ショパン恋物語

ショパン 繊細な貴公子の恋-4人の女性との儚い恋物語
 女性に一番人気のある作曲家は、ショパンではないでしょうか。その生涯をほとんどピアノ独奏曲の創作に費やした彼は、ピアノの世界では現在でも絶対的な存在である。うっとりするような美しい曲を生み出す裏側で、彼をとりまく美しい4人の女性たちがいたが、それは決して幸せに満ちていたわけではなかった。

本名:フレデリック・フランソワ・ショパン
出生地:ポーランド
生年月日:1810年3月1日

 父親はフランス人家系の教師、母親はポーランド貴族の血をひいていた。上流階級の家庭ではなかったが、当時の教養あるポーランド人はフランス語を話したとされているが、ショパンもそのような環境にいた。

ピアノ協奏曲第2番第2楽章~儚い初恋
 ショパンの初恋は19歳の時。ワルシャワ音楽院の同学年で声楽科に通うポーランド娘のコンスタンチア・グワトコフスカだった。彼女の声は「天使の歌声」といわれ、その美しさと才能の崇拝者は数知れず。シャイで奥手なショパンは彼女に告白すらできなかったが、その想いは胸に収めることができず、作品に昇華したといわれている。それが初期の傑作である「ピアノ協奏曲第2番」である。ショパンは友人に「コンスタンチアを想い、このアダージョ(第2楽章)を書いた」と手紙を送っている。秘めた情熱を訴えるようで、ロマンティックな旋律を聴けば、誰もが初恋のトキメキや切なさを思い出すであろう。しかし、結局ショパンは彼女に想いを告げることなく、ウィーンに旅立つことになる。

ワルツ第9番(別れのワルツ)~引き裂かれた恋
 音楽家としての将来を夢見て到着したウィーンであるが、ウィンナー・ワルツ大流行の都では、ポーランドの田舎青年ショパンへの待遇は冷たいものだった。ウィーンをあきらめ芸術の都パリを目指すが、その途上、ドイツのドレスデンでマリア・ヴォジンスカという幼なじみの少女に再会し、恋に堕ちる。マリア16歳、ショパン25歳であった。この女性は育ちの良い両家の娘といったタイプで、ショパンはマリアにプロポーズをして、マリアはこれを一旦受け入れるが、身分の違いから両親が反対した。またショパンは結核を患っており、この恋で彼は著しく消耗し、かの有名な「葬送行進曲」が生まれるまでの憂鬱状態に陥った。二人は相思相愛だったが、結局は両親を納得させることもできずに、プロポーズは破談になってしまった。愛おしいマリアに捧げた曲、それは今でもとりわけ人気の高い「ワルツ第9番(別れのワルツ)」である。

ポロネーズ、ノクターン、マズルカ~運命の出会いと死
 マリアとの恋に破れ、次に出会った女性は一風変わった男装の作家ジョルジュ・サンドである。彼女は一度離婚をした経験があり、離婚の理由は結婚が退屈で、多くの男性を弄んだといういわくつきの女性。病弱で純情なショパンと正反対で不思議な組み合わせであるが惹かれあうのが恋の不思議なとこである。サンドにはすでに二人のこどもがいたが、ショパンはサンドとこどもたちとスペイン・マジョルカ島へ旅立ち、同棲生活を始める。この恋は完全にサンドからの積極的な誘いから始まったが、彼女は病弱なショパンに献身的に尽くした。しかし結核によかれと思って訪れたマジョルカ島への逃避行だったが、運悪く気候が例年と異なり寒くじめじめした環境であった。そのためショパンの病状は悪化してしまった。結局フランスへ戻り、ショパンの病状も小康を取り戻した。サンドの経済力と献身的な母性愛に支えられ、ショパン後期の傑作が次々に生み出されることになる。ポロネーズ第5番嬰ヘ短調Op.44、ポロネーズ第7番 変イ長調Op.61「幻想」、バラード第3番、第4番、スケルツォ第4番、幻想曲へ短調、バルカローレ、英雄ポロネーズ、ノクターン第13番、ピアノソナタ第3番など美しい傑作がつくられた。しかしサンドの関係が続いたのは7年間ほどで、経済的にも破綻し始めたりサンドがショパンの才能を味わいつくしたのか、いつしか二人の関係は終わってしまう。サンドと別れた後のショパンは創作活動ができなくなり、病状も悪化し39歳という若さで病死してしまう。別れた後のサンドは、ショパンの病気の悪化をきいても会いにゆくことはなかった。

ワルツ第6番(子犬のワルツ) 謎多き友人以上恋愛未満の関係
 ショパンの最期の病床に駆け付けた女性がいた。その女性は絶世の美女と言われたデルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人であった。ポトツカ夫人は2番目のマリアに出会う前に出会っていた。ポトツカ夫人には芸術家の取り巻きが数多くいた。ショパンは夫人にピアノを教え、20年間付き合っていたが、二人はサンドに隠れて友人を超える関係にあった。ポトツカ夫人はショパンを支え、ショパンは彼女のために「ワルツ第6番(子犬のワルツ)」をポトツカ夫人に捧げると楽譜に記している。