善意の隣人

善意の隣人
 預かった子供が二階から落ち死亡した場合,法律はどのように適用されるであろうか.このような事例は刑事事件とは関係がないので,普通ならば善意の隣人はおとがめなしである.しかし世の中そう単純ではない.もし子供を預けた遊び人の親が民事訴訟を起こせば,善意の隣人は裁判で負け巨額の賠償金を払うことになる.隣人を訴える親に周囲の人たちがどれほど反感を持ったとしても,法律は善意の隣人に罪を着せるのである.
 最近,年老いた親の面倒をみない親不孝者が増えている.このことから,老人の世話をするボランティア活動がさかんになっている.そして自分の子供よりもボランティアの若者に気を許す老人が多いのもご時世といえる.このような社会環境の中で,散歩の途中で女の子が車椅子の操作を誤り老人を死亡させたならば,どうなるであろうか.親不孝者が女の子を訴えれば,たとえ金銭が目的と分かっていても,善意の女の子は賠償金を払うことになる.
 路上で倒れている人に医師が心臓マッサージを行えば問題は生じない.しかし善意の一般人が行えば違法行為の可能性が生じてくる.たとえ外人医師が行ったとしても医師法違反である.このような事例はまだ生じていないが,世間知らずの裁判官がそのような判決を下す可能性が十分にある.
 このような事例に対し誰もが抱く違和感は,たとえ善意による無償行為であっても,賠償金を払わせようとする法律への違和感である.さらに賠償金そのものが民事訴訟の決着となるため,賠償金が訴訟の目的であるかのような違和感も生じさせている.
 現在,医療訴訟が増え,年間三千件以上の訴訟が起きている.そして開業医が医事紛争かかわる確率は年間100人中1.5人となっている.これら医療訴訟が起きるたびに納得出来ない気持ちになるのは,善意の医療行為が罰せられることへの違和感である.これは善意の隣人やボランティアの事例における違和感と同種のものである.
 医療には小さな事故は付きものである.これを一つひとつ取り上げれば医療など成り立たない.ああすれば良かったと思うことが1週間の外来で1例はある.こうすれば良かったと後悔する入院患者も1カ月に1例はいる.これまで問題が生じなかったのはただ運が良かったからで,運が悪ければ何度訴えられても不思議ではない.
 医療においては大きなミスがあっても結果が良ければ医療訴訟は生じない.反対に結果が悪ければミスが無くても訴えられる.訴えるのは相手の自由であるから,たとえ善意による医療行為でも結果が悪ければ訴えられることになる.医療の結果の善し悪しは,医療行為よりも患者の特異反応,病気の勢いに支配される部分が大きいと思われるが,結果が悪かった場合には,たまたま医療側に落ち度があると問題になる.
 本当に悪いのは患者の病気そのものである.あるいは患者の異常体質が悪いのであって,悪い病気を治そうとする善人が何故に罰せられるのか理解できない.精神病患者が犯罪を起こした場合,患者に罪を問えないのは患者個人に罪があるのではなく病気そのものに罪があるからである.医療訴訟の大部分も悪いのは病気であって,それを施す医療側ではない.医療機関は非営利のボランティア機関である.このようなボランティア精神に対して民事訴訟はなじまないと考える.医療側の明らかなミスは刑事事件のみで争われるべきと考えるが,医療訴訟のすべては民事事件となっている.
 医療訴訟において,医師は常に加害者の立場にある.裁判所は弱者救済の建前があり,患者勝訴の事例が多く見られる.このような傾向が,賠償金を目的にした訴訟の急増と言えなくもない.またマスコミの医師に対する悪口が,何でも医師を悪者にする,何でも患者を被害者にする先入観を作っているのかもしれない.医療側にとって不可抗力と思われる事例があまりに目立つのである.
 医療訴訟のさらなる違和感は,死因なりの争点を白か黒かで断定する裁判所の考え方である.人間の病気に対する反応は不可解かつ不明瞭の部分が多く,生死の因果関係さえ分からない場合が多い.このように白でも黒でもない不明瞭な争点に対し,裁判は白か黒かで争われることになる.もともと分からないものを争うのだから,判決が下っても判決文はこじつけの文章となる.医学的な意味はまるでない.
 医師は瞬間の判断の違いで医師生命を失うが,裁判官は何年間もかけた一審の判決が二審で覆されても罪も罰もなく,逆転判決となっても裁判官は平気な顔をしている.彼らは一審の判決をわびるようなそぶりさえ見せない.医学にせよ裁判にせよ,いくらかっこをつけても所詮人間の考えや判断には限界がある.医師は白衣を,裁判官は黒マントをはおりながら,それを威厳で装っているにすぎない.
 世の中は,好意と善意,習慣と道徳,義理と人情,道理と宗教,このような社会常識で成り立つが,法律とこれら社会常識とが相反している場合,この不条理の難問を直視し人間の知恵でどうにか解決すべきと思う.
 いずれ天国に行ったらヒポクラテスや小石川療養所の赤ひげに医師のあるべき道を問うてみたい.また人間社会の善意という常識を評価しない裁判の是非を大岡越前守に聞いてみたいと思っている.