マッカーサー待望論

マッカーサー待望論
 将来、子供をどんな職業につかせたいのか。かつての人たちはこの問いに即座に答えられていた。しかし今の親たちはその返答に困ってしまうだろう。このことを別の言葉で言い換えれば、日本は生きるための夢と希望を失っているのである。
 内閣府の調査によると、青少年の社会への満足度はアメリカが72%なのに日本は9%と圧倒的な違いがある。「高い社会的地位や名誉を得ること」を人生の目標と答えた青少年はアメリカが41%なのに、日本は 2%である。「社会への貢献」が目標と答えたのはアメリカが12%、日本は4%であった。日本の青年が最も望んでいるのは「人生を楽しんで生きること」で62%、アメリカは 4%だった。
 夢と理想を追い求めるのが青少年の生きる目的と思っていたが、日本だけは世界の中で例外らしい。このことは青少年の希望する職業にも表れている。アメリカでは医師が19%、日本 3%、政治家はアメリカが16%、日本 0。6%、法曹人はアメリカが11%、日本 が1%である。アメリカは努力を要する職業が上位を占めるのに、日本は10%以上の職業はなく職種は幅広く分散していた。また「21世紀は希望に満ちた社会」と答えたのはアメリカ86%、韓国71%、フランス64%に対し、日本は34%となっていた。
 アメリカの青少年には明確な問題意識と上昇志向が感じられる。しかし日本の青少年はまったく逆で、日々の享楽が生き甲斐なのである。
 かつての日本人はもちろん違っていた。人生において目指すものがあった。それが博士であれ、大臣であれ、軍人であれ、目標とあこがれを持っていた。たとえかなわぬ目標であっても生きる活力になっていた。
  この情けない青少年の悲観的享楽主義は何に由来するのだろうか。考えられることを列挙すると、あまりに平等すぎて努力に見合うだけの報酬がないこと。尊敬 すべき人たちにそれなりの評価が与えられていないこと。努力によって成功した人を心から称賛する者は少なく、嫉妬する者の方が多いこと。このようなことか ら自分主義に拍車がかかり、他人への感謝の気持ちや思いやりが喪失したのであろう。物質的な豊かさの中で、人間として最も大切な「社会への使命感、社会へ の志と正義感」が失われたのである。
  教師が理屈を言うたびに公徳心は乱れ、親が子供を大切にするほど子供は親不孝者となる。政治家が改革を唱えるたびに日本人はずるくなり、知識人が世界への 貢献を述べても、何とか会議で決議文を表明しても、日本の若者は世界旅行のバカンスしか頭にない。無資源の国である日本が生き残るためには人材の育成しか ないのに、すねかじりの世界の遊び人ばかりでは将来は暗くなる。
 今の青年に活力はみられない。入試への活力はあっても、それはいつか楽になれることが目標であり、大学に入っても教えられたことを覚えるだけで、創造性もなければ学問、研究へのあこがれもみられない。
  活力の低下や不満の増加は青少年だけに限らない。世論調査では国民のあらゆる世代に不満が広がっている。これは努力した者が報われず、また努力しない者は 何でも他人のせいにするからである。「もらえるものはもらわなければ損」とする他人依存型の社会では、平等を装った政策や補助金が不公平を引き起こし、そ れが不満をより大きくしているのである。
 医療においても同じである。医療サービスに満足している高齢者はアメリカ76。5%、スウェーデン49。0%、ドイツ41。3%、日本32。2%となっている。日本は最も安い値段で最高の医療を提供しているのに、医療サービスが良くないと感じている人が多いのである。
 今の日本には、戦国時代、明治維新、終戦直後のような活力はない。不景気、犯罪の多発、環境悪化などの悲観論の中で、青少年は自分の損得と遊ぶことばかりを考えている。ではどうすればよいのだろうか。
 日本のサッカーの監督は連続して外国人である。日産、マツダ、三菱自動車の社長も外国人である。それは外国人が優れているわけではない。外国人は義理やしきたりを無視するという先入観があるため、下が無抵抗に従うからうまくいくのである。
  青少年に夢と希望を与えられないのならば、日本人の多くが不満をもっているならば、政治家や官僚を外国から輸入するのがよい。戦後の日本を大きく変えた マッカーサー元帥、誰よりも日本を愛したライシャワー元駐日アメリカ大使が頭に浮かんでくるが、政治家の人選は簡単である。人間として、日本人として、誇 りと自信を与えてくれる人物なら誰でもよいのである。