クレオパトラ

~美貌と悲劇の女王~

 クレオパトラは日本の小野小町、中国の楊貴妃と並んで世界の三大美女とされているが、クレオパトラはローマ帝国のふたりの英雄をその美しさと知性で魅了し、彼女自身壮絶な生き方をしたことで人類史上最も多く語り継がれてきた女性である。フランスの哲学者パスカルは箴言集「パンセ」の中で「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろう」と記しているが、パスカルはクレオパトラを見たことがあるのだろうか

 クレオパトラが生きていたのは紀元前のことであった。絵画などが描かれるようになったのは、クレオパトラの死後1000年以上も後のことである。パスカルのクレオパトラ美論は哲学者らしからぬ風説論に過ぎないが、カエサルやアントニウスなどのローマの英雄を二人も虜にしたのだから「絶世の美女」の真意は別にしても、魅力溢れる女性、教養溢れる女性だったのであろう。

 ローマで発行されたコインに描かれたクレオパトラは年老いた魔女のようであるが、ローマ人が仇敵であるクレオパトラを「ナイルの魔女とか娼婦」というイメージで故意にわい曲した可能性が高い。クレオパトラの容姿の真意は不明であるが、彼女の波乱に満ちた生涯は小説や絵画、彫刻などの題材になるぐらい有名で、エジプトと言えば、誰もがクレオ パ トラを思い浮かべるほどである。

 絶世の美女と讃えられ、カエサルやアントニウスという名だたる英雄と恋に落ち、最後はアクティウムの海戦で敗け、自ら死を選んだ悲劇の女王クレオパトラの名を知らぬ者はいないであろう。美貌と教養・機知を併せ持つ、古代で1番有名な女性である。

 

クレオパトラの誕生 

 紀元前69年1月、クレオパトラはプトレマイオス12世(在位 前80 - 51年)を父とし、クレオパトラ5世を母としてアレキサンドリアで生まれた。一般に「クレオパトラ」として知られているのは、クレオパトラ7世のことで、母親は出産の直後に亡くなっている。クレオパトラには二人の姉がいたが、どちらも夭折している。彼女のプトレマイオス一族は土着のエジプト人ではなくマケドニアの血を引くギリシア人である。したがって肌の色は西欧人のようであった。ちなみにクレオパトラとはギリシア語で「父の栄光」を意味する。

 プトレマイオス家は王家の血を保つために近親相姦が行われてきた。それはアレクサンダー大王がこの地を征服し、大王の将校だったプトレマイオス1世が統治してから250年間続けられてきた習慣だった。近親相姦は身体や性格にも悪影響を及ぼすことが知られているが、一族の者の中には、てんかん質、異常性格、肥満体の者が多かったとされている。    
 クレオパトラの父プトレマイオス12世は柔弱な国王で、「笛吹き」と呼ばれ馬鹿にされていた。彼は酒好きで、酔うと何かと笛を吹き鳴らし、得意になって踊りだす奇妙な性癖があった。そして晩年にはますます奇行が多くなり、女装したり魔術師の出で立ちで民衆の前に姿を見せたりした。そのような奇妙な性癖はプトレマイオス一族に共通して見られるものである。    
 やがて赤字つづきの国庫をおぎなうため大増税を行い、キプロス島をローマ人に売り渡した。そのことで民衆の怒りが爆発し、この無能のプトレマイオス12世はローマに命からがら亡命することになる。このような長年にわたる近親相姦が、クレオパトラの身体にも何らかの影響を与えたという疑問は拭いきれない。

 しかし教養面では、クレオパトラは文句なしに知性の高い女性だった。植民地内のさまざまな言語にも通じ、何か国語をも自由自在に話した。プトレマイオス家でもエジプト語を話せたのは彼女一人だった。さらに軍事・政治面にも非凡な指導力を発揮することになる。

 紀元前51年、父「笛吹き王」は病気を患って死去し、 父の遺言とプトレマイオス王朝の奇妙な慣例にのっとり、クレオパトラが弟のプトレマイオス13世と結婚してふたりでエジプト全土を統治することになった。この時、クレオパトラ18才、彼女の弟プトレマイオス13世はまだ10才であった。

