女性彫刻家カミーユの悲劇

 カミーユ・クローデル(1864年〜1943年)はフランスの彫刻家である。芸術家の人生を、男に振り回された生涯を、カミーユ・クローデルに見ることができる。
 1864年、カミーユはフランスのエーヌ県に3人兄弟の長女として生まれた。子供の頃から彫刻に親しみ、卓越した技術と才能を発揮する。そして類まれな美貌を持っていた。19歳の時にパリで美術学校に通いながら彫刻家を志し創作に励んでいた。まだ芸術家を目指す女性が少なかった時代である。裸のモデルや職人を使う彫刻家を選んだカミーユは繊細な外見とは違い、相当に意志の強い女性であった。カミーユが19歳の時にアトリエに指導に来ていたのがオーギュント・ロダンであった。がっちりとした体格のロダンは、その時42歳ですでに彫刻家としての名声を得ていた。カミーユにとってロダンは大先輩であり、ロダンにとってカミーユは才能あふれる情熱的な女性であった。ロダンにとってカミーユは若さと美貌に満ち溢れた刺激的な存在であった。先に恋に狂ったのはロダンのほうだった。「君に会えなくてつらい」という内容の手紙が残されている。

 ふたりが師匠と弟子の関係から男女の関係になるのに時間はかからなかった。カミーユはロダンのアトリエに通い制作を手伝いながら、身も心も少女から女性に変貌していった。カミーユにとってロダンは初恋の相手だった。カミーユは求められるままに恋にのめり込んでいった。

 カミーユとロダンは愛し合うが、ロダンにはもう一人の女性がいた。20年以上前から無名のロダンを支えロダンの子供を産んでいた内妻ローズだった。ローズは公的な場所には顔を出さない隠れた女性で、籍には入っていなかったが実質的なロダンの妻であった。

 ロダンはカミーユを誘って公的な会食などに一緒に行くようになった。またカミーユのために館を借りてくれた。しかしロダンはカミーユとの恋愛に溺れながらも、内妻ローズとは別れようとしなかった。ロダンとカミーユとの関係はその後15年にわたって続くことになる。ローズはこれまでロダンの浮気に散々悩まされてきたが、どんなに苦しくてもじっと耐える女性であった。耐えていれば夫は戻ってくると信じていたからである。しかしカミーユとロダンの恋愛は許せなかった。ローズが入り込めない彫刻という世界でふたりが結ばれていたからであった。嫉妬に狂ったローズはふたりの愛の巣に怒鳴り込みカミーユと掴み合いになった。

 カミーユは20代後半に、ロダンの子を妊娠するも、それを知ったロダンは中絶させている。ローズとカミーユはロダンにどちらを選ぶのかを迫ったが、いつもロダンは優柔不断の態度だった。家庭的な安らぎを与えてくれるローズ、情熱的なカミーユ、ロダンはどちらも自分の物にしておきたかったのだろう。

 やがてロダンはカミーユとの恋に疲れ、平穏を求め内妻ローズのもとへ帰えってしまう。

 カミーユとの15年に渡る情熱的な恋愛関係は破綻を迎えたのである。疲れ果てたカミーユは実家からも勘当されていて帰る所がなかった。カミーユは彫刻家として自立しようとアトリエを借りてロダンとの館を出た

 しかしロダンの公然の女性だったカミーユを待っていたのはスキャンダルを楽しむ周囲の人間関係だった。そのことが原因でどんなに見事な作品を作ってもロダンの模造と言われるだけで売れなかった。そのため食費、家賃、彫刻の材料費にも困るほどの極貧生活に陥った。さらに相談する相手も友もなく、その精神はズタズタに病んでいった。

 ロダンが自分の成功を妨害している、カミーユはそのように確信しながら、徐々に心を病み、1913年、48歳の時に家族によってパリ郊外の精神病院に入れられた。その後、南仏のモントヴェルク精神病院に移り、30年間にわたって孤独な隔離生活を余儀なくされる。母はカミーユを理解せず、母と妹が病院へ見舞うことは一度もなかった。4歳下の弟のポール・クローデルが年に1度見舞いに来たが、その弟も結婚し、外交官として上海へ向かってからは姉と会うことはほとんどなかった。
 カミーユは毎朝、病院内の礼拝堂に向かい祈りをささげた。誰とも喋らず、一人の世界に閉じこもり、ロダンへの憎しみだけが消えずにいた。晩年、面会した弟のポールは、みすぼらしい身なりで痩せこけ、精彩を欠いたカミーユの姿に愕然とした。そして、いまだにロダンへの激しい憎しみと被害妄想を露にする姉に、信心深いポールは神の試練と諭すが、その言葉は彼女には届かなかった。カミーユはロダンへの憎しみと、周囲の患者を見下すことで精神の孤高を保っていた。
 第二次世界大戦中の1943年、カミーユは家族に看取られることなく孤独のうちに79歳で世をさった。故郷に帰ることを終生願っていたが叶うことはなかった。結局、カミーユは精神病院で30年を過ごし、遺体は共同墓地に埋葬された。ポールは最後まで姉を訪ねていたが葬儀には参列しなかった。精神を病んだカミーユは多くの作品を破壊したが、そのうちの約90の彫像、スケッチ、絵画が現存している。1951年に、弟ポールは彼女の作品の展示会を行った。
 クローデルの悲劇的人生は2度映画化されている。1988年の映画「カミーユ・クローデル」では、師匠で愛人であったロダンとの関係を中心に描いているが、2013年のフランス映画「カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇」では、精神病院に送られてからの後半生を中心に描いている。

カミーユ・クローデル「分別盛り」(1907)

 見る人を哀愁に誘うのが「分別盛り(オルセー美術館)」である。老いた女性に導かれるように去って行く男性に両膝をついて追いすがる若い女性。まさにロダンとカミーユと内妻ローズの関係を表している。男性を連れ去ろうとする女性の形相は老婆そのもの。真ん中の男性は追いすがる若い女性を振り向こうともしない。繊細でありながらも、鬼気迫る迫力があり、カミーユの心の中にある愛憎がそのままに表現されている。あまりにも切なく、痛々しく、見ているだけで彼女の苦しさが伝わってくる。
 弟ポールは詩人であり、外交官として日本にも駐在していたが、著書「わが姉カミーユ」の中で、「あの美しく誇り高い女がこんなふうに自分を描いている。嘆願し、屈辱を受け、ひざまずき、裸で。すべては終わった。彼女は私たちの前に、こんな姿で永遠にさらされているのだ」と書いている。
 1917年、77歳のロダンは死期が迫った73歳の内妻ローズと結婚。その16日後にローズは亡くなり、9ヵ月後にロダンも亡くなった。ロダンが人生最後に語ったのは「パリに残した、若い方の妻に逢いたい」だった。