医療財源優先論

医療財源優先論
 第2次世界大戦当時,召集令状(赤紙)の郵送代が1銭5厘だったことから,1銭5厘が生命の値段としてたとえられていた.このように紙切れ1枚と同価値であったヒトの生命が,戦後急速に高まり「ヒトの命は地球より重い」との名言に至っている.
 自動車事故などによる補償金は億単位に高騰し,ヒトの生命は世の中で最も優先すべきものとなった.この生命の尊重はあまりに当然すぎる考えなので,これに反対する者はいないであろう.
 しかしこれがヒトの生命を担う医療費のことになると,話はまったく別になる.生命の価値は軽視され,医療財源の議論があたかも医療機関を儲けさせる話のようにイメージがすり替えられ,生命に関する抽象的な議論はなされても,生命を担う具体的財源の議論は停滞したままである.
 医療費を考慮しない医療の議論は,医療を考えない空論に等しい.生命尊重を口で唱えながら生命を軽視しているのと同じである.このように「生命の価値と生命を守るための医療財源」をリンクさせない空気が日本全体を覆っている.
 日本人は金銭に関することを人前で話すことをこれまで卑しい行為としてきた.金儲けを得意とする商人は蔑視され,清貧に生きる武士を美しい生き方としてきた.この美意識は周囲から尊敬される職業の者に強く求められ,また尊敬される側もその美徳のなかで安住してきた.政治家は国家のことを,教師は教育のことを,学者は学問のことを,医師は医学のことだけを論ずべきで,金銭を口にしないのが普通とされてきた.尊敬される人は金のために働くのではなく,国民,学生,学問,患者のために働いているとみなされたからである.
 医師はこの美意識に縛られ,病気のことを口に出しても治療費については口を閉ざしてきた.地球よりも重いヒトの生命に金銭を挟むことをはばかったからである.しかし一般人はこの医師の美意識を知らず,医療には医療費がともなうことを,医療財源が困窮していることを知らずにいる.医療をタダとする感覚のなかで,相変わらず医療への不満だけが溢れている.
 この金銭に関する美意識は,一般の人々からは既に失われた感覚である.日本人のつつましい生き方は別世界となり,いかに楽をして金を儲けるかが人々の関心事となった.他人に清貧を求めても,自分だけは贅沢に生きることが人々の新たな生き甲斐となったのである.
 この自己中心的な金銭第一主義は自己の贅沢だけに関心を持つため,他人のことは文字通り他人事でしかない.肺癌が怖くてタバコを止めても,国の政策,医療財源などには関心は及ばない.医療財源が自分たちの健康を守るための必要経費であるとは考えない.そして「医療に不満が多いのは医療財源が乏しいからで,医療財源が乏しいのは国の医療費抑制政策が原因である」という単純な構図すらわからずにいる.医療費は医療機関の儲けと邪推するばかりである.
 このような医療財政に対する一般人の無知と無関心,さらには時代遅れの美意識に縛られた医師たち,この両者が医療の価値を財政の面から取り上げない体質を作り上げた.
 金銭が関与しない医療は存在しないにもかかわらず,議論はいつも医療財源ぬきの議論である.救急医療が整備されず,小児医療が困窮しているのは国が適正な医療費を出し渋っているからで,医療の歪みが政策の歪みに起因することを人々は知らないでいる.救急患者がたらい回しされても,批判の矛先は病院に向かうばかりで,救急医療の根本を変えようとしない.そして医師は相変わらず紳士然として危機感を表に出そうとしない.
 このような金銭第一主義の風潮のなかで,医療不況に乗じた経済人が医療に口を出すようになった.彼らは医療不況を立て直すような期待を抱かせているが,それは大きな間違いである.目先の計算しかできない経済人が,自己犠牲を知らない企業人が,生命を効率で考える商売人が,医療を正しい方向へ導く可能性はゼロに等しい.病院の赤字体質は真面目な医療を行うと赤字になる医療システムが悪いのであり,院長の経営能力のせいではない.
 医療への営利企業の参入は,貴重な医療財源を奪い合う医療商売学の導入につながる.生命や医療に関することはそれを知る者,すなわち医師が中心になるしかない.生命の価値を知らない者,患者を札束とみなす者は,医療から即刻退場願いたいと思う.
 「高齢化社会に伴う国民医療費の自然増」が過剰なまでに宣伝され,医療費抑制の洗脳的空気が日本を支配している.そして国民医療費の2倍以上の公共投資を行いながら,国民医療費以上の金額を公的年金に使いながら,国民医療費をさらに抑制しようとしているのである.
 借金財政や経済不況を理由に医療費を削減する考えが,そもそもの間違である.国の歳入から必要な国民医療費を差し引き,残りを医療以外に支出するのが生命の価値を知る者の財政であろう.