  勝ち気で女王気質のクレオパトラは、王座についた時から、積極的にエジプトを統治していくつもりだったが、政治を補佐するはずの宦官と将軍が実権を握っていて、彼らは自分たちの野心と利益を優先し、幼い弟を思いのまま操っていた。 

手にコルヌ・コピア(豊穣の角)を持つ
クレオパトラ(メトロポリタン美術館蔵)


 クレオパトラが即位してから3年後、ローマの英雄として知られているカエサル(シーザー)はエジプトに矛先を向けた。そのためクレオパトラは「ローマと戦うか、それとも同盟関係を結ぶか」の決断を迫られたクレオパトラは強大なローマとの同盟こそがエジプトの存続の道と考えたが、弟(トレマイオス13世)の側近の介入により対立をきたした。共同統治の内部対立である。弟の側近は意志の強いクレオパトラが邪魔になり、彼女を暗殺しようと考えていた。

 紀元前48年春、ローマからの独立を標榜する弟(プトレマイオス13世派)は、クレオパトラの動きに不信を募らせ、首都アレクサンドリアの住民がクレオパトラに起した反乱に乗じてクーデターを決行した。クレオパトラは弟(プトレマイオス13世派)の陰謀を察知するや否や、アレキサンドリアを脱出したが、追われる身となった。     
 クレオパトラはシリア砂漠の秘密の場所に身をひそめていたが、トレマイオス13世の側近はクレオパトラを捕らえるために軍隊を派遣し周囲を取り囲んだ。エジプトにとっては内戦状態、クレオパトラにとってはまさに危険な時期であったが、この最中に、ローマ帝国から独裁者カエサルがアレキサンドリアに到着した。カエサルはプトレマイオス13世派の元老ポンペイウスをファルサルスの戦いで討ち負かし、エジプトに逃げ込んだ元老ポンペイウスを追ってきたのだが、元老ポンペイウスはプトレマイオス13世派に殺害されていた。

 紀元前48年9月、エジプト入りしたカエサルは和解を図ろうとしてふたりの共同統治者をアレクサンドリアに招集した。クレオパトラはカエサルの助けを借りて政治の実権を握ろうとするが、クレオパトラはプトレマイオス13世派に周囲を封鎖されていて出頭するのは容易ではなかった。

 

 カエサル(シーザー)との

出会い

 クレオパトラはカエサルの力を借りたかった。しかし弟を意のままに操る側近は、そのクレオパトラの考えを見抜いていて、カエサルに近づけないように海上からも陸上からも軍隊で厳重に封鎖していた。

 どうすれば怪しまれずにカエサルに近づくことが出来るのか。クレオパトラは死を覚悟して、ある考えを実行することにした。
 紀元前48年10月中旬の夕刻、アレキサンドリアの港に小舟が近づくと「カエサルの元に、クレオパトラからの贈り物を献上したい」と一人のギリシア人が大きな寝袋を担いでプトレマイオス家の王宮で王宮を訪ねてきた。そのギリシア人の男はクレオパトラの腹心アポロドロスとだった。寝袋を抱きかかえるように運んで来たが、エジプト軍もカエサルの兵士たちも気にとめることはなかった。古代エジプトでは贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があったからである。

 宮殿の部屋に運ばれた寝袋の紐をいぶかりながら解くと、カエサルは思わず短い言葉をあげた。寝袋の中に王冠をつけた小柄な女性がいたのである。寝袋を開けた贈り物は宝物ではなく、笑みを浮かべたクレオパトラであった。

 その時、クレオパトラは21歳。今にも壊れるのではないかと思われるほど華奢で、巻き毛は丁寧に揃えられ、うなじのところで結ばれていた。53才のカエ サルにとって、それは威厳に満ちた女王というより妖精のようなに映った。「一体、どうしたことだ? そちは何者か?」この見たこともない若い女性にカエサルは驚いた。
「私はエジプトの女王クレオパトラです。お気に召したらお受け取りください。カエサル様のお力でエジプトを救っていただきたくお願いに参りました」はじめて聞くクレオパトラの声はたどたどしかったが、カエサルはこの瞬間、運命的なものを心に感じた。 さすがのローマの英雄カエサルも意表をつく趣向に、クレオパトラの虜になってしまった。ローマ帝国の独裁者カエサルと女王クレオパトラの運命的な劇的な出会いであった。       

