エジプト

 ナイル川流域で興ったエジプト文明は肥沃な大地を背景に大いに発展し、初期王朝時代にはエジプト美術の原型が誕生したギリシアの哲学者プラトンが、「エジプト美術は10000年を経ても変わっていない」といっているように、エジプト文明は保守的、伝統的とされていた。様式の不変性がエジプト美術の最大の特徴で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることはなかったが、連綿と継承された技術は洗練性を高め、沈浮彫などの特殊な技法が誕生している。
 さらにエジプト美術は死後の世界との接点が多く見られる。死後、魂がミイラや像を通して住めるようにと作られた。死後の墓や神々に捧げる神殿などには堅牢な石造で、永遠性が込められていた。いっぽう現世の人々の住む住居は粗末な物である。古代エジプト人ほど「永遠」という言葉を好んだ民族はないといわれる。「太陽のごとく永遠に」、「永遠永劫に」、「永遠の生命、健康、富」といった言葉は墓所内に刻まれている。
 しかし王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性を失っていく。紀元前332年、アレクサンドロス3世によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった。

平面芸術(絵画、レリーフ等)
 エジプトの絵のスタイルは、約2500年もの間、ほぼ同じスタイルで描かれている。特徴は正面を向いた胴体に横向きの顔と両足というスタイルである。こののため誰にでも「エジプト風」と分かる。このような直立した凝固のポーズはファラオの神々しい姿を表している。「静」の美は古代エジプト人の美意識の中心をなすもので永遠性と結びついていた。
 岩山に築いた墳墓の壁画は、表面処理を施してから漆喰を下地に描くのが一般的であった。顔料は鉱物性の粉末を少量のゴムを混ぜた水に溶かして描く。主色はオ赤・黄・褐色で青・緑系は酸化銅から、黒は煤から作られた。彫りやすい石灰石質であれば浮き彫りを施すこともある。時代によって若干変化するが、複数の人物や神々が描かれる際には一定のルールが存在する。

    頭や胴体、足は一定の比率で描く。
    地位の高い人物は、より大きく描く。
    顔は横顔とするが、目は正面を向いて描く。
    肩、胸、腕は正面を向けて描くが胴体と足は横向きとする。
    足は左右の区別が付くように描き分けない。土踏まずを描く場合には、両足に描く。
    遠近法を使わないが、集団を描くときには上下左右にずらして、少しずつ重ねて描く。

立体芸術(彫刻)
 絵画のように平面的ではなく比較的写実になって、動的な物は好まれない。また型に嵌ったような作品が多いく、個性が薄く均一の印象を与える。立体芸術のなかで有名なのはツタンカーメン王の黄金の仮面である。これは純金の打ち出しで出来ていて贅沢の粋を凝らしている。ツタンカーメンは19歳で亡くなっているが、歴史上大きな業績を残してはいない。しかし、他のファラオの墓はほとんど盗掘されているが、彼の墓は完成以来ほとんど破損がないので、今では最も有名かつ貴重な遺産となっている。

アマルナ様式
 新王国アメンホテプ4世は伝統の多神教アメン信仰を廃して一神教のアテン神とする宗教改革を断行した。これをアマルナ宗教改革と呼ぶ。その信仰の証として自らアクエンアテン(アテンに愛される者の意)と名乗り、自身の姿を奇形に描かせるなどした。この流れに沿った様式はアマルナ様式と呼ばれ、人物の柔弱さ、人間的な叙情性、細かな装飾性が特徴である。ツタンカーメンはアクエンアテンだったため、王家の谷の墓からはアマルナ様式のものが多く出る。
 アマルナ改革は急進的すぎ神官達の反発を受けて挫折し、新しい様式もエジプトの伝統に乖離しすぎていたため一時限りのものに終わった。