善き秋田県人

善き秋田県人
 あるユダヤ人の旅人が強盗に襲われ瀕死の重傷を負い道に倒れていた.この旅人を見て,ユダヤ人のエリートである祭司やレビ人たちは旅人を避けるように道の向こう側を通るばかりで誰も助けようとしなかった.そして息も絶え絶えの旅人を助けたのは1人のサマリア人であった.旅人を介抱しながら宿まで運び,当座のお金まで旅人に置いていったのである.サマリア人は混血の民で,ユダヤ人にとっては血を汚した民と白眼視されていた.ユダヤ人の旅人を助けたのは日頃から蔑んでいたそのサマリア人であった.これが新約聖書・ルカ福音書に書かれている善きサマリア人の1節である.
 この善きサマリア人の名前をつけた法律がアメリカの「善きサマリア人法(グッド・サマリタン・ロー)」である.この法律は善意で救命行為を行った者には基本的に治療に関するミスを問わないと定めている。この善きサマリア人法が定められるまでは,医師が善意の救命行為を行い不幸な結果になった場合に訴えられるケースが頻発していたのである.そのため街で人が倒れていても医師は関わりを避け,知らないふりをするという悪習があった.この不条理をなくすために設けられたのが「善きサマリア人法」である.
 秋田県で5年間に1,500件以上の気管内挿管を救急救命士が行っていたというニュースが飛び込んできた.何でも医師まかせ,何でも法律優先,このような理不尽な現状に憤りを覚えていたので,このニュースは痛快かつ感動的であった.救命士は気管内挿管が医師法違反であることはもちろん承知の上である。法律よりも目の前の患者を優先させた救急隊員の美談である。もちろんアメリカでは救命士の挿管や薬剤投与は認められている。
 しかしこの事件に厚生労働省は大騒ぎになったらしい。そして救命士の医療行為はまかりならんとの結論が下された.法律を盾に救急車から気管内挿管の器具が外されたのである。
 馬鹿な話である.1500人の命を救った救急救命士の職業倫理こそ表彰すべきなのに,石頭の人々によって患者の生命が吹き消されてしまった.
 秋田県では心肺停止から蘇生処置を行った人の救命率は11.4%であり,全国平均(3.3%)の3.4倍も高かった.しかし秋田県のこの栄光も昨年までであろう.秋田県の実績を正当に評価する健全な精神を私たちは失っていたのである。そのために救われるべき私たちの生命が死に至ろうとしている.
 似たような杓子定規の話はいたるところに転がっている.神戸の震災で外国人医師を拒んだのも医師法であった.在宅介護におけるヘルパーにも医療行為の壁が立ちふさがっており,褥創の処置,痰の吸引,浣腸などはできないらしい。家族に認められている医療行為であっても法律が邪魔をしてダメとなっている。患者を預かるヘルパーや看護婦の現状を非現実的な法律がじゃまをしている.
 医療事故で最も頻度の高いのは患者の転倒,転落である.これらが医療事故の4分の1を占めている.また食事の介助による誤飲の頻度も高い.そしてひとたび事故が起きると大変なことになる.家族の反応は2種類にわかれ,本人の不祥事であるとわびる家族と,病院の管理をなじる家族である.そして最近,後者の頻度が増している.
 元来,法律は悪人を罰するためにつくられたものである.この法律が善意の者を罰するならば法律などないほうがましである.法律を盾に取る人間ほど醜悪なものはない.
 善意の医療行為については,たとえ悪い結果をもたらしても,悪意や重過失がない限り責任を問わないという「善き秋田県人法」が切望される.そうでないと,食事をさせずに点滴だけ,リハビリをさせずに抑制だけの防衛医療,萎縮介護となってしまう.そして患者のために現場で働く者がすさんだ気持ちになることが危惧される.
 医師法は病気という可哀相な立場の患者を助ける目的で制定されたはずである.医師法の条文がその目的を凌駕するようでは医師法の意義が薄れてしまう.法律の枠内でしか判断できない私たちの悪習である.
 救命士の問題で秋田県の医療や行政関係者,住民たちから声があがらなかったのが残念である.この問題が秋田県から国レベルに発展しなかったことが悔やまれる.なぜかというと,厚生労働省の見解よりも私たちの生命のほうが大切だからである.自分たちの生命を守るための救急医療に対する意識が恥ずかしいほど低いのである.自分たちの生命さえも他人事である.
 イエスは善きサマリア人の話を終えると,群衆に向かい次のように言った.「あなたたちも,サマリア人と同じようにしなさい」.これが人間を愛するイエスの言葉である