 やがてクレオパトラのたくみな会話、深い知性ときらめくウィット、気持ちをそそる恋のかけひきに、ローマ帝国の独裁者カエサルの心は魅了されてしまった。二人はギリシア語で時が経つのも忘れて語り合い、宵がふける頃には女性としての武器を使いカエサルの心をつかむことに成功した。出会ったその日のうちに官能的な快楽で結ばれたのである。

 この衝撃的な出会いはクレオパトラにとっては、緻密な計算上でのことだった。この時、彼女が選ぶ道は一つしかなかった。カエサルに取り入り、彼の権力のもとで自分を追放した弟プトレマイオス13世とその手下どもを打ち負かすか、さもなくば自分が死ぬかしかなかった。カエサルは世界で1番の強国の英雄である。カエサルを味方にすればエジオピア王国を自分のものにする野望を実現することができた。カエサルにとってもこれまで征服してきた国々の美女たちとは違っていた。女性として魅力的でありながら、男性的才能と手腕を持ち合わせていた。またエジプトを支配するのにクレオパトラを女王として表に出しておけば住民の反感を招かないという目算があった。

 クレオパトラはカエサルを魅了し彼の愛人となるが、これを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずして地面に叩きつけた」とされている。

 その後、カエサルは共同統治者の和解に成功し、再び二人によるエジプト統治を高らかに宣言したが、この和解は15日間しか続かなかった。プトレマイオス13世の側近たちがカエサルとクレオパトラを討つために軍隊を動かしカエサル軍を攻撃したのである。カエサルは直ちにプトレマイオス13世を王宮内に軟禁すると、シリアに駐屯しているローマ軍に援軍を要請した。

 プトレマイオスの側近ポティノスは、アレクサンドリア港に停泊しているエジプトの艦隊を出航させ、ローマ軍を撃とうとした。カエサルはそれを阻止するため艦隊に火を放った。火を放たれたエジプト艦隊は燃え上がり一隻残らず港内に沈んでしまった。    

 王宮から追放されたプトレマイオス13世は、反乱軍を率いてローマ軍に戦いを挑んだが、討ち負かされナイル川に追い詰められれ、そのほとんどが溺れ死ぬかワニの餌になってしまった。まだ少年だったプトレマイオス13世は船で逃げようとしたが、後から次々に乗ってきた敗残兵の重みで船が沈み溺れ死んだ。プトレマイオス13世と結託していた妹アルシノエ4世は捕らえられてローマへ送られ、紀元前46年にローマで催されたカエサルの凱旋式で引き回された。 そのころクレオパトラとカエサル のあいだに男の子を生んだ。その子はカエサリオン(小カエサル)と名付けられた。

 クレオパトラに敵対する勢力は一掃され、プトレマイオス13世の死後、クレオパトラ7世はもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚して共同統治を再開した。もちろんこの共同統治はカエサルの後ろ盾があったからである。実際にはクレオパトラ7世が単独で統治し実質上のエジプトの女王となったが、もちろんそれはカエサルの傀儡政権であった。

 カエサルはエジプトの権力抗争が終結させると、愛人であるクレオパトラとともに、ナイル川をさかのぼる10週間の雄大な旅に出た。使用した王室用の船は100メートル余りもあるほどの大きさで浮かぶ宮殿のようであった。

 船上には庭園から大食堂、神殿まで造られ、カエサルにとっては初めてのエジプトの観光旅であり、二人にとっては忘れがたいハネムーンになった。ちょうどその時、クレオパトラは6か月の身重になっていた。この船上でのロマンスが、カエサルとクレオパトラの二人にとって最後で最大のものであった。   

 10週間の休暇が終わると、クレオパトラと別れ、エジプトの地を後にしなければならなかった。 小アジア、アフリカに巣食うポンペイウスの残党を討ち、カエサルはローマの独裁執政官としての任務を果たすため、ローマに凱旋する予定であった。 有名な「来たり、見たり、勝てり」の手紙はこの時に書かれたものである。    

 ローマに帰ったカエサルの凱旋式は実に壮大だった。戦利品が何台もの車に積まれ黄金だけでも2万ポンド以上もあった。カエサルは宴会を開き、2万2千台の食事用の食台を集めさせた。肉は車で運ばせ太ったウナギを6千匹とファレルノ産のワインを大量に用意させた。カエサルにとっては第三期目に任命された独裁官としての声望を高めるためであった。

