日本人の宗教と臓器移植

日本人の宗教と臓器移植

  入院患者が読んでいる本を横目で観察すると面白いことが分かる。若い患者は漫画ばかりで、そこには若きウェルテルの青年像を見ることはできない。成人も同 様で、週刊ポスト、週刊現代、女性自身が院内愛読書ベスト3となる。宗教への関心が薄いことは承知しているが、病気という不幸を背負った患者でさえ、聖書 や仏典にすがろうとする発想はみられない。

 そもそも宗教が存在するのは、人間に死がともなうからで、もし人間に死がなければ宗教は存在しない。人間の死は大昔からの問題であるのに、死を前にした患者でさえ宗教よりは女性の裸体あるいは芸能情報なのである。

  「あなたの宗教は何ですか」と外国人に聞かれた場合、多くの日本人は戸惑いを覚えることであろう。仏教と言うには後ろめたく、無宗教と答えれば神の存在を 認めない無神論者と誤解されることになる。キリスト教やイスラム教を信じている外国人には理解できないだろうが、日本人は無宗教でありながら神の存在を認 めているのである。そしてきちんとした宗教心や信仰を持っているのである。

  日本の所々の街角には鎮守の森があり、その数は数万ヶ所にのぼる。正月には初詣、子供がいれば七五三、秋には御神輿を担ぎ、お盆には渋滞を苦ともせずに帰 郷する。これらは日本の風物詩であるが、同時に日本人の宗教心を表している。神社に行けば自然に手を合わせるが、祈りを終えた人に「あなたは誰に祈ったの ですか」と尋ねれば、多くの人たちは答えに窮してしまう。日本人は神を信じているが、その神が誰であろうと違和感をもたないのである。

  東郷神社、乃木神社、上杉神社、豊国神社、護国神社、日光東照宮。これらは死んだ人が神様になった例である。人間死ねばゴミになる、これは伊藤元検事総長 の言葉であるが、元検事総長の言葉はむしろ日本人としては例外的で、日本人は死ねば神様になるのである。また日本には稲荷神社のように自然界を霊的存在と 崇めた例が数多くみられる。まさに八百万の神である。

  これに対し私たちがステレオタイプに思い込んでいる宗教とは、崇める教祖がいて、教祖の教えを書いた教典があり、教典を信じる集団が教義を唱えるものであ る。これが宗教のイメージであるが、多くの日本人が宗教に対し身構えてしまうのは、宗教のもつ強制力、うさん臭さ、独善性、排他性を知っているからで、死 後の世界を脅しの材料とするような宗教に対し反射的に構えてしまうからである。

  多くの人たちは日本人の宗教を仏教と思っているが、それは大きな間違いである。現在、仏教は墓を提供するだけの儀式宗教にすぎない。日本人は死ねば仏教徒 となるが、それはお寺以外に墓がないからで、神社や教会に祖先を祭る墓があれば仏教徒になる必然性は生じない。仏教の檀家制度は江戸幕府が治安維持とキリ シタンを禁じるために全国に設けた政策であって、それが風習として残っているだけである。

 日本人の身体には仏教伝来以前からの神道が宿っている。日本人の一人ひとり宗教体質を数値で表せば、神道70%、仏教15%、儒教10%、キリスト教5%の混合された割合となるであろう。日本人の宗教心はひとつの宗教に限定されたものではなく、各宗教が混合した混合宗教なのである。そして神道は日本人の心にとけ込んでいるので、そのために神道を宗教と感じていないだけである。

  神道は現世中心主義であり、他の宗教と違い死後の世界について深く考えないのが特長である。死ねば黄泉の国に行くだけで天国も地獄もない。つまり死後の世 界を考えないのは日本人の太古からの伝統であって、死を自然なもの、あるいは死を考えないことを賢明としているのである。

  日本人の宗教観をこのようにとらえると、臓器移植が行き詰まっている理由が分析可能となる。もともと生死観をもたない日本人に生死の議論はできないのであ る。また興味もないのである。人間の死を自然なものととらえる日本人は、他人の臓器を利用することに抵抗を感じるが、と言って臓器移植を否定しているわけ ではない。臓器移植に積極的に賛成でも反対でもないのである。知り合いが臓器移植が必要となれば、すぐにでも賛成派となり募金運動を始めることになる。

  臓器移植の論争は、議論を職業にしている人たちによって議論されてきた。彼らがどれほど議論を繰り返しても、所詮は水と油の議論である。いつまで経っても 水と油は混濁するだけで結論には至らない。そして汚れた混濁を見せられた一般国民は、臓器移植という汚れた言葉そのものに拒否反応を起こしているのであ る。

 臓器移植は難しい手術と誤解されているが、欧米では心臓移植が年間4000例、肝臓移植が年間6000例も日常的に行われている。しかも心臓移植を受けた8割の患者が10年以上生存しているのである。先進国で日本だけが臓器移植を行わず、患者を外国に輸出している現状を考えると、臓器移植を躊躇するわけにはいかない。

  日本人が寺や神社で祈りを捧げる理由は、現世の利益と血縁者の繁栄のためである。けっして他人の幸せのためではない。臓器移植の普及を望むならば、この日 本人の宗教観を理解すべきである。生命と金銭を結びつける議論はタブー視されているが、臓器移植を促進させるためには臓器提供者に金銭的な優遇策を設け、 さらに提供者の血縁者が将来臓器移植の適応になれば最優先とするような制度を作ることである。