ふたりの喜助

ふたりの喜助

 森鴎外外の小説「高瀬舟」は病気で自殺を図った弟にとどめを刺し、遠島流刑となった喜助の心情を同心の目を通して語ったものである。弟を死に至らしめた喜助に罪の意識はなく、流刑の罰に悔恨の念を感じさせない、妙に爽やかな小説である。

  もし私たちが喜助の立場に置かれたら、どのような行動をとるであろうか。人情に従い喜助と同じ行動をとれば、人間として許されても法律からは罰せられるこ とになる。従来の法律は患者を苦しませ放置することを命じ、患者に手を差し伸べることを殺人としている。しかし人情はそれを良しとしない。このように人情 と法律には相入れぬ差違が存在する。

  人間社会を守るための刑法の目的は、被害者に代わり加害者に制裁を加えることである。また見せしめの刑罰を与え犯罪を予防することである。喜助の流刑に違 和感を覚えるのは、喜助への刑罰がこの刑法の理念からかけ離れ、またこの小説が妙に爽やかなのは人間の情に従った喜助がそれを後悔していないからである。

 安楽死に加害者も被害者も存在しない。加害者と被害者のいないところに、犯罪が存在するのだろうか。法律になじまない人情を法律で裁くことに無理がある。

  老婆はポックリ往きたいと言う。早く迎えがくればよいと言う。死は怖くはないが、痛いのはいやだと訴える。医師の使命は患者の望むことを行うことである が、老婆の心情に反し濃厚治療で満足しているのが現在の医療である。老婆がどれほど苦しんでも、面倒に巻き込まれたくない医師の心理が老婆の尊厳を無視す ることになる。

 東海大附属病院の塩化カリウム事件、国保京北病院の筋弛緩剤事件、これらの安楽死事件を振り返るたびに、2人の医師を擁護する医師が1人もいなかったことが不思議でならない。この事件でだれが被害者だったのか。加害者とされた医師が最も大きな被害者だったのである。

  この事件でコメントを求められた医師の多くは、カリウム、筋弛緩剤を用いた積極的安楽死に異論をのべた。そしてそれが鎮痛剤などの消極的方法であったなら ばと理屈を言った。心の中で「もっと上手くやれば良かったのに」と喜助の不手際の悪さに同情しながらも、外に向かってはしたり顔のコメントをのべた。しか し積極的安楽死と消極的安楽死とに、倫理上、道徳上の違いがあると言うのだろうか。それは形式上の違いだけである。

  マスコミは安楽死の過去の判例を並べ、世の見識者はその定義に一致しないから喜助を違法と責めた。法律的にも人間的にも2人の喜助を犯罪者とした。しかし その場にいない者が喜助の心情をどれだけ理解できたであろうか。マスコミが伝える喜助の心情脚本など信じるほうが浅はかである。

 この問題に最も冷静な判断を下したのは、私たちのような傍観者の医師ではなかった。法律学者でも、裁判官でも、マスコミでもなかった。それはひとりの検事であったと想像している。

 京都地検は殺人容疑で書類送検された京北病院前院長について、「死因は進行性がんによる多臓器不全。投与された弛緩剤は致死量に達せず、死亡との因果関係は認められない」とした。京都地検はこの事件を嫌疑不十分で不起訴処分とし、裁判で決着することを断念したのである。

  この検事の判断は、文字通り証拠不十分で立件を断念したと受け止めるよりは、証拠不十分を理由に安楽死を法律で裁くことを回避したと考えられる。まさに大 人の判断、人間の知恵である。この地検の判断によりこの事件は決着をみたが、異を唱える者がいなかったことがまさに英断と評価するところである。

 人間の情、愛、倫理、道徳、宗教は法律より優先されるべき部分がある。人間社会のすべてを法律の網で覆うことは、人間のあるべき姿を失わせることになりかねない。このことを京都地検は考えたのであろう。

 現在の医療は、何本ものクダを入れ死んだ者を生かし続けることができる。遺体に呼吸をさせ、心臓を動かすことができる。このような医療技術の進歩の中で、人情を理解しない法律が医療を機械的医療に追いやる恐れがある。

 死は敗北との考えもあるだろう。最後まで全力を尽くすという考えもあるだろう。しかし国民の8割以上が安楽死・尊厳死を受け入れている常識的世論を忘れてはいけない。そして生命維持装置を使用するのも、そのスイッチを切れるのも医師しかいない現実を忘れてはいけない。

 安楽死の定義を裁判所が明示しても、2人の喜助を傍観した医師たちは法的責任に関わりたくないと思うのが自然である。そしてそのことが冷たい医療、非人情的医療、機械的医療に移行させる可能性が危惧される。

 法的責任を恐れ、苦しむ者に何もしない医療を全人的医療と呼ぶことはできない。また人情を理解しない社会を法治国家と誇ることもできない。ここに人情を拘束する法律の副作用を感じるのである。