 

 

カエサルの暗殺〜

  クレオパトラはカエサルとの間に生まれたカエサリオンを育てながら、再会の時を待ち望んでいた。そこへクレオパトラとカエサリオンを賓客として迎える知らせがローマから届いた。カエサルと別れて3年後のことであった。

 クレオパトラは高官らとともにローマに乗り込み、豪華絢爛の大歓迎を受けてカエサル邸に落ち着いた。カエサルとクレオパトラにとっては幸せの絶頂と思われた。カエサルがローマの最高権力者にのしあがり、豪華な宮殿を建て、クレオパトラと住んだことで、「カエサルはローマの王になり、クレオパトラをローマの女王にし、カエサリオンをを後継者にしようとしている」とローマ人は疑うようになった。

 紀元前44年3月15日のことであった。ここで予想だにしない破局がやってきた。カエサルの独裁ぶりに、共和政崩壊の危惧を抱いたブルータスら元老院議員たちによって暗殺されのである。

 カエサルの遺言で、ローマ帝国の後継者は彼の養子であるオクタビィアヌスになった。クレオパトラは自分の息子カエサリオンこそ後継者と考えていたので思いもよらぬことだった。クレオパトラの野望はカエサルの死とともに急速に去っていった。庇護者を失ったクレオパトラは失意のうちに息子カエサリオンを抱きながらローマから逃げるようにエジプトに帰った。

 クレオパトラ7世がエジプトに帰国したころ、共同統治者であったプトレマイオス14世が死亡(死因不明、クレオパトラによる毒殺説がある)した。クレオパトラ7世は3歳の息子カエサリオンを即位させ、自分との共同統治者に指名した(プトレマイオス15世)。

 カエサルの死後、ローマではオクタビィアヌスとアントニウスの派閥で激しい権力争いが生じていた。その一方で、二人は協力しあってカエサルを暗殺した首謀者たちへの復讐戦も忘れなかった。    

 紀元前42年、アントニウスは率先してプルータスとカシウスをマケドニアの地に追い詰め、カエサルを暗殺した首謀者たちは次々に自害した。暗殺から2年半が経過した頃、将軍アントニウスはクレオパトラを宴席へ招待した。

 この時、クレオパトラはこれはほんの口実に過ぎないことを見抜いていた。まだ彼女の父「笛吹き王」が生きていた頃、追放された父とともにアレキサンドリアにやってきた当時の騎兵隊長だったアントニウスの脳裏には、まだ少女だったクレオパトラの面影が忘れていなかったのである。

 〜アントニウスへの誘惑〜

 28歳になったクレオパトラは、エジプトの未来を決するこの機会に一切をかけようとする。たくさんの贈り物を持って、大勢のお供とともに約束の地、小アジアのタルソスに向かった。 アントニウスは彼女を会食に招待したが、彼より役者が一枚上のクレオパトラは、逆に自分のところに来るように話を運んだ。

 キュドス川下流の町に愛の女神ヴィーナスが黄金の船で川を遡ってくるという噂が立ち、人々が川辺に集まってきた。 やがて人々が目にしたのは、豪華この上ない船団であった。女王クレオパトラを乗せた豪華な船は、男たちが楽隊に合わせてオールを漕ぎ、女王は天蓋下に横たわり、女王の周りには薄絹を纏った美女たちがが優雅に風を送っている。

 船内に招かれたアントニウスはエジプトの富を見せつけられた。その夜の宴会は豪華で趣向の凝ったもので、林立する灯火は品よく配置され、床一面にはくるぶしが没するまでにバラの花が敷きつめられていた。

 クレオパトラ7世は着飾り、香を焚いてムードをつくり「アントニウス様、ようこそ私どもの船にいらっしゃいました。輝かしいご武勲の陰には少なからぬ辛労もおありであったとお察し申し上げます。今宵は私どものささやかな心づくし、アレクサンドリアの宮殿のようには参りませんが、どうぞご堪能なさってください」。

 瞬く間にクレオパトラはアントニウスを魅惑した。アントニウスはエジプトに近いシリアなどの勢力を維持しており、クレオパトラとの良い関係は、将軍アントニウスにとっても好都合であった。

