込んでいる.厚生省はこの世情を知っているから,国民の監視を恐れることなく恐怖行政が可能なのである.
 医療側は正しい行為を堂々と宣伝すべきである.保険組合が保険診療で査定された部分を過剰診療と宣伝するならば,査定は正しい医療行為の踏み倒しの部分であることを,さらに彼らの主張は食い逃げ罪人の三分の理であることを宣伝すべきである.法の正義が厚生省にあったとしても,社会正義を医療側の味方にすれば恐怖行政は尻つぼみになるはずである.
 未熟児網膜症などの医療裁判で常に問題になるのは,行った医療がその当時の医療水準に適しているかどうかである.この前提に立てば,保険医療が医療水準に適しているかどうかが問題になる.もちろん保険医療は医療水準どころか最低レベルさえも満たしていない.これをなぜ守る必要があるのか.
 もし法律を画一的に適応することが絶対に正しいと言い張るならば,法律を改定することである.徳川綱吉が定めた生類憐れみの令は悪法であるが,将軍が作った法律だから誰も手を付けられなかった.綱吉の死後十日目にやっと廃止されたのである.今は民主主義の時代だから,「悪法も法なり」などと傍観せずに,不都合な法律を改定する努力が必要である.
 保険医療の法律を変えることは困難なことではない.「保険医療よりも医療水準が優先する」,この患者憐みの令を冒頭に加えるだけでよい.あるいは,一言これを裁判官に言わせればよいのである.