医学の進歩と医療の衰退

医学の進歩と医療の衰退
 医学の飛躍的な進歩は誰もが認めることである.しかし,医療も同様に進歩したかといえば答えは否である.経済成長にともない日本の社会環境は格段に向上したが,医療環境は社会の流れに取り残されたまま相対的な悪化をきたしている.患者の満足度を指標にすれば,病院などのハード面,マンパワーなどのソフト面,いずれも低下している.患者中心の医療などと高い所からご託を列べても,医学の進歩にともなう新たな検査や薬剤に医療財源を奪われ,また検査や雑務に職員の時間を奪われ,患者が望む暖かい医療は遠のくばかりである.
 政治家は国民の為と言う.行政は住民の為,教育者は子供の為,そして医師は患者の為と言う.しかし,このように恩にきせた言葉ほど,その内容は空虚である.流行りものの言葉,思いつきや借り物の内容,誰もが望んでいないのに多くが望んでいるように思わせるテクニック.このような詐術では問題解決は遠ざかるばかりである.医療においては,大御所といわれる医師ほど現場を知らず,また患者の気持ちを知らず,それでいて口だけが達者だから始末が悪い.
 国民が医療に対し何を期待し何を望んでいるのか,待合室の冷たい長椅子に座りながら患者の立場で考えてみるがよい.
 長時間待たされ診察室に入っても,医師はコンピュータの画面ばかりを見つめ患者の顔色を知らずにいる.患者が症状を訴えても「検査をします,クスリで様子をみます」のワンパターンばかりで,病態をどう考えるのか,なぜ検査をするのか,なぜ処方が必要なのか,患者は納得できないまま三分間タイムアウト退場となる.この三分診療を医療などと呼べないことを多くの医師たちは知っている.しかし患者をさばくためにはベルトコンベアーのスピードを落とせないのである.モダンタイムズのチャップリンのごとくである.
 病棟の医師は嵐のようにやってきて嵐のように去ってゆく.医師の説明は訳の分からぬ早口で,患者は肝心なことは何も理解できないでいる.入院から退院まで暖かい触れ合いはなく,患者は不満ばかりを残すことになる.コーヒーを飲みながらゆったりとした気持ちで説明を聞くことができれば,患者の満足度は満点となるだろうが,そのような時間的余裕はゼロである.
 医師を補佐する看護婦もまた同様である.看護婦の仕事は患者を看護することであるが,これもまた看護の本質を取り違えている.毎日カンファランスをやることが,勉強会や看護研修に行くことが,准看ではなく正看を増やすことが,患者の満足度を向上させるかといえば,否である.患者は病気の話よりも息子の悪口や孫の自慢話を聞いて欲しいのである.看護婦にとって患者の側にいる時間が以前より長くなったと言えるだろうか,逆である.医学的看護など患者は求めていないのである.
 看護婦は廊下を走り回り,ナースステーションを覗けば机に向かって一心不乱に書き物である.立っている看護婦は殺気だって声もかけられない.昔に比べ看護婦の数は増えているのに,患者と接する時間は確実に減っている.たとえば横浜市大の患者取り違い事件は,ひとりの看護婦が二台のベッドを一度に手術室に運んだことが原因であり,看護婦の人員不足が生んだ悲劇である.
 お偉い人たちは,カルテや看護日記をきちんと書くことが患者の為という.しかしそれは単なる管理医療を患者の為と思い込んでいるだけである.もちろん患者の記録を正しく残すことは重要である.しかしそれは時間に余裕がある場合である.机に向かう時間があるならば半分位はベットサイドに時間を振り分けるべきである.
 現代医療の欠点は医学の進歩が招いた余裕のない医療である.そして智を重んじるあまり情を失ったことである.医師は科学的データにあやつられ,医学的という医療に毒され,管理医療に時間を振り回され,知らず知らすに患者を冷たい医療へと追いやっている.医学がどれほど進歩しても患者の心を癒すのは医学ではなく「医師の情」である.そして情を示すには時間的余裕が必要である.
 日本の医療を良くするためには,また暖かい医療を築くためには,医師や看護婦の数を増やし,医療従事者の心に余裕を持たせることである.そのためには医療財源を増やし医療関係者を増員する以外に解決策はない.しかしこれを誰も言わないから何も解決しない.
 医療をめぐる多くの議論は,医療財政の破綻を前提にしているので問題の解決には至らない.日本の医療費は30兆円であるが,米国一人当たりの医療費をそのまま日本に当てはめれば60兆円の計算となる.日本の安い医療費で米国の医療のまねなど不可能である.医療費を増やし医療のハード面,ソフト面ともに改善させることである.
 暖かい医療と医学の進歩は財源が同じひとつの財布なので,互いに相反する関係にある.CTやMRIの導入を医学の進歩というならば,最新検査に人員と財源を奪われ患者サービスが低下することを医療の衰退という.
 お偉い人たちは世間受けを狙い医療従事者の意識改革が必要と言うが,しかし患者サービスの充実はすなわち医療従事者の数を充実させることである.「暖かい医療」と「医学の進歩」を両立させるためには,医療財源を増やす以外に方法はない.これがいやなら医学の進歩などを医療に持ち込まないことである.