 招待されたローマの軍人たちは、一様に驚きを隠すことが出来なかった。兵隊あがりで、根が単純なアントニウスはクレオパトラの洗練された話術と優雅な身のこなしの前に魅了され、たちまち彼女の魅力の虜となってしまった。宴会も終わる頃には、彼女に誘われるままにローマに帰るかわりにアレクサンドリアに出かけていく始末であった。    

 当時、アレキサンドリアは、地中海世界の中で、最も富裕で優雅で豪華絢爛な都市であった。この都には、世界中のあらゆる富が集まっていた。港では、毎日世界中から、たくさんの船が出入りしては、巨大な富が陸揚げされていた。

 アフリカからは、象牙、金、香料。ギリシアからは、良品質のオリーブ油、ぶどう酒。小アジアからは、穀物、珍しい織物。インドからは、見事な装飾品、宝石類が、それらの積み荷の多くを占めていた。 それら港に出入りする何百という世界中の商船を、古代の七不思議と言われたファロス島の大灯台がみちびいていた。

 アントニウスは、クレオパトラと水入らずの時間をアレキサンドリアで過ごした。41才の彼にはカエサルのように彼女に太刀打ちできる頭を持っていなかった。田舎育ちで気前が良い単純なアントニウスが、いとも簡単にクレオパトラの魅力に屈してしまうのは当然な結果であった。    

 こんなエピソードが残されている。二人がナイル川で魚釣りをしていると、いくら待っても魚がつれずにいた。いらいらしていた彼は、自分の面子を保つために、漁師に潜らせて、自分の針に魚をかけさせたのである。        

 「おお、ついにやったぞ!こんなでかいのはめったいにないな」アントニウスは自慢げにつぶやいた。 しかしよく見ると、釣り上げた魚に生気とがまるでなかった。恐らくこれはアントニウスがv漁師に潜らせて仕組んだ芝居であろう、クレオパトラはすぐに気づいたが、素知らぬ顔で彼を褒めそやす。    

「さすが、アントニウス様、釣りがお上手ですこと」 

「うむ、おれの腕もまんざらではないな」単純なアントニウスは上機嫌であった。         

 翌日も釣りとなった。しかしアントニウスが最初の釣り上げた獲物は、黒海でしか取れない魚であった。釣りにうとく、いまだ気がつかぬ彼が次に釣り上げた魚は、ワタもウロコも取られて調理されていた魚であった。ここに至りアントニウスはすべてはクレオパトラが漁師を買収させて行った仕業であることを認めないわけにはいかなくなった。    

 クレオパトラは彼にこう言った。「アントニウス殿、そのような雑魚はそのへんの諸候にまかせておけばよいのです。あなた様の釣り上げる獲物は、もっと大きなもの、国家でなくてはならないはず」この時、クレオパトラ28才、彼女の体にはアントニウスの双生児が宿っていた。

   こうしたアントニウスのもとへ、ローマからアントニウスの妻フルビィアがオクタビアヌスに戦いを仕掛けたという知らせがきた。アントニウスは否応なく、戦争を止めるためアレクサンドリアを後にしなければならなかった。これはフルビィアが自分をないがしろにして、クレオパトラにうつつを抜かすアントニウスの心を自分に向けたい一心で起こしたことだった。    

    結局フルビィアはオクタウィアヌスに敗れ、敗走してきたフルビィアをアントニウスは激しく責めたが、フルビィアはローマに向かう途中、今までの疲労がたたって病気になり、死んでしまった。        

   オクタビィアヌスは、ライバルのアントニウスと戦うつもりはなかったので、和解を申し出て来た。そしてアントニウスは和解をすることにした。その際、和解のしるしに、アントニウスは、オクタビィアヌスの姉を新たな妻に迎えたのである。アントニウスがオクタビアヌスの姉と結婚したという知らせが、ローマから持たらされた時、の

クレオパトラは腹わたが煮え繰り返る思いであったに違いない。        

 それから3年が過ぎた。アントニウスの忘れがたみの双生児を育てながら、クレオパトラは恨み言一つもらさなかった。アントニウスはその心をいじらしく思い、シリアまで遠征した時、クレオパトラに会いたさに急使を立てた。建て前はシリア遠征で不足してきた糧食、物資の援助を乞うためとあった。    

