ロッシーニの恋物語

ロッシーニ


本名:ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ
出生地:イタリア ペーザロ
生年月日:1792年2月29日
 ロッシーニといえば、「セビリアの理髪師」や「ウイリアム・テル」などのオペラを作曲したことで有名。ベートヴェンやマーラーといったクラシックの作曲家は苦悩に満ちたイメージがあるが、ロッシーニに関しては軽快で明るいイメージがある。そして音楽家と同時に美食家でも有名である。ヒット曲メーカーのロッシーニが突然、グルメ界に転職したのも興味深いが、イタリア人の快活なラテン気質は、嫁と舅の問題や妻対愛人の戦争を引き起こしてしまった。

第一の結婚 イザベラ-7歳年上の姉さん女房
 18歳でオペラ「結婚手形」、その3年後に「タンクレーディ」、「アルジェのイタリア女」などをヒットさせ、23歳の頃にはナポリのサン・カルロ劇場の音楽監督に就任するなど、若い頃から出す曲がヒットして苦労しらずのロッシーニであった。若いときは外見も可愛らしく、性格も温厚だったことから、次々と若く美しい女性が彼の周囲に群がってきた。
彼がサン・カルロ劇場の音楽監督に就任すると、そこのソプラノ歌手であるイザベラ・コルブランと出会う。実力を備えたイザベラのために、ロッシーニは多くのオペラ曲を書き、二人の仲もしだいに深まってきた。そしてロッシーニが30歳、イザベラ37歳のときに二人は結婚する。
 結婚後もロッシーニの筆は勢いをとどまることを知らず、次々とヒット曲を飛ばしてゆくが、イザベラは歌手としてのピークに翳りが見え始め、プライドの高いイザベラはロッシーニや周りの親族を巻き込む形でわがままになっていく。そして結婚から7年めに夫婦の仲は冷め切ってしまう。
 1830年にロッシーニは妻イザベラと自分の両親をボローニャに残して活動をパリに移す。この単身赴任の間に、妻イザベラと父親が大喧嘩状態になっていた。イザベラの我がままとお金の使いすぎで父親が大激高。父親がロッシーニに「イザベラを殺すか自分が死ぬかだ」と書いた手紙を何通も送った。さすがのロッシーニも「これはまずい!」ということで、パリからボローニャへ戻る。

第二の結婚 オランプ-元妻との会食
 ロッシーニがパリで活躍しているその頃、彼は文豪・バルザックの愛人で高級娼婦だったオランプ・ペリシエと恋に落ちていた。嫁・舅戦争勃発で一旦ボローニャに戻ったロッシーニは、イザベラと離婚交渉をスタートさせる。これがあっけなく受け入れられ、イザベラとロッシーニは離婚することになるが、馬鹿正直なロッシーニは、パリで出会ったオランプのことをイザベラに話してしまう。するとイザベラは「オランプに会いたい」と申し出、ロッシーニは「おぉ!ふたりともこの事実を受け入れてくれたんだ!」と喜んでこの三人の会食をセッティングした。
 その後のオランプとの結婚生活は順調で、結婚後ミラノに新居を構え幸せな生活を送っていた。音楽と美食の日々をロッシーニが亡くなる76歳まで二人は楽しんだといわれている。晩年になって毎週土曜日にはじめた「料理と音楽の夕べ」には、貴族や芸術家などが集まり最高の食材を取り入れたお料理と、一流のピアニストや歌手を招いての音楽会を楽しんでいた。