   ここで勝ちを急ぎ過ぎたアントニウスは、パルチア遠征で大損害を出して窮地に陥ってしまった。このニュースを聞いたクレオパトラは、援軍を送って救助に駆けつけ、無事アントニウスを救い出した。    

    こうしてアントニウスはクレオパトラに頭が上がらなくなり、彼女との結婚を承諾し、さらにはオクタビィアヌスの姉であった妻と離婚することを了解した。

 クレオパトラの妹であるアルシノエ4世は小アジアのエフェソスのアルテミス神殿に逃避していたが、クレオパトラ7世はアントニウスに頼んでアルメニア王国を攻撃させて殺害させた。その後、アントニウスとのあいだに、2紀元前39年に双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネ、紀元前36年にはもう一人の男の子プトレマイオス・ピラデルポスが誕生した。

 アルメニア制服後、アントニウスは凱旋式をローマではなくアレキサンドリアで行った、クレをパトラを正式な妃と認め、息子の「王の王」の称号を与えた、このことがローマの妃地たちの神経を逆なでさせた。オクタビィアヌスは、ローマを「ナイルの魔女」に与えると噂した。オクタビアヌスは自分の姉が離縁させられた事実をうまく利用した。つまりカエサルの後継者である自分への侮辱だと宣伝したのである。実際、この時まで元老 院議員には、アントニウスを支持する者が多くいたが、しかしこの件で多くがオクタビアヌス側についてしまなった。そのためアントニウスはローマ帝国すべてを敵に回すことになった。 クレオパトラにとっても大きな計算ちがいだったが、嘆いてばかりではいられない。オクタビアヌスと対抗するために軍隊を動員なければならなかった。

 オクタビアヌスはアントニウスを三頭政治から除名すると、クレオパトラに戦線布告をしてきた。アントニウスはクレオパチラの意見に従い海戦でことを決しようとする、

 〜アクチウムの海戦〜        

   アントニウスが集められた兵力は10万の歩兵、2万5千の騎兵、800隻あまりの大艦隊であった。クレオパトラも旗艦に乗り60隻の小艦隊を従えていた。

 紀元前32年9月、アントニウスの軍はマケドニア西南部にあるアンブラキア湾に艦隊を入れ、自信満々でオクタビアヌスの軍の到来を待っていた。この湾は、アクティウムを前に望む狭い海峡の奥の開けた場所で、大艦隊を収納するには絶好の地形であった。さらにはギリシア南西部には前哨基地が設けられ物資の補給ルートを確保していた。     

 しかしアントニウスはローマ随一と言われる名将アグリッパの存在を軽く見過ぎていた。この優れた戦略家は、息もつかせぬ奇襲攻撃で、まずギリシア南西部を占領してしたのである。これでアントニウスの補給ルートを断つと、ひたすらアクティウムに北上して、またたく間に湾内のアントニウスの艦隊を包囲して閉じ込めてしまった。安全と思われた避難場所が、一転して二度と出られぬ袋小路となっていた。    

 包囲は長期におよび、糧食が底を尽き出し、疫病がはやり、アントニウスの陣営は、悲惨さを増していった。軍隊の士気は落ち、脱走する者が後を絶たなかった。当初、800隻の陣容を誇った大艦隊も人員、物資の不足から、かなりの数の船を処分せねばならず、装備の良い230隻を除きz他の船に火がかけられた。もう戦いどころではなくなっていたる。    

 翌年、紀元前31年9月2日、アントニウスは再び艦隊を再編成し、アグリッパの大艦隊と雌雄を決するべくアクティウム目指していた。計画では、先頭のアントニウスの艦隊がアグリッパの主力とぶつかりあっているすきに、クレオパトラの艦隊が安全地帯に非難する手はずになっていた。クレオパトラの船には、軍資金ともいえる財宝が山と積まれていた。しかし戦闘がはじまると、クレオパトラの艦隊は反転すると逃走しはじめた。         

 「どうしてだ。 なぜ、おれを見捨てる」クレオパトラの艦隊は反転を見たアントニウスは混乱した。茫然自失におちいったアントニウスは、艦隊の指揮を放棄すると、すぐにクレオパトラの後を追った。このクレオパトラの逃走劇の理由はよくわからないが、一説にはオクタビアヌスと通じていたとされている。つまりアントニウスを見限ったのが真相のようだが、明確ではなく謎のままである。    

 アントニウスは命からがらその場を脱したが、指揮官を失った艦隊はあっさり全滅した。後世によると、クレオパトラはアントニウスを見捨てて命欲しさに遁走し、アントニウス自身も腰抜けになり、部下を見捨てて後を追ったとされているが、それはローマ側の一方的な歪曲であろう。    

 アントニウスはほうほうの体で宮殿に逃げ帰るが、そこで、クレオパトラが自殺したという誤報を聞かされた。アントニウスは悲観のなかで自決を決意し、自分の剣を抜くと、自らの腹を突いたのである。    

 実際はクレオパトラは自分の霊廟に入っただけで、侍女が「もう女王様はこの世の方ではございません」と言われたのを、アントニウスが自殺と早合点したのである。アントニウスは虫の息であったが、クレオパトラのもとへ連れていかれ、彼女の腕の中で息を引き取った。

 こうして戦いは終わった。すべてを打ち負かしたオクタビアヌスの軍勢が、やがてアレクサンドリアに入城して来た。宮廷内に軟禁されたクレオパトラには、ローマに連れられていかれる悲しい運命だけが待っていた。

  オクタビアヌスは言葉では今後ともエジプトの女王にふさわしく遇すると述べていたが、もちろん内心は違っていた。 オクタビアヌスはクレオパトラをエジプトの最も輝かしい戦利品として連れ帰り、凱旋捕虜としようとしていた。ローマに凱旋する際、民衆の前で、戦車で鎖につながれたクレオパトラをさらしものにし、自らの力を見せつけようとしていた。このことをクレオパトラは買収したローマ軍人から聞き出していた。

 

〜毒蛇に胸をかませる 〜       

   ローマでさらし者など、女王の誇りが許さなかった。出航を明日に控えた8月12日、ローマへの出発を3日後に控えたその日、監視生活の中で、彼女は入浴を済ませて最後の食事をとった。その際、イチジクの籠をたずさえた一人の百姓が、彼女の部屋に通された。それは彼女への贈り物とされたが、イチジクの下にはアスピスという小さな毒蛇がひそんでいた。アスピスの毒は、穏やかに死ねる毒であり、その効果は奴隷を使って実証済みであった。蛇はエジプト人にとっては聖なる生き物であった。クレオパトラはこの小さな聖蛇の毒で、夢と波乱に満ちた39年の生涯に終止符を打とうとしていた。 毒蛇を出すと自分の胸を噛ませた。やがて深い眠りに入り、静かに息絶えた。紀元前30年8月31日、39歳の人生だった。     

 ふたりの侍女は女王の服装を整え、王冠をかぶせた。番兵がこれに気づいた時、彼女は黄金のベッドに、女王の衣装と宝石を身につけ死んでいた。ふたりの侍女も同じ方法で女王の後を追った。

 クレオパトラの死        

 クレオパトラが死んで、2千年たった今も彼女の魅力は神秘のベールに包まれている。一体、クレオパトラの魅力とは何だったのだろうが、 信ぴょう性の高い歴史家プルタルコスの記載がある。「彼女の美しさはそれほどのものではなかった。しかし、魂からにじみ出て来る魅力には抗えないものがあった。彼女の会話の巧みさ、優雅な身のこなしにあらわれる知性には独特の魔力があった。彼女の声は弦が何本もある楽器のように、多くの言語を自在に操り、聞く者をうっとりさせた」    

    クレオパトラが絵画などで描かれるようになるのは、ルネサンスから後のことである。その頃からすでに美貌と知性でカエサルやアントニウスなどローマの英雄を虜にした「絶世の美女」とされていた。彼女の波乱に満ちた生涯は、小説や絵画、彫刻などさまざまな題材になっている。あれから2千年が経った現在でも、彼女の果てしなき夢は滅びることもなく、永遠に生き続けているように思える。

 

(参考)クレオパトラの死 (レジナルド・アーサー作、1892年、Roy Miles Gallery藏)

(参考)「クレオパトラの死」 (グエルチーノ 1648年、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館藏)

「クレオパトラの死」(アッキーレ・グリセンテ作、1878-79年、ブレジア市立美術館藏

現代の美女エリザベス・テイラーが「絶世の美女」を演じたハリウッド映画『クレオパトラ』(1963年)